チャム族

チャム人から転送)

チャム族(チャムぞく、占族、ベトナム語: người Chăm / 𠊛占, 仏領期・南越期の表記は người Chàm)は、主にカンボジア及びベトナム(越南)の中部南端および南部に居住する民族。旧・占城国(Campanagara, Nagar Cam)の主要民族。チャンパ人、占城人。日本の朱印船貿易史料や『華夷變態』などでは、「占城人」の読みは「チャンパンじん、チャンパンびと」である。

チャム族
Danses Cham.jpg
チャム族(髪を隠さない服装はチャムフロイ人のもの)
総人口
500,000
居住地域
カンボジアの旗 カンボジア 317,000[1]
ベトナムの旗 ベトナム 100,000[2]
マレーシアの旗 マレーシア 10,000
タイ王国の旗 タイ 4,000
アメリカ合衆国の旗 アメリカ 3,000
フランスの旗 フランス 1,000
言語
チャム語
宗教
イスラム教シャーフィイー集団とバニー集団が支配的、少数がバチャム集団(しばしばヒンドゥー教、バラモン教と同一視される)とアニミズム(祖霊信仰)。
関連する民族
ジャライ族フィリピン人マレー人インドネシア人
かごを編むチャム族の女性

概要編集

略史

チャム(含むフロイ)は、ジャライ、エデ、チュルー、ラグライなどチャム語支の話者集団とともに、2世紀から7世紀まで林邑国の、7世紀から14世紀まで占城国(Campanagara, Nagar Cam, チャンパ王国)の主要民族であった。占城は、「都市国家・占城」を中心とするマンダラ国家(小王国の連合体)であった。唐代の占城は、占城のほかに林邑、崑崙、環王、奔陀浪など複数の漢字国名を使用しており、『旧唐書』や『新唐書』の撰者たちは南方の属領であった奔陀浪を除きこれらの国名を占城の異なる時期の国名と考えた。しかし、そうではなく、奔陀浪を含め、林邑、崑崙、環王は占城国内に同時期に存在した国内国(小王国)だった可能性がある。遣唐使・平群広成らが開元23年(735年)に漂着した崑崙は、唐の張九齢らの記録では林邑(チャンパ)またはその一部であった。延暦18年(799年)に幡豆海岸に漂着して綿を伝えた崑崙人もチャンパ人だったと考えられる。『宋史』によれば、宋代の占城は北王国(烏里州、旧州)、南王国(施備州、新州)、山の国(上源州)、南属領(パーンドゥランガ州=パンラン道)などから成り、「都市国家・占城」は新州にあった。1471年の新州(闍槃)王国滅亡以降、占城は新州を含む本領をすべて喪失した。今日のフロイは占城の本領に残った山地民の後継者である。一方、今日のチャムやチュルー、ラグライは1397年に新州(闍槃)の「ジュク Jek 」にほろぼされた小王国「アグイ Bal Anguei」の遺民が1433年に南属領「パンラン Pa-nrang」に移って再建した後期占城国および順城鎮(1433-1693, 1695-1832)の後継者である。

