ドーセットシャー (重巡洋艦)

HMS Dorsetshire (40).jpg
艦歴
発注
起工 1927年9月21日
進水 1929年1月29日
就役 1930年9月30日
退役
その後 1942年4月5日に戦没
除籍
性能諸元
排水量 基準:10,035トン
満載:13,420トン
全長 610 ft (186 m)
全幅 66 ft (20.1 m)
吃水 16 ft (4.9 m)
機関 アドミラリティ三胴式重油専焼水管缶 8基、パーソンズ式オール・ギヤードタービン 4基、80,000shp、4軸推進
最大速力 31.5 ノット (58 km/h)
航続距離 12,500海里/12ノット
乗員 653名
兵装 Mark.VIII 8インチ連装砲 4基
Mark.V 4インチ単装高角砲 4基
2ポンドMark.VIII単装ポムポム砲 4基
21インチ4連装魚雷発射管 2基
搭載機 水上機 2機、カタパルト 1基

ドーセットシャー (HMS Dorsetshire, 40) は[注釈 1]イギリス海軍カウンティ級重巡洋艦の最終型[2]。本艦と姉妹艦ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) をサブグループとする資料もある。ノーフォーク級重巡洋艦 (Norfolk class heavy cruiser) [3]、もしくはドーセットシャー級重巡洋艦に属する[2][注釈 2]

1941年(昭和16年)5月27日、航行不能になった戦艦ビスマルク (Bismarck) を魚雷攻撃で撃沈した[4]。1942年(昭和17年)4月5日[5]セイロン沖海戦で南雲機動部隊から飛来した九九艦爆急降下爆撃により撃沈された[6][7]

艦歴編集

1941年まで編集

1927年(昭和2年)9月21日に起工、1929年(昭和4年)1月29日に進水し、1930年(昭和5年)9月30日に就役した[2]大西洋艦隊 (Atlantic Fleet) 所属中の1931年(昭和6年)9月、インヴァーゴードン反乱事件が発生した。その後、アフリカ戦隊に配備された。

1935年(昭和10年)からは中国艦隊 (The China Station) に所属した。10月から11月にかけて、ドーセットシャーを含めイギリス艦隊は大日本帝国を訪問[8]日本列島各地に寄港する[9]。 ドーセットシャーは10月3日から10日まで大分県別府港に滞在する[10]。その後は14日まで広島湾[注釈 3][注釈 4]16日から28日まで横浜港滞在[13]11月3日、鹿児島を出発して上海市にむかった[14]。なお瀬戸内海所在時には江田島に親善訪問し、乗組員が海軍兵学校を訪れたり、66期生が本艦を見学するなど交流を深めた[7]

1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦がはじまると、東南アジアからインド洋へ移動した。大西洋ではドイツ海軍 ( Kriegsmarine) のドイッチュラント級装甲艦[15](通称「ポケット戦艦」)[16]アドミラル・グラーフ・シュペー (Admiral Graf Spee) が通商破壊作戦を開始した[17]。10月初頭、イギリス海軍本部は通商破壊艦対策として複数の任務部隊を編成して各地に配備する[18]。空母イーグル (HMS Eagle) 、重巡2隻(ドーセットシャー、コーンウォール)はI部隊 (Force I) に所属し、セイロン島を拠点に行動した[18][19]

12月、G部隊(指揮官ハーウッド代将)隷下の重巡エクセター (HMS Exeter, 68) が南アフリカサイモンズタウンで修理する間、その代理をドーセットシャーが務めるよう命じられた[20]。ドーセットシャーはインド洋を離れ、フォークランド諸島ポートスタンリーに向かう[20]。12月12日の時点で、本艦はサイモンズタウンで明日の出港に備えていた[21]。翌13日のラプラタ沖海戦によりアドミラル・グラーフ・シュペーがウルグアイモンテビデオに逃げ込んだ時、ケープタウンにいたドーセットシャーも同地への進出を命じられた[22]。だがモンテビデオ到着予想日時は12月21日であった[23]。本艦がモンテビデオに到着してG部隊(エイジャックスアキリーズカンバーランド)に合流した時[注釈 5]、シュペーは既に自沈して残骸になっていた。

