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厳島(いつくしま)は、日本の広島県廿日市市宮島町にある島。瀬戸内海西部、広島湾の北西部に位置する。通称は宮島(みやじま)。また安芸の宮島ともいう。

厳島
Miyajima From The Ferry (30093845).jpeg
奥は弥山の北麓。手前に見えるのは大野瀬戸に面して鎮座する厳島神社
所在地 日本の旗 日本広島県廿日市市[1][2]
所在海域 瀬戸内海 安芸灘
厳島と周辺の島々
座標 北緯34度16分0秒 東経132度18分0秒 / 北緯34.26667度 東経132.30000度 / 34.26667; 132.30000座標: 北緯34度16分0秒 東経132度18分0秒 / 北緯34.26667度 東経132.30000度 / 34.26667; 132.30000
面積 30.39 km²
海岸線長 28.9 km
最高標高 535.0 m
最高峰 弥山
厳島の位置(広島県内)
厳島
     
Project.svgプロジェクト 地形
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厳島神社大鳥居(満潮時)
(干潮時)
三鬼権現堂
弥山山頂付近に所在)

目次

概要編集

古代より、島そのものが自然崇拝の対象であったと考えられる。平安時代末期以降は、厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点としての重要性から、たびたび歴史の表舞台に登場するようになった。江戸時代中期には、丹後国(現・京都府北部)の天橋立陸奥国(現・東北地方東部)の松島と並ぶ、日本三景の一つに挙げられる景勝地として広く知られることにもなり、日本屈指の参詣地・観光地として栄えるようになった。現在では人口1800人余りの島に国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れており[* 1]2011年には、トリップアドバイザーが「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20の第1位と発表した[3]原爆ドームとならんで広島県の代名詞的存在の一つとなっている。

景勝地としての厳島の中心は、厳島神社である。海上に浮かぶ朱塗の大鳥居と社殿で知られる厳島神社は、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展した。現在、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、廻廊(いずれも国宝)などのほか、主要な建造物はすべて国宝または国の重要文化財に指定されている。皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した「平家納経」は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。厳島神社および弥山原始林は、1996年(平成8年)にユネスコ世界遺産に登録されている。海岸の一部が2012年(平成24年)7月3日ラムサール条約に登録された[4]

島の最高峰弥山標高535メートル)山頂から望む瀬戸内海の多島美も人気があり、毎年元旦未明には初日の出を目指す人で混み合う。この地を愛した伊藤博文は「日本三景の一の真価は弥山頂上からの眺望に有り」と絶賛し、それがきっかけで明治時代後期に弥山への一般登山路が整備された。1900年(明治33年)に定期航路が開設されると、それまで渡し船に頼っていた交通が改善し、島への参拝客・観光客が急増した。

島の全域(周辺海域を含む)が1934年昭和9年)に瀬戸内海国立公園に編入され、自然公園法が定める特別保護区域となっている。 1952年(昭和27年)には国の特別史跡及び特別名勝に指定され、弥山の原始林は国の天然記念物に指定されている。

かつて島全体が佐伯郡宮島町と一致していたが、2005年(平成17年)に廿日市市と合併した。

名称編集

厳島編集

いつくしま厳島異表記嚴島嚴嶋、ほか)」という地名は、「イツク(斎く。意:心身のけがれ[* 2]を除き、身を清めてに仕える)+ シマ(島)」から来ていると考えられており、厳島神社祭神の筆頭に挙げられる女神イチキシマヒメ(市杵島姫)[* 3]の名に由来するか、少なくとも同根語である。厳島神社縁起の伝えるところでは、スサノオ(素戔男)の娘とされる宗像三女神、すなわち、イチキシマヒメ(市杵島姫)、タゴリヒメ(田心姫。タキリビメの別名)、タギツヒメ(湍津姫)の3柱は、2羽の神鴉(しんあ神使カラス〉)に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座した。

島の名として「嚴嶋大明神」のように平安時代からの用例がある。江戸時代前期の寛永20年(1643年)に儒学者・林春斎(林鵞峰)が著した『日本国事跡考』のうちの陸奥国のくだりにある、いわゆる「三処奇観(さんじょきかん)」の一文にもその名が見える。この景観評価は「日本三景」の由来となった。

《 原 文 》 半角スペースは本項での添付。
松島 此島之外有小島若干 殆如盆池月波之景 境致之佳 與 丹後天橋立 陸奧松島 安藝嚴島 此三處為奇觀   ── 林春斎『日本国事跡考』
書き下し文》 ※読みは文語体。確証を持てない部分は記していない。
松島まつしましまほか小島をじま若干じやくかんあり、ほとんど盆池月波のけいごとし、境致きやうちなる、丹後たんご天橋立あまのはしだて陸奥むつ松島まつしま安芸あき厳島いつくしま三処さんじよ奇観きかんす。
口語解釈例》 
松島、この島のほかに小さな島がいくつかある。その景色はあたかも池の水面に浮かぶ月の光の波のよう。景観の美しさ素晴らしさにより、丹後の天橋立、陸奥の松島、安芸の厳島、この3箇所は絶景となっている。
 
歌川国貞『紅毛油絵風 安芸の宮島』
 
歌川広重六十余州名所図会 安芸 巌島 祭礼之図』
 
歌川広重『日本三景 安芸 厳島』
 
2代目歌川広重『諸国名所百景 安芸宮島汐干』

宮島編集

みやじま宮島異表記宮嶋、ほか)」という地名は、江戸時代以降のもので、文字どおり「ミヤ〈ここでの意は神社〉+ シマ(島)」を意味する。「宮島」は同名他所の地名でもあるので、安芸国(芸州)の宮島に特定する意をもって「安芸宮島/安芸の宮島(あきのみやじま)」などと呼ばれることも多い。江戸時代中期にあたる寛保2年(1742年)の伊予松山藩の座頭記録[5]には「芸州宮嶋江参詣……」とある。

