Osho[† 1]ラジニーシアーチャリヤ・ラジニーシ(Acharya Rajneesh)[3]バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh)[† 2][2](誕生時 チャンドラ・モハン・ジャイン(Chandra Mohan Jain)、晩年 Osho)1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドのゴッドマン[1]、哲学者、神秘主義者、インド系の宗教オショー=ラジニーシ運動(ORM:Osho Rajneesh Movement、ラジニーシ運動)の創始者[2][4][5]

Osho
生誕 チャンドラ・モハン・ジャイン
1931年12月11日
イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国
ボーパール藩王国
死没 (1990-01-19) 1990年1月19日(58歳没)
インドの旗 インド・プネー
国籍 インドの旗 インド
職業 インドのゴッドマン[1]、哲学者、神秘主義者、オショー=ラジニーシ運動の創始者[2]
活動期間  1972年~1990年
公式サイト https://www.osho.com/ja
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概要

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Oshoは21歳の大学生の時、人間意識の究極の段階に達して光明を得たという[6]。Osho自身は、宗教的ではあるが宗教の創始者ではないとしている[関係者 1]、という。宗教的とは信仰を土台としない内面的探究や精神世界の求道であり、個人の次元でしかないから宗教組織からは全くの圏外におかれるという[関係者 1]。 真理の探究こそ第一の優先事項である、人間は全実存をかけて、まず第一に自らの生の源泉を探究することにその関心を寄せねばならない[本人 1]という。死の1年程前に自らの尊称を数回変えており、最終的にはOshoに定めたという。1971年3月から1988年12月までは、Bhagwan Shree Rajneesh(バグワン・シュリ・ラジニーシ)として知られていた。[要出典]

Oshoは大学で哲学を学び、1960年にはジャバルプール大学教授となった[7]。1966年になると、大学を辞職し、インド各地で講話を始めた[7]。ジャイナ教、ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズム、タントラ、タオイズム(道教)、スーフィズム、キリスト教、仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドやシーク教等の聖典について語り[8]、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した[7]。西洋の先進的なセラピー[要曖昧さ回避]と東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや瞑想法を創始し、精神世界のカリスマ的存在として多くの西洋人・先進資本主義国の人間を引き付けた[9][10]。仏陀からインドの諸宗教家たち、老子や荘子、達磨から臨済らの禅者、いわゆる宗教家とされる人々のテキストを題材に上げて多くの人々を魅了してきたが、晩年は禅に関する講話を集中的に行った「インド人が語る白隠禅師」『中外日報』1990‐03‐09。

来歴

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初期

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Oshoは、1931年12月11日に中央インドのマディア・プラデシュ州でジャイナ教の商人の長男として生まれた[6]。ジャバプール大学では哲学を専攻した[11]。大学生だった1953年3月21日に、人間の意識の最終的な段階に達し、光明を得たという[11]。その後、ジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演し、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、宗教批判とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると主張した[11]。66年には大学を辞職し,すべての時間をインド各地での講演に注ぐようになる[6]

ムンバイ時代の誕生祭を記録した動画

1970年代より講演者からマスターへと移行し、弟子を受け入れるようになった[11]。正式にイニシエーションを授けるようになる[12]。イニシエーションを受けた人たちは、新しいサンスクリット語の名前が授けられ、また弟子の条件として伝統的なオレンジ色のローブ(のちに赤系統の服となる)とマラを絶えず身につけるようになった[12]。また呼吸への働きかけや身体の自由な動き、発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出し、71年からの4年間は定期的に公共施設で瞑想キャンプを開いている[11]

インド 第1期プネー

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ムンバイでの一時期を経て、1972年にバグワン・シュリ・ラジニーシと改名、その直後にプネーにアシュラムを設立し、拠点に定めた[9]。1971年、ムンバイの南東130キロに位置する高原都市プネーの郊外に2万平方メートルの敷地をもつアシュラムが開かれた[12]。この頃から、サニヤシンのなかで欧米人が圧倒的な割合を占めるようになっていく[12]。国外からの25万人ものメンバー(うち3000人ほどが定住)を集め、Oshoの周辺にはコミューン的な状況が生まれた[9]。当時は、インドを旅していた欧米のヒッピーや精神世界の探究者たちが旅の途上でOshoと出会い、惹かれていった[12]。それに続いて、ヒューマン・ポテンシャル運動にかかわっていた相当数のセラピストたちが、スピリチュアリティの新たな発展の可能性を求めてOshoのもとに集まりだした[12]。彼のもとを訪れるセラピストの数が増えるにつれて、今度は新しい心理学の流れに興味を持つ人がたちがアシュラムを訪れるようになった[13]

 
プネーにて、1977年

1975年に日本でも講話録ニューズレターが発行され[14]、日本でも知られるようになり、1977年に最初の邦訳講話録である『存在の詩(うた)』が精神世界系の出版社めるくまーるより出版された。本書は1997年までの20年間だけでも、4万9千部売れた[15]という。なお翻訳家・著作家の吉福伸逸は、Oshoの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており[16][要ページ番号]、それがニューエイジ/トランスパーソナルムーブメントにおけるOshoの引用の少なさを説明している、と考えている[† 3]吉福伸逸は、Oshoのグループは、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント、ホリステッィク・ヘルス・ムーブメントに関連した宗教のなかで、唯一、もっともニューエイジ的な感性に近いグループであった、あれだけの実験を提供してくれたグループはどこにもなく、初期のエサレン協会のような活気が、プネーのOshoアシュラムにはあった、と述べている[17]

Oshoのラディカルな思想や実験的なアシュラムは、多くの人々、とりわけ先進資本主義国からの若者を惹きつけたが、インド社会との摩擦は激化していった[18]

アメリカ オレゴン州ラジニーシプーラム

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1981年の春、Oshoは長年患った喘息と糖尿病のため、講話を含む公共の場での発言を一切しなくなった[18]。アシュラムの実権は、Oshoの個人秘書であったインド人女性マ・アナンド・シーラに委ねられることになった[18]。シーラを中心とする運営スタッフは、中央オレゴンに6万4000エーカー(東京23区の面積に相当)の荒涼とした土地を購入し、81年8月にはOshoをそこへ招待した[19]。サニヤシンたちは、その中にラジニーシプーラム市を建設した[19]

 
ラジニーシプーラムの入り口
 
Oshoに奉げられた石碑

警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた[20]。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった[20]

 
Oshoが運転するロールス・ロイス
 
ラジニーシプーラムに作られた空港。「エア・ラジニーシ」と書かれた自家用ジェット。
 
「ラジニーシ・ブッダフィールド・トランスポート」と書かれた黄色いバスの数々
 
ラジニーシプーラム(1982年)
 
ラジニーシプーラムでの祭りの様子(1983年)
 
ラジニーシプーラムに建設されたゲストハウス

ラジニーシプーラム最盛期、弟子たちと接触の機会を持つために、Oshoはロールス・ロイスに乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになった。Oshoは、「96台のロールス・ロイスが必要な理由などまったくない。アメリカ全体に、あらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私のところに来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った[関係者 2]

