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クメール・ルージュフランス語: Les Khmers rougesベトナム語: Khmer Đỏクメール語: ខ្មែរក្រហម中国語: 紅色高棉)とは、かつて存在したカンボジアの政治勢力、および武装組織。

クメール・ルージュ
クメール語: ខ្មែរក្រហម
カンボジア内戦カンボジア・ベトナム戦争に参加
Flag of Democratic Kampuchea.svg
活動期間 1968年–1996年
活動目的 農村社会主義英語版
原始共産主義
クメール・ナショナリズム英語版
左翼ナショナリズム
指導者 サロット・サル(ポル・ポト
本部 プノンペン
関連勢力 アメリカ中国イギリスASEANカンプチア王国民族連合政府民主カンプチア連合政府カンプチア共産党、カンプチア国家統一党
敵対勢力 ベトナムソ連カンプチア救国民族統一戦線カンプチア人民共和国カンボジア王国

「クメール・ルージュ」(赤色のクメール)という俗称はロン・ノル政権前のノロドム・シハヌーク時代、反サンクム極左過激派をさしてシハヌークがつけた呼称である[1]。その後、カンボジア内戦カンプチア共産党を初めとする諸政党を粛清したサロット・サル(ポル・ポト)が率いる派閥と同義語となった。他の派閥との類似や混同・混乱を避ける為にポル・ポト派とも呼ばれる。

目次

概要編集

1953年ノロドム・シハヌーク国王のもとでカンボジアが独立すると、クメール・ルージュは反政府闘争を開始した。1960年代、ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代には爆撃・内戦は局地的にとどまり、食糧は輸出するほど豊富で大量の難民も発生していなかった。この当時クメール・ルージュはまだ弱小勢力だった。1967年4月にはバタンバン州のサムロートで、政府による余剰米強制的安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる[2][3]。1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナムとベトコンに買い上げられていたが、政府の買い付け値はベトナム人による買い付け値よりも安かったのである[4]。サムロート周辺の掃討作戦は数ヶ月間続き、左右の衝突が増えて政情は安定しなくなった。

1970年アメリカリチャード・ニクソン政権に支持されたロン・ノルクーデターで王政が廃位された直後、アメリカ軍南ベトナム軍がホーチミンルート南ベトナム解放民族戦線を追撃するためカンボジア領内に侵攻。さらにこれまで局地的であった米軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、空爆開始からわずか一年半の間に200万人が国内避難民化した[5]。とくに東部は人口が集中する都市部なども重点的に爆撃を受けた[6]。この事態を受けてシハヌークは亡命先の中国北京カンプチア王国民族連合政府を結成、中国共産党の後押しで反ロン・ノル諸派の統一戦線を呼びかける。1970年3月末にはコンポンチャムでシハヌークを支持する暴動が起きたが、武力鎮圧された。当時の州知事によればこの地域だけで2-3万人の農民が共産主義に感化された[7]。その他タケオ・スヴァイリエン、カンダルなど諸州の州都で同様の蜂起が起こるも、武力で鎮圧された。

クメール・ルージュが勢力を伸張させてカンボジア内戦に勝利した背景には、腐敗したロン・ノル政権により追放されたシハヌークがクメール・ルージュ側についたことで国王を慕う尊王的な農民層がクメール・ルージュを支持するようになったこと、当時ウィリアム・ウェストモーランド将軍率いる米軍による第二次世界大戦日本に投下した総量の3倍も投じた爆撃で数十万の農民や農業インフラが犠牲になってカンボジアの田園風景は一面焦土と化したことへの反米感情が挙げられてる。カンボジアの食糧生産は1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたが、1974年には耕作面積5万ヘクタールに激減し28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リアルから1975年340リアルにまで急騰した[8]1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している[9]。こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。