ベトナム阮朝によるチャムの四分類

『大南寔録正編』第一紀、第二紀によれば、19世紀のベトナム阮朝はチャムを慣習(アダット)に従って「蛮、占、尼、藍」に四分類した。中部、ビンディン省及びフーイエン省(平定省・富安省)のチャムはマン(=山地民の意、フロイ集団 Hroi)と表記された。中部南端、パンラン・クロン・パリク・パジャイ四道=いまのニントゥアン省(寧順省)及びビントゥアン省(平順省)のチャムはバチャム(または婆占 Bacam)及びバニー(または婆尼 Bani)と表記された。南部、タイニン省(西寧省)及びアンザン省(安江省)チャウドック地方のチャムはラーム(、おそらくは伊斯藍の略、今のシャーフィイー)と表記された。1695-1832年まで存続したチャム最後の王朝「順城鎮」では、ラグライなどの山地民(同様に蛮と表記されたが、フロイではない)と、占、尼が「順城民」としてチャム王(順城鎮王)の臣民とされた。チャム・ベト族のクレオールであるキンキュウ(京旧 Kinh Cựu)も順城民とされ、阮朝直轄領のベト族(18世紀「占婆王府档案」上の漢字表記は華民、漢民または安南民)と比べ、税制上若干の優遇があった。鄭懐徳 Trịnh Hoài Đức の『嘉定城通志』(1820)によれば、南部、タイニンの山地民および平地民も順城民としてチャム王(順城鎮王)の統治下にあった。当時のタイニンの平地民がバニーであったかラーム(シャーフィイー)であったかはよくわからない。現在、タイニンの平地少数民族(チャム)はすべてシャーフィイーである。

20世紀末~現在のチャムの人口

1999年のベトナム社会主義共和国、統計総局の国勢調査(民族別人口統計)によれば、チャムに属する民族集団の人口は約10万人である。その内訳は、中部のビンディン省フーイエン省にフロイ集団が約1万人、中部南端のパンラン、パリク(ニントゥアン省ビントゥアン省)にバチャム、バニー集団(チャム&ニー集団)と若干のシャーフィイーが約8万人、南部・東南地方のタイニン省ホーチミンシティー南部・西南地方(メコンデルタ)のチャウドック(アンザン省)にシャーフィイー集団が約1万人である。2020年現在のベトナム・チャムの人口は、1999年の人口の1.5~1.6倍ほどと推測される。カンボジア国内にもクメール・イスラムとして(マラユーやチャヴァクーと合わせて)約32万人が暮らしているといわれる。なお、カンボジア政府は民族別人口統計を公表していない。2013年の宗教別人口統計ではクメール・イスラムの人口は約16万人である。言語はチャム語を使用し、アカンシャハ、アカンリッなどいくつかの書体のチャム文字(アカンチャム)と、クメール文字(アカンリッと非常に近い)、ジャワー文字(ジャウィーと異なり、アラビア語表記専用である)を使用する。チャム語支にはチャムとフロイのほかジャライ、エデ、ラグライ、チュルーなどの山地民族が含まれ、チャムの総人口は約50万人、チャム語支の話者人口は総勢100万人近い。このほか、チャムとのクレオールだったベト族のキンキュウ人、クメール語を話すスンニ派シャーフィイー集団のチャヴァクー人 / ジャワクル人や、代に中国海南島に移住した回族(烏占人、ハナフィー集団)も広義のチャムである(en:Utsulの項目を参照)。前マレーシア連邦首相アブドラ・バダウィは近代に海南島から彼南島(プラウ・ペナン)に移った海南チャム(en:Abdullah Ahmad Badawiによると父方の曾祖母=父方の祖父の母)の後裔である。タイ南端(パタニ県周辺)及びマレーシア北端のクランタン州周辺にも、19世紀以降に移住したチャムが生活している。

近代におけるチャムの独立運動

チャムは10世紀頃からイスラム教を受容し、現在はベトナムやカンボジアの少数民族として存続している。近代におけるチャムの独立運動として、ベトナム戦争中の1963年FULRO(ベトナム・カンボジア被抑圧諸民族闘争統一戦線)中部高原方面軍イーバム・エニュオル議長(エデ族)が樹立したチャンパ高地臨時政府がある。FULRO 中部高原方面軍本隊は1969年南ベトナム大統領グエン・ヴァン・ティエウに投降し、イーバム議長も1975年ポル・ポト派に殺害された。しかし、中部高原方面軍カンボジア残存部隊のペン・アユンは1992年国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC) 事務総長明石康に投降するまで、ベトナム残存部隊のトゥーニット・デン1995年にベトナム社会主義共和国国家主席レー・ドゥク・アインに投降するまで、20年にわたりゲリラ戦を継続した。

