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トロット트로트、韓国演歌[1])は、韓国における大衆楽曲ジャンルのひとつである。朝鮮半島にフォックストロットのリズムが日本統治期を経て、演歌から普及したことで酷似していることして批判された時期を持つ。しばしば韓国演歌と呼ばれる[1]

トロット
各種表記
ハングル 트로트
発音 トゥロトゥ
2000年式
MR式
Teuroteu
T'ŭrot'ŭ

目次

特徴編集

「トロット」は日本時代に朝鮮半島に入ってきた、キツネが歩くような4分の4拍子の曲調のテンポを表すフォックストロット(Foxtrot)の一部をとったものである[1]

朝鮮日報によると、2000年代以降は日本の演歌要素を減らして、新たなリズムを取り入れて歌われたモノを「ネオ・トロット」と言われている[1]。その後は日本の演歌のように感情を抑えた優しいメロディ・唱法は受けず、強く押しつけるようなものが受け入れられている[2]

歴史編集

1948年8月15日大韓民国樹立によって、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による占領統治が解除されても、依然として在韓米軍は数多く駐留したままであった。日本嫌いで親米主義者である韓国初代大統領李承晩が1948年から1960年まで韓国で軍事独裁政権を掌握し、トロット界においても「酒は涙か溜息か」などの日本をルーツにした楽曲は事実上の発禁処分とされる事になった。1947年には玄仁(ヒョン・イン / 현인)の「新羅 달밤」(新羅の月夜)が大ヒットしている。米軍キャンプをまわるジャズ歌手なども多く登場している。

1950年6月25日の北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国の南侵によって勃発した朝鮮戦争により、国土は壊滅的な打撃を受けた。朝鮮戦争中は軍歌が流行したが、1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定署名後には北朝鮮へ渡った作曲家・作詞家などに対して「越北作家」のレッテルが貼られ、彼らの作による『断髪令』・『有情千里』など多くの歌が発禁処分となった。これは1988年まで続き、著名曲でありながら公の場では歌えない歌謡曲が多く存在することとなった。

1954年には、イ・ヘヨン(李海燕 / 이해연)による「断腸のミアリ峠」(단장의 미아리고개)が大ヒットした。1957年にはエレジーの女王・イ・ミジャ(李美子 / 이미자)がデビューし、後に彼女は韓国歌謡界の女王として君臨することとなる。

1959年ごろから、韓国においてもSPレコードからLPレコードの時代となり、従来は比較的身分の低い低学歴の職業と目されてきた歌手界にも、大学卒の歌手が出現するようになり話題となった。

1961年には、ハン・ミョンスク(韓明淑 / 한명숙)の「黄色いシャツの男」(노란 샤쓰의 사나이)が大ヒットして、フランスのシャンソン歌手イベット・ジローが同曲をソウルで吹き込んだり、日本においても一部朝鮮語の歌詞を残したまま日本語訳詞が付けられてヒットするなど、社会現象を引き起こした。またこの頃、反共ラジオドラマによって「涙の豆満江」がリバイバルヒットしている。

1962年に就任した朴正煕大統領は文化界に強い圧力を加えだし, 1975年にはビートルズなどの曲が共産主義色彩をたたえるという理由で総222曲が発行禁止処分が酔われたりした. また李美子の歌が倭色と言って多数禁止曲に指定されたりした。

1967年、南珍남진)による「カスマプゲ」(가슴 아프게)が大ヒットした。同年には、後に国民的歌手となる羅勲児もデビューを果たしている。1971年にはフォークデュオのラナエロスポ(라나에로스포)による『サランヘ』(사랑해)が、1973年にはパティ・キムによる『離別』が大ヒットし、両曲の作曲家を手がけた吉屋潤の名を高めた。 特に『離別』は、北朝鮮の金正日総書記の十八番としても知られている。

1976年にはチョー・ヨンピルによる「釜山港へ帰れ」が大ヒットする。また、1977年には李成愛が日本語に訳したトロットを日本でヒットさせた。従来にも菅原都々子による『連絡船の歌』のヒットや、平壌出身の歌手である小畑実の人気などスポット的に韓国歌謡の日本でのヒットはあったものの、本格的なトロットの日本への紹介は李成愛が初めてであった。李成愛の成功は、チョー・ヨンピルや羅勲児らの歌うトロットの日本進出をもたらし、近年の韓流ブームほどは爆発的でないにせよ、第一次韓国ブームともいえる現象を引き起こし、韓国歌手の名前が日本にも浸透するようになり、後にキム・ヨンジャ桂銀淑などの韓国人歌手が日本に進出・定着する礎となった。 また、『黄色いシャツ』・『離別』・『カスマプゲ』・『釜山港へ帰れ』などの数々のトロットを日本人演歌歌手が競ってカバーするようになり、日本でも大ヒットすることとなった。