民主カンプチアの指導者となったサロット・サル(ポル・ポト)の理想実現とその独裁体制や大量虐殺行為を支え、ベトナム軍の侵攻による崩壊後も民主カンプチアは国際連合で中国とアメリカや日本[10]などから支持を得た亡命政府を樹立してクメール・ルージュはカンプチア人民共和国に対する地下活動で戦闘を行った。ベトナム軍がカンボジアから撤退し、国連の監視下で行われた選挙も拒否してシハヌークによる王政復古後もカンボジアの辺境で孤立し続けたクメール・ルージュの残党は最終的にカンボジア王国政府に投降し、カンボジア政府と国連が協力するカンボジア特別法廷にてポル・ポトとその一派は人道に対する罪で裁かれることとなった。

クメール・ルージュのイデオロギーは、ヨーロッパ撤退後の反植民地主義と極端な毛沢東思想を組み合わせたものである。党の指導層は、1950年代のフランスの大学への留学中に、そうした思想に親しんだ。また、カンボジア人の間には、ベトナム人への長い服従に対する反感もあった。彼らは政権を握った時、カンボジアの社会にかつて思い描かれた原始共産制への移行の強制を試みた。党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトを「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」として賞賛した[11]

年譜編集

民主カンプチア編集

原始共産主義社会の構築編集

クメール・ルージュは、カンボジアの国名を「カンボジア王国」から「民主カンプチア」に変更した。こうしたなか、農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万〜25万トンの米が必要である」と報告[36]し、アメリカ国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測[37]していた。こうした事態のなか、クメール・ルージュは食糧増産を図るため、プノンペンなど都会の住民、資本家、技術者、知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、田舎に強制移住させ、都市をゴーストタウンにした。学校、病院、工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣そのものを廃止し、私有財産宗教を禁止し、都市文明を否定した。クメール・ルージュはポル・ポトが原始社会(原始共産制)の自給自足の理想的な生活と考えたカンボジアの山岳民族を範とする極端な重農主義農本主義を強行した[38]

 
民主カンプチア時代の制服

民主カンプチアの国民は黒い農民服英語版を着用させられ[39][40][41]集団農場で農業に従事させられた。ポル・ポトや強制収容所の所長だったカン・ケク・イウらクメール・ルージュの幹部の多くは高学歴インテリ出身だったが、高度な知識や教養はポル・ポトの反知性主義的な愚民政策の邪魔になることから眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害された[42]。音楽などの娯楽も否定され、国民的歌手のシン・シサモット英語版ロ・セレイソティアヨー・オウラーラングら音楽家、革命が成功したことを知って国の発展のためにと海外から帰国した留学生や資本家も殺された。有史以来のあらゆる文化を抹殺すべく伝統文化も否定したクメール・ルージュは、伝統文化の継承者も大量虐殺したばかりか、アンコール遺跡など古代の遺跡で文化浄化を行った。親から引き離して集団生活をさせられ、幼いうちから農村での労働や軍務を強いられた子供は「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で重用されるようになり、国内には子供の医者までもが現れて人材は払底を極めた[43]強制労働により運河ダムなどの灌漑施設[44]、総延長1万5000キロもの巨大な水路が手作業で建設された[45]。民主カンプチアの国民の多くは自動車どころか移動手段を所有することも禁じられて徒歩を強いられていたにも関わらず、クメール・ルージュの幹部は黒い農民服を身にまといつつメルセデス・ベンツを公用車に使用していた[46][47]

大量殺戮編集

 
クメール・ルージュ犠牲者

この政策は、強制労働および飢饉を通じて、カンボジア人の大量死に至った。クメール・ルージュ政権は、更に旧政権関係者、富裕層、各種専門家および知識人への関係を持った者および親ベトナム派の党員、ベトナム系住民を殺戮した。

