クメール・ルージュ

かつて存在したカンボジアの政治勢力、武装組織

クメール・ルージュクメール語: ខ្មែរក្រហម, ラテン文字転写: Khmae Krɑ-hɑɑmフランス語: Les Khmers rougesベトナム語: Khmer Đỏ中国語: 紅色高棉あるいは赤柬)とは、かつて存在したカンボジアの政治勢力、および武装組織の俗称。

オンカー
អង្គការ
カンボジア内戦カンボジア・ベトナム戦争に参加
クメール・ルージュの活動地域(1989年 – 1990年)
クメール・ルージュの活動地域(1989年 – 1990年)
活動期間 1968年1998年
活動目的 農村社会主義英語版
原始共産主義
クメール・ナショナリズム英語版
構成団体 クメール人
指導者 サロット・サル
本部 プノンペン
関連勢力 カンプチア王国民族連合政府
民主カンプチアの旗 民主カンプチア連合政府
カンプチア共産党
カンプチア国家統一党英語版
敵対勢力  ベトナム
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
カンプチア救国民族統一戦線
カンプチア人民共和国の旗 カンプチア人民共和国
カンボジアの旗 カンボジア王国
テンプレートを表示

「クメール・ルージュ」(赤色のクメール)という俗称はノロドム・シハヌーク時代、反サンクム極左過激派を指してシハヌークがつけた呼称である[1]。その後、カンボジア内戦カンプチア共産党を初めとする諸政党を粛清したサロット・サルが率いる派閥と同義語となった。他の派閥との類似や混同・混乱を避けるためにポル・ポト派とも呼ばれる。

概要 編集

1953年に国王ノロドム・シハヌークの元でカンボジアが独立すると、クメール・ルージュは反政府闘争を開始した。1960年代、ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代には爆撃・内戦は局地的に留まり、食糧は輸出するほど豊富で大量の難民も発生していなかった。この時期のクメール・ルージュはまだ弱小勢力だった。1967年4月にはバタンバン州サムロート英語版で、政府による余剰米強制的安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こった[2][3]。1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1余りが北ベトナムベトコンに買い上げられていたが、その買い付け値は政府によるものよりも高かった[4]。サムロート周辺の掃討作戦は数ヶ月間続き、左右の衝突が増えて政情は不安定になった。

1970年アメリカニクソン政権に支持されたロン・ノルクーデターで王政が廃された直後、アメリカ軍南ベトナム軍がホーチミンルートの南ベトナム解放民族戦線を追撃するためカンボジア領内に侵攻。さらにこれまで局地的であったアメリカ軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、空爆開始から一年半の間に200万人が国内避難民化した[5]。特に東部は人口が集中する都市部なども重点的に爆撃を受けた[6]。この事態を受けてシハヌークは亡命先の北京カンプチア王国民族連合政府を結成、中国共産党の後押しで反ロン・ノル諸派の統一戦線を呼びかけた。1970年3月末にはコンポンチャムでシハヌーク支持者による暴動が起きたが、武力鎮圧された。当時の州知事によればこの地域だけで2-3万人の農民が共産主義に感化された[7]。その他タケオスヴァイリエンカンダルなど各州の州都で同様の蜂起が起こるも、武力で鎮圧された。

1973年1月にパリでベトナム和平協定が調印され、アメリカ軍がベトナムから撤退する。

クメール・ルージュが勢力を伸張させてカンボジア内戦に勝利した背景には、腐敗したロン・ノル政権により追放されたシハヌークがクメール・ルージュ側に味方したことで国王を慕う尊王的な農民層がクメール・ルージュを支持するようになったこと、当時ウィリアム・ウェストモーランド将軍率いるアメリカ軍による爆撃(投下総量は第二次世界大戦で日本に投下したものの3倍)で数十万の農民や農業インフラが犠牲になりカンボジアの田園風景が一面焦土と化したことへの反米感情が挙げられている。1969年のカンボジアの食糧生産は耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたが、耕作面積が5万ヘクタールに激減した1974年には28万2000トンの米を輸入し、米価は1971年の10リアルから1975年の340リアルにまで急騰した[8]。1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している[9]。こうした状況のなか、都市部はアメリカからの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助の行き渡らない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。