宗教編集

ヒンズー教

チャムの間に最初に広まった宗教ヒンズー教シヴァ派である(フランス人はこれをバラモン教 Brahmanisme と呼んだが、バラモン教の聖典リグ・ヴェーダにはシヴァ神は存在しない)。ほぼ同時に、上座部仏教、大乗仏教も流入し、大食(タージー、アラブ人)商人が中国への交易の途上でインドシナ半島に進出してくると、イスラム教が浸透した。シヴァ神は男神ポークロンガライ Po Klaong Garay、ポーダム Po Dam (Po Adam)、ポーロメ Po Romé、ポークロンムフナイ Po Klaong Mâh Nai など王家の祖先神と同一視され、大地女神ポーイヌーヌカン Po Inâ Nâgar、ポーシャハイヌー Po Sah Inâ などと共にパンラン、パリク(ニントゥアン省・ビントゥアン省)各地のチャンパ古塔において祭祀が継続されている。ポーシャハイヌー王女は15世紀初めのイスラーム伝道者ポーハニインパン Po Haniim Per の妻である。現在のチャムも依然としてシヴァの象徴であるリンガを祀るが、シヴァという神名はナモーシバーヤ Namâ Sibaya などの文句にわずかに痕跡を残すのみで、王家の祖先の象徴としてそれを祀っている。

イスラム教

現在のチャムは、フロイを除いてイスラム化している。チャムであっても山地民と認定されているフロイについては、イスラム化した後でモン・クメール系の山地民バフナル(バナ、バナール)と共存しバフナル化する中で祖霊信仰にもどったのか、もともイスラム化されていなかったのか不明である。『宋史』によれば、占城はすでに宋代(11世紀)においてイスラム化が相当進み、朝貢使の多くがアラブ語名を持つ。チャムのイスラム信仰においてはアリーが極めて重視される。アル・ディマシュキーの『コスモグラフィー』(1325-1327ごろ)にはヒジャーズにおけるアル・ハッジャージの追討から逃れてアッ・サンフ(チャンパ)に渡った7世紀アリーユーン派(初期シーア派)の亡命伝承が載せられている。『占皇家編年史』(チャム王年代記, Sakkarai dak rai patao Cam)や、サカヤーがパンラン Pa-nrang、パリク Parik 地方で収集した伝承では、チャムのイスラムは、ポーシワン Po Siwan が新州のジュク王国 Bal Jek(フロイもまたジュクの住民だったと考えられる)に伝えたのち、ジュクに滅ぼされて南属領のパンランに逃げた旧アグイ王国 Bal Angueiの王族と遺民に、ポーシワンのふたりの子、ポーハニインパン Po Haniim Per とポークロンバラウ Po Klaong Barau の兄弟が伝えたものである。1930年代の調査では、13世紀末に占城から海南に移住したとの伝承を持つ烏占人(海南チャム)はシャーフィイーであったため、宋代~明代の占城のイスラムもシャーフィイーだったと考えられる(現在の海南チャムはハナフィー集団に属する)。ポーシワンの「シワン」Siwan はNursawan, Nursiwan の異表記であり、イランの英雄王ホスローの別名アヌシルワン Anusirvan が変化したもので、イランまたは中央アジアの出自と考えられるため、これをジャワの初期イスラム伝道者スナン・グレシク(Sunan Gresik, Asmarakandi、中央アジア・サマルカンドの出身と考えられる)と同一人物に比定する意見もある。宗教職能者として、祖先祭祀を司るバチャムのアヒイン Ahiér(後の人)各職階と、アッラー祭祀を司るバニーのアワン Awal(先の人)の各職階がある。アワンの各職階はイムム(イマーム)など一般的なイスラムの職階と共通するものが多い。

