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チャクリー王朝(チャクリーおうちょう)は、1782年タイ仏暦2325年)、乱心をきたしたタークシン王を処刑したラーマ1世によって起こされたタイの現王朝。首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島にあることからラッタナーコーシン王朝ラタナコーシン王朝とも表記される)という別名がある。現在まで続く王朝で、現在のラーマ10世を含めて、10代の歴王が名を連ねる。チャクリーとは、ラーマ1世の改名前の名前である。

チャクリー王朝
ราชวงศ์จักรี
Emblem of the House of Chakri.svg
タイ王国の旗 タイ
創設 1782年(237年前) (1782
家祖 ラーマ1世
現当主 ラーマ10世
民族 タイ人
分家 131家
タイ王室
Emblem of the House of Chakri.svg

ラーマ10世国王
スティダー王妃


シリキット王太后


歴史編集

トンブリー王朝アユタヤー王朝を占領したビルマに取って代わりタイを掌握すると各地に軍閥のような勢力が力を付けてきた。ソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスック(後のラーマ1世)もそのような中の一人であった。トンブリー王・タークシンはその圧倒的なカリスマ性と軍事力で何とかタイ全国を維持していた。しかし、タークシン王は晩年、精神に異常をきたして、そのカリスマ性にかげりが見え始める。その中で、官吏のプラヤー・サンがタークシン王を寺に幽閉し、自分が摂政に就いた。これはソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスックがカンボジアの遠征に行っている途中であった。プラヤー・サンカブリーはついでに王位もねらったが、急報を受けて戻ったソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスックによって摂政から降ろされた。

 
チャクリー王朝のエンブレム。 スダルシャナヴィシュヌの力の象徴である円盤状の武器・チャクラム)の中にあるトリシューラシヴァが持つ三叉戟

ラーマ1世トンブリー王朝下でも破格の出世を遂げ、タイ史を通して滅多に与えられることのなかったソムデットチャオプラヤー(一位)の位を受けた。そのカリスマ性はタークシンに負けず劣らずで、プラヤー・サンカブリーによる反乱軍を制した後、官吏らに推挙され王位に就いたとされる。ここにチャクリー王朝は成立した。

この王朝の体制は絶対王政であるとされるが、しかし、まだ中央集権国家ではなかったため、実際に「王の威光」が及んでいる地域はバンコクとその周辺地域のみだった。地方政治は中央に忠誠を誓う地方の豪族・あるいは中央の派遣知事に任せられ、その行政は実質野放し状態であった。

ラーマ2世ラーマ3世は詩人であり、ラーマ4世(モンクット王)は仏教改革者あるいは西洋に門戸を開いたという功績がある。この時代王一人が何十人もの妻を持ち、何十人もの子供を持つと言うことが行われていたため、王族の数が多くなり、権力が分散されていってしまった。中央政府では王侯貴族の権力が強く、戦時中以外は王の権力が一般に弱かった。王の特権は富と文化の中心であることだけだった。特にこの時代、ブンナーク家が王族との婚姻により大きな力を付け、本来王が行うはずの王の承認まで口出しするようになった。

ラーマ5世(チュラーロンコーン大王)は王の力を強めるため、チャクリー改革を行った。チャクリー改革はここでは詳しくはふれないが要は近代化政策のことである。西洋を手本に国内の交通・通信を整え、中央政権支配の基礎を整えた。この時代、ラオスカンボジアと南部の一部をそれぞれフランスイギリスに取られていた。残った領土を死守するため、タイを中央集権国家にすることを決め、各地の王を廃止し、各県を中央政府の支配下に置いた。一方、中央にはびこっていたブンナーク家のたぐいは奴隷解放などの政策により財力を失い、官僚制導入によって、ほぼ行政的な意味での支配力を失った。ラーマ5世は自ら王=文武官吏の長となって、ほぼ完全な貴族政治から離れた絶対王政を実現した。

ラーマ6世(ワチラーウット王)に至っては父王の作った絶対王権によりやりたい放題だった。チャクリー王朝史上初めての留学生であった。愛国精神を強調し、財政の続く限りスアパー団(青年自警団)などの愛国主義に満ちた無意味な浪費を続けたため、そのうち官僚の不信感が高まった。ラーマ5世の代まで王室は中国の姓「鄭」を自称し、華人を優遇したため、華人が暴利を貪っていた。これに対し、ラーマ6世はこの華人優遇政策を一転、論文「東洋のユダヤ人」を著し、華人の批判を行った。一方で華人のタイへの同化を計り、属地主義を導入した。

ラーマ7世(プラチャーティポック王)も留学生であり、より新しい西洋の教育を受けていた。このため、ラーマ5世、6世が「民主主義はタイの風土に合わない」と述べていたのと違い、民主主義には元来積極的であった。治世中にはラーマ6世の財政浪費が祟り官僚の大幅リストラ(合理化)を行ったが、ラーマ6世時代から溜まっていた官僚の鬱憤が次第に溜まっていった。そのため、憲法を設置し本格的な民主主義を設置しようと、憲法を公募し、その草案に加筆した上で発表しようとしたが、発表直前に残存していた王族勢力の猛反対に遭い、憲法布告をあきらめた。これを見た官僚勢力は猛烈に怒り、官僚のプリーディー・パノムヨンは陸軍勢力のプレーク・ピブーンソンクラーム元帥、プラヤー・パホンポンパユハセーナー大佐と共同で立憲革命を起こした。これにより、チャックリー王朝の絶対王政は崩壊した。