クメール・ルージュは、民主カンプチアの指導者となったサロット・サル(ポル・ポト)の理想実現とその独裁体制や大量虐殺行為を支えた。ベトナム軍の侵攻による民主カンプチアの崩壊後、国際連合中国とアメリカや日本[10]などから支持を得て亡命政府を樹立し、カンプチア人民共和国に対して地下活動で戦闘を行った。ベトナム軍がカンボジアから撤退したのちに国連の監視下で行われた選挙も拒否した。シハヌークによる王政復古後もカンボジアの辺境で孤立し続けたが、クメール・ルージュの残党は最終的に王国政府に投降した。カンボジア政府と国連が協力するカンボジア特別法廷が開かれ、ポル・ポトとその一派は人道に対する罪で裁かれることとなった。

クメール・ルージュのイデオロギーは、ヨーロッパ列強撤退後の反植民地主義的なナショナリズムと極端な毛沢東思想[11][12][13][14]を組み合わせたものである[15]。党の指導層は、1950年代のフランスの大学への留学中にそうした思想に親しみ、カンボジア人の間に存在したベトナム人への長い服従に対する反感にも影響されていた。また、タ・モクのような元僧侶も幹部に少なくなかったために、カンボジアなどの南方仏教に受け継がれた原始仏教に由来する禁欲主義も影響を与えたという見方もある[16]。彼らは政権を握るや、カンボジアの社会にかつて思い描かれた原始共産制への移行を試みた[17]。党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトを「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」と賞賛した[18]

年譜 編集

  • 1961年
    • アメリカの情報によれば、この年、イエン・サリは消滅した旧クメール・イサラク連合の細胞を再組織化するために辺境部を回っていたようである[23]。同時に「秘密防衛部隊」のネットワークを組織したらしい。メンバーは幹部の警護が役目の若者で構成された[23]。7月、秘密組織「共産党婦人同盟」が作られ、キュー・ポナリーが議長に就任する[23]
  • 1962年
    • 2月 秘密組織「民主カンプチア青年同盟」(Sampoan Yuvachon Kampuchea Pracheathipateiy)が組織される[23]
    • 7月 党書記トゥー・サムートが暗殺される[注 4][21]
  • 1963年
    • 2月20、21日 第3回党大会[注 5][注 6]をプノンペンで開く[注 7][27][注 8]。書記にはポル・ポトとソー・ピムが立候補したが、説得されたソー・ピムは立候補を取り下げ、ポル・ポトが党書記に就任した。副書記にヌオン・チア、中央常任委員にイエン・サリ、ソー・ピム、ボン・ベト、中央委員にモーン、プラシト、ムオル・サンバット(Moul Sambath)、タ・モク、プオン(Phuong)、ソン・セン、ソン・ゴク・ミンを選出[28]
  • 1966年
    • ポル・ポトの中国からの帰国後、1920年代のパリで鄧小平が発行していた機関紙を真似て、地下新聞「赤い光」(Reaksmei Krahom)、「赤旗」(Tung Krahom)の発行を始める[21][29]
    • 9月 党名を「カンボジア労働者党」から「カンボジア共産党」へ改称[29][30]
  • 1967年 武装闘争開始。
  • 1968年
  • 1970年
  • 1971年
    • 時期不明(6-9月?) 党大会開催。60人あまりの代表が出席し、新しい党規約と「カンプチア共産党」の名前を承認。30人の中央委員会メンバーを選出[31]
  • 1975年
  • 1976年
    • 1月5日 新憲法を発布。国名を民主カンプチアと改名。
    • 1月 党大会を開催。新しい党規約を採択[32]
    • 4月 ポル・ポトを首相に選出し、非共産党の政府指導者を排除。
  • 1977年
    • 9月末 カンボジア共産党の存在を公開[33]
  • 1978年
    • 11月1日・2日 党大会開催。ポル・ポト書記、ヌオン・チア副書記、タ・モク副書記、イエン・サリ、ボン・ベト、ソン・セン、コエ(コン・ソファル)を中央委員会常任委員会メンバーに選出[34]。大会に出席した元党幹部のインタビューによれば、ソン・センとコエは党常任委員候補であったとされる[35]
    • 12月25日 ベトナム軍とカンボジア救国民族統一戦線(反ポル・ポト派)軍がカンボジア侵攻
  • 1979年

民主カンプチア 編集

原始共産主義社会の実験 編集

クメール・ルージュは自らをオンカークメール語: អង្គការ、「組織」の意)、オンカー・パデワット(「革命組織」の意)と名乗り[36][37]、国名を「カンボジア王国」から「民主カンプチア」に変更した。暗号名やコードネームが多用され、ポル・ポトは「ブラザー・ナンバー・ワン」と呼ばれ[38][39]、政権第2位のヌオン・チアは「ブラザー・ナンバー・ツー」と呼ばれた[40]。こうした中、農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万〜25万トンの米が必要である」と報告[41]し、アメリカ国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測していた[42]。こうした事態の中、食糧増産を図ろうとしたオンカーはプノンペンなど都市の住民、資本家、技術者、知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させ、都市をゴーストタウンにした。学校、病院、工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣そのものを廃止し、私有財産と宗教を禁止し、都市文明を否定した。オンカーはポル・ポトが原始社会(原始共産制)の理想的な自給自足の生活を営んでいると考えたカンボジアの山岳先住民族を範とする極端な重農主義農本主義を強行した[17]。これは世界各地で動員が繰り返されてきた20世紀の歴史から見ても例のない社会実験だったとされる[43]