約2000人のサニヤシンが、近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていたが、彼らは1)永住者、2)長期滞在者、3)訪問者のカテゴリーに分類された[6]伊藤雅之は、Osho自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている[21]

 
「ラジニーシ市」の看板(1985年)

1982年3月に一部の弟子が隣接するアンテロープ町に移り、シーラたちによる乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに弟子たちの数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった[22]。町名は「ラジニーシ市」に変わり、ラジニーシプーラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に弟子たちに変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた[22]。コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。ニュースが全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、しだいに州政府が対応せざるを得ない状況になっていった[23]。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である[24]。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー(David B. Frohnmayer)は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、Oshoの宗教的基盤と市の運営の関係がアメリカ合衆国憲法修正第1条の国教樹立の禁止条例、政教分離原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた[25][26][27][23]

1984年10月、3年半の沈黙を終えOsho は再び講話を行うようになった[関係者 3][要ページ番号]。レーガンやキリスト教原理主義者の権力と威信にとって、Oshoの存在は脅威的だった[関係者 3][要ページ番号]。なぜなら、Oshoは彼らの権威の基盤を執拗に攻撃したからだ[関係者 3][要ページ番号]。Oshoは聖職者と政治家たちを「魂のマフィア」と呼び、彼らは一般の人々を搾取するために深い共謀関係にあると言った[関係者 3][要ページ番号]

1985年9月になると、シーラと10数人のスタッフが突然コミューンを去り、FBIが介入した捜査の結果、彼女らが行ってきたコミューン内外での不法行為が明らかになる[6]。そのなかには、Oshoとその世話人の部屋の盗聴、資産5500万ドルの横領、Oshoの主治医デバラジへのヒ素による殺人未遂、近隣レストランでの有害物質サルモネラ菌の混入とそれによる住民約750名の食中毒(うち45名が入院)、公共施設の放火などが含まれていた[6]。シーラとその仲間は逃亡先の旧西ドイツで逮捕され、カリフォルニア州の刑務所に服役した[6]。この事件は近年のアメリカ史上最大の生物兵器による攻撃だと言われる[28]

州軍がコミューンの周囲で待機状態にあり、コミューンに侵攻しようとしてたことをOshoは勘づき、5000人のサニヤシンの流血の惨事を避けるためにシャーロットへ向かった[関係者 3][要ページ番号]。インド脱出同様、同行する側近以外の弟子たちには何も知らされなかった[29]。燃料補給に立ち寄ったノース・カロライナ州の空港で、1985年10月28日Oshoは逮捕状なしに逮捕された[29]

逮捕後、最終的に司法取引が行われた[29]。司法取引の結果として、Oshoは告訴されていた34の罪状のうち移民管理局への偽証に関する2つの罪を認めることや、今後5年間アメリカに入国しないことを条件に釈放され、11月14日アメリカを去った[6]。Oshoの弁護士は、窮余の策として、次のように考えたのだった、Osho本人が望んでいるように、偽装結婚教唆の無罪を証明しようとすれば、法的な手続きが長引いて、彼の生命と健康は脅かされるだろう、それより一部の罪状を認めて、国外退去になったほうが、彼の安全のためにはよい、と[関係者 4][要ページ番号]。チャールズ・ターナ―(ポートランドの連邦検事)、起訴の遂行に対する責任者は、逮捕状なしでOshoを逮捕した後、記者会見を開催した[関係者 5]。記者会見でターナーは、「Oshoの告発の目的は、Oshoを米国から追い払うためだった」と述べ、法的手続きは、政治的な目的にかなうように利用されてきたことを認めた[関係者 5]。目的は刑罰ではなく、コミュニティの破壊とOshoの追放だった[関係者 5]。ターナーたちはすっかり歴史を書き換えようとしていた[関係者 3]。彼らは法廷で宣言のもとに意図的に嘘をつき、報道陣に対し事実を歪曲しすり替え、実際には起こらなかったことを巧みに起こったこととして通用させた[関係者 3][要ページ番号]。彼らの意図はOshoの名前を完全に失墜せしめること、彼の名望を抹消することだった[関係者 3][要ページ番号]

後になって、Oshoと彼の主治医はオクラホマ郡拘留所で、アメリカ政府から殺鼠剤として用いられる重金属のタリウムを盛られた可能性を疑った[関係者 3][要ページ番号]。このあたりの事情は2冊の著作の中で徹底的かつ詳細に検証されている[関係者 3][要ページ番号]。ジュリエット・フォアマンの『バグワン・世界を揺るがした12日間』“Bhagwan:Twelve Days that Shook the World” と、オーストラリア人弁護士スー・アップルトン著『バグワン・シュリ・ラジニーシはレーガン政府のアメリカに毒を盛られたのか?』“Was Bhagwan Shree Rajneesh Poisoned by Ronald Reagan's America?”だ[関係者 3][要ページ番号]。いずれの本も具体的な証拠や状況証拠を示して、Oshoがオクラホマシティで毒を盛られたと主張している[関係者 3][要ページ番号]

1985年にアメリカから国外追放されたあと、Oshoは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした[10]。1986年3月19日ウルグアイが思いがけなく招待状を持って現れたが、ウルグアイ大統領サンギネッティは、もしOshoをウルグアイに滞在させるなら、アメリカからの60億ドルの借款は打ち切られ、将来いかなる借款も与えられないであろう、というワシントンDCからの電話を受け取り、Osho一行はウルグアイを去らなければならなかった[本人 2][要ページ番号]

インド 第2期プネー

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86年7月にはムンバイに、そして87年1月にはプネーに戻った[6]。インド・プネーに運動の本拠地が復帰した[30]。次の3年間、彼はほぼ毎日の講話を行い、年間約1万人の訪問者がアシュラムを訪れた[6]。87年以降、Oshoの講話の題材はすべて禅語録から選ばれるようになった[6]。その影響もあるのであろうか、この時期日本人の訪問者が増加した[6]

1987年1月19日、Oshoは、政治権力による弾圧から弟子たちを守るために、サニアシンであることが一目で判別できるマーラとオレンジ系統の衣装をはずすようにと語る[本人 2][要ページ番号]

1988年7月、この14年で初めて、それぞれの夕方の講話の終わりに、自ら瞑想を指導し始める[関係者 6]。〝ミスティック・ローズ〟と呼ばれる、革命的に新しい瞑想テクニックも導入される[関係者 6]。笑い、涙、沈黙の観照の3つのステージからなる瞑想法[本人 2]である。同年5月26日、〝ミスティック・ローズ〟に続き、ジベリッシュと沈黙のステージからなる新しい瞑想法〝ノー・マインド〟を導入する[本人 2]

1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をOshoラジニーシと呼ぶようになった[official 1]。さらに尊称をOshoに変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをOshoに変えるよう求め、ラジニーシ・インターナショナル財団改めOSHO インターナショナル財団(OSHO International Foundation)が、Oshoやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った[official 2]