「厳島」「宮島」の使い分け編集

この島の名称について、現在管轄する国土地理院は「厳島(いつくしま)」を正式名称としている。「宮島(みやじま)」という名称も広く使われている。

現在、この島の名称として「厳島」と「宮島」が使い分けられているが、明確は基準あってのことではない。読みやすさと漢字の平易さから観光PR等においては「宮島」が選ばれやすい傾向にあるといった程度の違いである。地方自治体としても、1889年(明治22年)に町制が施行された時には「厳島町」であったが、戦後第二次世界大戦後)の1950年(昭和25年)には「宮島町」へ変更されるなど、行政地名にも揺れがあった。学術書や公文書の多くで「厳島」が用いられる一方、観光事業などでは「宮島」が多く用いられる傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が「宮島」を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出する意図を持って「厳島」を用いたりする例外もある。そもそも、係る2つの地名の併存は江戸時代中期には既に始まっていた。以下に挙げる実例を見れば、それは明らかである。

ここからは、地名(藩政村名・行政村名など)や作品(絵図、浮世絵新版画など)の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている旧字体)は全て新字体に変換する。異字・俗字はそのまま表記する。[6]

添えられている狂歌師・司馬の屋嘉門(※芝の屋山陽の別号)の漢詩には「夕日輝厳島山」とある一方で、図中の説明には「安芸州宮島」とある。
広重の場合、神社には「厳島」、島には「宮島」「宮嶋」の字を用いている。その後、2代目広重(歌川重宣)や3代目広重(後藤寅吉)もこの地を描いているが、いずれも神社をも画題に入れながら「宮島」「宮しま」としており、明治維新以後急速に「宮島」の名称が広まっていったことを伺わせる。その傾向が、対岸にある鉄道駅および地区名としての「宮島口」(厳島口ではない)に現れている[7]

地理編集

広島湾の西の端、広島市街の南西約20kmに位置する。島は周囲約30km、面積30.2km2[9]で楕円形の形状をなしている。対岸の本州廿日市市阿品~同市大野)に寄り添うように北東から南西に伸びる(島の北東径約9km、南西径約4km)。対岸(本州本島)と島を隔てる瀬戸(※相対する陸地との間の、特に幅の狭い海峡)は「大野瀬戸(おおのせと)」と呼ばれ、最も狭い所で300mしか離れていない(宮島口港~宮島港間のフェリー航路は1.8km)。大野瀬戸の反対側(島から南東方向)には、絵の島大奈佐美島能美島江田島等と一体)など多くの島が点在する。島の北端・聖崎の先端は風化によってやや崩落しており、満潮時には「蓬莱島(ほうらいじま)」と呼ばれる島になる。その沖合に暗礁があり、上には石灯篭が置かれている。

地質編集

島は主に花崗岩で構成されている。中国山地断層運動によって隆起し、最終氷期終焉期の海水面上昇(c. 海水準変動)によって本州本島と水域で隔てられた島に変わったと考えられている。平地は少なく弥山や駒ヶ林など500m級の急峻な山が連なっていることから、深い谷や滝が多くある。島の東西方向と南北方向に断層が見られる。

弥山の標高編集

島の最高峰である弥山(みせん)の標高値は、国土地理院発行の2万5千分1地形図上では529.8メートルと表記されてきた。これは1892年設置の二等三角点の計測値であるが、現在では三角点より南南西方向約16.8メートルの地点の標高がそれよりも高い535メートルであることが確認されている[2]

気候編集

瀬戸内海気候に分類され、気候は温暖。夏は30°Cを超す日も多くある一方、冬は気温が氷点下となることも多い。積雪は島の山地ではほぼ毎年見られ、沿岸部の厳島神社周辺でもしばしば雪景色となる。厳島特有の事象として冬季の「弥山おろし」が知られる。これは太田川の谷から吹き降ろす風が広島湾を通って弥山に昇り、北西にある市街地に吹き降ろすもので、冬の寒さを引き起こしている[9]

生物相編集

植物相編集

植生は典型的な暖地温帯常緑広葉樹林である。ただし、一般的な照葉樹林とは趣が異なり、例えば南方系のミミズバイハイノキの一種。高地性である)と針葉樹のモミ(西日本の低海抜地域には通常見られない)が海岸の同一地点で見られるなど、厳島にしかない特徴がある。

固有種として、ミヤジマカエデミヤジマシモツケがある。ただし、ミヤジマカエデは島に定着自生しているかどうか議論がある。ミヤジマシモツケは対岸にも分布している。

信仰上の理由から人間活動がほとんど加えられてこなかったこともあって、日本古来の自然の姿が良く残されている。特に弥山山頂付近の原始林は状態が良いため、国の特別天然記念物の指定および世界遺産の登録を受けている。

近年[いつ?]、厳島神社の社殿・大鳥居のある御笠浜に、海藻の一種アオサが大量繁茂している。景観を損ない、また腐敗臭を放つので、宮島観光協会と廿日市市、地元自治会がボランティア活動を主催し、年に数回程度清掃活動を行っている。繁茂の原因は諸説あるが、明らかではない。

動物相編集

 
ニホンジカ弥山にて撮影。

中国地方に一般的に棲息する、タヌキニホンアナグマモグラ類のほか、100種を超す鳥類が確認されている。

厳島に棲息するシカサルは、フェリー桟橋付近にも現れたり、マスコットキャラクターとして図案化されたりして、「宮島のシンボル」ともいうべき知名度がある。

厳島のシカは神の使い「神鹿(しんろく)として神聖視されていたが、第二次世界大戦後(戦後)に厳島を接収したGHQの兵士がスポーツハンティングの対象として撃っていたために激減した[要出典]。現在島に棲息する鹿は21世紀初期の分子遺伝学による分析で、広島と山口と近い宮島固有の歴史を持つ鹿であることが[いつ?]証明されている。また、一部で奈良春日大社から譲り受けたという噂があるが、春日大社の側には譲渡記録が残っている一方で、厳島神社の側には譲渡された記録が残っていない。

サルについては、江戸時代以前には記録がなく、古い絵巻物でも猿の絵は猿回しに現れる程度で非常に少ない。そのため、そうは古くない時期に外部から持ち込まれたものが野生化したとする説が一般的である。一例として、1962年(昭和37年)頃、観光振興・生態研究のために小豆島にある日本モンキーセンターからニホンザル45頭が移入されている[10]。これに関連して、2011年(平成23年)以降5年間の計画で、日本モンキーセンターの協力により愛知県犬山市へのニホンザルの移送が行われている。