 
民主カンプチア時代の人民服

民主カンプチアでは中国の人民服のように黒い農民服英語版が人民の服装となり[44][45][46]集団農場で農業に従事させられた。強制労働により運河ダムなどの灌漑施設[47]、総延長1万5000キロもの巨大な水路が手作業で建設された[48]。民主カンプチアの人民は「新人民」と「旧人民」に区分され、プノンペン陥落後に都市から強制移住させられた新参者の「新人民」は絶えず反革命の嫌疑をかけられる一方で長期間オンカーの構成員だった「旧人民」は1976年まで共同体で配給を受け、自ら食料を栽培できた[49]。親から引き離して集団生活をさせられ、幼少期からオンカーへの奉仕を強いられた10代前半の無垢な子供は重用されるようになり[50][51]、国内には子供の医者までもが現れて人材は払底を極めた[52][53]。伝統的な家族の形態を解体する一方でオンカーの許可がない自由恋愛や結婚も禁止された[54][55]

大量粛清 編集

 
クメール・ルージュ犠牲者

1975年4月のプノンペン陥落をもって無から始まる新しい時代として破壊の限りが尽くされたことからポル・ポト政権の時代はゼロ年英語版クメール語: ឆ្នាំសូន្យ, ラテン文字転写: chhnam saun)と呼称された[56][57]。カンボジア各地にはキリング・フィールドと呼ばれる大量殺戮のための刑場が作られた[58]。ポル・ポトや強制収容所の所長だったカン・ケク・イウらオンカーの幹部の多くは高学歴インテリ出身であったが、高度な知識や教養はポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから眼鏡をかけている者(ポル・ポトの右腕ソン・センは眼鏡をかけていたにもかかわらず)、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から粛清の名目で殺害しており[59]、この政策は歴史的にも反知性主義の最も極端な例とされる[60][61][62][63]。病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても、オンカーは全く配慮しなかった[64]。音楽などの娯楽も否定され、国民的歌手のシン・シサモットロ・セレイソティアヨー・オウラーラングら音楽家、革命が成功したことを知って国の発展のためにと海外から帰国した留学生、資本家、旧政権関係者も殺害され、伝統文化の継承者も大量虐殺して文化浄化を行った。また、オンカーは「クメール・ルージュ」の俗称の通りクメール民族至上主義的であり[11]、原住民ではない入植者としてベトナム系や中国系などの非クメール人は積極的に民族浄化の対象となった[65][66][67]。ポル・ポト政権時代の華人華僑の犠牲者は東南アジア史上最大規模とされ[68]、当初は42万人いた中国系も20万人に減った[68]が、ポル・ポトを支援した中華人民共和国はこれを無視した[69]

オンカーによって殺害された人数は、様々な立場で検討されている。ヘン・サムリン政権は330万人が死亡したと主張した[注 9]CIAは5万から10万人がオンカーによって殺害されたと推測したが、これには飢餓による死者数を含まない。アメリカ国務省、アムネスティ・インターナショナルイェール大学のカンボジア人大量虐殺研究プロジェクトの3者は、120万人、140万人および170万人とそれぞれ推計している。これらの機関は内戦時代の爆撃や戦闘による死者数については数字を出していない。 フィンランド政府の調査団は、ポル・ポト政権以前の死者(戦闘・爆撃による)を60万人、ポル・ポト政権以後の死者を100万人としている。カンボジアでは1962年を最後に国勢調査が行われておらず、内戦時代には大量の死者および国内難民が発生しており1975年までの正確な人口動態が掴めていないために、こうした諸推計にも大きな開きが出ている。

オンカー支配下のカンボジアに残留した日本人女性は7名いたが、そのうち5名は死亡または行方不明。内藤泰子[注 10]と細川美智子[注 11]の2名は生き残り、1979年にベトナム経由で帰国した[70][71]