クメール・ルージュによって殺戮された人々の数が、さまざまな立場で検討されている。ヘン・サムリン政権は330万人が死んだと主張した(これはのちに下方修正された)。CIAは5万から10万人がクメール・ルージュによって殺害されたと推測したが、これには飢餓による死者数を含まない。アメリカ国務省アムネスティ・インターナショナルイェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトの3者は、それぞれ120万人、140万人および170万人と推計している。これらの機関は内戦時代の爆撃や戦闘による死者数については数字を出していない。 フィンランド政府の調査団は、ポル・ポト以前の死者(戦闘・爆撃による)を60万人、ポル・ポト以後の死者を100万人としている。カンボジアでは1962年を最後に国勢調査が行われておらず、内戦時代には大量の死者および国内難民が発生しており1975年までの正確な人口動態がつかめていないために、こうした諸推計にも大きく開きが出ている。

クメール・ルージュ支配下のカンボジアに残留した日本人女性は7名。そのうち5名は死亡または行方不明。内藤泰子(歌手の内藤やす子とは無関係の別人。夫と2人の子は死亡)と細川美智子(夫は死亡。2人の子とともに日本へ)の2名は生き残り、1979年にベトナム経由で帰国[48][49]

没落編集

1978年5月にはポル・ポトへの反乱が疑われた東部軍管区のクメール・ルージュがポル・ポト配下の南西部のクメール・ルージュの攻撃を受け、東部地域の将兵が大量に処刑されるという事態が起きた(五月決起)。その結果ベトナム領には東部地区から十数万人の避難民が流入した。数年間の国境紛争およびベトナムへの大量の難民流入の結果、カンボジアとベトナムの関係は戦争寸前まで悪化した。クメール・ルージュは同年の4月にベトナムに侵入し、バ・チューク村の住民のほとんどを虐殺していた(村民3,157名のうち生き残ったものは僅か2名)。

同年の12月25日、ベトナム軍は10個師団もの兵力を国境に集め、カンボジアからの避難民から組織されたカンプチア救国民族統一戦線 (KNUFNS) を先頭にカンボジアに侵攻した。カンボジア・ベトナム戦争の発生である。

ベトナム軍は「カンボジアをクメール・ルージュの魔手から解放しようとしているKNUFNSを後方から支援しているだけ」という立場をとっており、ベトナム正規軍はカンボジアにいないと言い張っていたが事実は異なっていた(実際は累計15万を超える正規軍が派遣されており、KNUFNSの構成員は2万人程度だった)。3年前まで続いたベトナム戦争を戦い抜き、実戦経験が豊富な将兵に事欠かず、装備の点でも優れるベトナム軍は粛清による混乱で脆弱となっていたクメール・ルージュの抵抗を難なく排し、驚異的な進軍速度でカンボジア領内を進み、わずか半月でプノンペンを占領、1979年1月7日にポル・ポト政権を追放した。

当時ベトナムに亡命した東部地区の軍民は、ベトナム軍による政権奪取後はヘン・サムリン政権の中心的基盤を形成した。クメール・ルージュは西へ退き、タイによって支援され、ルビーと材木の密輸による資金で長年タイ国境付近の領域を支配し続けた。1985年にはキュー・サムファンが公式にクメール・ルージュのリーダーとしてポル・ポトを継いだ。

カンボジア侵攻に関してソ連は一貫してベトナムを支持する一方、中国は一貫してカンボジア(クメール・ルージュ)を支持し、この対立は中越戦争で火を噴くことになった。すなわち、クメール・ルージュとベトナムの対立は、中ソ対立代理戦争の様相を呈していたのである。ベトナム戦争後も国交のないベトナムをソ連の手先であるとして敵視したアメリカとその同盟国であるASEAN日本をはじめとする西側諸国はクメール・ルージュの国連でのカンボジア代表権を支持・承認した[10]。また、軍事的にもアメリカがクメール・ルージュを支援した疑惑英語版もあった[50]イギリスはクメール・ルージュへの支援を当初は否定していたが、後にイギリス陸軍特殊空挺部隊(SAS)がクメール・ルージュの訓練を行っていたことを認めている[51][52]。このため、クメール・ルージュによるジェノサイドなどの暴挙は国際的非難を免れることとなった。