シカの頭数管理問題について編集

シカの生息数増加に伴い、餌の不足から島内で様々な被害が報告されるようになった。早くも1998年には旧宮島町が「宮島町シカ対策協議会」を設立して、この時点でシカを野生復帰させる方針を決定している。2000年頃の被害としては「植物の樹皮や新芽がシカにかじられる」「雄のシカが樹齢の若い樹で角をとぐために枯死する」といったものが主であったが[11]、やがてシカが観光客の持っている飲食物を狙って観光客がケガをするなどの被害が報じられた[12]。被害の原因は議論があり確定的ではない。観光客や住民からの苦情をうけて、地元廿日市市は2008年9月に『宮島地域シカ保護管理ガイドライン』(PDF)を策定し、シカを野生状態に戻すために餌やりを禁止するとともに栄養状態の悪いシカを保護・手当てした後に山に帰すなどの管理を実施している。

この管理対策により2012年8月までに宮島島内の市街地沿岸でシカが半減したという[13]。市側は餌やり禁止により生息地を分散させる取り組みに一定の成果が出ているとしている。

この対策はマスコミで取り上げられたこともあって、全国から意見が寄せられた。

そもそも1日3キログラムの餌が必要な鹿には人の与える餌では足りない。 餌やり禁止以前は鹿煎餅販売店は一つしかなく、全体の餌量に影響していたとは考えにくい。 現在も市街地への依存が強い鹿も、夜は山に帰り、普段から自分で餌を採取している。 廿日市市は餌やり禁止当初に芝生を造成し、鹿が飢えないようにサポートしたが、逆に個体数増加が考えられるので、今は増やしていないなど、対応が必ずしも一貫していない。 また、市では餓死した個体は発見されていないとしているが、より学術的な検証は必要であろう。そもそも、純然たる野生状態においても春先には飢えによる衰弱死は確認されるのであり、仮に餓死した個体が発見されたとしても評価には議論が必要である。餌やり禁止以降も個体数、繁殖率共に高い数字を維持し、全国のニホンジカの平均寿命を上回る 9歳、10歳での出産が多く見られることが報告されている。

頭数管理の方法として避妊を求める声があるが、鹿自身への悪影響や避妊去勢により、分泌物が変化した場合の島の植物への悪影響が考えられ、専門家は否定的である。 また、もう一つの保護地域の奈良も、野生動物への避妊は効果が見込めないとしている。

現在も餌やりの即時全面中止の方針に反対するボランティアが入島して餌やりを続けている[* 4]など、問題は依然として継続しており、より学術的な調査と論点整理を踏まえた根本的解決を模索する動きが続けられている。

固有種編集

昆虫固有種として、ミヤジマトンボ Orthetrum poecilops miyajimaenisis (Yuki and Doi, 1938) があり、国の絶滅危惧種に指定されている(2007年版では「絶滅危惧I類(CR+EN)」。昆虫類レッドリスト (環境省)を参照)。これは中国大陸南部に分布するシオカラトンボ属の O. poecilops (Ris, 1916)を原種とし、遠く離れた日本の厳島にだけ分布している別亜種と考えられている。繁殖地となる湿地が観光開発や台風被害のために減少し、生息環境が脅かされている[14]。環境省や広島県職員、昆虫学・海洋環境学・植物学の研究者からなるミヤジマトンボの保護管理連絡協議会が、生息地の調査と環境保全・修復にあたっている[15]

歴史編集

厳島神社に関連する文献史料については豊富な研究・考察の実績がある一方、厳島という島そのものの歴史・民俗史については依然として未解明の部分も多い。

先史時代編集

本州に人が住み始めた旧石器時代には、厳島を含む瀬戸内海の島々にも人々が続々と渡った。厳島北岸の下室浜で後期旧石器時代のものとみられるナイフ形石器が採集されている[16]広島大学による考古学的調査(2004年〈平成16年〉)では島北西岸の大川浦をはじめ下室浜・御床浦・須屋浦などの大野瀬戸に面した海岸一帯から、縄文から弥生時代土器石器が数多く発見されている[17]ほか、多々良潟、大江浦、大元園地など島全域で縄文・弥生期の出土例がある。

厳島は縄文海進がピークに達した頃に独立した島になったとみられるが、その時期以前の遺物として赤石[17]や大川浦[18]において縄文草創期の有茎尖頭器や槍先型尖頭器が採集されているほか、上室浜[19]や大川浦、御床浦[17]において縄文早期の鍬形鏃や押型文土器が出土していることからも、陸続きだった頃から厳島地域で人々が生活していたものとみられる。

弥山山頂一帯に見られる巨石群は磐座とみられる。磐座を祭祀対象とする山岳信仰の開始は一般に古墳時代以降とされる[20]。上述の厳島沿岸部の縄文遺跡および同時期の遺跡である地御前南町遺跡[21]など対岸の縄文遺跡からも祭祀に関わる明瞭な遺物は確認されていない[* 5]。郷土史家の木本泉はこれを縄文時代の祭祀遺跡と主張するが資料的裏付けに欠ける。弥山中腹からは古墳時代末以降の祭祀遺跡が発見されており、弥山に対する山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。

古代・中古編集

上述の上室浜や下室浜などから古墳時代後期の製塩土器が見つかっている[22][17]ほか、大川浦や須屋浦からは奈良-平安時代の焼塩土器が数多く採集されており[17][18]、盛んに塩作りが行われていた事が伺える。大川浦からは10世紀から12世紀のものとみられる「瑞花双鳥八稜鏡」が採集され、古瀬清秀(広島大学大学院)らは古代祭祀の場である可能性を指摘している[18]。下室浜からも、古墳時代祭祀に用いられたとみられる滑石勾玉が採集されている[16][23]

弥山北側尾根上の標高270-280メートル地点にある岩塊群周辺の山中から、古墳時代末から奈良時代にかけての須恵器土師器瑪瑙勾玉鉄鏃などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろす祭祀が行なわれた磐座に比定する説がある[24]。弥山の本堂付近からは奈良~平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などが出土した。弥山水精寺(大聖院の前身)は従来鎌倉時代に対岸から移設したとされていたが、より古い時代に創建された可能性がある[25]