没落 編集

1978年5月にはポル・ポトへの反逆が疑われた東部軍管区のオンカーがポル・ポト配下の南西部オンカーの攻撃を受け、東部地域の将兵が大量に処刑されるという事態が起きた(五月決起)。その結果ベトナム領には東部地区から十数万人の避難民が流入した。数年間の国境紛争およびベトナムへの大量の難民流入の結果、カンボジアとベトナムの関係は戦争寸前まで悪化した。オンカーは同年の4月にベトナムに侵入し、バ・チューク村の住民のほとんどを虐殺していた[注 12]

同年12月25日、ベトナム軍は10個師団の兵力を国境に集め、カンボジアからの避難民から組織されたカンプチア救国民族統一戦線 (KNUFNS) を先頭にカンボジアに侵攻した(カンボジア・ベトナム戦争の発生)。

ベトナム軍は「カンボジアをクメール・ルージュの魔手から解放しようとしているKNUFNSを後方から支援しているだけ」という立場を取っており、「ベトナム正規軍はカンボジアにいない」と言い張っていたが事実は異なっていた[注 13]。3年前まで続いたベトナム戦争を戦い抜き、実戦経験が豊富な将兵に事欠かず、装備の点でも優れるベトナム軍は粛清による混乱で脆弱となっていたオンカーの抵抗を難なく排し、驚異的な進軍速度でカンボジア領内を進み、わずか半月でプノンペンを占領、1979年1月7日にポル・ポト政権を追放した。

当時ベトナムに亡命した東部地区の軍民は、ベトナム軍による政権奪取後はヘン・サムリン政権の中心的基盤を形成した。西へ退いたオンカーはタイの支援を受け、ルビーと材木の密輸による資金で長年タイ国境付近の領域を支配し続けた。1985年にはキュー・サムファンが公式にオンカーのリーダーとしてポル・ポトを継いだ。

ベトナム軍のカンボジア侵攻に関してソ連は一貫してベトナムを支持する一方、中国は一貫してカンボジア(オンカー)を支持し、この対立は中越戦争で火を噴くことになった。すなわち、オンカーとベトナムの対立は、中ソ対立代理戦争の様相を呈していたのである。ベトナム戦争後も国交のないベトナムをソ連の手先であるとして敵視したアメリカとその同盟国群であるASEANや日本をはじめとする西側諸国はオンカーの国連でのカンボジア代表権を支持・承認した[10]。また、軍事的にもアメリカがオンカーを支援した疑惑英語版もあった[72]イギリスはオンカーへの支援を当初は否定していたが、後にイギリス陸軍特殊空挺部隊(SAS)がオンカーへの訓練を行っていたことを認めている[73][74]。このため、オンカーによるジェノサイドなどの暴挙は国際的非難を免れることとなった。

オンカーはバタンバン州パイリンなどを拠点とし、タイの黙認のもとルビーや材木を密貿易により売却し続け、1980年代を通じ、地域一体で資金に裏付けられた支配力は維持された。1991年、全てのカンボジアの政治勢力は、選挙と武装解除を行う条約に調印した。しかし、オンカーは1993年に国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が実施した1993年カンボジア総選挙を拒絶して戦闘を継続させ、日本人の選挙監視員として活動していた中田厚仁高田晴行の殺害はオンカーの犯行とされた。

1996年にナンバー2のイエン・サリを含む多量離脱があり、残された兵士は半数の約4000人だった。1997年の党派の争いはオンカー自身によるポル・ポトの監禁および裁判に結びついた。ポル・ポトは裁判で終身刑を宣告され、翌1998年4月15日に死去した[75][76]。1998年12月にキュー・サムファンが投降した。1998年12月29日、オンカーの残りのリーダーは1970年代の大量殺戮に対して謝罪した。1999年までに、大半のメンバーは投降あるいは拘束された。

カンボジア特別法廷 編集

自国民大虐殺、人道に対する罪などで元指導者達を裁く裁判(クメール・ルージュ裁判)は、国連をはじめとする国際社会の働きかけがある一方で、2006年7月3日に開始されるまで引き延ばされてきた[77]。この間、ポル・ポトが1998年に、元軍参謀長・最高司令官のタ・モクが2006年に死去するなどし、また存命している元指導者の高齢化も進みつつある。若いカンボジア人の多くは、30年近く前に起きた暗黒の歴史に対して無知である。

起訴、審理ともにカンボジア人と外国人の司法官が共同で行うが、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷などとは違って、当事者による裁判官の指名を認めるなど、「国際水準なみの国内法廷」という独特の法廷に関する国連の関与は限定されている。二審制であり、最高刑は終身刑である。日本は、運営予算5600万ドルのうち2160万ドルを拠出している。