クメール・ルージュは、バタンバン州パイリンなどを拠点とし、タイの黙認のもとルビーや木材を密貿易により売却し続け、1980年代を通じ、地域一体で資金に裏付けられた支配力は維持された。1991年、全てのカンボジアの政治勢力は、選挙と武装解除を行う条約に調印した。しかし、クメール・ルージュは1993年に国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が実施した1993年カンボジア総選挙を拒絶して戦闘を継続させ、選挙監視員として活動していた日本人の中田厚仁高田晴行の殺害事件はクメール・ルージュの犯行とされた。

1996年にナンバー2のイエン・サリを含む多量離脱があり、残された兵士は半数の約4000人だった。1997年の党派の争いはクメール・ルージュ自身によるポル・ポトの監禁および裁判に結びついた。ポル・ポトは裁判で終身刑を宣告され、翌1998年4月15日に死去した[53][54]キュー・サムファンは1998年12月に投降した。クメール・ルージュの残りのリーダーは、1998年12月29日に、1970年代の大量殺戮に対して謝罪した。1999年までに、大半のメンバーは投降あるいは拘束された。

クメール・ルージュ特別法廷編集

自国民大虐殺、人道に対する罪などで元指導者達を裁く裁判(クメール・ルージュ裁判)は、国連をはじめとする国際社会の働きかけがある一方で、2006年7月3日に開始されるまで引き延ばされてきた[55]。この間、ポル・ポトが1998年に、タ・モク元軍参謀長・最高司令官が2006年に死亡するなどし、また存命中の指導者の高齢化も進みつつある。若いカンボジア人の多くは、30年近く前に起きた暗黒の歴史には無知のままである。

起訴、審理ともにカンボジア人と外国人の司法官が共同でおこなうが、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷などとは違って、当事者による裁判官の指名を認めるなど、「国際水準なみの国内法廷」という独特の法廷に関する国連の関与は限定されている。二審制であり、最高刑は終身刑である。日本は、運営予算5600万ドルのうち2160万ドルを拠出している。

訴追対象者は、ヌオン・チア元人民代表議会議長やイエン・サリ元副首相ら5-10人の元最高幹部らが訴追される可能性が高いとされている。しかし、現政権はこれらの訴追対象者と司法取引を行い恩赦を与えているなど、この訴追に消極的であることが批判を受けている[56][57]

訴追対象者も「自分は虐殺はしていない」などと強弁し、イエン・サリの妻のイエン・チリトに至っては検察官に暴言を吐くなど、自分の罪に対する反省の色が見られない。[58][59][60][61]

2010年7月26日カン・ケク・イウS21収容所元所長に対して一審では禁錮35年(求刑禁錮40年)判決を言い渡したが、2012年2月3日の上訴審判決で一審の禁錮35年を破棄して最高刑の終身刑を言い渡した。政権内部の人間を死刑に処することは、ついにできなかった。

