ジョー・フレージャーJoe Frazier1944年1月12日 - 2011年11月7日)は、アメリカ合衆国プロボクサー歌手。元WBAWBC世界ヘビー級統一王者1964年東京オリンピックヘビー級金メダリスト。ヘビー級としては小柄ながら、「スモーキン・ジョー」と称される機関車のような突進力とスタミナを備え、リズミカルに上体を揺すり、相手の攻撃を避けながらクラウチングスタイルからの左フックを得意とした。モハメド・アリをプロキャリアで初めて敗北させたボクサーでもあり、アリ等と並び「ヘビー級史上最高のボクサー」として広く知られている[2]。息子のマーヴィス英語版、娘のジャッキー、甥のロドニーもプロボクサーであり、マーヴィスは現役中にマイク・タイソンラリー・ホームズと対戦し、ジャッキーは2001年にアリの娘レイラと対戦している。

ジョー・フレージャー
基本情報
本名 ジョセフ・ウィリアム・フレージャー
(Joseph William Frazier)
通称 スモーキン・ジョー
(Smokin' Joe)
階級 ヘビー級
身長 182cm[1]
リーチ 187cm
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 (1944-01-12) 1944年1月12日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
サウスカロライナ州ビューフォート
死没日 (2011-11-07) 2011年11月7日(67歳没)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ペンシルベニア州フィラデルフィア
家族 マーヴィス・フレージャー英語版(息子)
ジャッキー・フレージャー・ライド(娘)
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 37
勝ち 32
KO勝ち 27
敗け 4
引き分け 1
テンプレートを表示
獲得メダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
男子 ボクシング
オリンピック
1964 東京 ヘビー級

来歴 編集

アマチュア時代 編集

1962年1963年1964年の3年連続でゴールデングローブのヘビー級で優勝した。3年間のアマチュアキャリアでフレージャーを破ったのはバスター・マシス英語版のみだった。1964年、負傷したマシスの代役で東京オリンピックにヘビー級で出場し、決勝でドイツのハンス・フーバー英語版を3-2の判定で破り金メダルを獲得した。

プロ時代 編集

1965年8月16日、プロデビュー。

1967年、6連勝を果たし、リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀選手賞)に選出された(1度目)。

1968年3月4日、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでアマチュア時代から因縁のあるバスター・マシス英語版とNYSACニューヨーク州公認世界ヘビー級王座決定戦を行い、11回2分33秒KO勝ちを収め王座獲得に成功した。

1969年2月16日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでジェリー・クォーリーと対戦し、7回終了時にTKO勝ちを収め4度目の王座防衛に成功した。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出された。

1970年2月16日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでWBA世界ヘビー級王者ジミー・エリスに挑戦。4回にエリスからキャリア初のダウンを奪い、4回終了時にTKO勝ちを収め、WBA王座獲得に成功するとともに、空位のWBC王座を獲得し統一王者となった。この試合は1970年のファイター・オブ・ザ・イヤーに選出された。

 
モハメド・アリと対戦するフレージャー(1971年)

1971年3月8日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで元WBA・WBC世界ヘビー級統一王者モハメド・アリと対戦。31戦無敗のアリと26戦無敗のフレージャーの対戦は「世紀の一戦」として大々的に宣伝され、ボクシングライターのジョン・コンドンは「私の人生の中で最大のイベントだ」と述べた。 試合前、アリはフレージャーを「白人の支配階級に利用されている間抜け」「奴は王者として醜すぎる」と罵り、フレージャーはアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで応戦した。試合が始まると、アリは下がりながらパンチのコンビネーションで牽制し、フレージャーは怯むことなく体を揺すりながらプレッシャーをかけフック系のパンチでアリのボディと顔面を捉える。試合中、アリはフレージャーを挑発し、パンチを受けても首を横に振り効いてないとアピールしたが、フレージャーのパンチでダメージが蓄積すると徐々に余裕がなくなり、中盤以降は逆にフレージャーがノーガードでアリのパンチを交わしながら笑みを浮かべて挑発した。終盤に入るとフレージャーはアリを何度もぐらつかせ、15回には左フックでダウンを奪い3-0の判定勝ち。2度目の王座防衛に成功し、アリにプロキャリア初黒星を与えた。この試合はリングマガジンのファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された[3]