訴追対象者は、ヌオン・チア元人民代表議会議長やイエン・サリ元副首相ら5-10人の元最高幹部らが訴追される可能性が高いとされている。しかし、オンカーから転向したフン・セン政権はこれらの訴追対象者と司法取引を行い恩赦を与えているなど、この訴追に消極的であることが批判を受けている[78][79]

訴追対象者も「自分は虐殺はしていない」などと強弁し、イエン・サリの妻イエン・チリトに至っては検察官に暴言を吐くなど、自らの罪の意識とそれに対する反省の色が見られなかった[80][注 14][注 15]

2010年7月26日、元トゥール・スレン収容所所長のカン・ケク・イウに対して一審では禁錮35年(求刑禁錮40年)判決を言い渡したが、2012年2月3日の上訴審判決で一審の禁錮35年を破棄して最高刑の終身刑を言い渡した。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 21人のリーダーが参加。
  2. ^ おそらく、コイ・トゥオンのことと考えられている。
  3. ^ ベトナムの文書によれば、(1)トゥー・サムート書記、常任委員、(2)ヌオン・チア書記補佐、常任委員、(3)サロト・サル(ポル・ポト)常任委員、(4)イエン・サリ常任委員候補、(5)ソー・ピム常任委員候補、(6)マン、(7)プラシット、(8)ケオ・カン・マ・リ(タン・シ?)、(9)ライ・トン(ノン・スオン?)、(10)ソン・ゴク・ミン、(11)ケオ・メアス、のメンバーと序列とされた[22]
  4. ^ 7月20日、プノンペンの隠れ家から誘拐され行方不明になる。その後直ちに暗殺されたものと考えられている。暗殺にはポル・ポトのグループの関与がほぼ確実視されているが、状況証拠しかない。
  5. ^ 臨時党大会と書かれている場合もある[24][25]
  6. ^ 1978年のイエン・サリの談話によれば、党大会は1963年3月2日の1日だけとされる[26]
  7. ^ 参加人数は20人程度だったようである。
  8. ^ 臨時党大会は1962年8月に開かれたという説もある[24]
  9. ^ これは後に下方修正された。
  10. ^ 夫と2人の子は死亡。
  11. ^ 夫は死亡。2人の子とともに日本へ帰国。
  12. ^ 村民3,157名のうち生き残ったものはわずか2名。
  13. ^ 実際は累計15万を超える正規軍が派遣されており、KNUFNSの構成員は2万人程度だった。
  14. ^ しかし、これについては単純にオンカーの非のみを問うことは絶対に不可能である。民主カンプチアはテロ組織ではなく国連すら承認した政権であり、民主カンプチアの国連でのカンボジア代表権を支持した国は多かった。さらに、チョムスキーほかポル・ポト政権を支持した多くの文化人からの反省・謝罪の類は一切なく、民主カンプチアによる犠牲者に対する補償も米英の拠出額は極めて少なく、日本がその大半を賄っている。完全にオンカーを全否定したのは同じ共産主義国家のはずのソ連しかなく、日本でも和田俊がポル・ポトに対し「アジア的優しさ持つ」と朝日新聞で賛美記事[81]すら書いていた。こうしたことから同時代を生きた政権内部の人間は謝罪や反省を一貫して拒否している。
  15. ^ 1979年9月21日の国連総会はクメール・ルージュ政権の存続に賛成71反対25。1980年10月13日の国連総会はクメール・ルージュ政権追放案を賛成35,反対74,棄権32で否決。民主カンプチアに反対の立場に切り替わったのはオーストラリアイギリスしかなかった。そのほかの西側諸国は民主カンプチアを支援し続けていたのだから、民主カンプチア政権内の人間に反省を求めるのは「矛盾」ということになってしまう。このような西側諸国の「判断ミス」は、各国の高校対象の世界史の教科書からは完全に抹消されている