1940年(昭和15年)1月より、ドーセットシャーは南大西洋での船団護衛任務に従事した。 2月11日、本艦の水上偵察機が、ブラジル沖でドイツの貨物船Wakamaを発見した。ドイツ船が自沈したので、乗組員を救助した。5月から6月中旬まで、イギリスに戻り修理をおこなう。 6月下旬、ダカールからカサブランカに移動しようとしたフランス戦艦リシュリュー (Richelieu) の監視を命じられる。リシュリューがダカールに戻ったあとも、空母ハーミーズ (HMS Hermes, 95) や重巡オーストラリア (HMAS Australia, D84) と共にダカールのフランス艦隊を監視した。7月上旬、ハーミーズの艦上攻撃機によるリシュリュー攻撃を支援した。

7月28日、仮装巡洋艦「アルカンタラ」がドイツ仮装巡洋艦「トール」と遭遇、交戦。それを受けてフリータウンに居た「ドーセットシャー」は出撃を命じられている[25]

11月以降、インド洋での船団護衛任務や通商破壊艦対策に従事する。その頃、ポケット戦艦アドミラル・シェーア (Admiral Scheer) が大西洋やインド洋で行動していた[26]。12月、イギリス海軍はシェーア(テオドール・クランケ艦長)が大西洋にいることに気付き、K部隊を再編する[27]。さらに多数の巡洋艦を哨戒任務に投入した[28]。本艦と軽巡ネプチューン (HMS Neptune, 20) は、フリータウン西方500マイルの海域を警戒するよう命じられた[28]。だがシェーアもドイツ仮装巡洋艦も捕捉できなかった。

ビスマルク追撃戦編集

1941年(昭和16年)5月、ドイツ海軍はライン演習作戦を発動し、リュッチェンス提督率いる戦艦ビスマルク (Bismarck) と重巡プリンツ・オイゲン (Prinz Eugen) が大西洋に進出した[29]。5月24日、リュッチェンス部隊はデンマーク海峡海戦で勝利を収めたが[30]、ビスマルクも小破して燃料不足となり、作戦を中止してフランス西海岸の基地にむかうことにした[31][32][注釈 6]。 イギリス海軍はフッド (HMS Hood) の仇をとるため、全力を挙げる[35]本国艦隊H部隊の他に、輸送船団を護衛中の艦艇もビスマルク追撃を命じられた(Last battle of the battleship Bismarck[36][37]。フッドが沈没したとき、ドーセットシャーはシエラレオネからの輸送船団SL74を護衛して大西洋を北上中だった[38]

5月26日午前11時ころ、PBYカタリナ飛行艇がフランスにむけて東進するビスマルクを発見し、各部隊に通報した[39]。本艦の艦長ベンジャミン・マーティン大佐は位置を計算し、ビスマルクがドーセットシャーの北方360浬にいること、ドーセットシャーが仇敵たるドイツ巨大戦艦を迎撃できることに気付いた[40]。マーティン艦長は海軍本部の許可を得ず、船団の護衛任務を特設巡洋艦にまかせて東進を開始した[41]

5月27日午前8時47-50分、本国艦隊司令長官トーヴィー大将直率の戦艦キング・ジョージ5世 (HMS King George V) 、戦艦ロドニー (HMS Rodney, 29) 、重巡ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) が砲撃を開始、ビスマルクも応戦した[42]。ドーセットシャーは砲撃戦がはじまってから約30分以上が経過してビスマルクが沈黙したころ戦闘に加入し、午前9時40分から砲撃を開始した[43][44]。ドーセットシャーが突如戦場に出現したため、トーヴィ戦隊は本艦を「掩護にかけつけた独重巡プリンツ・オイゲン」と錯覚したという[45]。本海戦でドーセットシャーは20.3㎝砲弾254発を発射した[46]