1973年1月22日、キングストンナショナル・スタジアムジョージ・フォアマンと対戦。1Rに3度、2Rにも3度のダウンを奪われ、2回2分26秒TKO負けを喫し王座から陥落。キャリア30戦目で初黒星を喫し、無敗記録は29でストップした。当時、アリに勝利しヘビー史上最強と謳われたフレージャーをフォアマンが一方的に打ちのめす試合内容は「キングストンの惨劇」と呼ばれた。この試合はリングマガジンのファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。

 
イベントで使用されたアリ(左)対フレージャー(右)の宣材写真

1974年1月28日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでモハメド・アリと3年ぶりの再戦を行う。序盤はアリが優勢となり、2回にはフレージャーをぐらつかせた。中盤からはフレージャーがアリを捉え始め、終盤は2人の勢いがラウンド毎に変化する死闘を繰り広げ、最終的に12回0-3の判定負けを喫し、リベンジを許した。この試合はリングマガジンのファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。

1975年10月1日、フィリピンアラネタ・コロシアムでWBA・WBC世界ヘビー級王者モハメド・アリラバーマッチを行う。試合序盤、フレージャーは積極的に動くアリと打ち合いを繰り広げた。しかし、アリはすぐに疲れたような素振りを見せ、フォアマン戦で見せた『ロープ・ア・ドープ』を多用した。アリはカウンターを幾度かヒットさせたが、フレージャーも怯むことなく反撃。そして第12ラウンド、フレージャーに疲労が見え始め、アリは鋭いパンチを数発ヒットさせ、フレージャーの左目を腫れ上がらせ、右目をカットさせた。その後フレージャーは第13ラウンドと第14ラウンドを圧倒され、14回終了時にフレージャーのトレーナーのエディ・ファッチがストップを要請したため、TKO負けで王座獲得に失敗した。一方、アリもこの時点で体力の消耗が著しく、敗北を覚悟してグローブを外して欲しいとセコンドに頼んだという。終生のライバルとなったアリとは3度対戦して、アリが2勝1敗で勝ち越した。興行名を「ザ・スリラー・イン・マニラ」(The Thrilla in Manila)としたこの対戦は、両者が死力を尽くして形勢が何度も逆転した名試合であり、この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。アリは後に、この試合が「人生で最も死に近い瞬間だった」と語り、後に試合を見返したかという質問に「なぜ俺があの地獄を振り返りたいと思うんだ?」と答え、フレージャーに敬意を表した。

1981年、37歳で現役を引退[4]。現役生活16年、通算成績32勝(27KO)4敗1分でキャリアを終え、プロではアリとフォアマンのみにしか敗れなかった。

 
引退後(1996年)

死去 編集

 
フレージャーの墓

2011年9月下旬に肝臓がんと診断され、2カ月間ホスピスケアを受けた末に、11月7日に死去。67歳没。フレージャーの死を受けて、モハメド・アリは「世界は偉大なチャンピオンを失いました。敬意と賞賛の気持ちと共に、ジョーは私の心の中で永遠に生き続けるでしょう」と声明を発表した。フレージャーの葬儀は11月14日にフィラデルフィアのイーノン・タバナクル・バプテスト教会で行われ、アリを始め、ラリー・ホームズマジック・ジョンソンデニス・ロッドマンドン・キング等が出席した。また、葬儀費用はフロイド・メイウェザー・ジュニアが負担した。フレージャーの遺体はアイビー・ヒル墓地に埋葬された[5][6]

人物・エピソード 編集

アリとの関係 編集

 
リチャード・ニクソン大統領との記念撮影(1971年4月19日撮影)