1990年1月2週目に入ると、Oshoの身体は著しく弱まる[関係者 6]。1月18日、彼はブッダ・ホールに来れなくなるほど肉体的に弱まる[関係者 6]。1月19日彼の脈拍が不規則になる[関係者 6]。医師が心臓蘇生術を準備するべきかどうかと尋ねると、Oshoは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答える[関係者 6]。彼は午後五時に肉体を離れる[関係者 6]1990年1月19日、Oshoは心臓発作のため59歳で死去した[6]。身体は1時間以内にブッダホールに運ばれ、檀上に10分間置かれた後、長い行列を従えて火葬場へと運ばれた[本人 2]。そして、その旅立ちを祝うサニアシンたちに送られながら茶毘にふされた。

死後・レガシー

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OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾートのイメージ

Osho(ラジニーシ)には決まった後継者はなく、すべてのサニヤシンが後継者であるとされ、プネーや世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している[30]

Oshoの教えは彼の生前、母国インドでは多くの人に歓迎されることはなかったが、死後インドの世論に変化が生じ[31][32]、生前よりも死後の方が母国で称賛されている[33]。インドの都市部では近年新興のヒンドゥー教団の活動が活発化しており(2005年時点)、特に 1960年代後半以降に欧米の若者たちの一部で人気があったオショー・ラジニーシ運動やクリシュナ意識国際協会といった新興ヒンドゥー教団が急速にインドに逆輸入され、都市部で大きな影響力を持っている[5]

インドのある新聞は1991年に、インドの運命を最も変えた10人に仏陀マハトマ・ガンディーといった人物と共に彼を入れており、その理由は「宗教性と画一主義の束縛から未来の世代の心を解放した」こととされた[34]。インディアン・エクスプレス紙に寄稿したコラムニストのタンウィール・アラムは、「故ラジニーシは、人間の幸福を破壊する社会の不条理を見事に表現した」と述べた[35]。2006年の彼の生誕75周年記念の祝賀会で、インドの歌手ワシフッディン・ダガーは、彼の教えは「以前よりはるかに現在の社会に合っている」と述べた[36]パルヴィーン・バビ英語版マヘーシュ・バット英語版のような多くのボリウッドの有名人もOshoの教えの信奉者として知られている[37]。ネパールでは、2008年1月時点で60のラジニーシ・センターがあり、45,000人近くの弟子が入門している[38]

国際的に物議を醸した約20年と、社会への適応を進めた約10年の後、オショー=ラジニーシ運動は新宗教の市場で地位を確立した[39]。信奉者たちはOshoの役割を再定義し、教えの中心要素をリフレーミング(再構成)することで、部外者から問題視されることを避けた[39]。彼は瞑想の分野では今も世界中で知られ、出版もされており、その著作には社会的、政治的な論評も含まれる[39]。彼の本のほとんどは講演の録音を書き起こした講演録で[40]、650冊以上の本が彼の作品とされている[41]。人間という存在の様々な側面に関する彼の見解が示されている[40]

オショー=ラジニーシ運動側の社会への歩み寄りもあり、北アメリカと西ヨーロッパの社会は、ヨーガや瞑想のようなスピリチュアルな主題にある程度順応的になっている[39]。Osho International Foundation (OIF)は、IBMBMWのような企業の顧客向けにストレス管理セミナーを開催しており、アメリカでは年間1,500万ドルから4,500万ドルの収入があると報告されている(2000年)[42][43]。 イタリアでは2016年に「Le più belle frasi di Osho」と題された風刺的なFacebookページが開設され、Oshoの写真に国政についてのユーモラスなキャプションを付けた投稿を行い、フォロワーが100万人を超えて文化現象となり、投稿は全国紙やテレビで紹介もされた[44]。彼の本は200以上の出版社から60以上の言語で出版されており[45]、イタリアと韓国でベストセラーとなった[34][46][47]

南アジアの伝統的なタントラを再解釈し、東洋と西洋を複雑に融合させたOshoのネオタントラは、1970年代以降、ヨーロッパとアメリカで人気のある性ヨーガ英語版(タントリック・セックス)のほぼすべてに多大な影響を与えた[48]。現代のタントラはニューエイジ自己啓発運動の中で広まり、ネオタントラのセンターの設立者、現在活動しているタントラの指導者は、マーゴ・アーナンダ英語版等Oshoの弟子が多い[49]。ネオタントラは現在、主に「スピリチュアルな性科学」の一種と考えられている[48]。人気のある書籍の多くがOshoの直接的な影響を認めているだけでなく、マーゴ・アーナンダの『The Art of Sexual Ecstasy(性的エクスタシーの技法)』(1990年)、訓練を受けたライヒ派セラピストのアニーシャ・ディロン『Tantric Pulsation(タントラの鼓動)』(2005年)等の弟子の作品が多大な影響力を持つベストセラー作品となっている[48]。また、タントラとヨーガに関する彼自身の書籍やDVDも世界中で売れ続けている[48]

インドのプネーにあった彼のアシュラムは、OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾート(the OSHO International Meditation Resort)というリゾート施設になっている[50][本人 3]。この施設は「東洋のエサレン」を称しており、幅広い伝統から取られた様々なスピリチュアルなテクニックを教え、美しいリゾート環境の中で自己を発見し、肉体と精神の欲求を統合するためのスピリチュアルなオアシス、「聖なる空間」であると宣伝している[51]。報道によると、著名な訪問者には政治家やメディア関係者もいる[50]。2013年現在、OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾートは、到着時にすべての宿泊客にHIVエイズの検査を義務付けている[52]

2011年に、Oshoの教えに関する全国セミナーがジャバルプルのマンクンワルバイ女子大学の哲学科で開催された[53]。このセミナーは大学助成委員会のボーパール事務所が資金提供し、Oshoの「ゾルバ・ザ・ブッダ」の教えに焦点を当て、霊性・精神性と唯物論的・客観的なアプローチの調和を模索した[53]

Oshoの生前は日本でも若者を中心に信奉者が増えたが、彼の死後日本ではあまり活発な活動はみられない[4]。1988年に開設された OSHO サクシン瞑想センターは2018年時点でも東京にあり、瞑想や各種セミナーの開催、Oshoの書籍の販売などが行われている[4]

呼称の変遷

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幼名はラジニーシ・チャンドラ・モハンというが、これは「闇を照らす満月の王者」を意味する[本人 2]

1971年、アチャリア(教師)と呼ばれていた時代が終わり、彼はバグワン(祝福されし者)と呼ばれ始める[本人 2]

1989年、彼は「私を指すには〝シュリ・ラジニーシ〟で充分だ」と語る[本人 2]

同年2月29日、サニヤシンたちはシュリ・ラジニーシを呼ぶ新しい尊称として〝Osho〟という言葉を選ぶ[本人 2]。Oshoはこれを受け容れ、以後しばらくのあいだ、〝Oshoラジニーシ〟として知られる[本人 2]

同年9月12日、「新しい人間がみんなの前に姿を現す。彼はもはやラジニーシとして知られることはない。彼はただOshoと呼ばれることになる」という本人の声明が発表され、世界中のコミューンや瞑想センターからラジニーシという名前が落とされる[本人 2]