出典 編集

  1. ^ 井川 1987, p. 203
  2. ^ 清野 2001, p. 42
  3. ^ 見聞社 1990, p. 532
  4. ^ チャンドラー 1994, p. 131
  5. ^ エルズバーグ 1973, p. 74
  6. ^ Yale > Cambodian Genocide Project > US involvement - ウェイバックマシン(2007年1月3日アーカイブ分)
  7. ^ Los Angeles Times. (30.March.1970) 
  8. ^ ヒネケン 1983, p. 103
  9. ^ ヒネケン 1983, p. 104
  10. ^ a b “U.S. to Support Pol Pot Regime For U.N. Seat”. ワシントン・ポスト. (1980年9月16日). https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1980/09/16/us-to-support-pol-pot-regime-for-un-seat/58b8b124-7dd7-448f-b4f7-80231683ec57/ 2019年4月16日閲覧。 
  11. ^ a b Johnman 1996, p. 61
  12. ^ Jackson 1989, p. 219
  13. ^ Staub 1989, p. 202
  14. ^ Chandler & Kiernan 1983, p. [要ページ番号]
  15. ^ Jackson 1989, p. 244
  16. ^ Harris 2008, p. 182
  17. ^ a b Jackson 1989, p. 110
  18. ^ 益尾 2008, p. [要ページ番号]
  19. ^ 古田 1991, p. 471
  20. ^ 山田 2004, p. 23
  21. ^ a b c d e f Kiernan 2004, p. [要ページ番号]
  22. ^ ショート 2008, pp. 206、214原注4
  23. ^ a b c d e Kiernan 2004, p. 193
  24. ^ a b 井川 1987, 巻末年表
  25. ^ Summers 1982, p. [要ページ番号]
  26. ^ ショート 2008, p. 215原注5
  27. ^ Kiernan 2004, p. 200
  28. ^ Kiernan 2004, pp. 200–201
  29. ^ a b Kiernan 2004, p. 126
  30. ^ Kiernan 2004, p. 190
  31. ^ ショート 2008, pp. 335–336
  32. ^ ヘダー & ティットモア 2005, pp. 94–95
  33. ^ 山田 2004, p. 108
  34. ^ ショート 2008, pp. 592–593
  35. ^ ヘダー & ティットモア 2005, pp. 96、103注191
  36. ^ Frings 1997, pp. 807–846
  37. ^ Osborne 1994, p. [要ページ番号]
  38. ^ Chandler 2000, p. [要ページ番号]
  39. ^ Chandler 1992, p. [要ページ番号]
  40. ^ “「クメール・ルージュ」ナンバー2のヌオン・チア元議長 身柄拘束される”. AFPBB. (2007年9月19日). https://www.afpbb.com/articles/-/2285414 2019年6月24日閲覧。 
  41. ^ 井上 & 藤下 2001, p. 103
  42. ^ NHK取材班 1989, p. 32
  43. ^ Hunt 2014, p. 377
  44. ^ “By Any Measure, Pol Pot Engaged in Genocide”. ニューヨーク・タイムズ. (1990年9月4日). https://www.nytimes.com/1990/09/04/opinion/l-by-any-measure-pol-pot-engaged-in-genocide-552390.html 2019年3月26日閲覧。 
  45. ^ “Back to black fashion stirs memories”. The Phnom Penh Post. (2001年8月31日). https://www.phnompenhpost.com/national/back-black-fashion-stirs-memories 2019年3月26日閲覧。 
  46. ^ “Black uniforms”. The Phnom Penh Post. (2001年9月28日). https://www.phnompenhpost.com/national/back-black-fashion-stirs-memories 2019年3月26日閲覧。 
  47. ^ “Cambodia revives Pol Pot's deadly canals”. ニューヨーク・タイムズ. (2008年2月4日). https://www.nytimes.com/2008/12/04/world/asia/04iht-canal.4.18410736.html 2019年4月16日閲覧。 
  48. ^ “【飛び立つミャンマー】高橋昭雄東大教授の農村見聞録(40)”. Sankei Biz. (2017年2月10日). https://web.archive.org/web/20190416061314/http://www.sankeibiz.jp/macro/news/170210/mcb1702100500009-n1.htm 2019年4月16日閲覧。 