平安時代には「恩賀(おんが)の島」と呼ばれた歌枕の地でもあり、以下の和歌が伝わる。恩賀の名は「神の御香が深い」ことに由来する。

入り海いりうみの 二十浦はたうらかけて十島としまなる なかふかしま七浦ななうら  ── 小野篁
恩賀島たぐひなきしま姿すがたおのずから 蓬の山よもぎのやま此処ここにありけり  ── 在原業平

伝承では推古天皇元年(西暦換算〈以下同様〉593年)、豪族佐伯鞍職イチキシマヒメ神託によって厳島神社が創建されたと伝えられる。佐伯氏は佐伯直の出で伴造として安芸国佐伯郡を管掌しており、後に厳島神主家となった。文献上の初出は弘仁2年(811年)に名神に預かったという記事であり、『延喜式神名帳』(平安中期)において名神大社に列せられた。

厳島神社が現在の威容を構築したのは平氏一門の後ろ盾を得た平安時代末期である。 久安2年(1146年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山大塔の再建をすすめていたが、保元6年(1156年)の落慶法要に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受ける。平治の乱源頼朝が捕らえられ、清盛は正三位に列せられると、さっそく厳島神社を寝殿造の様式に造営した。海上に浮かぶ現在の壮麗な様式は、仁治2年(1241年)の造営による(現在の本社社殿は元亀2年〈1571年〉、毛利元就の再建によるもの)[26]。さらに四天王寺から舞楽を移し入れ、また多くの甲冑刀剣などの美術工芸品を奉納したが、中でも特筆されるのが絢爛豪華な装飾を施した平家納経(国宝)である。また社領も対岸の佐伯郡などに加増されていった。

清盛の大きな狙いは日宋貿易にあった。父・忠盛は舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ており、清盛は一層の貿易拡大を図っていた。博多の湊(日本最初の人工港)や大輪田泊(平氏政権の拠点・摂津国福原の外港。現在の神戸港の一部)を開いて自ら瀬戸内海航路を掌握し、「厳島大明神」は畿内へと通じる航路の守護神ともいえる重要性をもつようになった。呉市倉橋島と本州の間にある音戸の瀬戸は、清盛が「扇で夕日を招き返し」て、開削を1日で終わらせたという伝説が残されているが、このときの航路整備に関連するものである。

清盛の庇護によっての雅な文化が移入され、後白河上皇高倉上皇建春門院建礼門院ら皇族や貴族が多く社参する一方、上述した貿易航路開拓により、の文物ももたらされた。清盛は宋船による厳島参詣も行っている。

1990~1991年に発掘調査が行われた菩提院遺跡(宮島町中西町、現宮島歴史民俗資料館収蔵庫)は、12世紀後半の土層から屋敷跡とみられる遺構や土器片が出土したことから、神社維持管理の為に清盛の造営と同時期に建てられた施設跡と考えられている[27]この頃には島をご神体とする信仰が広がっており、祭祀のために滞在する神職や貴族がいた他は島に住む者はいなかった。[要出典]

厳島神社の北西約300メートルの地点にある経尾経塚(清盛塚)からは、1944年(昭和19年)に開墾された際に銅製経筒と陶製甕の外容器、経巻、青白磁合子、古鏡、刀片、青磁片などの遺物が出土したほか、研究者による踏査でも青白磁合子白磁小壺、中世須恵器甕などの破片が採集されており、12世紀前半以降に埋納された経塚とみられている[28][29]

中世編集

壇ノ浦の戦いをもって平氏が滅んだのち、鎌倉時代に入ると、厳島神社ははじめ源氏の崇敬を受けたが、政情が不安定になる中で徐々に衰退する。神主家を世襲していた佐伯氏は、承久3年(1221年)の承久の乱後鳥羽上皇側についていたために乱後に神主家の座を奪われ、代わって御家人藤原親実厳島神主家となった。厳島神社は承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災に遭っており、朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、戦国時代にかけて荒廃した時代であったと伝えられる。そうした中でも参詣する人は絶えず、例えば出家して旅路にあった後深草院二条乾元元年(1302年)に厳島を訪れ、秋の大法会がきらびやかであったことを「とはずがたり」に書き留めている。

正安2年(1300年)に水精寺の座主坊が対岸の地御前神社(厳島神社の境外摂社)から厳島島内に移されると、厳島神社の社人や供僧が島に定住するようになった。これによって町屋が形成され、厳島の発展がすすんだ。天文7年(1538年)には厳島大願寺の僧尊海が、一切経高麗八萬大蔵経)を求めて朝鮮半島に渡っている。尊海は大蔵経を持ち帰ることはできなかったが、持ち帰った八曲屏風「瀟湘八景図」の裏面に漢文による紀行文「尊海渡海日記」(大願寺所有、国の重要文化財[30])を遺しており、日本最古の朝鮮紀行記録として知られるとともに、仮名書きで記した朝鮮語の語彙は中期朝鮮語研究の貴重な史料となっている[31]

戦国時代に入ると、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつこそあったものの周防長門を領有していた大内氏が対立し、安芸・周防国境はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝とみなされ、弘治元年(1555年)、毛利元就は厳島を舞台に、大内氏の実権をにぎる陶晴賢を討ち、大内氏を滅亡に追い込む(厳島の戦いを参照)。これ以後毛利氏は中国地方10か国に加え豊前伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していくが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の厳島神社の基盤は、元就の社殿大修理(元亀2年〈1571年〉)によるところも大きい。

天正15年(1587年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じる。建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦を葺くなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物を企図していたことが伺えるが、秀吉の死により工事が中断されたため、御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成のままで今日に伝えられている。本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから「千畳閣」と通称され、明治初期の廃仏毀釈のときに厳島神社末社豊国神社本殿となって現在に至る。