加えてその名前は19世紀のアメリカ詩人ウィリアム・ジェームズの言葉「オーシャニック」に由来し、大海に溶け込むことを意味するとも説明した。[要出典]

1989年末、商標名は”Rajneesh”から”OSHO”に変更され、現在では日本を含め50カ国近い国で商標登録されている。日本では邦訳書や公式サイトなどが、2001年末半ばから”OSHO”、本人を示す場合は、”Osho”と英字表記されている。[official 3]

思想と活動

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ロールス・ロイスを運転するOsho

アメリカの宗教学の教授ヒュー・B・アーバン英語版は、Oshoの哲学は因習を打破しようとするもので、折衷的でしばしば矛盾して見えるが、その核心にあるのは「ゾルバ・ザ・ブッダ」の理想であると述べている[48]。Oshoは、他の宗教が物質的なものと霊的なものを分離しようとするのに対し、完全に悟りを開いた存在は、映画『その男ゾルバ』の主人公のギリシャ人ゾルバの感覚的な享受と生への欲望と、仏陀の精神性と超越的な洞察力とを併せ持つと主張した[48]

Oshoは21歳の時に悟りに至ったという[54]。彼は第二次世界大戦後、独立した20世紀インドにおいて、最も論争の的になった人物であるという[55]スピリチュアリティの本質を統合する哲学を雄弁に語り、世界の諸宗教の神秘主義的伝統を紹介し、広く称賛されたという[56]。世界中からやってきた弟子や求道者たちに対して語られた彼の講話は650冊以上も出版され、翻訳は32カ国語以上にものぼるという。

Oshoによれば、人間の究極的な目的は光明(enlightenment)を得ることであるという[57]。それが人々の真の個性を全面的に開花させ、自己が宇宙全体から分離していない意識状態をもたらすのだという[57]。光明を得るための最大の障害となるのが人間の自我(ego)であり、これが人々を「本来の自分」から分離させてしまう虚偽の実存であるとOshoは捉える[57]。自我は、社会的条件付けによって増進していくという[57]。Oshoは、親の教育や学校教育、また道徳的、宗教的な教えなどすべての社会化を痛烈に批判する[57]。なぜなら、いわゆる教育が特定の信念体系や社会的役割を教え込み、人間を鋳型にはめこんでしまうと考えるからであるという[57]

Oshoはなかでも、組織宗教やその指導者を痛烈に攻撃したという[57]。というのも、第1に、従来の組織宗教の多くが彼岸での目的達成を掲げるため、人々が世俗的生活をトータルに亭受し、それをスピリチュアルな成長のための機会とすることを妨げてしまうからである[57]。第2に、伝統的な宗教的指導者が、本来なら自己変容の機会となるべき性的エネルギーを否定し、性に関わるタブーを生み出した[57]。そして第3には、組織宗教という権威主義的な制度によって、内的体験のうちで見いだされるはずの宗教的エッセンスを見失わせてしまっていることである[57]。つまり、Oshoは組織宗教を社会的条件づけの最たるものの1つと捉える[57]

自我を落とすために必要となるのは、いかなる価値判断もせずに自己の信念や思想、感情のパターンを見守り続けていくことであるといい[57]、過去や未来に煩わされることなく「いま、ここ」で完全に覚醒することを強調した[57]

悟りと瞑想・セラピー

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瞑想とは何か? という問いにOshoは、『瞑想とは無心の状態だ それは、中身のいっさいない純粋な意識の状態だ あなたたちの意識は、たいがい、あまりにもがらくたでいっぱいだ それはちょうど鏡がほこりでおおわれているようなものだ マインドはとだえることのない交通だ 思考が動き、欲望が動き、記憶が動き、野望が動いている それはとぎれなき交通だ! 明けても、暮れても、眠りについているときまでもマインドは動いている、それは夢みている 相も変わらず考え、相も変わらず心配事や心労のなかにいる あしたのために準備し、秘密裡に準備し続けている これは瞑想なき状態だ 瞑想は、これとまるで反対のものだ 従来がとだえ、考えが止み 思考が動かず、欲望がうごめかず、あなたがまったく沈黙しているとき その沈黙こそ瞑想だ その沈黙のなかでこそ、真実は知られる[本人 4]』と答える。

瞑想に入りやすくする為に、セラピーも積極的に取り入れた。多くのセラピストたちが、その新しい可能性を求めてOshoのもとに集まり、セラピーを行うようになった[6]。セラピーの目的は主に2つある。第1は怒りや恐怖、嫉妬など抑圧された感情を見つめ、感情のブロックを取り除いてエネルギーが流れるようにすることである[6]。第2は「ありのままの自分」を受け入いれ、気づきを高めていくことである[6]

意識変容を促進する手段として、Oshoは様々な瞑想テクニックを開発した[6]。東洋の伝統では、静かに座って思考を観照することが瞑想であったが、Oshoは思考や感情をより観察しやすいように体の動きを瞑想の中に取り入れた[6]。動の瞑想である。代表的な動の瞑想に、OSHO Dynamic Meditation®(ダイナミック・メディテーション)、OSHO Kundalini Meditation®(クンダリーニ・メディテーション) 、OSHO Nadabrahma Meditation®(ナーダブラーマ・メディテーション)、OSHO Nataraj Meditation®(ナタラジ・メディテーション)、OSHO Devavani Meditation™(デババニ・メディテーション)[official 4]、などがある。

”瞑想 meditation”という言葉は、“薬 medicine”、“医学的な medical” などと同じ語源から来ていて、医学というのが医療的なものであるのと同じように瞑想もやはり医療的なものであり、それは瞑想者を<全体>にし、統合し、健康にしてくれる[本人 5]。とOshoは言う。

精神医療現場で導入されている瞑想法

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米国ダラスに在住する精神科医Vyas, A博士は、Oshoが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。[58][信頼性要検証]

OSHO公式サイトの記事からの抜粋「ドイツのファフクリニーク・ハイリゲンフェルトという、精神療養所を運営しているヨアヒム・ガルスカ博士は、『ダイナミックは、私が知っているうちでももっともパワフルなテクニックのひとつです』と彼は言う。 精神医学者であるライナ・ファルク博士は、OSHO Dynamic Meditation®を、毎月21日間、患者たちに提供している」[official 5]

2015年3月1日から2015年3月21日までの21日間、OSHO Dynamic Meditation®の実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20~50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。この結果は、National Center for Biotechnology Information, U.S. National Library of Medicineのサイトにアーカイブされている。[59]

タントラと性愛

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ヒュー・B・アーバンによると、欧米で再解釈された現代のタントラの世界的普及で最も大きな役割を果たしたのはOshoである[48]。彼はインドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、タントラ的な「悟り」とそこに至る方法を教えた[9][11]