脚注編集

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  1. ^ 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店 p.203、ISBN 4-8038-0205-X
  2. ^ 清野 真巳子『禁じられた稲-カンボジア現代史紀行』連合出版、p.42
  3. ^ 『NAM』同朋舎出版、見聞社編、p.532
  4. ^ デービッド・P・チャンドラー,『ポル・ポト伝』めこん、p.131
  5. ^ ダニエル・エルズバーグ著「ベトナム戦争報告」p174,筑摩書房
  6. ^ エール大学Cambodian Genocide Program:http://www.yale.edu/cgp/us.html
  7. ^ Los Angeles Times 30.March.1970
  8. ^ 「インドシナ現代史」p103,連合出版
  9. ^ 「インドシナ現代史」p104,連合出版
  10. ^ a b “U.S. to Support Pol Pot Regime For U.N. Seat”. ワシントン・ポスト. (1980年9月16日). https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/09/16/us-to-support-pol-pot-regime-for-un-seat/58b8b124-7dd7-448f-b4f7-80231683ec57/ 2019年4月16日閲覧。 
  11. ^ 中国における毛沢東外交の再検討 - アジア経済研究所図書館見る&開く・大阪教育大学[リンク切れ]
  12. ^ 古田元夫 『ベトナム人共産主義者の民族政策史-革命の中のエスニシティ』 大月書店、1991年、471ページ。
  13. ^ 山田寛『ポル・ポト<革命>史』講談社、2004年、p.23
  14. ^ 21人のリーダーが参加。
  15. ^ a b c d e B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), Yale University Press, 2004, ISBN 0-300-10262-3.
  16. ^ おそらく、コイ・トゥオンのことと考えられている。
  17. ^ ベトナムの文書によれば、(1)トゥー・サムート書記、常任委員、(2)ヌオン・チア書記補佐、常任委員、(3)サロト・サル(ポル・ポト)常任委員、(4)イエン・サリ常任委員候補、(5)ソー・ピム常任委員候補、(6)マン、(7)プラシット、(8)ケオ・カン・マ・リ(タン・シ?)、(9)ライ・トン(ノン・スオン?)、(10)ソン・ゴク・ミン、(11)ケオ・メアス、のメンバーと序列とされた。フィリップ・ショート 『ポル・ポト-ある悪夢の歴史』 白水社、2008年、p.206、p.214原注4。
  18. ^ B.Kiernan, How Pol Pot(second edition), p.193.
  19. ^ a b c d B.Kiernan, How Pol Pot(second edition), p.193.
  20. ^ 7月20日、プノンペンの隠れ家から誘拐され行方不明になる。その後直ちに暗殺されたものと考えられている。暗殺にはポル・ポトのグループの関与がほぼ確実視されている。状況証拠しかない。
  21. ^ 臨時党大会と書かれている場合もある。例えば、井川・武田編『新版・カンボジア黙示録』田畑書店 ISBN 4-8038-0205-X 巻末年表、やLaura Summers, `Democratic Kampuchea' in B.Szajkowski ed., Marxist Goverments:A World Survey, London, 1982.参照。
  22. ^ 1978年のイエン・サリの談話によれば、党大会は1963年3月2日の1日だけとされる。フィリップ・ショート 『ポル・ポト-ある悪夢の歴史』 白水社、2008年、p.215原注5。
  23. ^ 参加人数は20人程度だったようである。
  24. ^ B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), Yale University Press, 2004, ISBN 0-300-10262-3, p.200
  25. ^ 井川・武田編『新版・カンボジア黙示録』田畑書店 ISBN 4-8038-0205-X の巻末年表では臨時党大会は1962年8月に開かれたと書かれている。
  26. ^ B.Kiernan, How Pol Pot(second edition), pp.200-201.
  27. ^ B.Kiernan, How Pol Pot(second edition), p.
  28. ^ B.Kiernan, The Pol Pot Regime(third edition), p.126.
  29. ^ B.Kiernan, How Pol Pot(second edition), p.190.
  30. ^ B.Kiernan, The Pol Pot Regime(third edition), p.126.
  31. ^ フィリップ・ショート 『ポル・ポト-ある悪夢の歴史』 白水社、2008年、p.335-336。
  32. ^ スティーブ・ヘダー、ブライアン・D・ティットモア 『カンボジア大虐殺は裁けるか-クメール・ルージュ国際法廷への道』 現代人文社、2005年、p.94-95。
  33. ^ 山田寛『ポル・ポト<革命>史』講談社、2004年、p.108
  34. ^ フィリップ・ショート 『ポル・ポト-ある悪夢の歴史』 白水社、2008年、p.592-593。
  35. ^ 大会に出席した元党幹部のインタビューによれば、ソン・センとコエは党常任委員候補であったと。スティーブ・ヘダー、ブライアン・D・ティットモア 『カンボジア大虐殺は裁けるか-クメール・ルージュ国際法廷への道』 現代人文社、2005年、p.96、p.103注191。
  36. ^ 井上恭介、藤下超 著「なぜ同胞を殺したのか」p103,日本放送出版協会
  37. ^ NHK取材班著「激動の河メコン」p32,日本放送出版協会
  38. ^ Jackson, Karl D (ed) (2014) Cambodia, 1975–1978: Rendezvous with Death, Princeton UP, p.110
  39. ^ “By Any Measure, Pol Pot Engaged in Genocide”. ニューヨーク・タイムズ. (1990年9月4日). https://www.nytimes.com/1990/09/04/opinion/l-by-any-measure-pol-pot-engaged-in-genocide-552390.html 2019年3月26日閲覧。 