西暦1595年(日本は文禄4年)に現ベルギーアントウェルペン(アントワープ。当時はスペイン南ネーデルラント)で刊行された、ヨーロッパ最初の日本地図とされる「テイセラの日本図」[32]には、厳島がItoqulchimaとして記されている。この地図には令制国名といくつかの港町・大きな島名程度しか書かれておらず、厳島が重要視されていたことがうかがえる。

考古学的には、町内での建設工事に伴う発掘調査により、前述の菩提院遺跡や、祝師(ものもうし)屋敷跡などから中世から近世にかけての遺物が数多く出土している[33]

近世編集

江戸時代、厳島は広島藩に4か所ある町制(広島城下三原城下尾道厳島)の一つとして直轄地とされ、宮島奉行のもと商業や廻船業が保護された。実質的に島を支配していたのは厳島神社大聖院大願寺の3寺社および宮島奉行で、厳島神社は島内および安芸国の寺社を統括する棚守に、大聖院は島内の供僧の統括に、大願寺は寺社の造営修理の統括に位置づけられた。宮島奉行とともに宮島元締役・宮島帳元がおかれ、厳島は神社を中心とした観光地として発展した。厳島を描いた当時の絵図でも参道に並ぶ店々が描かれており、そのにぎわいぶりが伺える。

厳島では平清盛以来舞楽の伝統があったところへ、毛利元就が永禄6年(1563年)にを奉納したのを皮切りに観世太夫が演じる(永禄11年〈1568年〉)など芸能が発展した。歌舞伎大相撲の興行も盛んで、井原西鶴の『浮世草子』には西国三大芝居どころとして金比羅備中宮内(吉備津神社)と並び称されている。富くじも盛んに催された。

参拝客や文化人相手の観光商売が水もので、島に産業がないことを町衆が嘆いているのを知った宮島光明院の僧誓真は、弁財天の琵琶に着想を得てしゃもじを名物として売り出すことを町衆に教えた。願掛けの文字を入れたしゃもじ(杓子)はたちまち土産品として人気が出た。現在でもしゃもじの別名を「みやじま」と呼んで、高校野球では広島県代表がしゃもじで応援するのが定番となるほど定着している。誓真は水不足に悩む町衆のために井戸を掘ったり(「誓真釣井」)、小舟を着けられるよう雁木を造ったりと厳島のために尽くし、「宮島の大恩人」として慕われた。光明院の近くには「誓真大徳碑」が今も残っている。

幕末編集

尊皇攘夷公武合体を掲げる長州藩徳川幕府の対立が頂点に達し、長州征討において厳島対岸も戦場となった。慶応2年8月1866年9月頃[34])、第二次長州征討の停戦会談が厳島・大願寺において行われた。幕府方代表は勝海舟、長州藩代表は広沢真臣井上馨。桂小五郎(木戸孝允)も加わっている。勝海舟の自著『氷川清話』に、厳島の旅館で勝が毎日髪を結い直させていたというくだりがある。勝が「おれの首はいつ切られるかしれないよって、死に恥をかかないためにこうするのだ。」と言うと、髪結いの老婆はすっかり怖がってしまったという。

近代編集

慶応4年3月13日から明治元年10月18日1868年4月5日から12月1日)にかけて神仏分離令が発布されると、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われるなどしている。

1876年明治8年)、老朽化していた海上の厳島神社の大鳥居が建て替えられた。現存しているのはこの時の大鳥居である。

初代内閣総理大臣伊藤博文は厳島の弥山三鬼大権現を厚く信奉しており、厳島をたびたび訪れている。三鬼堂や大願寺の掲額は、伊藤の直筆によるものである。また、大願寺境内には「伊藤博文お手植えの松」が9本残されている。なお、「宮島みやげ」としてのみならず、広島県を代表する土産菓子となったもみじ饅頭の起源について、「伊藤博文が厳島を訪れた際に島の茶屋の娘をからかった逸話を基に発案された」という説が広く流布している。詳しくは別項「もみじ饅頭」を参照のこと。

島の東沖合いにある江田島海軍兵学校が設けられたことから、神の島・厳島は兵学校生徒の尊崇も受けた。兵学校の訓練の一環として、弥山登山や遠泳も行われており、海軍の幹部にとっては思い入れのある島であるとともに、「神聖な島」というイメージが天皇への絶対的な忠誠という意識を喚起させていたことも、当時の日記などから読み取ることができる。

1889年(明治22年)、佐伯郡町村制が施行され、厳島では全島を区域とする厳島町(宮島町の前身)が発足する。

1897年(明治30年)8月、広島湾要塞の一翼を担う鷹ノ巣低砲台が島内に着工。翌1898年(明治31年)、鷹ノ巣高砲台を着工。砲台そのものは1926年大正15年)に廃止[35]されたが、砲座や観測所などの遺構群が現存する。

1923年(大正12年)、厳島は国の史跡名勝に指定され、以後、近代的な保護・整備体制が充実していく。

第二次世界大戦中には、厳島の南沖合いの柱島沖が聯合艦隊の泊地となり(柱島泊地)、海軍工廠を持つ呉市や、第2総軍・陸軍第5師団司令部が置かれた重要拠点・広島市の防衛上、周辺海域は重要さを増していた。

1945年昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下では、爆風によって島内の民家の窓ガラスが割れるなどの被害を受けた。

現代編集

日本の敗戦と共に、厳島は連合国軍・GHQに接収された。占領後の1954年(昭和29年)には、新婚旅行代わりの日本訪問中のマリリン・モンロージョー・ディマジオの夫妻が厳島を訪問している。

1950年(昭和25年)には、厳島が瀬戸内海国立公園の追加指定区域になった。また、同年、厳島町が「宮島町」に改称した。1952年(昭和27年)には、厳島神社社殿の「昭和大修理」が竣工する。1959年(昭和34年)には宮島水族館がグランドオープンした。この施設は現在では広島県唯一の水族館となっている。

1991年平成3年)9月27日に襲来した台風19号では、厳島神社左楽房(国宝の附指定)や能舞台(重要文化財)が倒壊するなど甚大な被害が出た。1996年(平成8年)には、厳島神社がユネスコ世界遺産文化遺産)に登録された。日本の世界遺産としても日本の世界文化遺産しても6件目の物件であった。同年に原爆ドームも(5件目として)登録されている。