その後のチャクリー王朝の王は単なる傀儡として扱われた。ラーマ8世時にはその権威は完全に失墜し、戦時中には、日本の友好象徴として祭り上げられた。その後ラーマ8世は戦後、謎の変死を遂げることとなった[1]

後を継いだラーマ9世には憲法の枠内での立憲君主として大きく国家元首としての地位の回復をした。即位してから20年続いた摂政時代には特に目立った行動はなかったものの、暗黒の5月事件1992年クーデター)の時には、当事者のスチンダー・クラープラユーンチャムロン・シームアンの調停役を行った。このときの様子はテレビで放映され、当事者2人が国王の前に泣きながらひざまずいている姿は、国民に「タイ国王ここにあり」と見せしめ、一部では政治介入に危惧する声はあるものの、国王の評価が非常に上がり国民に尊敬されるチャクリー史上初めての国王らしい王となった。

2016年10月13日のラーマ9世崩御後、1ヶ月半ほどの空位を経て、12月1日にラーマ10世が即位した。

歴代王編集

副王編集

チャクリー王朝には他のインドシナの上座部仏教国同様、副王(ウパラージャ英語版)の制度があった。以下にチャクリー王朝期における副王を挙げる。副王から国王になったのはラーマ2世ただ一人で、副王の周りには反国王派などのたまり場となることが多く弊害が多かった(たとえば、ワンナー事件タイ語版など)。そのためラーマ5世時を最後に任命されなくなった。同時に、西洋を真似て摂政と王太子の制度が導入された。

副王編集

肖像 副王 在位期間
1   スラシンハナート英語版 1782年 1803年11月3日
2   イッサラスントーン 1806年 1809年9月7日
3   セーナーヌラック英語版 1809年9月7日 1817年7月16日
4 サックディポンセープ英語版 1824年7月21日 1832年5月1日
5 ピンクラオ英語版 1851年5月25日 1866年1月7日
6 ウィチャイチャーン 1868年10月2日 1885年8月28日