ビスマルクが抵抗の手段を失って航行不能になったとき、サマヴィル提督が率いるH部隊の3隻[注釈 7]が出現し、サマヴィル提督は自らの手でとどめをさして良いかをトーヴィー長官に問い合わせた[49]。だがトーヴィー長官は戦闘を中止し「魚雷を有する艦はビスマルクに接近し、これを攻撃せよ」と命じた[49]。この時点で戦場に居合わせた駆逐艦は燃料不足で離脱するか、前夜のビスマルクへの夜間雷撃で魚雷を使い果たしており[50]、魚雷を持っていたのはドーセットシャーだけだった[51]。午前10時20分、ドーセットシャーはビスマルクの右舷に魚雷2本を発射し、左舷側にまわると、午前10時36分に魚雷1本を発射した[52]。午前10時39分、ビスマルクは左舷に転覆して沈没した[51][53]

リュッチェンス提督とリンデマン艦長はビスマルクと運命を共にしたが[54][55]、まだかなりの乗組員が海面に浮いていた[56][57]。ビスマルクにとどめの魚雷を撃ちこんだドーセットシャーは停船し、泳いできた生存者の救助を開始した[56][58]。約1時間でドーセットシャーが85名[59]、駆逐艦マオリ (HMS Maori) が24名を救助した[60][注釈 8][注釈 9]。 なおも静止救助中、Uボートの存在が予測されたため[62]、生存者数百名を水面に残して沈没現場を離脱した[63][注釈 10]。 その後、ドーセットシャーは修理のためイングランド北東部のニューカッスルに移動する[68]。航海中にビスマルク生存者1名が死亡し、水葬に付された[69]。5月30日、ニューカッスルに入港してビスマルク生存者は陸軍に引き渡された[70]。ドーセットシャー乗組員はビスマルク生存者を厚遇し、好意をもって接した[70]。本艦の水兵達は厚遇の理由について「今日はあんた方だが、明日は我が身だから」と語ったという[70]。ドーセットシャーの「明日」は、さほど間をおかずにやってきた[70]

1941年(昭和16年)8月、オーガスタス・エイガー大佐が新艦長となる。11月22日、英重巡洋艦デヴォンシャ― (HMS Devonshire, 39) が[71]U126英語版ドイツ語版に補給中だったドイツ仮装巡洋艦アトランティス (Atlantis) を撃沈する[72]。アトランティスの生存者はUボートの支援によりドイツ補給船パイソン (Python) に収容された[73]。12月1日、ドーセットシャーはセントヘレナ島南西720浬でドイツ潜水艦2隻(U68UA)に補給中のパイソンを発見[74]、同船を撃沈した[75][2]。Uボートの襲撃を警戒して、生存者の救助はおこなっていない[75][注釈 11]

沈没編集

 
攻撃を受けるドーセットシャー

東洋艦隊(司令長官ジェームズ・サマヴィル中将)に配備されたドーセットシャーは、1942年(昭和17年)4月1日の時点で、サマヴィル提督直率のA部隊 (Force A) としてインド洋を航行していた[注釈 12]。 東洋艦隊は日本軍機動部隊のインド洋襲撃に備えていたが、事前の情報に反して日本艦隊が出現しなかったので、燃料補給のために大部分はモルディブ諸島アッドゥ環礁に後退した[5]。重巡2隻(ドーセットシャー、コーンウォール)と軽空母ハーミーズ (HMS Hermes, 95) および護衛艦艇などが、修理や次任務のためセイロン島にむかった[注釈 13]

4月4日夕刻、PBYカタリナ飛行艇セイロン島に向けて進撃中の南雲機動部隊を発見し、各方面に通報した[77]。サマヴィル提督は重巡2隻(ドーセットシャー、コーンウォール)に、コロンボを出発して東洋艦隊(A部隊)に合流するよう命じる[5]。 4月5日、日本海軍の南雲機動部隊がコロンボを空襲した[5]コロンボ空襲)。その時、本艦は重巡コーンウォール (HMS Cornwall, 56) と共にセイロン島の南西320kmを航行中だった[注釈 14]。 そこに、南雲機動部隊から江草隆繁少佐蒼龍飛行隊長[79]海兵58期[6]率いる九九式艦爆計53機(蒼龍18機[79]、飛龍18機[80]、赤城17機[81])が飛来し、英重巡2隻に対し急降下爆撃を開始した[82][注釈 15]