Oshoはカリフォルニアのエサレン協会などのニューエイジ・センターで広まっていたアメリカ風のタントラと性的解放の理想に強く影響を受け、ヒンドゥー教と仏教のタントラの側面を、アメリカのニューエイジ運動にあった現代の心理学、精神分析理論と技法と統合し、伝統的な南アジアのタントラを再定義し、性愛と性的快楽、オーガズム(性的絶頂)の原始的な力を究極の神性の源、一種の「超意識」に変えることに主に焦点を当てた独自の「ネオタントラ」を創り出した[48][49]

彼の性愛の理解とタントラの再定義は、ポスト・フロイト派の精神分析家で、心理療法と代替医療における「身体ムーブメント」の最重要人物であるヴィルヘルム・ライヒの研究に大きく依拠しており、クンダリニーは肉体に潜在する一種の原始的な性的エネルギーであるというOshoの考えは、肉体を巡る生来の性的パワーであるオルゴン・エネルギーというライヒの概念と非常に似ている[48]。またライヒ同様に、性的抑圧を社会的、政治的抑圧と明確に結び付けており、よって性的解放を社会的、政治的変革の究極の源泉と見なした[48]。Oshoはライヒのことを、東洋の源泉とは独立してタントラ・セックスの秘密を発見した一種の西洋のタントリストだと認識していた[48]

1960年代から1970年代にかけて、タントラはカウンターカルチャーと性革命の重要な一部となり、 Osho等の有名なグルが「ネオタントラ」の実践を推進し始め[48]ニューエイジ自己啓発運動の中で広まった[49]。Oshoのような西洋人を弟子にしたインドのグルや、アメリカ人ヨーガ行者のピエール・バーナード英語版のような西洋のタントラ指導者は、セックスと瞑想を融合したエキゾチックで興奮させられる慣習という西洋人的なタントラ文化のイメージにどちらも賛同している[60]

師弟関係としてのサニヤス

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Oshoは、師弟関係を肯定し、それが光明を得る手助けになると主張する[61]。Oshoは「光明を得た」存在が人々の意識変容を促すというのだ[61]。彼の弟子たちはサニヤシン(sannyasin)と呼ばれている[61]。「サニヤシン」という語はもともと、宗教的慣例に従って家庭と物質世界を棄て、僧侶になった者を指したが、Oshoは現世肯定的なサニヤシンのあり方を強調した[61]。サニヤシンになるということは、何か新たな信念体系を獲得することでもなければ、個人的な所有物を放棄することでも、また特定の人物に追従することでもないという[61]。サニヤス(探求)とは、運動でもなければ、組織でもない。その逆に、あらゆる組織、あらゆる集団、あらゆる教会からの、独立の宣言だ[本人 6][要ページ番号]、と言う。

Oshoは「明け渡し」について語っている。「私に関する限り、マスターのどの古いカテゴリーにも属さない。私は新しい始まりだ。古いマスターたちは明け渡すことを要求したという意味で――。私はあなたがたに何も要求しない。私にとっては、明け渡すことは微妙な精神的隷属だからだ。私は、私の仲間たちが自由に生きる個人であってほしい。愛はどんな明け渡しよりもはるかに大きな現象だ。明け渡しはマインドのもの、明け渡しはひとつの努力だ。愛はハートのもので、努力ではない。私はあなたが個人であることを消すためにここにいるのではない。あなたのエゴを消すためにここにいる。それにはどんな明け渡しも必要ない。必要なのは、あなたの側での深い瞑想的理解だ」[本人 7][要ページ番号]。サニヤシンたちはOshoの思想に服従する必要はない[61]。自らが経験したことは自己の現実となるのであり、そこには信じたり従ったりするべきものではないからだ[61]

女性の特質

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「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価し、管理者として実務面もすぐれていると考えた[62]

レセプション

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Oshoは一般的に、20世紀にインドから現れたスピリチュアルな指導者の中で最も物議をかもした一人と考えられている[63][64]。 性的、感情的、霊的・精神的、組織的な解放というメッセージと、人を怒らせ感情を逆撫でするというその楽しみから、彼の人生は物議を醸すものになった[65]。 Oshoはインドでは「セックス・グル」、アメリカでは「ロールス・ロイスのグル」として知られるようになった[66]。 伝統的なナショナリズムの概念を攻撃し、政治家に公然と軽侮の念を示し、様々な宗教の指導者を嘲笑ったが、その対象となった人々はOshoの不遜さを耐えがたく感じた[67][68]。セックス、結婚、家族、人間関係に関する彼の教えは伝統的な価値観と相容れず、世界中で多くの怒りと反感を呼んだ[69][70]。オショー=ラジニーシ運動は広くカルトと見なされていた。Oshoは「けばけばしく、とんでもなく贅沢に」暮らしていると見られていたが、一方で彼の弟子のほとんどは教団の外の友人や家族との関係を断ち切り、自分の金銭や財産のすべて、もしくはほとんどをOshoのコミューンに寄付し、「最低水準の生活」を送っていたと思われる[71][72]

宗教学者による学術的評価

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Oshoの仕事に対する学術的な評価は様々である。ウダイ・メータ(Uday Mehta)は彼の大乗仏教の解釈には誤りがあると指摘し、「彼の教えには甚だしい矛盾と不整合があり、聞き手の『無知と騙されやすさ』を『悪用』している」と語った[73]。 社会学者のボブ・マラン(Bob Mullan)は1983年に、「偉大な伝統から真理、半面の真理(しか含まない言葉)、偶に誤り伝えられた事を借用している...多くの場合、口当たりがよく、不正確で、もっともらしく、極めて矛盾している」と書いた[74]。ヒュー・B・アーバンもまた、Oshoの教えは独創的でも特に深遠でもないと述べ、その内容の大半は様々な東洋と西洋の哲学から借用したものであると結論付けた[75]。 一方、ジョージ・D・クリサイディス英語版は、Oshoは「アマチュア哲学者ではない」のだから、彼の教えが様々な宗教的教えの「ポプリ(寄せ集め)」と評するのは残念なことだと考えた。彼はOshoの学問的背景に注目し、「彼の教えを受け入れるかはともかく、他人の思想を解説することに関してはペテン師ではなかった」と述べている[64]。クリサイディスは、Oshoを主に仏教の教師であるとみなし、独自の「ビート禅」を推進したと述べ[64]、その教えの非体系的で矛盾した過激な側面は、人々の変化を誘発しようとするものであり、主題の知的な理解を目的とした哲学の講義ではないと捉えている[64]