  49. ^ Crochet 1997, p. [要ページ番号]
  50. ^ Coalition to Stop the Use of Child Soldiers (2001年). “Global Report on Child Soldiers”. child-soldiers.org. 2019年6月4日閲覧。
  51. ^ Southerland, D (2006年7月20日). “Cambodia Diary 6: Child Soldiers — Driven by Fear and Hate”. 2019年6月4日閲覧。
  52. ^ http://www.d.dccam.org/Tribunal/Analysis/pdf/Prosecuting_Khmer_Rouge_Medical_Practices_as_Crimes_against_Humanity.pdf
  53. ^ “Khmer Rouge prisoners had child medic”. Sydney Morning Herald. (2009年8月3日). https://www.smh.com.au/world/khmer-rouge-prisoners-had-child-medic-20090803-e73t.html 2019年4月20日閲覧。 
  54. ^ Vickery 1999, pp. 186–187
  55. ^ Mam 1998, p. 18
  56. ^ Ponchaud 1978, p. [要ページ番号]
  57. ^ Pilger 1979
  58. ^ Locard 2005, p. 134
  59. ^ 池上, p. 150
  60. ^ “Year Zero: Reflections From Cambodia On Hatred, Blame, And U.S. Politics”. ハフポスト. (2016年11月28日). https://www.huffpost.com/entry/year-zero-reflections-from_b_13283058 2019年5月21日閲覧。 
  61. ^ “People were killed for being academics during the 1970’s in Cambodia”. The Vintage News. (2016年8月25日). https://www.thevintagenews.com/2016/08/25/priority-people-killed-academics-1970s-cambodia/ 2019年5月21日閲覧。 
  62. ^ Trial of the Khmer Rogue - ウェイバックマシン(2012年4月22日アーカイブ分)
  63. ^ Kroef 1979, pp. 731–750
  64. ^ Kiernan 1997, pp. 31–158, 251–310
  65. ^ Weitz 2005, pp. 156–157, 162–164, 171–172
  66. ^ Kiernan 1997, p. 26
  67. ^ Frey 2009, pp. 266–267
  68. ^ a b Gellately & Kiernan 2003, pp. 313–314
  69. ^ Mam 1998, p. 189
  70. ^ 鷹橋 1986, p. 734
  71. ^ 細川 & 井川 1980, pp. 14–15, 194–196
  72. ^ Haas 1991, pp. 17, 28–29
  73. ^ How Thatcher gave Pol Pot a hand - ウェイバックマシン(2018年6月12日アーカイブ分)
  74. ^ Butcher of Cambodia set to expose Thatcher's role - ウェイバックマシン(2018年6月12日アーカイブ分)
  75. ^ “DEATH OF POL POT; Pol Pot, Brutal Dictator Who Forced Cambodians to Killing Fields, Dies at 73”. The New York Times. (1998年4月17日). https://mobile.nytimes.com/1998/04/17/world/death-pol-pot-pol-pot-brutal-dictator-who-forced-cambodians-killing-fields-dies.html?referer=https://search.yahoo.co.jp/ 2017年12月28日閲覧。 
  76. ^ CAMBODIA: BODY OF POL POT EXAMINED TO CONFIRM HIS IDENTITY - YouTube
  77. ^ 麻生外務大臣談話 - ウェイバックマシン(2007年11月17日アーカイブ分)
  78. ^ The Khmer Rouge Trial Task Force - ウェイバックマシン(2007年12月18日アーカイブ分)(英語)
  79. ^ ヒューライツ大阪 カンボジアのクメール・ルージュ特別法廷が始動 - ウェイバックマシン(2007年1月5日アーカイブ分)
  80. ^ 小倉 2003, p. [要ページ番号]
  81. ^ 20131217071302.jpg (450x238 pixels) - archive.today(2016年10月3日アーカイブ分)