1980・90年代動向編集

1980年代に入って一時復活の兆しが高まったものの、その人気は長期的に見て凋落傾向にある。

ことに1990年代以降は、ソテジワアイドゥルなどに端を発する、従来のトロットの流れを全く汲まないグループやアーティストによる洗練されたダンス曲・ポップロック・バラードなど、いわゆるK-POPが若年層を中心に絶大に支持され、トロットはすっかり中高年世代限定の歌というイメージになってしまっている。しかし、ヒョンチョルテ・ジナソン・デグァンソル・ウンドのトロット四天王が登場し、一定の存在感を示している。

日本においては、1990年代半ばに幻の名盤解放同盟電気グルーヴ李博士を紹介すると一気にテクノファンに浸透、ポンチャック・ブームを巻き起こした。

2000年代以降動向編集

韓国ではドライバーが好んで聞くジャンルの音楽で、高速道路サービスエリアの売店でCD、カセット集が販売されていたり、交通情報専門ラジオ局である「交通放送」や「KBS2R(KBS happy-fm)」、「MBCラジオ(MBC標準FM)」などのラジオ局では、昼間の時間帯を中心に多くのトロット曲がオンエアされている。2000年代以降、ラジオ番組からトロットは減少する傾向にあり、いくつかの番組やトロット枠(KBS2/happyfmの午前11時台)などが消えている一方、WBS円音放送は仏教系の宗教局でありながら、積極的にトロット番組をオンエアしている。

2004年にはチャン・ユンジョンの「オモナ(어머나)」が老若男女を問わず記録的な大ヒット。トロット曲としては1993年のキム・スヒの「愛慕」以来12年ぶりに地上波音楽番組で1位を獲得した。「オモナ」をCMソングに起用したLG電子の携帯電話MP3ミュージックフォンは「オモナフォン」と呼ばれた[3]

2005年発売のパク・サンチョルの「無条件」が大ヒット。同年開催の「第2のチャン・ユンジョンオーディション」優勝者の「トロット王子[4]」ことパク・ヒョンビンらと共に新世代トロットとして注目を浴びる。

2009年に、ガール・グループ出身のホン・ジニョンがトロット歌手に転向して成功を収めた[5]

2014年春、Mnetがプロ・アマ参加のトロット歌手オーディション番組「トロットX」を放送。ナミエ朝鮮語版チョ・ジョンミンらを発掘する[6][7]

2019年春に、朝鮮放送(TV朝鮮)でプロ・アマ参加の女性トロット歌手オーディション番組「明日はミス・トロット」が放送され、同時間帯1位の視聴率を記録するなど好評を博した[8]。ちなみに同番組名でのトロットのハングル表記は英語の「trot」の発音に近い「트롯(トゥロッ)」である。

