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中村 隼人(なかむら はやと、1975年8月22日 - )は長崎県出身の元プロ野球選手投手)、飲食店経営者。2002年から2004年6月1日までの登録名は隼人。弟はプロサッカー選手の中村北斗

中村 隼人
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長崎県諫早市
生年月日 (1975-08-22) 1975年8月22日(44歳)
身長
体重
183 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2000年 ドラフト4位
初出場 NPB/2001年6月2日
CPBL/2006年6月27日
最終出場 NPB/2005年5月4日
CPBL/2006年6月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴編集

プロ入り前編集

中学生時代は諌早レッズで捕手を務め、ボーイズリーグの全国大会に出場[1]

長崎日大高校に進むと投手に転向し、下半身強化と投球フォームの矯正によって制球力を改善し、2年の秋には本格派のエースとなる[2]。3年春には同校初の全国大会となる選抜大会に出場。初戦では自ら満塁で走者一掃の二塁打を放ち、福井敬治を擁する智弁学園を破った[3]。続く三回戦では鳥取西を7回までノーヒットに抑え、1安打完封の好投を見せた[4]ものの、準々決勝で平尾博司を擁する大宮東に敗れている。同年夏は県内No.1の右の本格派との評価を受け[5]選手権大会に出場。辻竜太郎を擁する松商学園との1回戦では延長12回を投げ抜き、3対2で勝利し[6]、2回戦で笹山洋一を擁する小林西に敗れている。

球質の重さや打者としての能力をプロのスカウトから評価されていた[7]が、創価大学に進学。東京新大学リーグ8連覇に貢献した[8]

社会人野球本田技研に進むと1年目からエースとして活躍[9]同年の日本選手権でも初戦に先発したが、敗戦投手となっている。2年目の1999年には都市対抗に初めて出場するも、初戦で敗れた。2000年には川鉄千葉の補強選手として都市対抗に出場し、初戦の対大阪ガス戦で2番手として好投したがチームは敗れた。同年のドラフト会議で4位指名を受け、日本ハムファイターズに入団。契約金、年俸はそれぞれ6,000万円、1,200万円(金額はいずれも推定)だった[10]

日本ハム時代編集

1年目の2001年は即戦力として期待され、開幕一軍入りを果たすも登板機会のないまま二軍に降格[11]。しかし再昇格すると、6月2日の対オリックス戦ではプロ野球史上27人目、パ・リーグの新人では20年ぶりとなる初登板初完封勝利を記録。同年、3完封を含む6勝を挙げた。また、翌年に同名の寺原隼人がプロ入りすることを受け、翌年から登録名を隼人に変える事を9月10日に発表している[12]。また、同年のIBAFワールドカップで日本代表に選ばれた。

2002年先発ローテーション投手として7勝11敗の成績を残し、初出場だったオールスターゲームでは新井貴浩にソロホームランを浴びたものの2イニングをこの1安打のみに抑えた[13]

2003年はわずか4試合の先発に終わり、0勝3敗、防御率6.98の成績に終わる。

2004年は序盤に中継ぎで4試合に登板しただけに終わり、6月2日河本育之投手とのトレードが発表され、読売ジャイアンツへ移籍。移籍を機に、登録名をプロ入り時と同じ本名の「中村隼人」に戻している。

巨人時代編集

巨人に移籍してからは中継ぎとして前田幸長岡島秀樹ブライアン・シコースキーとともにチームを支え、途中加入ながらチーム4位[14]の38試合に登板し、2勝1セーブ防御率3.79をマークした。

2005年は前年を越える45試合登板を目標に掲げ、中継ぎとして期待された[14]が、開幕直後から腰痛に苦しんだ[15]。わずか6試合の登板に終わり、10月5日に球団から戦力外通告を受け退団。トライアウトを2度受験するも、獲得する球団はなかった。

巨人退団後編集

2006年は1月から友人の紹介で神田の居酒屋店長を務めていた[15]が、5月29日千葉熱血MAKINGに投手兼投手コーチとして加入し、野球界に復帰する[16]。しかし都市対抗野球大会1次予選で登板するも思うような投球内容ができなかった。同年6月にはCPBL兄弟エレファンツに入団したが、2試合目に失点すると翌日に解雇され、在籍2週間で退団した[15]。7月に帰国してからは軟式野球チームを持つ佐賀県の病院で腰の治療を受けながら練習を続け[15]、11月に東北楽天ゴールデンイーグルスの秋季練習で入団テストを受験して不合格となり、現役を引退している。