ボブ・マランは同様に、Oshoが西洋のカウンターカルチャーヒューマンポテンシャル運動を取り入れたことに関して、その視野の広さと想像力は誰に劣るものでもなく[74]、発言の多くは非常に洞察的で感動的であり、時には奥深いと言えるかもしれないと認めているものの[76]、Oshoの思想は、愛と自由、今を生きる必要性、自己の重要性、「大丈夫だ」という感覚、人生の神秘性、楽しさという倫理、個々人の運命に対する自己責任論、恐怖と罪悪感とともに自我(エゴ)を捨てる必要性に焦点を当てた「カウンターカルチャー主義とポスト・カウンターカルチャー主義の思想の寄せ集め」だと理解していた[77]。 ウダイ・メータは、Oshoが西洋人の弟子たちを魅了したことは、東洋のグルと弟子の伝統英語版(グル・シッシャの伝統)と西洋のヒューマンポテンシャル運動との間に哲学的な繋がりを築いた彼の社会実験に基づいていたと指摘しており[63]、メータはこれを、聴衆の欲求を満たすためのOshoのマーケティング戦略だとみなしている[75]。ヒュー・B・アーバンもまた、Oshoがスピリチュアルな欲求と物質的な欲求との間の二項対立を否定し、後期資本主義の消費者文化に特徴的な身体と性愛への拘りを反映しており、当時の社会経済的な時勢に合わせているとみている[78]

イギリスの宗教学教授ピーター・B・クラーク英語版は、アメリカの心理学者アブラハム・マズローとヒューマンポテンシャル運動によって定義された自己実現という意味では、大部分の参加者は進歩を感じたと述べている[79]。 クラークは、Oshoが考案したセラピーのスタイルは、性愛を人生の神聖な一部としてリベラルに捉えており、他のセラピーの実践者やニューエイジのグループに影響を与えていることが分かったと述べている[79]。しかしクラークは、この運動に参加した求道者たちの主な動機は「セラピーでもセックスでもなく、古典的な仏教の意味での悟りが開けるという期待」であったと考えている[80]

ヒュー・B・アーバンは2005年に、Oshoはインドへの帰国後、特に死後の数年間で「驚くべき神格化」を遂げたと述べており、100年以上前にマックス・ミュラーが「電流のように、東洋の思想が西洋に流れ、西洋の思想が東洋へと戻る世界規模の輪」と呼んだものの強烈な実例であると評した[78]。またピーター・B・クラークは、Oshoが「インド国内で重要な教師として見られる」ようになり、「20世紀の主要なスピリチュアル教師のひとりとみなされるようになり、自己啓発に基づくスピリチュアリティの、『世界を(進んで)受け入れる』現在の傾向の最前線にいる」と述べている[79]

カリスマ的指導者としての評価

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多くの評論家がOshoのカリスマ性に言及している。イギリスの精神科医精神分析家のアンソニー・ストア英語版は、Oshoとグルジェフを比較し、Oshoは「個人的に非常に印象的だった」「初めて彼を訪ねた人の多くは、自分の最も本質的な感情がすぐに理解され、判断されるのではなく受け入れられ、はっきりと歓迎されたと感じた。(Oshoは)エネルギーを発し、彼と接触した人々の隠れた可能性を目覚めさせるようだった」と述べた[81]。多くの弟子はOshoの話を聞いて「彼に恋に落ちた」と述べている[82][83]。スーザン・J・パーマー(Susan J. Palmer)は、批評家でさえ彼の存在感を証言していると述べている[82]。精神科医で研究者のジェームス・S・ゴードン(James S. Gordon)は、通りすぎるロールス・ロイスの中からOshoに一目見られただけで、なぜか自分が子供のように笑い、見知らぬ人と抱き合い、目に感謝の涙を浮かべたりしたと回想している[84]。ジャーナリストのフランシス・フィッツジェラルド英語版は、Oshoの話を直接聴いて素晴らしい講演者だと評価し、彼の著書を読んでもわからなかったコメディアンとしての才能と、聴衆に深い影響を与える彼のトークの催眠的な性質に驚きを示した[85]。ヒュー・ミルン(スワミ・シヴァムルティ)は、1973年から1982年までプーナのアシュラムの警備隊のリーダーとして[86]、またOshoの個人的なボディーガードとして近しく働いたが[87][88]、最初の出会いを振り返り、「プライバシーの侵害も感じず警戒心も湧かなかったが、まるで彼の魂がゆっくりと私の中に入り込み、一瞬のうちに重要な情報を伝えているかのようだった」と、二人の間に言葉以上のものが行き交ったという感覚が残ったと述べている[89]。ミルンはまた、Oshoのカリスマ的能力の別の側面にも注目し、「疑うことを知らない弟子を巧みに操る」人物であると述べている[90]

ヒュー・B・アーバンは、Oshoはマックス・ウェーバーによる、「本質的に非合理的で感情的な、並外れた超自然的な力、あるいは『恩寵』」を持つという、古典的なカリスマ的人物像に合致するように見えると述べた[91]。Oshoはあらゆる合理的な法律や制度を否定し、あらゆる階層的権威を転覆すると主張する点で、ウェーバーの言う純粋なカリスマ的タイプに一致しているが、アーバンは、彼の主張が内包する絶対自由の展望は、コミューンにおける官僚的組織や制度的な統制に帰着したと述べている[91]

一部の学者は、Oshoが自己愛的な人格を持っていた可能性を示唆している[92][93][94]オレゴン州立大学の宗教学名誉教授ロナルド・O・クラーク(Ronald O. Clarke)は、論文『The Narcissistic Guru: Bhagwan Shree Rajneesh(自己愛的なグル:バグワン・シュリ・ラジニーシのプロフィール)』の中で、Oshoが自己愛性パーソナリティ障害の典型的な特徴、たとえば、自分が重要で特別であるという誇大な感覚、無限の成功の空想へのとらわれ、絶え間ない注目と賞賛を求めること、自尊心への脅威に対する一連の特徴的な反応、対人関係の障害、身だしなみへの執着と頻繁な言い逃れや完全な嘘、共感性の欠如といった特徴を全て示していると述べ、Oshoが自著『Glimpses of a Golden Childhood(黄金の幼少期のひととき)』の中で語っている幼年期の回想から、クラークは彼が過度の甘やかしをする祖父母のもとで育ったために、根本的な親のしつけ不足の影響を被ったのではないかと示唆した[94]。クラークは、Oshoが仏陀を自称したのは、自己愛性人格障害に伴う妄想体系の一部であり、自我を手放したというより、むしろ自我の肥大の状態であると結論付けた[94]

ドキュメンタリー

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Osho達の驚異的な成功と破滅を追ったNetflixのドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー(Wild Wild Country)」(全6話)が、2018年に第70回エミー賞5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた[95]。Oshoの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形をとっている[95]。映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い[95]。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した[95]

OSHO インターナショナル財団は公式サイトで、本作で取り上げられたOsho達の破滅は、本質的にはOshoのヴィジョンの妨害を目指すアメリカ政府の謀略によるもの等と反論している[official 6]

創作

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  • インド系アメリカ人作家アヴニ・ドーシ英語版のデビュー作で、2020年ブッカー賞最終候補作『母を燃やす英語版』(Burnt Sugar)では、結婚しプネーで抑圧された生活を送っていたが自分の欲求に従って生きることを選びアシュラムに飛び込んだ母と、生後まもない頃に母にアシュラムに連れていかれ、ここで7歳まで母がいるのに世話をしてもらえない生活を強いられた娘の葛藤が描かれた[96]。作者の母方の家族はOshoのプネーのアシュラムと関係があり、本作はそれにインスピレーションを受けた[97]。ガーディアン紙は、アシュラムのグルのモデルはOshoであると指摘している[96]