歴代のトロット歌手編集

1950年以前デビュー編集

  • イ・エリス(李愛利秀/ 이애리수
1930年20歳でデビューし、1932年に高麗時代の旧都である開城を舞台にした『荒城의跡』(荒城の跡)が朝鮮盤(朝鮮語版レコード)初の大ヒットとなった。同年、日本においても李アリスの芸名で西條八十の詞による『あだなさけ』などを発表した。私生活においては恋愛にからむ人間関係不調を苦にして2度の自殺未遂を起こすなど波乱の人生をおくった。
  • チェ・ギュヨプ(蔡奎燁 / 채규엽
1930年デビュー。1932年に『酒は涙か溜息か』・『希望の丘(丘を越えて)』・『影を慕いて』など日本の流行歌を朝鮮語訳して歌いヒットした。その後も『峯子の歌』などのヒットを連発するが、1934年には当時の東京市内カフェー(当時存在した風俗営業を行う特殊喫茶)で女給(広く一般的に女子のサービス業従業員のことを指したが、赤線やカフェーにおいては狭義に風俗営業を行う女性のことを指した)との淫行スキャンダルを起こし、1937年には詐欺容疑逮捕されるなど私生活でも話題にも事欠かなかった。また日本においても長谷川一郎の芸名でレコード発表をした。とても朝鮮人とは思えない極端な親日派として知られ、第二次世界大戦時に大政翼賛会に加入したばかりか、帝国陸軍の軍装で軍用機募金運動を行うなどした。日本の敗戦後には親日派にもかかわらず上手く立ち回り訴追されることなくステージ活動などを続けたものの、イデオロギー転向して1949年北朝鮮へ渡り、最後には反体制分子として炭坑に収容されて重労働を課され、野垂れ死に同然の悲惨な最期を遂げたという。
  • イ・ナヨン(李蘭影/ 이난영
1916年全羅南道木浦府(現在の木浦市)生まれ。1933年オーケーレコードからデビュー。元祖「エレジーの女王」と称されている。1935年に『木浦 눈몰』(木浦の涙)が大ヒット。1939年には作曲家の金海松(キム・ヘソン / 김해송)と結婚。1940年には『泣けよ門風紙』・『木浦は港』がヒットする。日本敗戦後は夫とK.P.K楽団を主宰するが、朝鮮戦争で夫が北朝鮮軍に拘束され、2人の最期の別れとなった。儲けた7人の子供は渡米しラスベガスで歌手として活躍したが、本人は晩年慢性アルコール中毒となり1965年にさみしい最期をとげた。
  • コ・ボクス(高福寿/ 고복수
1911年生まれ。コロムビアに所属していたがなかなかデビューのチャンスがなく、1934年にオーケーレコードに転出して『他鄕살이』(他郷ぐらし)でデビュー。これが大ヒットし、1935年には『沙漠の恨』、1937年には『짝사랑』(片思い)などのヒットを飛ばした。1939年に同じく歌手の黄琴心と結婚した。1958年に歌手を引退し、種々の事業を展開するもことごとく失敗し、1972年に寂しい老後を終える最期となった。
  • イ・ファジャ(李花子 / 이화자
1935年酒場の従業員をしていたところをスカウトされ、いわゆる妓生歌手の中では最も多くヒット曲を連発した。1938年に『コルマンテ牧童』が、1939年には『어머님 前上白』(母への手紙)がヒット。1940年の『花柳春夢』は、日本人歌手である菅原都々子が『片割れ月』としてカバーするほどのヒットとなった。私生活においてはスキャンダルの女王として知られ、晩年にはアヘン乱用により1950年中毒死したとされているが、最期に至るまでの詳細や没年齢は定かではない。
  • ナム・インス(南仁樹 / 남인수
『涙の海峡』でデビュー、1937年オーケーレコードからの再デビューで『水車サラン』がヒット。学歴・音楽経験ゼロからのスタートだったが、作曲家の朴是春(パク・シチュン / 박시춘)との黄金コンビによって、1938年には『哀愁 小夜曲』(哀愁のセレナーデ)、1940年には『泣いて別れた釜山港』などが大ヒットした。「女インス」「金インス」と呼ばれるほどの遊び人として知られた。締まり屋としても知られ、日本の敗戦後は興行にも手を伸ばし、持病の肺結核を悪化させることとなった。1946年に『가거라 三八線』(去れよ三十八度線)、1953年に『離別 釜山停車場』(別れの釜山停車場)、1956年には『青春告白』などのヒットを飛ばし、1962年に没するまで第一線のスター歌手であり続け、生涯で1000曲あまりを歌い歌謡皇帝とまで称された。
  • ファン・グムシム(黄琴心 / 황금심
1921年生まれ。1938年『いとしのあなた』でデビュー。1939年に同じく歌手の高福壽と結婚。1953年に『三多島消息』をヒットさせた後引退して、数多の事業に乗り出すもことごとく失敗して苦しむ夫の高福寿を物心両面で支えた。2001年逝去。
  • チャン・セジョン(張世貞 / 장세정
1921年生まれ。平壌の少女歌手として、1937年に『連絡船 떠난다』(連絡船の歌)でデビューし、大ヒット。1939年には『港の名無草』がヒット。当時の芸能界に力のあった李哲(イ・チョル / 이철)の歓心を得ようと綱引きを繰りひろげた、ライバル李蘭影との不仲は有名である。1940年には『さらば断髪嶺』がヒット。日本の敗戦後は舞台などで活躍したが、晩年はロサンゼルス市内で過ごした。2003年逝去。
  • キム・ジョング (金貞九/ 김정구
1916年江原道元山府(現在の元山市)生まれ。1931年に元山光明普通学校卒業。兄に作曲家の金龍煥(キム・ヨンファン)、姉に歌手の金安羅(キム・アンラ)をもつ。キリスト教徒で、1938年の『王書房恋書』などのコミックソングで人気を博した。同時期に『눈물 젖은 豆滿江』(涙の豆満江)・『海の交響詩』を発表し、ヒットとなる。『涙の豆満江』は1960年KBSラジオ反共ドラマによって再び人気に火がつき、1990年代初頭まで韓国国民の間では『釜山港へ帰れ』を上回る支持を集めていた。こうした功績によって1980年に歌手として受賞することは稀有な文化勲章を授かっている。ソウル市内の『草原の家』というビアホールで70歳を過ぎてからも現役歌手としてステージに立っていたが、1998年ロサンゼルス市内で逝去。
  • ペク・ニョンソル(白年雪 / 백년설
1915年生まれ。やや不安定な歌唱でレコード収録の際にNGを連発する事で知られる。1939年に『流浪劇団』がヒット。1940年には『나그네 설움』(ナグネソルム)が大ヒットし、『番地없는 酒幕』(番地のない酒場)もヒットした。1941年には満州移民奨励歌『福地萬里』・『大地 港口』(大地の港)がヒットした。日本の敗戦後は歌手活動を停止して事業展開に専念するが、朝鮮戦争を経て歌手復帰した。1970年に引退、熱心なエホバの証人の信者でもあった事から、1978年ロサンゼルス市に渡り、1980年に没した。
  • チン・バンナム(秦芳男 / 진방남
1917年生まれ。1940年に『不孝者읍니다』(不孝者は泣きます)がヒット。日本での収録中に母の訃報が入り、曲のタイトルそのままのレコーディングとなった。その後、1950年からは作詞家に転向し半夜月のペンネームで『斷腸 彌阿里고개』(断腸のミアリ峠)などの作詞を手がけたことで知られる。
  • ヒョン・イン (玄仁/ 현인
1919年に温泉街である釜山府東莱(現在の釜山広域市東莱区)に生まれる。本名は玄東柱(ヒョン・ドンジュ / 현동주)。1942年に東京・上野の東京音楽学校声楽科を卒業したバリトン歌手で、上海で活動中に終戦を迎えた。声を震わせるような歌唱で知られ、1947年に『新羅 달밤』(新羅の月夜)がヒット。その後も1951年の『がんばれ!クムスン』、1953年の『ラッキー・ソウル』などのヒットを飛ばし、晩年まで懐メロ番組の常連であった。2002年に逝去。