  40. ^ “Back to black fashion stirs memories”. The Phnom Penh Post. (2001年8月31日). https://www.phnompenhpost.com/national/back-black-fashion-stirs-memories 2019年3月26日閲覧。 
  41. ^ “Black uniforms”. The Phnom Penh Post. (2001年9月28日). https://www.phnompenhpost.com/national/back-black-fashion-stirs-memories 2019年3月26日閲覧。 
  42. ^ 池上彰『そうだったのか!現代史』集英社、150頁。
  43. ^ “Khmer Rouge prisoners had child medic”. Sydney Morning Herald. (2009年8月3日). https://www.smh.com.au/world/khmer-rouge-prisoners-had-child-medic-20090803-e73t.html 2019年4月20日閲覧。 
  44. ^ “Cambodia revives Pol Pot's deadly canals”. ニューヨーク・タイムズ. (2008年2月4日). https://www.nytimes.com/2008/12/04/world/asia/04iht-canal.4.18410736.html 2019年4月16日閲覧。 
  45. ^ “【飛び立つミャンマー】高橋昭雄東大教授の農村見聞録(40)”. Sankei Biz. (2017年2月10日). http://www.sankeibiz.jp/macro/news/170210/mcb1702100500009-n1.htm 2019年4月16日閲覧。 
  46. ^ Mercedes Benz limousine said to belong to late Cambodian tyrant Pol Potfor sale on eBay, The Associated PressSunday, October 28, 2007
  47. ^ “For Sale: Pol Pot’s Pimped Out Mercedes Stretch Limo: The Murderous Despot Special Edition”. Nate Thayer. (2014年3月29日). https://www.nate-thayer.com/sale-pol-pots-pimped-mercedes-benz-stretch-limo-murderous-despot-special-edition/ 2019年5月15日閲覧。 
  48. ^ 鷹橋1986、734頁
  49. ^ 細川1980、14-15,194-196頁
  50. ^ Haas, Michael (1991). Cambodia, Pol Pot, and the United States: The Faustian Pact. ABC-CLIO. pp. 17, 28–29.
  51. ^ “How Thatcher gave Pol Pot a hand” (英語). NewStatesman. https://www.newstatesman.com/politics/politics/2014/04/how-thatcher-gave-pol-pot-hand 2018年6月29日閲覧。 
  52. ^ “Butcher of Cambodia set to expose Thatcher's role” (英語). The Guardian. (2000年1月9日). https://www.theguardian.com/world/2000/jan/09/cambodia 2018年6月29日閲覧。 
  53. ^ “DEATH OF POL POT; Pol Pot, Brutal Dictator Who Forced Cambodians to Killing Fields, Dies at 73”. The New York Times. (1998年4月17日). https://mobile.nytimes.com/1998/04/17/world/death-pol-pot-pol-pot-brutal-dictator-who-forced-cambodians-killing-fields-dies.html?referer=https://search.yahoo.co.jp/ 2017年12月28日閲覧。 
  54. ^ “CAMBODIA: BODY OF POL POT EXAMINED TO CONFIRM HIS IDENTITY”. AP Archive. https://m.youtube.com/watch?v=R0p0bDRdqD8 2017年12月28日閲覧。 
  55. ^ 外務大臣談話:http://www.mofa.go.jp/mofaj/i/press/danwa/2006/das_0703.html
  56. ^ カンボジア政府による特別法廷Webサイト:http://www.cambodia.gov.kh/krt/english/
  57. ^ ヒューライツ大阪によるレポート:http://www.hurights.or.jp/news/0607/b06.html
  58. ^ しかし、これについては単純にクメール・ルージュの非のみを問うことは絶対に不可能である。クメール・ルージュはテロ組織ではなく国連すら承認した政権であり、クメール・ルージュの国連でのカンボジア代表権を支持した国は多かった。さらに、ポル・ポトを支持した多くの文化人(チョムスキーほか)も一切の反省のようなものはなく、ポル・ポト政権犠牲者に対する補償もアメリカとイギリスの額は極めて少ないので日本がその大半を賄っている。完全にクメール・ルージュを全否定したのはソ連しかなく、日本すらポル・ポトに対し「アジア的優しさ持つ」と賛美記事すら書いていた(賠償額の高さはこの記事の責任が大きい)。こうしたことから同時代を生きた政権内部の人間は謝罪や反省を一貫して拒否している。
  59. ^ 画像
  60. ^ 1979年9月21日の国連総会はクメール・ルージュ政権の存続に賛成71反対25。1980年10月13日の国連総会はクメール・ルージュ政権追放案を賛成35,反対74,棄権32で否決。クメール・ルージュに反対の立場に切り替わったのはオーストラリアイギリスしかなかった。そのほかの西側諸国はクメール・ルージュを支援し続けていたのだから、クメール・ルージュ政権内の人間に反省を求めるのは矛盾ということになってしまう。このような西側諸国の「判断ミス」は、各国の高校対象の世界史の教科書からは完全に抹消されている。
  61. ^ cinii論文