当初、南雲機動部隊の重巡利根[注釈 16]偵察機(九四式水上偵察機)は「敵巡洋艦らしきもの2隻見ゆ」と報告し[86][注釈 17]、確認にむかった軽巡阿武隈偵察機は「敵駆逐艦2隻見ゆ」と報告した[88][89]草鹿龍之介機動部隊参謀長は「駆逐艦2隻なら見逃してコロンボ港の商船撃滅を優先しよう」と考えていた[注釈 18][注釈 19]。 ところが源田実航空参謀が「商船は丸腰だから町人で、駆逐艦両刀を帯びた武士です。無辜の町人を目標として、武士を見逃すのは、ふだん武士道精神をやかましくいわれる参謀長らしくない」と進言し、第二波攻撃隊は敵駆逐艦2隻にむかうことになったという[92][注釈 20]。結局、阿武隈機が報告した「駆逐艦2隻」は重巡2隻(ドーセットシャー、コーンウォール)の誤認であり[93]、利根の零式水上偵察機が「敵巡洋艦はケント型なり、付近に敵を認めず」と報告して決着がついた[94]。 なお第五航空戦隊九七式艦上攻撃機は当初魚雷を装備していたが、コロンボ港第二次攻撃のため南雲司令部の命令により爆弾に兵装転換したところ、利根水偵より「敵艦2隻発見」報告があって魚雷に再兵装転換を実施している[95]。兵装転換に時間がかかったため、南雲機動部隊各艦(赤城、蒼龍、飛龍)から艦爆隊のみ先行して発進した[注釈 21]

日本時間午後4時30分前後から、日本空母3隻の各艦爆隊は急降下爆撃を敢行した[79][80][81]。ドーセットシャーに250kg爆弾多数が命中し、連合軍記録13時50分ごろ沈没する[注釈 22]。 コーンウォールも急降下爆撃により撃沈された[注釈 23][注釈 24]。 日本側の記録では、九九艦爆53機が急降下爆撃を敢行して、2隻に対し命中率80以上パーセントを記録している[82]

2隻の生存者はサメのいる海を漂流することになった[98]。サメは多数いたが、生きている者には襲い掛からなかった[98]。4月6日の午後遅くに軽巡洋艦「エンタープライズ」と駆逐艦「パラディン」、「パンサー」が現れ、1122名を救助した[98]。ドーセットシャーでは234名が死亡した[98]

ドーセットシャーのプラスチックモデルキット編集

プラスチックモデル組み立てキット。ウォーターラインシリーズ[99]
プラスチックモデル組み立てキット。ウォーターラインシリーズ[100]
  • 1/700 ウォーターライン限定 英国海軍 重巡洋艦 ドーセットシャー インド洋セイロン沖海戦
プラスチックモデル組み立てキット。ウォーターラインシリーズ[101]