参考文献 編集

  • 井川一久編著『新版 カンボジア黙示録-アンコールの国の夜と霧』田畑書店〈現代アジア叢書 5〉、1987年。ISBN 480380205X 
  • 井上恭介、藤下超『なぜ同胞を殺したのか-ポル・ポト 堕ちたユートピアの夢』日本放送出版協会、2001年。ISBN 9784140806326 
  • 清野真巳子『禁じられた稲-カンボジア現代史紀行』連合出版、2001年。 
  • 山田寛『ポル・ポト<革命>史-虐殺と破壊の四年間』講談社〈講談社選書メチエ305〉、2004年。 
  • 古田元夫『ベトナム人共産主義者の民族政策史-革命の中のエスニシティ』大月書店、1991年。 
  • 見聞社 編『NAM-狂気の戦争の真実』同朋舎出版、1990年。ISBN 9784810408263 
  • NHK取材班『激動の河メコン-戦火消えぬ村・帰ってきた兵士たち』日本放送出版協会、1989年。ISBN 9784140086841 
  • ダニエル・エルズバーグ『ベトナム戦争報告』筑摩書房、1973年。 
  • フィリップ・ショート『ポル・ポト-ある悪夢の歴史』白水社、2008年。ISBN 9784560026274 
  • デービット・P・チャンドラー『ポル・ポト伝』めこん、1994年。ISBN 9784839600884 
  • ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史』 上、連合出版、1983年。ISBN 9784897720272 
  • ヤープ・ファン・ヒネケン『インドシナ現代史』 下、連合出版、1983年。ISBN 9784897720289 
  • スティーブ・ヘダー、ブライアン・D・ティットモア『カンボジア大虐殺は裁けるか-クメール・ルージュ国際法廷への道』現代人文社、2005年。ISBN 9784877982652 
  • Ben Kiernan (2004). How Pol Pot Came to Power: Colonialism, Nationalism, and Communism in Cambodia, 1930-1975 (second edition ed.). Yale University Press. ISBN 9780300102628 
  • Laura Summers (1982), “Democratic Kampuchea”, in B.Szajkowski, Marxist Goverments: A World Survey, London 
  • 鷹橋信夫 著「内藤泰子」、旺文社 編『現代日本人物事典』旺文社、1986年、734頁。ISBN 978-4-010-71401-0 
  • 細川美智子、井川一久『カンボジアの戦慄』朝日新聞社、1980年。 
  • Johnman, Albert J. (1996), “The Case of Cambodia”, in Programma Interdisciplinair Onderzoek naar Oorzaken van Mensenrechtenschendingen, Contemporary Genocides: Causes, Cases, Consequences 
  • Jackson, Karl D (1989). Cambodia, 1975–1978: Rendezvous with Death. Princeton University Press. ISBN 978-0-691-02541-4 
  • Ervin Staub (1989). The roots of evil: the origins of genocide and other group violence. Cambridge University Press 
  • David Chandler & Ben Kiernan, ed (1983). Revolution and its Aftermath. New Haven 
  • Harris, Ian (2008). Cambodian Buddhism: History and Practice. University of Hawaii Press 
  • 益尾知佐子「論文 中国における毛沢東外交の再検討 -- 1979~81年、「独立自主の対外政策」に向けて」『アジア経済』第49巻第4号、日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年、2-39頁、NCID AN00011026 
  • Frings, K. Viviane (October 1997). “Rewriting Cambodian History to 'Adapt' It to a New Political Context: The Kampuchean People's Revolutionary Party's Historiography (1979-1991)”. Modern Asian Studies 31 (4). 
  • Osborne, Milton E. (1994). Sihanouk Prince of Light, Prince of Darkness. Honolulu: University of Hawaii Press. ISBN 978-0-8248-1639-1 
  • David P. Chandler (2000). Brother Number One: A Political Biography of Pol Pot. Chiang Mai: Silkworm Books 
  • Chandler, David P. (1992). Brother Number One: A Political Biography of Pol Pot. Boulder, San Francisco, and Oxford: Westview Press. ISBN 0-8133-0927-1 
  • Hunt, Michael H. (2014). The World Transformed: 1945 to the Present. New York, NY: Oxford University Press.. ISBN 978-0-19-937102-0 
  • Soizick Crochet (1997). Le Cambodge. Paris: Karthala. ISBN 2-86537-722-9 
  • Vickery, M. (1999). Cambodia 1975–82 (2nd ed.). Silkworm 
  • Mam, K. (1998). An Oral History of Family Life Under the Khmer Rouge. Yale 
  • Ponchaud, François (1978). Cambodia: Year Zero. Internet Modern History Sourcebook 
  • John Pilger (1979). Year Zero: The Silent Death of Cambodia (Documentary) (TV). UK: Associated Television (ATV). {{cite AV media}}: |format=を指定する場合、|url=も指定してください。 (説明)
  • Locard, Henri (March 2005). “State Violence in Democratic Kampuchea (1975–1979) and Retribution (1979–2004)”. European Review of History 12 (1). 
  • 池上彰『そうだったのか!現代史』集英社 
  • Justus M. van der Kroef (Aug., 1979). Asian Survey 19 (8). 
  • Kiernan, Ben (1997). The Pol Pot Regime: Race, Power, and Genocide in Cambodia under the Khmer Rouge, 1975–79. London: Yale University Press. ISBN 0300096496 
  • Weitz, Eric D. (2005), “Racial Communism: Cambodia under the Khmer Rouge”, A Century of Genocide: Utopias of Race and Nation, Princeton University Press 
  • Frey, Rebecca Joyce (2009). Genocide and International Justice. Infobase Publishing. ISBN 0816073104 
  • Gellately, Robert; Kiernan, Ben (2003). The Specter of Genocide: Mass Murder in Historical Perspective. Cambridge University Press 
  • Chan, Sucheng (2003). Remapping Asian American History. Rowman & Littlefield 
  • Haas, Michael (1991). Cambodia, Pol Pot, and the United States: The Faustian Pact. ABC-CLIO 
  • 小倉貞男クメール・ルージュ国際人道裁判で何が裁かれようとしないのか」『立命館国際研究』第5巻第3号、2003年3月、355-369頁。 

関連書籍 編集

クメール・ルージュを題材とした作品 編集

マンガ
劇映画
ドキュメンタリー映画
アニメ映画
  • FUNAN フナン(2018年、フランス・ルクセンブルク・ベルギー)
小説

外部リンク 編集