丹波 健二(たんば けんじ、1965年5月20日 - )は、神奈川県川崎市高津区出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

丹波 健二
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県川崎市高津区
生年月日 (1965-05-20) 1965年5月20日(58歳)
身長
体重
178 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1991年 ドラフト3位
初出場 1992年4月4日
最終出場 1996年4月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物 編集

調布リトルに在籍し、同期には武田一浩らがいた。

1981年日体荏原高に入学。2年次の1982年は、1学年先輩の今野隆裕投手(後にプロでも同僚)を擁しながらも夏の東東京大会の準々決勝で城西高に7-1のコールド勝ち寸前から7-10へのまさかの逆転負けを喫しベスト8止まり。3年次の1983年は、夏の東東京大会準々決勝で1学年下の山口重幸森範行を擁する岩倉高に逆転負けを喫し、在学中に甲子園出場は果たせなかった。

高校卒業後は東海大学に進学して野球部でプレーすることも決まっていたが[1]社会人野球に方向転換。

1984年東芝に入社して同社野球部に所属。当初は非力なバッターであったが、徐々に力をつけていき、競争の激しい東芝内野陣に食い込んでいくようになった。

1988年都市対抗一塁手、五番打者として活躍。菊池総らの好投もあり、決勝でNTT東海を降し優勝を飾る。同年は社会人野球日本選手権でも決勝で本田技研熊本を降し優勝。同大会の優秀選手賞を獲得した。当時のメンバーにはプロでも同僚となる南渕時高もいた。

1991年都市対抗では、大会記録となる個人大会9本塁打、1試合3本塁打(準決勝、対住友金属戦。大会記録タイ)の記録を打ちたてて東芝を優勝に導いた[1]。結局、5試合で23打数16安打、打率.695・9本塁打・22打点・OPS2.795の成績を残して大会のMVP(橋戸賞)を受賞している。同年の社会人ベストナイン(一塁手)にも選出された。

同年の1991年のプロ野球ドラフト会議千葉ロッテマリーンズが3位指名し、丹波も入団を受諾[1]。ロッテに日本人大砲の誕生かと期待が膨らんだ。高齢・社会人の「東芝系列→ロッテのドラフト3位」というのは落合博満と同じ[2]ということもファンに期待を持たせる要因となった。

1993年には一塁手、指名打者として6試合に出場。

1994年には右翼手も兼ね4試合に先発出場を果たすが、打撃が低迷。

1996年シーズン後に戦力外通告を受け、同年限りで現役を引退した[1]

現役引退後は大京の子会社に就職したものの、すぐに嘗て在籍した東芝系列の東芝エレベータに転職して現在に至る[1]。また、リトルリーグ八千代中央チームの監督も務め、チーム出身者の中からは木澤尚文がプロ入りを果たしている。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1992 ロッテ 5 10 10 1 1 1 0 0 2 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .100 .100 .200 .300
1993 15 25 23 3 5 3 0 0 8 1 0 0 1 0 1 0 0 8 0 .217 .250 .348 .598
1994 9 18 18 1 2 0 0 1 5 1 0 0 0 0 0 0 0 2 1 .111 .111 .278 .389
1995 5 9 9 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .111 .111 .111 .222
1996 3 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:5年 37 65 63 5 9 4 0 1 16 4 0 0 1 0 1 0 0 15 1 .143 .156 .254 .410

記録 編集

背番号 編集

  • 12 (1992年 - 1995年開幕直前)
  • 4 (1995年開幕直前[3] - 1996年)

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 鳴り物入りでロッテ入団も…第二の人生を懸命に過ごす丹波健二氏。常に心に「人として」/パンチ佐藤の漢の背中!週刊ベースボールonline 2021年8月10日 2021年8月13日閲覧
  2. ^ 落合は「東芝府中」出身。
  3. ^ この年に入団したフリオ・フランコが4からの変更を希望したことによる。

外部リンク 編集