近衛経忠

鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。従一位・関白、左大臣。近衛家8代。藤氏長者。子に実玄(1339-1387.2.17、一乗院門跡、興福寺、権少僧都)

近衛 経忠(このえ つねただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿関白近衛家平の子。官位従一位・関白、左大臣近衛家8代当主。号に後猪熊関白、堀河関白など。従弟基嗣との家門争いに敗れ、南朝に仕えた。

 
近衛経忠
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 乾元元年(1302年
死没 正平7年8月13日1352年9月21日
別名 後猪熊殿、堀河殿、堀川関白
官位 従一位関白左大臣
主君 花園天皇後醍醐天皇光厳天皇→後醍醐天皇→光明天皇→後醍醐天皇→後村上天皇
氏族 近衛家
父母 父:近衛家平、母:家女房
兄弟 経忠覚実、慈忠、女子
正室:花山院家定の娘
大覚?、経家冬実実玄勝子?
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経歴

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正和3年(1314年)11月に従三位元亨4年(1324年)4月に23歳で右大臣に昇り、元徳2年(1330年)1月には左大臣・鷹司冬教を超えて関白と藤氏長者とを兼ねた。この異例の抜擢は経忠が後醍醐天皇から信任を受けていたことによるが、僅か7ヶ月で辞任に追い込まれ、代わりに内覧宣旨を受けた。その背景には、抗議の意味で自邸に籠った冬教に対する配慮に加えて、後醍醐天皇は関白とは別に2名の内覧を設置してこれを補佐させる意図があり、九条房実鷹司冬平の死去によって内覧が前関白二条道平のみとなったために、経忠・冬教を相次いで関白に任じることで、関白を含めた内覧3人制の維持を図ったとされている[1]

もともと経忠の祖父・家基には二人の子がおり、一人は鷹司家出身の妾が生んだ長男の家平(経忠の父)で、もう一人は亀山天皇皇女が生んだ次男経平であった。家基の没後、二人はどちらが近衛家の嫡流かを巡って対立し、その争いはそれぞれの息子の代に受け継がれ、経忠は経平の子・基嗣と激しく争っていた[2]。特に基嗣は後醍醐天皇の皇女を妻にしており、強力な対立相手のはずであった。だが、経忠は建武政権下において再び天皇から重用され、建武元年(1334年)2月右大臣・藤氏長者に復し、同2年(1335年)11月左大臣へと昇進する。延元元年(1336年)8月足利尊氏の入京に伴って持明院統光明天皇が擁立された際には、再び関白宣下を受けた。しかし、後醍醐が京都を脱して吉野に潜幸すると、天皇への旧恩から吉野朝廷(南朝)への参仕を決意。職を辞するも、当然認められなかった。

ついに延元2年(1337年)4月、京都を出奔して南朝へ赴いた。これに激怒した北朝側は経忠の関白職を解いて基嗣をその後任とし、子の経家冬実は昇進停止となった。南朝では左大臣の任にあったものの[3]、志を得なかったのか、興国2年(1341年)京都に戻っている。しかし、ここにおいても冷遇されたらしく、亡屋1宇・所領2ヶ所を受領した他は正体なき有様であったため、藤氏長者の立場を利用し、関東の小山氏小田氏に呼びかけて藤氏一揆(藤原氏同盟)を企て、自ら天下の権を執らんとしたという。この一件については、経忠が北朝との和睦工作を進めるに当たって、障害となる主戦派の北畠親房を排除する動きとの見方がある。

一揆の計画が頓挫した後も京都に留まったと思われ、正平一統の折には家門を安堵されて、近衛第に入っている。しかし、間もなく一統が破綻すると追放され、南朝の行宮がある賀名生奈良県五條市)に赴いたのであろう。正平7年(1352年8月12日に出家、翌日水腫のために薨去。享年51。

勅撰和歌集には計3首が入集しているが、その内訳は、『続後拾遺和歌集』・『新拾遺和歌集』・『新続古今和歌集』に各1首である。

略譜

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※日付=旧暦

和暦 西暦 月日 事柄
乾元2年 1302年 生誕。
正和2年 1313年 12月25日 正五位下に初叙、禁色昇殿を聴される。
12月28日 右近衛少将に任官。
正和3年 1314年 1月5日 従四位下に昇叙、右少将如元。
3月1日 従四位上に昇叙。
11月19日 従三位越階昇叙、右少将如元。
正和5年 1316年 1月5日 正三位に昇叙。
11月18日 権中納言を兼任し、右近衛中将に転任。
文保元年 1317年 12月22日 権大納言に転任。
文保2年 1318年 1月22日 従二位に昇叙。
元応元年 1319年 1月5日 正二位に昇叙。
元亨3年 1323年 1月13日 左近衛大将を兼任。
正中元年 1324年 4月23日 任大臣兼宣旨を蒙る。
4月27日 右大臣に転任、左大将如元。
嘉暦元年 1326年 7月24日 皇太子傅を兼任(皇太子量仁親王)。
11月3日 左近衛大将を辞任。
嘉暦2年 1327年 7月9日 記録所上卿に補任。
元徳2年 1330年 1月26日 関白宣下。同日、内覧藤氏長者兵仗等宣下。
2月9日 一座宣旨を蒙る。
3月21日 皇太子傅を辞任。
閏6月26日 従一位に昇叙。
8月25日 関白・藤氏長者を辞任、内覧・兵仗如元。
元弘3年 1333年 5月17日 光厳天皇廃位に伴い、右大臣に還任。
6月12日 右大臣を辞退。
建武元年 1334年 2月23日 右大臣に還任、内覧・藤氏長者宣下。
10月7日 右大臣・藤氏長者を辞任。
建武2年 1335年 11月19日 左大臣に任官、藤氏長者宣下。
延元元年 1336年 8月15日 関白宣下。
辞職するも、聴されず。
延元2年 1337年 4月5日 吉野へ出奔。翌日、関白を辞任。
南朝において左大臣
興国2年 1341年 5月 これ以前に辞職して帰洛し、藤氏一揆を計画。
正平7年 1352年 8月13日 薨去。享年51。

系譜

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脚注

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  1. ^ なお、関白廃止が宣言された建武政権でも二条道平の急逝まで、近衛経忠・二条道平・鷹司冬教の内覧3人制が採られている。(木藤才蔵 『二条良基の研究』 桜楓社、1987年、P20-22・29-30 ISBN 9784273021771
  2. ^ 海蔵和尚紀年録』によれば、経忠は後醍醐天皇に基嗣のことを讒奏して、その排斥を図ったため、基嗣は虎関師錬に救助を求め、その尽力によって北朝で栄達したという。経忠が吉野出奔に至ったのは、このような近衛家内における相続争いにも原因があったと考えられる(村田正志 『南北朝史論』 中央公論社、1971年)。
  3. ^ 一般には経忠が南朝においても関白に任じられたように考えられているが、これは『桜雲記』『南方紀伝』『南朝公卿補任』といった近世の俗書に基づく説であり、根本史料には確認できない。南朝は後醍醐が標榜した「天皇親政」の政治理念を引き継いでいたため、当初は建武政権と同様に摂関を置かなかったとみられる。