 
2016年G7広島外務大臣会合の際の厳島神社訪問

台風による被害は2004年(平成16年)の台風18号も大きなもので、厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水した。この頃には、厳島周辺で海水面の上昇が著しく、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出るようになってきたことが指摘され始めており、大潮のたびに激しく洗われて地盤から危うくなり始めたヴェネツィアイタリア)などと同じく地球温暖化による悪影響の分かりやすい実例と捉えられ、その意味でも注目を集めるようになった。2005年(平成17年)11月3日宮島町大野町とともに廿日市市編入される。これに伴い、厳島神社の住所(社務所所在地住所)は「佐伯郡宮島町1-1」から「廿日市市宮島町1-1」に変わった。2016年(平成28年)のG7伊勢志摩サミット(第42回先進国首脳会議)に伴う広島外務大臣会合の際は、初日(4月10日)にG7の外務大臣が揃って厳島神社を訪問した(■右列に画像あり)。

風習編集

厳島は信仰上の理由から、独特の風習を多くもっている。時代とともに薄れたものや行われなくなったものも多いが、今も受け継がれているものもある。中央政権から離れた島の習俗であるために文献として記録されることは少なかったが、戦国時代に陶氏毛利氏の御師として精神面を支え、大内氏から「社奉行」に任じられた厳島神主家棚守房顕天正8年(1580年)に記した『棚守房顕覚書』には、膨大な業務文書を司る立場ならではの生々しい記録が残っていて価値が高い[* 6]

穢れの忌避編集

島全体が神域(神体)とされたため、といった穢れの忌避は顕著であった。

『棚守房顕覚書』によれば、島に死人が出ると即座に対岸の赤崎の地に渡して葬っている。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族はが明けるまで島に戻ることができなかった。「~の向こう」と言うと「あの世」を連想するため、「~の前」と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続いていた。また、島には墓地も墓も築いてはならず、現在でも1箇所も1基も存在しない。島の妊婦については、『棚守房顕覚書』に「婦人、児を産まば、即時に子母とも舟に乗せて地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり」とあるように、出産が近づくと対岸に渡り、そこで出産を終えたのち、100日を過ごすことで血の穢れが払われれば、ようやく島へ戻れるという仕来りがあった。 厳島神社の境外摂社を「地御前神社」(所在地:廿日市市地御前、江戸時代における安芸国佐伯郡地御前村)というように、ここでいう「地の方」とは対岸の本州を指す。また、生理中の女性も、やはり血の穢れを忌避されて、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。この様子を『棚守房顕覚書』は「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。『あせ山』は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」と記している。

耕作・機織の禁止編集

農具を土に立てることを忌み耕作は禁じられた。また、この島は「女神の御神体内」であることから、古より女性の仕事の象徴とされた機織や布ぬのさらし)も禁忌とされていた(※『山の神』を参照のこと)。『棚守房顕覚書』は「絶えて五穀を作らず、布織り布さらす事を禁ず」と記している。特に耕作が禁じられていることはよく知られ、島に生活する人のために対岸(※本州本島のこと)から行商人が船を出す光景は第二次世界大戦後(戦後)まで続いた。廿日市(二十日の市)は、鎌倉時代、厳島のために立った市場から発展した町である。

鹿・猿との共生編集

厳島に棲息する鹿(しか)は、分類学上のニホンジカ(日本鹿)である。太古から棲息していたと見られるが、歴史時代に入ると奈良春日大社にある神鹿(しんろく)思想の影響も受けつつ、神使として大切に扱われるようになった。それ以来、厳島では、鹿が家に入らないように「鹿戸」を立て、家々で出た残飯は「鹿桶」に入れて与えるようになった。『棚守房顕覚書』によると、鹿を害するのを避けるため、島内では犬を飼わず、外から犬が入り込むと島民が捕まえて対岸(※本州本土のこと)に放したという。

厳島に棲息する猿(さる)は、分類学上のニホンザル(日本猿)である。古くから、彼らが家に入り込んで食べ物を盗っていっても捕まえて罰することはなかったという。

潮汲み編集

町の商家や民家では、鳥居のある浜で海水を汲み、門前を清める「潮汲み」という習慣がある。元旦に行うものを「新潮迎(わかしおむかえ)」という。第二次世界大戦後(戦後)は数人が行うのみにまで減っていたが、21世紀初期には見直されるようになり、行う家や店が増えつつある。

文化・施設・観光編集

[いつ?]以来、毎年8月11日には宮島水中花火大会が行われ、県内外から多くの見物客が訪れる。

島内には厳島神社以外にも大聖院をはじめ多くの仏閣がある。また、厳島神社宝物館、宮島水族館宮島歴史民俗資料館広島大学大学院理学研究科附属自然植物実験所、宮島町伝統産業会館などの文化施設がある。

国内外から観光客が多く訪れ、その数は年間300万人台(2009年〈平成21年〉の船舶運輸実績〈片道〉は約346万人[36])。宮島桟橋から厳島神社へと続く道沿いには多くの旅館が点在している。

弥山などへの登山者も多いが、島には信仰上の理由や文化財・自然保護のために開発されなかった原生林が広がっており、登山道から迷い込むなどする遭難がたびたび発生する[37]。そのため、島を所管する広島県警察廿日市警察署と宮島消防署が十分な装備での入山など注意喚起をしている[37]

2007年(平成19年)から、毎年1回、廿日市商工会議所主催のご当地検定である「宮島検定」が行われており、宮島の歴史や文化・自然に関する知識を問われる出題がなされ、合格者には認定カードが発行される[38]。同商工会議所は、宮島に関する多くの情報を網羅した『宮島本』(※宮島検定試験の公式参考書も兼ねる)を発行している。

交通アクセス編集

 
島内の家並

鉄道編集

最寄り駅はJR山陽本線宮島口駅広島電鉄宮島線広電宮島口駅。駅前にある桟橋からフェリーが運行している。

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一部の宿が宿泊者専用の駐車場を備えているのを除き、島内に観光客用の駐車場は存在せず、町内の道幅も極めて狭い。また市街地は20km/h、少し内陸にあるうぐいす歩道と杉の浦、包ヶ浦は30km/hの速度制限がかかっている。さらに商店街は毎日10時30分から17時まで車両の通行が禁止される[39]。そのため広島市街地からは西広島バイパス山陽自動車道からは廿日市ICをそれぞれ経由して国道2号に入り、宮島口駅周辺の有料駐車場で下車、宮島連絡船または宮島松大汽船を利用するのが一般的である。