2002年に出版されたインタビューの中で、フレージャーはモハメド・アリと初めて出会ったのが1968年頃だったと回想している。当時、アリは徴兵を拒否して剥奪されたボクシング・ライセンスを取り戻すために法廷闘争を続けており、フレージャーは世界ヘビー級王者だった。ライフ誌の元スポーツ編集長でフレージャーの取り巻きの一人であったデイブ・ウルフによると、フレージャーはアリを倒せば「史上最強のボクサー」として認知されると考えていたため、アリのライセンス再取得に協力的だったという。フレージャーは、当初アリが行うはずだったリチャード・ニクソン大統領との面会を代役でこなし、当時アリに金も貸していた。アリも当初フレージャーに対して好意を示しており「私とフレージャーは後に友人になるだろう。私はアンクル・トムのような裏切りをせずに歴史に名を刻みたいが、フレージャーも同じ気持ちだろう。彼は馬鹿じゃない」と語っている。しかし、1試合目が近づくにつれ、アリはフレージャーのことを「馬鹿」「アンクル・トム」と罵り、2試合目では「無能」、3試合目では「ゴリラ」呼ばわりした。フレージャーも応戦し、アリの旧名である「カシアス・クレイ」や「偽物」と呼んで挑発した。作家のフェリックス・デニスとドン・アティオは、アリが過去にフレージャーに対して親切な言葉をかけていたことを考えると、フレージャーに対するトラッシュ・トークは全て空虚に聞こえたと指摘している。アリとフレージャーは5年間で3度対戦し、特に1度目と3度目の対戦はボクシング史上に残る名勝負とされている。3度目の試合後、アリは控室にフレージャーの息子マーヴィスを呼び、父親に対する今までの発言を謝罪。マーヴィスがアリの謝罪を父親に伝えると、フレージャーはアリが自分の控室に直接謝罪に来るべきだと語ったという。その後2人は度々面会し、テレビ番組で共演した際にはハグを交わし互いに敬意を表した[7]。2001年のニューヨーク・タイムズとのインタビューで、アリは再びフレージャーに対し試合を宣伝するためにトラッシュ・トークを行ったことを謝罪した。フレージャーはこの問題を忘れる時が来たと語り謝罪を受け入れ、1度目の対戦から40年が経った2011年、フレージャーはアリを完全に許し謝罪を受け入れたと述べた。翌年の2012年にフレージャーが死去、アリはフレージャーの葬儀に参列し、パーキンソン病で震える身体で席から立ち上がりフレージャーに対して拍手を送ったという[8]