1950年代デビュー編集

  • 李美子(イ・ミジャ / 이미자
1941年京城府(現在のソウル特別市)生まれ。1958年にデビューし、エレジーの女王と呼ばれている。伝統的に歌手という職業が低く見られがちであった韓国においては、破格の扱いを受けるまさに歌謡界の女王といえる。韓国では美空ひばりのことを「日本の李美子」と称するほどであり、その存在の大きさが窺える。主要なヒット曲だけで100曲を超え、歴代大統領コンサート観覧に訪れたほどである。1965年のヒット曲『東栢 아가씨』(椿娘)は日本的な曲であるとの理由で当局により発禁処分を受けた。韓国の3大放送局のひとつMBC(韓国文化放送)による韓国歌手人気ランキングではチョー・ヨンピルに次ぐナンバー2の得票で、ナンバー3の人気ポップスグループソテジワアイドゥル(서태지와 아이들)を抑えたこともある。

1960年代デビュー編集

1970年代デビュー編集

1955年生まれ。明知大学校の学生であった1978年に、韓国MBC大学歌謡祭で自作曲『그때 그사람』(あの時あの人)を歌い、歌手デビューする。翌1979年に起こった朴正熙大統領射殺事件の宴席に酌婦として同席していたことが明らかになり、1981年まで放送出演禁止措置を受けた。

1980年代デビュー編集

1990年代デビュー編集

2000年代デビュー編集

2010年代デビュー編集

脚注編集

関連項目編集