日本語書籍

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講話録

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バグワン・シュリ・ラジニーシ
  • 『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳(星川淳)訳 (めるくまーる、1977年、ISBN 4-8397-0001-X)
  • 『究極の旅―バグワン・シュリ・ラジネーシ、禅の十牛図を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1978年、ISBN 4-8397-0002-8)
  • 『草はひとりでに生える』マ・アナンド・ナルタン(中沢藤胡)訳(ふみくら書房、1978年)
  • 『Tao 永遠の大河―バグワン・シュリ・ラジネーシ、老子を語る(1,2,3,4)』 スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1979-1982年、河出書房新社、2014年)
  • 『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジニーシとの対話 ダルシャン日誌』(ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年)
  • 『あなたが死ぬまでは』マ・アナンド・ナルタン訳 (ふみくら書房、1980年)
  • 般若心経―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1980年)
  • 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年)
  • 『瞑想―祝祭の芸術』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (めるくまーる、1981年、ISBN 4-8397-0009-5)
  • 『愛の錬金術―隠されてきたキリスト(上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳(めるくまーる、1981年)
  • 『セックスから超意識へ』スワミ・アナンド・ニラーラ訳 (ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン 1982年)
  • 『虚空の舟―荘子 (上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン 1982年)
  • バウルの愛の歌 (上・下)』スワミ・サンギート訳(めるくまーる 1983年・1984年)
  • 『オレンジ・ブック―バグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想テクニック』スワミ・トシ・ヒロ訳 (ホーリスティック・セラピー研究所、1984年、めるくまーる、1995年)
  • 『ダイヤモンド・スートラ-バグワン・シュリ・ラジニーシ金剛般若経を語る』スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳(瞑想社、1986年)
  • 『新人権宣言―バグワン・シュリ・ラジニーシ基本的人権を語る』スワミ・ヤスヒデ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1986年)
  • 『英知の辞典』スワミ・アナンド・ソパン 訳(めるくまーる、1996年)
  • 『魂への犯罪―バグワン・シュリ・ラジニーシ聖職者と政治家を語る』(イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、1987年)
  • 一休道歌 上』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1987年、ISBN 4-8397-0036-2)
  • 『一休道歌 下』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1988年、ISBN 4-8397-0037-0)
  • マイトレーヤ―バグワン・シュリ・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1988年)
  • 『大いなる挑戦―黄金の未来』創造的科学と芸術と意識の世界アカデミー日本準備委員会 監修(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
  • 『ニュー・ウーマン誕生 : A new vision of women's liberation』(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
  • 『信心銘』スワミ・パリトーショ訳 (禅文化研究所、1989年、ISBN 4-88182-073-7
  • 『ゴールデン・チャイルドフッド―光輝の年代 シュリ・ラジニーシ幼年期を語る』スワミ・パリトーショ訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1989年)
  • 『新人類―未来への唯一の希望』 スワミ・パリトーショ、スワミ・キャル訳 (瞑想社、1989年)
  • 『アイ・アム・ザ・ゲート 秘儀伝授と弟子の意味』 武捨宏昭訳 (パブフル、2020年)
OSHOラジニーシ
  • 『ア・カップ・オブ・ティー―オショー・ラジニーシ初期書簡集』スワミ・プレム・プラブッダ、スワミ・アナンド・ソパン訳 (めるくまーる、1989年)
  • 『死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録』(講談社、1989年、ISBN 4-06-203569-3)
  • 坐禅和讃―和尚ラジニーシ、白隠禅師を語る』スワミ・プレム・ラジャ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1990年)
  • 臨済録』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1991年、ISBN 4-8397-0061-3)
  • 『未知への扉―和尚、秘教グループを語る』 スワミ・アナンド・モンジュ訳 (瞑想社、1992年)
和尚/Osho/和尚
  • 『モジュッド 説明できない生を生きた人』マ・アンタール・コマルタ編、スワミ・アナンド・ニラーラ訳(和尚エンタープライズジャパン、1990年)
  • 『反逆のスピリット』スワミ・デヴァ・マジュヌ、マ・デヴァ・ヨーコ他訳 (めるくまーる、1990年、ISBN 4-8397-0057-5)
  • 『狂人ノート』マ・アナンド・ナルタン訳、マ・アナンド・プシュポ編 (和尚エンタープライズジャパン、1991年、ISBN 4-900612-08-1)
  • 『私が愛した本〛スワミ・パリトーショ訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1992年)
  • 『空っぽの鏡・馬祖』(壮神社、1992年、ISBN 4-915906-01-9)
  • 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』(和尚エンタープライズジャパン、1992年)
  • 道元―その探求と悟りの足跡』和尚 講話、スワミ・アンタール・ガータサンサ訳 (和尚エンタープライズジャパン、1992年)
  • 『神秘の次元』(日本ヴォーグ社、1992年)
  • 『タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道』 和尚 講話、スワミ・アナンド・チダカッシュ訳 (和尚コーシャ瞑想センター、1992年)
  • 『新瞑想法入門』スワミ・デヴァ・マジュヌ訳 (瞑想社、1993年、ISBN 4-8397-0070-2
  • 『これこれ千回もこれ―[要曖昧さ回避]のまさに真髄』和尚 講話、スワミ・アナンド・ソパン訳 (和尚エンタープライズジャパン、1993年)
  • 『内なる宇宙の発見―呼吸・夢の超越・やすらぎ <タントラ秘宝の書1>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば)訳 (市民出版社、1993年)
  • 秘教の心理学』スワミ・プレム・ヴィシュダ訳 (瞑想社、1994年)
  • 『生・愛・笑い』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0049-4)
  • 『ノーマインド―永遠の花々』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳、スワミ・アナンド・ソパン照校 (壮神社、1994年、ISBN 4-915906-11-6)
  • 『源泉への道―中心へ向かう・ハートの開発 <タントラ秘宝の書2>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
  • 第三の眼[要曖昧さ回避]―見る技法・ブッダの愛 <タントラ秘宝の書3>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
  • ダンマパダ』 沢西康史訳(瞑想社、1994年)
  • ボーディダルマ』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0079-6)
  • 『沈黙の音―音を対象とした瞑想技法 <タントラ秘宝の書4>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『TAO―老子の道〈上〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0081-8)
  • 『TAO―老子の道〈下〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0082-6)
  • 『覚醒の深みへ―エネルギーの上昇 <タントラ秘宝の書6>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『光と闇の瞑想―存在への回帰 <タントラ秘宝の書7>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1996年)
  • 『奇跡の探求―覚醒の炎 <和尚初期瞑想キャンプの講話1>』 Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社 1996年)
  • 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
  • 『生の神秘-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書9>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
  • 『空の哲学-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書10>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1998年)
  • 『禅宣言』(市民出版社、1998年)
  • イーシャ・ウパニシャッド―存在の鼓動』スワミ・ボーディ・マニッシュ訳 (市民出版社、1998年、ISBN 4-88178-165-0)
  • 『奇跡の探求―七身体の神秘 <和尚初期瞑想キャンプの講話2>』和尚 講和、和尚サクシン瞑想センター訳 (市民出版社、1998年)
  • 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
  • 『私の愛するインド―輝ける黄金の断章』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・ジヴァン・アナンディ照校 (市民出版社、1999年)
  • 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
  • 『無水無月』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-167-7)
  • 黄金の華の秘密』(めるくまーる、1999年、ISBN 4-8397-0099-0)
  • 『ユニオ・ミスティカ』 (市民出版社、1999年)
  • 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、1999年)
  • 『タントラの変容―サラハの王の歌〈タントラ・ヴィジョン2〉』和尚 講話、マ・アムリッタ・テジャス 訳(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-177-4)
  • 『隠された神秘』(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-174-X)
  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年)
Osho
  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年)
  • 『死のアート』 (市民出版社、2001年)
  • 『エンライトメント―神秘家・アシュタヴァクラ ただひとつの変革』スワミ・アンタール・ソハン訳 (市民出版社、2003年)
  • 『シャワリング・ウィズアウト・クラウズ (市民出版社、2003年)
  • 『永久の哲学1』 (市民出版社、2004年)
  • 『ラスト・モーニング・スター』 (市民出版社、2004年)
  • 『インナー・ジャーニー―内なる旅』マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2005年)
  • 『そして花々が降りそそぐ』 マ・プレム・プラバヒ、Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社、2005年)
  • 『究極の錬金術 1―古代の奥義書ウパニシャッドを語る』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2006年)
  • 『永久の哲学2―ピュタゴラスの黄金詩2』(市民出版社、2006年)
  • 『サラハの歌<タントラ・ヴィジョン1>』(市民出版社、2006年)
  • 『究極の錬金術 2―人間―永遠と永遠の架け橋』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2008年)
  • 『魂の科学-パタンジャリヨーガ・スートラ澤西康史訳 (LAF瞑想社、2007年)
  • 『こころでからだの声を聴く―ボディ・マインド・バランシング』 マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2007年)
  • 『神秘家の道-珠玉の質疑応答録』 スワミ・パリトーショ訳、スワミ・アドヴァイト・パルヴァ, マ・ギャン・シディカ照校 (市民出版社、2009年)
  • 『探求の詩』 (市民出版社、2011年)
  • 『魂のヨーガ』 (市民出版社、2012年)
  • 『アティーシャの知恵の書 上』 (市民出版社、2012年)
  • 『アティーシャの知恵の書 下』 (市民出版社、2013年)
  • 『愛の道-神秘家・カビールを語る』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・アナンド・ムグダ, マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2013年)
  • 『Joy 喜び』 山川紘矢山川亜希子訳 (角川書店、2013年)
  • 『草はひとりでに生える』(OEJブックス、2013年)
  • 『究極の旅』(河出書房新社、2013年)
  • 『死ぬこと生きること』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ(宮川義弘)訳、マ・アナンド・ムグダ、マ・ギャン・シディカ照校(市民出版社、2014年)
  • 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1014年)
  • 『炎の伝承1』(市民出版社、2014年)
  • 『Courage 勇気』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2014年)
  • 『死について41の答え』OSHO 講話ほか 伊藤アジータ 訳、スワミ・アナンド・ニラーラ 照校 (OEJブックス 出版、めるくまーる 発売、2015年)
  • 『炎の伝承2』(市民出版社、2015年)
  • 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、2015年)
  • 『内なる宇宙の発見―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書1>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1015年)
  • 『真理の泉』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳(市民出版社、2016年)
  • 『奇跡の探求2』(市民出版社、2016年)
  • 『Intuition 直観』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2016年)
  • 『瞑想の道』(市民出版社、2017年)
  • 『Creativity 創造性』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2017年)
  • 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、2018 年)
  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2018年)
  • 『ブッダ―最大の奇跡 <超越の道シリーズ1>』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳、マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2019年)
  • 『瞑想録―静寂の言葉』 中原邦彦・庄司純訳 (季節社、2019年)
  • 『あなたの魂を照らす60の物語』 Amy Okudaira訳 (大和書房、2019年)
  • 『心理学を超えて1』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳 (市民出版社、2019年)
  • 『存在の詩 TANTRA THE SUPREME UNDERSTANDING』新装復刊 OSHO 星川淳訳 2020年 めるくまーる)
  • 『心理学を超えて 2 』(市民出版社、2020年)
  • 『新瞑想法入門』(市民出版社、2021年)