その他 編集

 
オランダでコンサートを行うフレージャー

戦績 編集

  • プロボクシング:37戦 32勝 (28KO) 4敗 1分
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1965年8月16日 1R 1:42 TKO ウッディ・ゴス   アメリカ合衆国 プロデビュー戦
2 1965年9月20日 3R 1:39 TKO マイク・ブルース   アメリカ合衆国
3 1965年9月28日 2R 2:06 TKO レイ・ステープルズ   アメリカ合衆国
4 1965年11月11日 1R 2:38 KO エイブ・デービス   アメリカ合衆国
5 1966年1月17日 1R 1:41 KO メル・ターンボウ   アメリカ合衆国
6 1966年3月4日 5R 2:58 TKO ディック・ウィッパーマン   アメリカ合衆国
7 1966年4月4日 2R 0:55 TKO チャーリー・ポリート   アメリカ合衆国
8 1966年4月28日 3R 1:09 KO ドン・スミス   アメリカ合衆国
9 1966年5月19日 3R 2:47 KO チャック・レスリー   アメリカ合衆国
10 1966年5月26日 1R 2:33 KO アル・ジョーンズ   アメリカ合衆国
11 1966年7月25日 6R 終了 TKO ビリー・ダニエルズ   アメリカ合衆国
12 1966年9月21日 10R 判定2-1 オスカー・ボナベナ   アルゼンチン
13 1966年11月21日 10R 0:22 TKO エディ・マッチェン英語版   アメリカ合衆国
14 1967年2月21日 6R 2:28 KO ダグ・ジョーンズ英語版   アメリカ合衆国
15 1967年4月11日 5R 0:48 TKO ジェファーソン・デービス   アメリカ合衆国
16 1967年5月4日 10R 判定3-0 ジョージ・ジョンソン   アメリカ合衆国
17 1967年7月19日 3R 2:04 KO ジョージ・シュバロ   カナダ
18 1967年10月17日 2R 1:04 TKO トニー・ドイル   アメリカ合衆国
19 1967年12月18日 3R 1:40 TKO マリオン・コナー   アメリカ合衆国
20 1968年3月4日 11R 2:33 TKO バスター・マシス英語版   アメリカ合衆国 NYSACヘビー級王座決定戦
21 1968年6月24日 2R 終了 TKO マヌエル・ラモス英語版   アメリカ合衆国 NYSAC防衛1
22 1968年12月10日 15R 判定3-0 オスカー・ボナベナ   アルゼンチン NYSAC防衛2
23 1969年4月22日 1R 1:36 KO デイブ・ザイグレヴィッチ   アメリカ合衆国 NYSAC防衛3
24 1969年6月23日 7R 終了 TKO ジェリー・クォーリー   アメリカ合衆国 NYSAC防衛4
25 1970年2月16日 4R 終了 TKO ジミー・エリス   アメリカ合衆国 WBA世界ヘビー級タイトルマッチ
WBC世界ヘビー級王座決定戦
WBA・WBC・リングマガジン王座獲得
NYSAC防衛5
26 1970年11月18日 2R 0:49 KO ボブ・フォスター   イギリス WBA・WBC防衛1
27 1971年3月8日 15R 判定3-0 モハメド・アリ   アメリカ合衆国 WBA・WBC防衛2
28 1972年1月15日 4R 1:47 TKO テリー・ダニエルズ   アメリカ合衆国 WBA・WBC防衛3
29 1972年5月25日 4R 終了 TKO ロン・スタンダー英語版   アメリカ合衆国 WBA・WBC防衛4
30 1973年1月22日 2R 2:26 TKO ジョージ・フォアマン   アメリカ合衆国 WBA・WBC王座陥落
31 1973年7月2日 12R 判定 ジョー・バグナー英語版   イギリス
32 1974年1月28日 12R 判定0-3 モハメド・アリ   アメリカ合衆国 NABFヘビー級タイトルマッチ
33 1974年6月17日 5R 1:37 TKO ジェリー・クォーリー   アメリカ合衆国
34 1975年3月2日 9R 0:59 TKO ジミー・エリス   アメリカ合衆国
35 1975年10月1日 14R 終了 TKO モハメド・アリ   アメリカ合衆国 WBA・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ
36 1976年6月15日 5R 2:26 TKO ジョージ・フォアマン   アメリカ合衆国 NABFヘビー級タイトルマッチ
37 1981年12月3日 10R 判定0-1 フロイド・カミングス英語版   アメリカ合衆国
テンプレート

脚注 編集

  1. ^ 『ボクシングヘビー級最強伝説』 ベースボール・マガジン社、2009年5月29日
  2. ^ List of the 10 greatest heavyweight boxers of all time: Has Tyson Fury done enough to make the cut? DAZN 2022年4月24日
  3. ^ Muhammad Ali on Losing to Joe Frazier Fighting Centre YouTube
  4. ^ ボクシング元王者「スモーキン・ジョー」フレージャー氏が死去 ”. AFPBB News (2011年11月8日). 2019年11月21日閲覧。
  5. ^ Muhammad Ali and boxing greats attend Joe Frazier funeral BBC 2011年11月14日
  6. ^ 訃報:ジョー・フレージャーさん67歳=元ヘビー級王者 毎日新聞 2011年11月8日閲覧。
  7. ^ THIS IS YOUR LIFE Big Red Book
  8. ^ Ali among 4,000 at Frazier funeral ニューヨーク・ポスト 2011年11月14日
  9. ^ Joe Frazier sings National Anthem 1978 Archived 2012年7月5日
  10. ^ Still smokin' over Ali but there's no time for hatred now The Guardian 2008年11月11日
  11. ^ 2009年6月20日 HV特集フロンティア「新証言・伝説のタイトルマッチ アリVSフレイジャー」にて本人の発言。

関連項目 編集

外部リンク 編集

前王者
ジミー・エリス
WBA世界ヘビー級王者

1970年2月16日 - 1973年1月22日

次王者
ジョージ・フォアマン
空位
前タイトル保持者
カシアス・クレイ(モハメド・アリ)
WBC世界ヘビー級王者

1970年2月16日 - 1973年1月22日

次王者
ジョージ・フォアマン