出典編集

注釈編集

  1. ^ 一等巡洋艦 “ノーフオルク Norfolk[1] 全要目{排水量9,850噸 速力32.25節 備砲20糎砲8門 10糎高角砲4門 魚雷發射管8門(53糎水上4聯装) 起工1926年2月 竣工1930年4月 建造所ポーツマス海軍工廠} 同型艦“デボンシヤイアー Devonshire” “シュロツプシヤイアー Shropshire” “サセックス Sussex” “ロンドン London“ドーセツトシヤイア Dorsetshire
    この型は概ね1929年乃至30年竣工のもので現在英國海軍の第一線巡洋艦として重きをなしてゐる。特に英國海軍の一等巡洋艦は艦内の居住設備と航續距離に於ては列強巡洋艦中最も考慮されてゐる。兵装としては上記の外に3ポンド砲4門と小砲16門を有す。尚英國海軍には一等巡洋艦は以上記述した外に“ヨーク York”及び“エキセター Exeter”の2隻があり、現有量合計は19隻、その排水量合計183,396噸。而してロンドン條約に得たる保有量は15隻146,800噸である。
  2. ^ 〔 イギリス海軍の巡洋艦 〕ロンドン級/ドーセットシャー級重巡洋艦 カウンティ級第2群/第3群“多くの戦功を挙げたケント級の小改正型”[2]
  3. ^ 宮島厳島神社参拝、江田島海軍兵学校見学など[11]
  4. ^ (発、宛略)英國軍艦入出港ニ關スル件 英國東洋艦隊所属巡洋艦 ドウセツトシヤー號 総屯数九千九百噸(乗組員 艦長 A.J.L.大佐 見習士官 五名 下士官 二一五名 水兵 三八五名 支那人コック・ボーイ 九三名)[12] 右ニ関シテハ九月四日警保局外発甲第一二一號ヲ以テ警保局長ヨリノ指示ノ次第モアリ注意中ノ処本月十日午前九時ニ十分 大分(貴)縣別府港ヲ出発、同日午后四時三十分管下嚴島港ニ入港制限外ノ位置ニ碇泊シ艦長ハ嚴島町長訪問ノ答禮ノ爲メ翌十一日午前十時三十分嚴島町役場ヲ訪問町長ヨリ今后訪問スル参考ニ資シ度シトテ嚴島神社ノ大祭日等ヲ聴取約廿分ニシテ退去各 乗組員ハ十日及十一日ノ両日ニ渉リ午后四時ヨリ同九時迄交代ニ上陸シ神社参拝見學散策等ヲ爲シ翌十二日午前十時三十分管下江田島所在海軍兵學校見學ノ爲メ江田島ニ向ケ出港同日午前十一時三十分江田島湾着碇泊シ十二、十三日、両日ニ渉リ海軍兵學校ヲ見學シ翌十四日午后零時三十分神奈川(貴)縣横浜港ニ向ケ出発セリ 管下ニ於テハ事故無之爲念(以下略)
  5. ^ G部隊のエクセターはラプラタ沖海戦で大破、フォークランドに退避した[24]
  6. ^ しつこく追尾する英重巡ノーフォークサフォークをかわすため、独重巡プリンツ・オイゲンは離脱して独自行動をとり[33]、6月1日ブレストに帰投した[34]
  7. ^ 巡洋戦艦レナウン(旗艦)、空母アーク・ロイヤル、軽巡シェフィールド[47]。前日、アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) のソードフィッシュ艦攻がビスマルクを雷撃し、事実上の致命打を与えた[48]
  8. ^ 軽巡カイロと駆逐艦5隻(コサック、シーク、ズールー、マオリ、ピオルン)で輸送船団WS8Bを護衛していたが、ビスマルク追撃の命令によりフィリップ・ヴァイアン大佐が指揮する駆逐艦5隻はキング・ジョージ5世との合流を目指した[61]。各艦はビスマルクに夜間雷撃を敢行したとき、魚雷を使い果たした[50]
  9. ^ 駆逐艦コサック (HMS Cossack, F03) はビスマルクの船乗り猫を救助してオスカーと命名したという(後日、サムと改名)。
  10. ^ ビスマルク沈没現場にはU-74英語版ドイツ語版がいて、午前中に巡洋艦1隻と駆逐艦2隻を目撃した[64]。午後7時、ビスマルク生存者3名を救助した[65]。5月28日夜、ドイツ気象観測艦ザクセンヴァルト英語版ドイツ語版が2名を救助した[66]。他に生存者はいなかった[67]
  11. ^ パイソンとアトランティスの生存者414名が乗った救命艇18隻は、複数のUボートの助けを借りて曳航され、陸地に辿り着いた[76]
  12. ^ 旗艦ウォースパイト (HMS Warspite) 、空母インドミタブル (HMS Indomitable, 92) 、空母フォーミダブル (HMS Formidable, R67) 、重巡2隻(ドーセットシャー、コーンウォール)、軽巡2隻(エメラルドエンタープライズ)、駆逐艦部隊。このほかにリヴェンジ級戦艦で編成されたウィリス提督のB部隊 (Force B)があった。
  13. ^ 重巡2隻はコロンボに、ハーミーズは同島トリンコマリーに向かった。