解説

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  • 玉川信明著 『和尚の超宗教的世界 トランスパーソナル心理学との相対関係』(社会評論社、2001年)
  • 玉川信明著 『和尚、禅を語る』(社会評論社、2002年)
  • 玉川信明編著 『和尚、性愛を語る』 (社会評論社、2003年)
  • 玉川信明編著 『和尚、聖典を語る』 (社会評論社、2003年)

雑誌

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  • 『Rajneesh times international(ラジニーシ・タイムズ・インターナショナル)』イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン株式会社 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、Vol.1(20 Dec. 1987)~15号(1 Oct. 1989)
  • 『Osho times international(和尚タイムズ・インターナショナル)』 和尚ジャパン 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン (16号-17号) → Oshoイア・ネオ・サニヤス・コミューン (18/19号-88号) → オージェーインスティテュート (89号-95号)、刊行終了
  • 月刊「ムー」1983年9月号 No.34、10月号 No.35、学習研究社「OSHO、秘教グループを語る」スワミ・アナンド・モンジュ訳

脚注

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注釈

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  1. ^ OSHOオショー和尚とも。
  2. ^ バグワン・シュリ・ラジネーシとも。
  3. ^ 引用例としては、例えばピーター・ラッセル 『グローバル・ブレイン』工作舎,1994年

出典

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一次資料

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本人著作
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  4. ^ 和尚『オレンジ・ブック』めるくまーる、1984年4月24日、14頁。 
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自社資料
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参考文献

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書籍・論文

関連文献

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書籍
  • ヴァサント・ジョシ『異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡』宮川義弘 訳 市民出版社 2018年
  • ナルタン(日家ふじ子) (2016). 自分という名の迷宮 インナーラビリンス. めるくまーる 
  • マックス・ブレッカー『OSHO:アメリカへの道 - 砂漠の実験都市ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相』「OSHOアメリカへの道」プロジェクト訳、和尚アートユニティ 出版、めるくまーる 発売、2005年
  • マ・プレム・シュンニョ『和尚と過ごしたダイアモンドの日々: ザ・ニュー・ダイアモンド・スートラ』 マ・プレム・ソナ訳、和尚エンタープライズジャパン、1994年
  • Milne, Hugh (1986), Bhagwan: The God That Failed, London: Caliban Books, ISBN 1-85066-006-9 
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  • Joshi, Vasant (1982), The Awakened One, San Francisco, CA: Harper and Row, ISBN 0-06-064205-X 
    • ヴァサント・ジョシ『反逆のブッダ バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡』スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1984年

外部リンク

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