​副王代理編集

肖像 ​副王代理 在位期間
1   アヌラックテーウェート英語版 1785年 1806年12月20日

王太子編集

摂政編集

肖像 摂政 在位期間 注意
チュラーロンコーン国王 (ラーマ5世)
  ソムデットチャオプラヤー・
シースリヤウォン英語版
1868年10月1日 1873年11月16日 国王が成人するまで王務を代理
  サオワパーポーンシー王妃英語版 1897年4月7日 1897年12月16日 国王の第1ヨーロッパ視察中に王務を代理
  ワチラーウット王太子 1907年3月27日 1907年11月17日 国王の第2ヨーロッパ視察中に王務を代理
ワチラーウット国王 (ラーマ6世)
  スコータイ公
プラチャーティポック
サックディデート王子
1925年 1925年11月25日 国王の病気の間に任命された摂政
プラチャーティポック国王 (ラーマ7世)
  ナコーンサワン公
ボリパットスクッムパン王子​英語版
1932年4月9日 1932年5月8日 国王の夏休み期間中は摂政に任命された
  ナリッサラーヌワッティウォン公
ジットジャラン王子
1934年1月12日 1935年3月2日 国王不在時の王務代理
アーナンタマヒドン国王 (ラーマ8世)
  アヌワットチャートゥロン公
オスカルヌティット王子タイ語版
1935年3月2日 1935年8月12日 第1代主席の摂政、定位置で死去
  アーティットティッパアーパー王子英語版 1944年7月31日 第2代主席の摂政、辞任
  チャオプラヤー・ヨムマラートタイ語版 1938年12月30日 定位置で死去
  チャオプラヤー・
ウィッチャイェーンヨーティンタイ語版
1935年8月21日 1942年7月21日 定位置で死去
  ルワン・プラディットマヌータム 1941年12月16日 1945年12月20日 1945年に国王が帰還した唯一の摂政
プーミポン・アドゥンヤデート国王 (ラーマ9世)
  プラ・スターマウィニトチャイタイ語版 1947年6月9日 1946年6月16日 演技摂政
  プラヤー・ノンラーチャスワットタイ語版
  サグアン・チュータテーミータイ語版
  チャイナート公
ランシットプラユーラサック王子英語版
1946年6月16日 1947年11月7日 国王が彼の研究に戻ることにしたとき、二人の摂政評議会を任命
  プラヤー・
マーナワラーチャセーウィータイ語版
  枢密院 1947年11月9日 1949年6月23日 1. チャイナート公ランシットプラユーラサック王子
2. ピッタヤラープルティヤーゴン公ターニーニワット王子
3. アディゾーンウドムサッグ公アロンゴット王子
4. プラヤー・マーナワラーチャセーウィー
5. ルワン・アドゥンデートチャラット
からなる
  チャイナート公
ランシットプラユーラサック王子英語版
1949年6月23日 1950年3月24日 国王が戴冠式のために タイに戻ったときに摂政は終わった
1950年6月5日 1951年3月17日 国王が彼の研究に戻ることにしたとき、 定位置で死去
  ピッタヤラープルティヤーゴン公
ターニーニワット王子英語版
1951年3月12日 1952年12月19日 摂政は国王がタイに永住帰国 した後に終了します
  シリキット王妃 1956年10月22日 1956年11月5日 国王は修道士として定められた
  シーナカリン王太后 1959年12月18日 1959年12月21日 国王と王妃によるベトナム共和国​への州訪問
1960年2月9日 1960年2月16日 国王と王妃によるインドネシア共和国​への州訪問
1960年3月2日 1960年3月5日 国王と王妃によるビルマ連邦​への州訪問
1960年6月14日 1960年11月8日 国王と王妃によるアメリカ合衆国​とヨーロッパ諸国​への州訪問
1962年3月11日 1962年3月22日 国王と王妃によるパキスタン・イスラム共和国​への州訪問
1962年6月20日 1962年6月27日 国王と王妃によるマラヤ連邦​への州訪問
1962年8月17日 1962年9月13日 国王と王妃によるニュージーランドオーストラリア連邦​への州訪問
  ピッタヤラープルティヤーゴン公
ターニーニワット王子英語版
1963年5月27日 1963年6月8日 国王と王妃による日本国中華民国​への州訪問
1963年7月9日 1963年7月14日 国王と王妃によるフィリピン共和国への州訪問
  シーナカリン王太后 1964年9月12日 1964年10月6日 国王と王妃によるコンスタンティン2世​とアンナ=マリア王女の結婚の際にギリシャ王国を訪問とオーストリア共和国​への州訪問
1966年7月15日 1966年9月1日 国王と王妃による グレートブリテン及び北アイルランド連合王国への州訪問
1967年4月23日 1967年4月30日 国王と王妃によるイラン帝国への州訪問
1967年6月6日 1967年6月24日 国王と王妃によるアメリカ合衆国カナダ​への州訪問
ワチラーロンコーン国王 (ラーマ10世)
  プレーム・ティンスーラーノン大将 2016年10月13日 2016年12月1日 2016年10月13日​にラーマ9世​が崩御したことに伴い、ワチラーロンコーン王太子が王位を継承するまでの間、憲法の規定に従って枢密院議長であるプレームが暫定摂政として国王の職務を一時的に代行した。その後、ワチラーロンコーン王太子が12月1日​に「ラーマ10世」として即位の宣誓をしたため、暫定摂政を退任した。

王室の財産編集

継承順位​上位 (2016年12月1日)​
順位 継承資格者 タイ 爵位 性別 生年月日/現年齢 現国王から見た続柄
1位 ティパンコーンラッサミチョト ทีปังกรรัศมีโชติ マヒドン 男性 2005年4月29日 14歳 親等1/第7子(第1王子)
2位 パッチャラキッティヤパー พัชรกิติยาภา​ ラーチャサリニーシリパット女公 マヒドン 女性 1978年12月7日 40歳 親等1/第1子(第1王女)
3位 シリワンナワーリー ​สิริวัณณวรี​​ マヒドン 女性 1978年12月7日 32歳 親等1/第6子(第2王女)
4位 シリントーン สิรินธร​ テープラッタナラーチャスダー女公 マヒドン 女性 1955年4月2日 64歳 親等2/王姉/ラーマ9世​第3子
5位 チュラポーンワライラッグ จุฬาภรณวลัยลักษณ์​ スリーサワーンカワット女公 マヒドン 女性 1955年4月2日 62歳 親等2/王姉/ラーマ9世第4子

王朝旗編集

王室旗編集

参考文献編集

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  • 石井米雄吉川利治『タイの事典』同朋舎、1993年、pp.331-335,338-349, ISBN 9784810408539
  • 赤木攻『タイ政治ガイドブック』Meechai and Ars Legal Consultants CO.,LTD.、1994年 ISBN 9784905572831
  • 村嶋英治著『現在アジアの肖像9 ピブーン 独立タイ王国の立憲革命』岩波書店、1996年、ISBN 9784000048644
  • 石井米雄『タイ仏教入門』めこん〈めこん選書〉、第三版1998年 ISBN 9784839600570
  • Finestone, Jeffrey: The Royal Family of THAILAND - The Descendants of King Chulalongkorn, Bangkok: White Mouse Editions/Phitsanulok Publishing, 1989/2532, ISBN 9789748356907
  • Finestone, Jeffrey: The Children and Grandchildren of King Mongkut (Rama IV) of Siam, Thailand: Goodwill Press (Thailand) Co., Ltd., 2000, ISBN 9789748714882
  • Handley, Paul M. The King Never Smiles, United States of America: Yale University, 2006, ISBN 9780300106824

関連項目編集

脚注編集

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  1. ^ これに関して、あくまでも暗殺説を唱える人は、日本との友好的な印象が敗戦後にはマイナスに作用したため殺されたと主張する人もいる(この記述はタイでは違法)