参考文献編集

  • 井川一久(編著) 『新版 カンボジア黙示録-アンコールの国の夜と霧』 田畑書店<現代アジア叢書 5>、1987年。ISBN 480380205X
  • 井上恭介、藤下超 『なぜ同胞を殺したのか-ポル・ポト 堕ちたユートピアの夢』 日本放送出版協会、2001年。ISBN 9784140806326
  • 清野真巳子 『禁じられた稲-カンボジア現代史紀行』 連合出版、2001年。
  • 山田寛 『ポル・ポト<革命>史-虐殺と破壊の四年間』 講談社<講談社選書メチエ305>、2004年。
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  • 見聞社(編) 『NAM-狂気の戦争の真実』 同朋舎出版、1990年。ISBN 9784810408263
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  • ダニエル・エルズバーグ 『ベトナム戦争報告』 筑摩書房、1973年。
  • フィリップ・ショート 『ポル・ポト-ある悪夢の歴史』 白水社、2008年。ISBN 9784560026274
  • デービット・P・チャンドラー 『ポル・ポト伝』 めこん、1994年。ISBN 9784839600884
  • ヤープ・ファン・ヒネケン 『インドシナ現代史』 上下、連合出版、1983年。ISBN 9784897720272ISBN 9784897720289
  • スティーブ・ヘダー、ブライアン・D・ティットモア 『カンボジア大虐殺は裁けるか-クメール・ルージュ国際法廷への道』 現代人文社、2005年。ISBN 9784877982652
  • Ben Kiernan, How Pol Pot Came to Power: Colonialism, Nationalism, and Communism in Cambodia, 1930-1975, second edition, Yale University Press, 2004. ISBN 9780300102628.
  • Laura Summers, `Democratic Kampuchea' in B.Szajkowski ed., Marxist Goverments: A World Survey, London, 1982.
  • 鷹橋 信夫「内藤 泰子」『現代日本人物事典』旺文社 編、旺文社、1986年、 734頁、 ISBN 978-4-010-71401-0
  • 細川美智子 井川一久「カンボジアの戦慄」、朝日新聞社、1980年。

関連書籍編集

関連項目編集

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