アットゥシ
イオマンテの様子。祭壇の前に座る男性たちが着ている、背中に黒いアップリケを施した衣装がアットゥシ。長老は交易で得た小袖陣羽織を着ている(『蝦夷島奇観』模写、平沢屏山筆、大英博物館蔵)
木綿を多用した「カパリアミプ」(薄い着物)と呼ばれる衣装。北海道日高地方に特徴的なものである。(大阪府吹田市国立民族学博物館蔵)

アットゥシ(attus)は、オヒョウシナノキが使われることもある)などの木の内皮の繊維を織ったアイヌ織物衣服として作られることが多い。アツシアトゥシアットゥシ織アッシ織厚司織とも表記される。また、経済産業省のプレスリリースでは小書きシを使い、「アットゥ」と表記されている[1]

目次

概要編集

アイヌ民族民族服であるアットゥシは、靱皮衣の一種で、アイヌ語でオヒョウニレ(att)の木の皮(rusi)という意味である。[2]イラクサなどの繊維を用いて布や草皮衣(テタラペ=白いもの)を作る樺太アイヌや、同じく草皮衣や魚皮衣(サケなどの魚皮をなめしたもの)を着ていた千島アイヌに対し、樹皮衣であるアットゥシは主に北海道アイヌの間で作られた。

普段着として着るものには文様をつけないことが多いが、晴れ着の場合には襟や袖などの部分に和人が持ち込んだ木綿の布を貼り、さらにそこへ刺繍アップリケを施す。

アットゥシは17世紀ころから記録に現れているが、主に蝦夷地が生産の中心だった。千島列島では導入は遅れ、主に獣皮の衣装や江戸幕府が供給した木綿の古着が着られていた。アットゥシは自給自足の生活の中で着られたほか、後には輸出用の産品ともなった。18世紀後半には鰊粕身欠きニシン木材などとともに本州へ大量に運ばれ、耐久性に優れ織目も細かい布として、東北地方北陸地方など日本各地で反物や衣装として消費されていた。女性たちが機を使って布を織る風景は、蝦夷地に渡った画家たちによるアイヌ絵に多く描かれている。また19世紀には、アイヌが和人との儀礼の場に出る際の衣装はアットゥシまたは中国・日本産の絹や木綿の服のみと規制され、獣皮衣よりも手間暇のかかるアットゥシが広がることとなった。

現在でもアットゥシは北海道各地で工芸品として制作されている。2013年日高振興局管内沙流郡平取町二風谷で織られる二風谷アットゥシが北海道の工芸品としては初めて経済産業大臣指定伝統的工芸品に追加された[3]

作り方編集

アットゥシの原材料はオヒョウやハルニレなどニレ科の樹木、シナノキなどシナノキ科の樹木の皮である。これらの木々の表皮の一枚内側にある靱皮(じんぴ)をはぎとり、沼の水や温泉に漬ける。柔らかくなった皮を細かく裂いて繊維を取り出し、より合わせて糸を作る。これを腰機(こしばた)と呼ばれる織り機で織って布にする。アットゥシはこの布を指すほか、一般には樹皮の布で仕立てた衣装を指す(アイヌ語で着物そのものを指す語は「アミプ」である)。アットゥシの原材料には耐久性に優れたオヒョウが好まれたが、この木は深い山の森に生えていたため、雪で歩きやすい冬に何日もかけて採取された。また、皮が柔らかくなりにくいため、温泉の湯に漬ける必要があったという。

アイヌ民族服の形状編集

男女ともに前を打ち合わせる長衣で、細い帯で衣服を抑える形式など筒袖の和服に似る。

衣装には友禅紅型のような華美な彩色は無いが、晴れ着には「アイヌ文様」として知られる模様がアップリケされていることが多い。この文様は魔よけとして描線の始点と終点が必ず角ばった形状をしている。

イラクサの繊維から作られる草皮衣はテタラペなどと呼ばれ、アットゥシよりきめ細かく光沢があったが、10日で一反は作れるアットゥシ以上の日数を要したという。

また、その上から毛皮やアザラシの皮、変わったところではイトウの皮などで作った羽織状の上着を着ることもある。

参考文献・注釈編集

  • 『アイヌ女性の生活』 児島恭子(『日本の時代史19・蝦夷島と北方世界』 菊池勇夫編 吉川弘文館 2003 ISBN 4-642-00819-5 より)
  • 『アイヌの衣裳』岡村吉右衛門 京都書院 1993 ISBN 978-4763670519

出典編集

関連項目編集

外部リンク編集