  14. ^ 逃げ惑ふ敵艦の末路[78] 帝國海軍の荒鷲は五月五日セイロン島を大擧爆撃したがコロンボ―の西南三百五十海里の印度洋上にて敵艦に遭遇、一時間半に亘り戰闘の結果直撃彈を以て英國重巡洋艦ドルセツトシヤイヤー(九千九百七十五トン)とコーンウオル(一萬トン)を撃沈した。/右ページは我が攻撃にたえかねて逃げ廻はる英の兩巡洋艦、海上の白線は兩艦が狼狽して逃げ廻つた航路の跡。この頁の上圖が沈没直前著しく左傾してゐたところ。下圖はドルセツトシヤイヤーが左舷を下に沈み行くところである。(帝國海軍航空部隊撮影、海軍省許可濟第五六五號)〔 実際は4月5日だが、5月5日と誤記している 〕
  15. ^ 南雲機動部隊とは、第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将を指揮官とする空母機動部隊で、セイロン冲海戦時は正規空母5隻(赤城蒼龍飛龍瑞鶴翔鶴)と金剛型戦艦4隻を基幹戦力としていた[83]。空母加賀は座礁箇所修理のため内地に帰投しており[84]、不在である。
  16. ^ 第八戦隊(司令官阿部弘毅少将)旗艦[85]
  17. ^ (二)作戰指導 機動部隊支援部隊ニ属シ第八戰隊ヲ指揮シ機動作戰ニ從事ス 當隊司令官ノ實施セル主ナル作戰行動左ノ通[87] (一)五日「コロンボ」空襲當日機動部隊信令第七三號ニ依リ利根、筑摩九四式水偵ヲ以テ擔任區域ヲ索敵ス 利根水偵ハ一三〇〇敵巡洋艦ラシキモノ二隻ヲ發見報告セルヲ以テ觸接ヲ確保セシムルト共ニ赤城タナ一四ニ依リ利根、筑摩零式水偵ヲ發進之ニ觸接セシム 利根九四式水偵ハ燃料不足ノ爲觸接ヲ継續セルヲ得ザリシモ利根零式水偵ハ一四四五敵ヲ發見之ニ觸接ヲ確保シ敵艦種確認、攻撃隊ノ誘導ニ任ジタリ/ 一六五五攻撃隊ノ攻撃ニ依リ敵「ケント」型大巡二隻ヲ撃沈スルニ及ビ更ニ其ノ南方五〇浬迄捜索ヲ行ヒ皈投セリ(以下略)
  18. ^ 4月5日朝、南雲機動部隊から発進した第一攻撃隊(指揮官淵田美津雄中佐)はセイロン島コロンボ所在の商船を攻撃したが[90]、満足できる戦果ではなかった(コロンボ空襲[77]
  19. ^ セイロン島その他を猛攻撃[91](大本営発表抜粋)本作戰においてをさめたわが戰果は、英甲巡ロンドン型一隻(九,八五〇トン、主砲八吋砲八門)同コンウオール型一隻(一萬トン、主砲八吋砲八門)計二隻撃沈、船舶撃沈役二十一隻、約十四萬トン、同大破二十三隻、約十二萬トン、飛行機六十機撃墜、飛行機格納庫三棟、修理工場一棟、その他重要施設數ヶ所を破壊した。わが損害は飛行機五機(戰闘機一、爆撃機四)を失つたほか艦艇に損傷はなかつた。
  20. ^ 源田参謀の回想によれば、先任参謀などがコロンボ再攻撃を主張し、源田が「いやしくも敵の海上武力を発見した以上、それが駆逐艦であろうと見逃せない」と主張し、最終的に南雲長官が決定したという[93]
  21. ^ 五航戦(瑞鶴、翔鶴)は日本時間11時52分に南雲司令部より雷装から爆装に換装を命じられ、つづいて日本時間13時23分に爆装から雷装への転換を命じられ、雷装完了16時、雷撃隊発進は17時予定、英重巡2隻沈没は日本時間16時56分であった[95]。結局、五航戦の兵装転換は間に合わなかった[96]
  22. ^ 小林道雄大尉が率いる飛龍攻撃隊は、日本時間16時38分から16時43分にかけてドーセットシャー型重巡に爆弾18発を投下、17発命中、攻撃開始より10分で沈没と記録した[80]阿部善次大尉が率いる赤城攻撃隊は、第2中隊8機が「敵1番艦」を攻撃して7発命中し午後4時48分沈没、第1中隊9機が「敵2番艦」を攻撃して8発命中し午後4時54分と記録した[81]
  23. ^ 日本時間午後5時までに[79]、2隻とも沈没した[81]
  24. ^ 印度洋上の大海戰[97](中略)四月五日から九日まで五日間にわが海軍機動部隊のあげた綜合戰果は目覺しく、海の英空母ハーミスをふくむ英艦五隻、武装商船五十九隻を撃沈、早くも英印間の海上輸送動脈を斷てば、空に英空軍が誇る虎の子の雷撃機フオードフツシユスピツトフアイヤはじめ新鋭百數十機を撃墜破。地上に印度防衛の最大據点たるセイロン島のコロンボ、ツリンコマリ―、ベンガル灣岸の要衝ビザガバタム、コカナダ、マドラス等の軍事施設をことごとく爆碎して、インド東岸の防備基地は殆ど無力化するに至つた。/ この作戰の初頭、コロンボ方面に出動したわが海鷲は、セイロン島南方洋上で英甲巡ドーゼツトシヤ、コンウオールの兩艦がその高速度を利用して遁走中を發見、機を失せずこれに必中の巨彈を浴せ、忽ちに兩艦を印度洋深く葬り去つた。/ わが海鷲必中の爆撃下に斷末魔のあがきを見せてのたうつ二艦、コンウオール(右)の横腹、マストはるかに噴き上つた水柱の凄しさ…。