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JR西日本宮島フェリー宮島連絡船)と宮島松大汽船フェリーが、宮島口桟橋(JR宮島口駅から徒歩3分、広電宮島口駅から徒歩1分)から厳島までを結んでいる。所要は約10分。JR宮島航路は宮島桟橋行きの昼間時間帯のみ、西に少し大回りして厳島神社に近いコースをとり、満潮時には大鳥居に接近する。

広島港からは瀬戸内シーライン高速船(所要約30分)があるほか、瀬戸内海汽船の客船「銀河」による厳島までのランチクルーズもある(詳細は各社サイト等を参照)。

アクアネット広島は、厳島神社と同様に世界遺産である原爆ドームと合わせて訪れる観光客も多いことから、広島市内の平和記念公園近くの元安桟橋と厳島を結ぶ「世界遺産航路」を就航している。また、大野桟橋[40]宮島港3号桟橋間の「宮島行大鳥居遊覧航路」を毎日運航している。またアクアネットサービスマリーナホップと宮島の間に高速船を就航させている。

島内交通編集

海岸地区

島内ではかつて広電バスが運行されていたが廃止されてからは、宮島交通が「メイプルライナー」をおおよそ1時間に1本運行している。半数以上の便は宮島桟橋 - 宮島水族館間を往復するのみだが、上杉之浦や包ヶ浦まで行くものもある[41]。2012年に宮島交通は「メイプルライナー」をカープタクシー傘下の宮島カープタクシーに譲渡した。

公共交通でないものでは、人力車がある[39]

島の内部

広島観光開発が紅葉谷駅から弥山山頂に近い獅子岩駅までロープウェイを運行している。また厳島神社裏手にある紅葉谷公園入口から無料の送迎バスも運行している[42]

関連作品編集

美術編集

厳島神社#描かれた厳島神社」は、厳島神社がどのように描かれてきたかを紐解く内容であって、安芸の宮島(厳島)を対象としていないが、そもそも画題としての厳島神社と安芸の宮島は多分に重複している。絵画作品において、厳島神社関連を外して安芸の宮島を描いたものも無いわけではないが、特筆性の高いものを見出すのは難しい。

音楽編集

鉄道唱歌』は日本の鉄道沿線の素晴らしさを七五調で詠い込んだ長大な唱歌で、大和田建樹作詞を手がけたものであるが、その「第2集 山陽九州編」は、山陽本線がまだ全通していない1900年(明治33年)9月3日に刊行された。歴史的意義の大きい場所には1節でなく幾つかの節を割り振る傾向のあった大和田のこと、厳島を詠うのには4節も使っている。

  • 山陽九州編19番 己斐の松原こいのまつばら 五日市いつかいち いつしか過ぎて厳島いつくしま 鳥居とりいを前にながめやる 宮島駅みやじまえきにつきにけり
  • 山陽九州編20番 汽笛きてきならして客を待つ 汽船きせんに乗れば十五分 早くもここぞ市杵島いちきしま ひめのましますみやどころ
  • 山陽九州編21番 海にいでたる廻廊かいろうの 板を浮かべてさすしおに うつる燈籠とうろの火の影は 星かほたる漁火いさりび
  • 山陽九州編22番 毛利元就もうり もとなりこの島に 城をかまえて君のあだ 陶晴賢すえ はるかたちゅうせしは のこす武臣ぶしんかがみなり

19番の「己斐の松原」は現在の広島市西区己斐町地区(当時の佐伯郡己斐村)の己斐橋東詰から別れの茶屋の街道沿いにかけての地域にあった松原で、しかしその松は1967年(昭和42年)頃に全て伐採されてしまった。「五日市」は現在の広島市佐伯区五日市町地区(当時の佐伯郡五日市村)。「宮島駅」は山陽本線の駅で、当時の山陽鉄道宮島駅、のちの日本国有鉄道(国鉄)宮島駅、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)宮島口駅。20番の「市杵島姫のまします宮どころ」は、女神・市杵島姫(いちきしまひめ)のいらっしゃる宮所/宮処(意:神の鎮座する所)、すなわち、厳島神社もしくは宮島(厳島)を指す。22番は、天文24年10月1日1555年10月16日)に起きた厳島の戦いについて歌っている。

出身人物・ゆかりのある人物編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 廿日市市発表による2008年の宮島地区への入り込み観光客数は343万人。1998年から2006年までは300万人を割り込んだが、2007年(307万人)以降は再び300万人台となっている。
  2. ^ 汚れ(けがれ)と穢れ(けがれ)。
  3. ^ 神社では神の名に尊称を付けるが、ここでは重要ではなく冗長さを増すだけなので、「イチキシマヒメノミコト(市杵島姫命)」なら「イチキシマヒメ(市杵島姫)」、「スサノオノミコト(素戔男尊)」なら「スサノオ(素戔男尊)」と記すこととする。また、宗像三女神の記載順は厳島神社に準拠する。
  4. ^ ウェブサイトやブログ等、ネットで餌やりを公言している団体だけでもNPO法人アニマルライツセンター、日本動物愛護協会、岡山動物愛護会、宮島の鹿愛護会など多数ある。
  5. ^ わずかに大川浦から「石棒の可能性が想定される」片岩製の石製品2点が採集されているが、いずれも破片であり、明確に石棒と言えるものではない。また、片岩製の粗製石棒は西日本の縄文晩期末~弥生前期初頭の遺跡に普遍的に見られ、厳島信仰の存在を示す特異な遺物とは言えない。
  6. ^ 『棚守房顕覚書』は、説明を付して1975年(昭和50年)に宮島町から出版されている。