異なる信仰・宗教共同体の間での通婚

ベトナム政府宗教班の「公認された各宗教組織名冊」(2020.3.1更新)は、フロイを除くチャムの諸集団を、バラモン教、バニー回教、イスラームに三分類する。これは阮朝のチャムに対する四分類「蛮、占、尼、藍」(マン、バチャム、バニー、ラーム)から蛮を除いたものとほぼ等しい。かつてはチャムとベト族(キン)の通婚や、チャム内部でもバチャムとバニーの通婚はタブーとされていたが、現在ではチャム内部の通婚はむしろ歓迎される。しかしバニーとイスラーム(シャーフィイー)の通婚はいまも難しい。一方、他民族とはいえ、山地民族は同胞と考えられており、経済・文化格差による差別はあるものの、通婚は問題ないとされる(チャムがラグライなどを養子にする伝統もある)。フロイは居住地がほかのチャム(バチャム、バニー、シャーフィイー)から離れているため通婚・交渉はあまりない。ベト族においても、パリク道(いまビントゥアン省バクビン県)のキンキュウ(京旧:チャムとベト族のクレオール)の4集落:遵教村(いま Thôn Thái Hòa - Xã Hồng Thái)、新睦村(いま Thôn Thái Bình - Xã Hồng Thái)、春光村(いま Khu Phố Xuân Quang - Thị Trấn Chợ Lầu), 春会村(いま Khu Phố Xuân Hội - Thị Trấn Chợ Lầu)では、チャムとの通婚が普通に行われる。また、パジャイ道(いまビントゥアン省ハムタン県及びハムトゥアンナム県)の2集落:扶持村(Palei Bhumi= Thôn Phò Trì)と合義村(Palei Mâli= Thôn Hiệp Nghĩa)は、宗教上はほぼ純粋なチャム集落(バニー回教)であるが、血統上はチャムとベト族のクレオール集落となっている。1975年4月の社会主義革命以降、地方政府・党支部とチャムの諸宗教とくにイスラーム(シャーフィイー)の対立が深刻になり、中央政府・党としてシャーフィイーとの対立解消に努めたことが、ベトナム共産党の「チャム同胞に対する工作に関する指示」(1983)に看取される。政府宗教班による「バラモン教、バニー回教、イスラーム」の公認は、1970-80年代の社会主義建設にあたり共産党が民間信仰を著しく制限する中で、祭祀継続のため、政府側とチャム側の双方で歩み寄った末の苦肉の策という側面もあった。バチャムの祭祀文献にはヒンドゥー教やバラモン教に関するものはほぼ皆無であり、バチャムの信仰は、その内容がヒンズーやバラモンと同じかどうかは関係なく、ただ単にフランス植民地時代の慣習的呼称 Les Chames Brahmanistes を踏襲する形で、ベトナム政府の行政上の規定として「バラモン教」と呼ばれる。

宗教別人口

すべてのベトナム社会主義共和国公民は地方公安局から人民証明書または人民根脚書を交付され、本人の両親の既存情報と本人の申告に基づいて、氏名、性別、生年月日、出生地、民族、信仰する宗教、身体特徴、ほくろ、指紋などの認証情報が登録されている。フロイと共産党員を除くチャムは、たいていの場合、宗教欄にバラモン教、バニー回教、イスラームのいずれかを申告する。ベトナムの宗教別人口は国勢調査によるものが公開されているが、ベトナム公安省および政府宗教班じたいは人民証明書台帳に基づくベトナム宗教人口統計を公表していない。1999年4月の国勢調査に基づくチャムの宗教別人口の概算は、チャムのうちイスラム教系が約50%を占める「バニー回教」と20%の「イスラーム」(シャーフィイー)を合わせて約70%(67,000人)、「バラモン教」(バチャム)が約15%であり、そのほかが、祖霊信仰=アニミズム(申告上は党員と同じく無宗教)、カトリック、プロテスタント(フロイなど)である。