脚注編集

  1. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 86(原本154-155頁)一等巡洋艦ノーフオルク
  2. ^ a b c d e イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 36–37.
  3. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 78イギリス/重巡洋艦「ノーフォーク」級 NORFOLK CLASS
  4. ^ 「Engineers of Victory」Paul Kennedy p80
  5. ^ a b c d ニミッツ 1962, p. 45.
  6. ^ a b 海軍航空隊始末記 1996, pp. 97–101江草少佐、未曽有の戦果
  7. ^ a b 戦士の肖像 2004, p. 28昨日の友は……
  8. ^ 海軍公報 第2556号 昭和10年9月3日(火) pp.7-8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070351700 〔 ○英國東洋艦隊來航豫定 〕
  9. ^ #S10.09.02、英国東洋艦隊来訪 p.3(英国東洋艦隊来航豫定、ドーセットシヤー)
  10. ^ #ファルマス大連寄港 p.6(入港)、同資料p.9(出港)
  11. ^ #ファルマス大連寄港 p.14(厳島入港)、同資料p.15(江田島入港)、同資料pp.17-18(江田島、厳島発)
  12. ^ #S10.10.25、英国東洋艦隊来訪 pp.5-7(ドウセツトシャー行動)
  13. ^ #ファルマス大連寄港 p.19(横浜入港)、同資料p.15(江田島入港)、同資料p.22(横浜発)
  14. ^ #S10.10.25、英国東洋艦隊来訪 p.8(10.11.03、鹿児島発)
  15. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 130ドイツ/重巡洋艦(装甲艦)「ドイッチュラント」級 DEUTSCHLAND CLASS
  16. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, pp. 31–32.
  17. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 169グラフ・シュペー航跡図
  18. ^ a b ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, pp. 102–103.
  19. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, pp. 162–163.
  20. ^ a b ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, pp. 180–181.
  21. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 188.
  22. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 298.
  23. ^ ポープ、ラプラタ沖海戦 1978, p. 300.
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参考図書編集

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  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『第3656号 10.9.2 英国東洋艦隊本邦来訪に関する件』。Ref.C05034178700。 
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関連項目編集

外部リンク編集