出典編集

  1. ^ 日本離島センター (2004). 日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』 (第2版 ed.). 日本離島センター. ISBN 9784931230224. 
  2. ^ a b 厳島の最高峰「弥山(みせん)」の標高値が変わります”. 国土地理院 (2005年10月6日). 2009年9月20日閲覧。
  3. ^ トリップアドバイザー「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20を発表 最も人気の高い日本の観光スポットは、広島県の宮島(厳島神社)に!
  4. ^ 日本の9湿地を登録 広島・宮島など ラムサール条約 Archived 2012年12月19日, at Archive.is, 産経新聞2012年7月3日付.
  5. ^ [1][リンク切れ]
  6. ^ 一部参考:宮島の浮世絵ギャラリー
  7. ^ 江戸時代には広島城や草津村(現・広島市西区)からの渡航が主であり、宮島口という地名は存在していない。JR宮島口駅は開設当初「宮島駅」(当時は国鉄に買収される前の山陽鉄道)、広電宮島口駅は「電車宮島駅」といった。
  8. ^ 江戸幕藩体制の実態が無くなってからも、行政町村(近代行政町村)が制度として整備される1889年(昭和22年)までは“藩政村的な自然町村”が事実上存続していた。それは、中世の自然村でも近代の行政町村でもない。
  9. ^ a b 宮島の地理 - 廿日市市
  10. ^ [2] 中日新聞2010年2月21日付
  11. ^ 宮島のシカの食害/広島大学大学院附属宮島自然植物研究所,2002年。2013年10月20日閲覧
  12. ^ たとえば宮島のシカ削減へ 観光客を角で突く、フン害絶えず/読売新聞広島版、2008年6月20日付。閲覧は獣害を裏返せ - gooブログより、2013年10月20日閲覧
  13. ^ 宮島シカ、市街地海側で半減/中国新聞2012年8月30日付、閲覧は宮島シカ、市街地海側で半減/47ニュース、2013年10月20日閲覧
  14. ^ 希少 中国南部が原産/ミヤジマトンボ 中国新聞1997年11月8日付。2011年11月23日閲覧
  15. ^ ミヤジマトンボ生息地を調査 中国新聞2011年9月16日付。2011年11月23日閲覧
  16. ^ a b 荒木亮司・三枝健二「宮島町下室浜遺跡のナイフ形石器」『研究紀要』第5集(2005) 広島県立歴史民俗資料館
  17. ^ a b c d e 古瀬清秀他「厳島における考古学的踏査とその検討(1)」『内海文化研究紀要』第34号(2006) 広島大学大学院文学研究科付属内海文化研究施設
  18. ^ a b c "古瀬清秀他「厳島における考古学的踏査とその検討(2) - 大川浦遺跡に関する考古学的検討-」『内海文化研究紀要』第35号(2007)  広島大学大学院文学研究科付属内海文化研究施設
  19. ^ 中越利夫「大野瀬戸周辺の遺跡・遺物(2)-宮島町上室浜遺跡採集の石鏃について」『内海文化研究紀要』第24号(1995) 広島大学文学部内海文化研究施設
  20. ^ 時枝務『山岳霊場の考古学的研究』 株式会社雄山閣 2018
  21. ^ 河瀬正利「広島県佐伯郡廿日市町地御前南遺跡出土の遺物について」『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報VII』(1984) 広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室
  22. ^ 中越利夫「大野瀬戸周辺の遺跡・遺物(1)」『内海文化研究紀要』第23号(1994) 広島大学文学部内海文化研究施設
  23. ^ 荒木亮司「下室浜採集の遺物について」『宮島自然植物実験所ニュースレター』第6号(2005) 広島大学大学院理学研究科付属宮島自然植物実験所
  24. ^ 妹尾周三「安芸、厳島における新発見の祭祀遺跡-弥山の中腹で発見された岩塊群の検討-」『MUSEUM 東京国立博物館研究誌』No.639(2012) 東京国立博物館学芸企画部企画課出版企画室
  25. ^ 妹尾周三「安芸厳島(伊都岐島)弥山水精寺の創建について」『佛教藝術』第304号(2009) 毎日新聞社
  26. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝 28(厳島神社)』(朝日新聞社、1997)、pp.2, 231
  27. ^ 『菩提院遺跡発掘調査報告 - 宮島町立歴史民俗資料館収蔵庫建設に伴う発掘調査の記録』(2005) 宮島町教育委員会
  28. ^ 『台風被災復興支援 厳島神社国宝展』(2005) 奈良国立博物館
  29. ^ 村上勇・西尾克己「中国地域の経塚出土陶磁-貿易陶磁の出土状況と様相について-」『貿易陶磁研究 第24号』(2004) 日本貿易陶磁研究会
  30. ^ 国指定文化財等データベース:紙本墨書尊海渡海日記, 文化庁.
  31. ^ 辻星児「『尊海渡海日記』に記された朝鮮語について」(全文PDFあり), 紀要「文化共生学研究」Vol.5, No.1(2007), 岡山大学.
  32. ^ 愛知学院大学貴重資料デジタルギャラリー テイセラ日本図。正確には、アブラハム・オルテリウスがテイセラの原図を基に「世界の舞台」1595年版に収録したもの。
  33. ^ 『祝師屋敷跡発掘調査報告書』(1995) 祝師屋敷跡地内埋蔵文化財発掘調査団
  34. ^ 旧暦和暦)の慶応2年8月1日と8月30日(同月最終日)は、西暦グレゴリオ暦)では1866年9月9日と10月8日。
  35. ^ 日本土木学会『日本の近代土木遺産』2005年版p220-221(日本土木学会出版)
  36. ^ 廿日市市統計書(2010年版)H.運輸・通信
  37. ^ a b 宮島で遭難相次ぐ/広島・本年度29件救助/ルート外は深い原生林『東京新聞』朝刊2018年1月26日(特報面)
  38. ^ 宮島検定(廿日市商工会議所)
  39. ^ a b 宮島 アクセス
  40. ^ 宮島行大鳥居遊覧航路”. アクアネット広島. 2015年6月19日閲覧。
  41. ^ http://www.miyajima.or.jp/timetable/newryoukin2.pdf
  42. ^ 交通アクセス - 宮島ロープウェイ

参考資料編集

関連項目編集

外部リンク編集