トゥアンフォーのシャーフィイー復興運動

ベトナム南部、タイニン省・アンザン省・ホーチミンシティーのシャーフィイー集団は、アッラーに帰依し、カンボジアやマレーシア、インドネシア、ハドラマウト地方など世界のシャーフィイー・ムスリム共同体とつながりをもつ。インラサラーが収集した伝承によれば、1790年代、メッカ(マカハ、おそらくはクランタン)から来たと自称するトァアンフォー Tuen Phaow(大南寔録前編では鑚扶)がパンラン、パリクでイスラム復興運動を行い、バニーの信仰を改革しようとして当時のチャム王と阮朝に対し反乱を起こした。この復興運動はシャーフィイー法学派の正しい信仰生活を復興しようとしたものであり、戦いに敗れたトゥアンフォーは信徒のチャムや山地民とともにカンボジアに逃げ、1810年ごろまでにカンボジア宮廷の寵臣となって、この時期に多数のカンボジア・チャムがバニーからシャーフィイーにもどった(改宗ではなく)と考えられる。トゥアンフォーの息子たちが1840年代にカンボジア王に対して反乱を起こしたとき、ふたりのチャム貴族、ジャ・イン Ja In とジャ・バイ Ja Bai が数千人のチャムを率いてカンボジアからメコンデルタのチャウドック(アンザン省)に亡命した。

バニーとシャーフィイーの関係

ベトナム中部、ニントゥアン省・ビントゥアン省のバチャム集団、バニー集団とラグライもまたアロワハ(アッラー)信仰をもつが、帰依も割礼も無い。バチャム集団では自身によるムスリム的な儀礼はほとんど行われず、バニー集団の儀礼へ参与するかたちをとる。そのバニー集団においても一般人は六信五行などのイスラム信仰実践を行うことが少なく、酒も豚肉もある程度許容され、アワンと呼ばれる宗教職能者階層だけが六信五行を比較的厳格に実行する。カンボジアには民族別人口統計は無いが宗教別人口統計があり、全人口の約10%がイスラムで、これがほぼカンボジア・チャムに相当すると考えられる(含む、マラユーとチャヴァクー)。うち、90%がシャーフィイー、10%がバニーである。ベトナムでは、トゥアンフォーによる宗教改革の約200年後、1960~70年代のパンラン、パリク(ニントゥアン省・ビントゥアン省)で、外部から来たチャムや外部と接触してシャーフィイーにもどったチャムにより、再びバニーからシャーフィイーへの改宗運動が行われて、一定数の信者を獲得した(バチャムに対しては改宗運動は行われなかった)。パンラン、パリクの多くの集落で、バニーの聖堂とシャーフィイーの聖堂は別個に存在し、両方の信者たち(その多くは本来は親戚同士である)の関係は緊張状態にある。カンボジアでは、激しい宗教弾圧を行った民主カンボジアのポル・ポトクメール・ルージュ)政権下で多くのチャムが虐殺されたが、犠牲になったチャムは多数派シャーフィイーであり、少数派バニーの人々は不信心者と見なされて、虐殺を免れたといわれる。

文化編集

チャムはマレー系(インドネシア系)の言語を話し、その人類学的形質を持つ。同じマレー系の言語話者の中では、メラネシア人(形質的にはパプアに近い)やミナンカバウ人が母系制度を採ることで知られる。チャム及びチャム語支の話者もまた、すべて母系制度を採る。家・財産を守るのは女性の役目である。結婚後は、夫が妻方の住居に入る。従って、家督や母系氏族名も王族を始めとして女性の子孫が引き継ぐ。ただし、ベトナム阮朝が1832年以降に普及させた漢字姓の継承については、1975年の社会主義革命以前は双系制(男は父の姓を、女は母の姓を継ぐ)であり、今は漢字姓の継承は父系制が普通である。例えば、王族の姓は本来グエン(阮氏)であり、王家の次期当主は彼女の父(母・女王の夫)の姓であるロー(盧氏)を継ぐ Lư Nguyễn Hương Diễm(盧阮香艶)王女である。このように、漢字姓だけを見ると王家が交替したように見えるが、母系相続は不変であるため、王家がポークロンムフナイ家という母系氏族であることに変わりは無い。チャム文化の中心は祭祀文化であり、そのための絵画、音楽、舞踊、食文化、香料、薬草、焼物(サカヤー及び平野裕子による研究)、織物(タイン・ファン及び岩永悦子による研究)など、高度な有形文化、無形文化を維持する。彫刻・建築は近代にいったん廃れたが、塑像は焼物村におけるテラコッタなどを中心に復興され、建築においてもタイン・チェー・フオンによる復興の試みがある。

研究編集

近代におけるチャムに関する言語学的・人類学的な研究は1830年代に明命帝が置いた四訳館におけるチャム語学習を嚆矢とし、Nguyễn Văn Siêu(阮文超)による漢籍チャム写本を参照した「順城遺事」(1867ごろ)があり、また Trương Vĩnh Ký(張永記)の仏文・漢文二か国語書目「士載書譜」(1898ごろ)の中に19世紀末のチャム語学習ノートが挙げられている。近代的辞書の編纂と人類学的研究はチャム女性と結婚したフランス軍人 Etienne Aymonier によって1885年ごろから始められ、Antoine Cabaton, E. M. Durand、Paul Mus, Bố Thuận (布順、Aymonier の子), Gerard Moussay, P. B. Lafont らフランス人および仏越クレオールによる写本研究と人類学調査の成果を対照した報告がある。1930年代までのフランス人言語学者・人類学者による著作は坪井九馬三、松本信広、ガスパルドヌ嘉津子(村松嘉津)によって日本でも紹介された。ベトナム人(ベト族)言語学者・人類学者として、1975年以前には Nguyễn Khắc Ngữ, Nghiêm Thẩm, Phan Lạc Tuyên, Nguyễn Văn Luận, Bình Nguyên Lộc があり、1975年以降も Trương Đình Hy, Phan An, Phan Xuân Biên, Phan Văn Dốp, Đoàn Văn Phúc, Nguyễn Văn Lợi, Bùi Khánh Thế, Hải Liên, Phan Quốc Anh らがあって、参与観察や統計分析、語音分析、音楽分析などの手法で研究を行った。チャム出身で、チャム語・チャム文字を読むことができ、チャム写本を参照しながら人類学的な研究を進めた文献学者・人類学者として Abud-al Hamid (Dohamide / Đỗ Hải Minh), Abud-al Rahim (Dorohiem / Đô Rô Hiêm), ポーダルマー (Po Dharma, Quảng Văn Đủ), Jaya Amil Apuei (Sử Văn Ngọc), Bố Xuân Hổ (布春虎, Aymonier の孫), Nguyễn Thị Bạch Cúc, タイン・ファン (Gru Hajan, Thành Phần), インラサラー (Inrasara, Phú Trạm), Ja Samad Han (Phú Văn Hẳn), サカヤー (Sakaya / Trương Văn Món) などがある。タイン・ファン、タイン・チェー・フオン(Sing-ha, Thành Chế Phương)は宗教建築や民家の復元的研究を行っている。日本人・日系人によるチャム写本研究として、石澤良昭「チャム写本分類」(1980)があり、チャム語テキスト・辞書として、川本邦衛「チャム語階梯」(1970)、サカヤーおよび新江利彦「チャム語教程」「チャム語語彙集」(2014-2015)があり、本多守によるチャム神話の翻訳や田添暢彦による海南チャム語(回輝話)の民話や類別詞研究がある。また、中村理恵、平野裕子、吉本康子、大川玲子、岩永悦子、エミコ・ストック、カオリ・ウエキ、ムツミ・オオイらによるベトナム及びカンボジア・チャムの言語学的、人類学的研究がある。

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ The Joshua Project
  2. ^ Ethnolgue, 1996

関連項目編集