現役引退後編集

元木大介から誘いを受け、2007年1月から2008年1月まで元木の個人マネージャーを務めた[15]。その後、文京区湯島でサパークラブを経営している[15]。2015年時点では、新宿歌舞伎町にて「立食い焼肉 治郎丸」の店長として活躍の場を変えている[17]

プレースタイル編集

140km/h台の速球を中心に、得意のスライダー[8]シュートフォークボールを投げていた[11]本田技研時代には年間30個近い与死球を記録しており、強気に内角を攻めている[8]。1年目には6勝中4勝を千葉マリンで挙げ初勝利初完封もグリーンスタジアム神戸で挙げるなど、屋外での登板を得意としていた[18]

人物編集

弟の中村北斗とは10歳差ということもあってそれほど話をしなかったが、2005年には同じ宮崎市内でキャンプをしていた北斗を訪ねて激励している[19]

日本ハム時代は黒々としたを生やして眼光が鋭く、野武士やクママタギなどの愛称で呼ばれた[8]が、巨人移籍後は球団の内規に従って髭を剃り落とした。また日本ハムが札幌に移転した際に自動車を手放した事もあって巨人時代は東京ドームに電車で通勤し、試合終了後に駅でファンにサインすることもしばしばだった[20]

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
2001 日本ハム 15 14 3 3 0 6 3 0 -- .667 373 89.0 77 13 42 1 2 63 2 0 40 39 3.94 1.34
2002 21 21 1 0 0 7 11 0 -- .389 570 135.1 132 13 48 2 4 84 3 0 68 64 4.26 1.33
2003 4 4 0 0 0 0 3 0 -- .000 90 19.1 31 3 4 0 0 6 0 0 18 15 6.98 1.81
2004 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 29 6.0 8 1 4 0 1 4 0 0 2 2 3.00 2.00
巨人 38 0 0 0 0 2 0 1 -- 1.000 145 35.2 29 2 14 1 2 23 3 0 16 15 3.79 1.21
'04計 42 0 0 0 0 2 0 1 0 1.000 174 41.2 37 3 18 1 3 27 3 0 18 17 3.67 1.32
2005 6 0 0 0 0 0 1 0 1 .000 38 6.2 12 0 5 3 1 5 1 0 5 5 6.75 2.55
2006 兄弟 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 11 1.2 3 0 3 0 0 1 0 0 2 2 10.80 3.60
NPB:5年 88 39 4 3 0 15 18 1 1 .455 1245 292.0 289 32 117 7 10 185 9 0 149 140 4.32 1.39
CPBL:1年 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 11 1.2 3 0 3 0 0 1 0 0 2 2 10.80 3.60
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録編集

NPB

背番号編集

  • 35 (2001年 - 2004年途中)
  • 27 (2004年途中 - 2005年)
  • 18 (2006年)

登録名編集

  • 中村 隼人 (なかむら はやと、2001年、2004年途中 - )
  • 隼人 (はやと、2002年 - 2004年途中)

脚注編集

  1. ^ 朝日新聞、2002年7月12日付朝刊、長崎地方面
  2. ^ 朝日新聞、1993年4月3日付朝刊、埼玉地方面
  3. ^ 第65回選抜高校野球大会 長崎日大 対 智辯学園
  4. ^ 第65回選抜高校野球大会 長崎日大 対 鳥取西
  5. ^ 朝日新聞、1993年8月4日付朝刊、P.21
  6. ^ 第75回全国高校野球選手権大会 長崎日大 対 松商学園
  7. ^ 読売新聞、1993年8月18日付夕刊、P.3
  8. ^ a b c d 朝日新聞、2001年3月24日付朝刊別刷、P.44
  9. ^ 朝日新聞、2001年3月24日付朝刊別刷、P.44
  10. ^ 朝日新聞、2000年11月28日付朝刊、P.16
  11. ^ a b 朝日新聞、2001年6月3日付朝刊、P.16
  12. ^ 朝日新聞、2001年9月10日付夕刊、P.13
  13. ^ 2002年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第2戦)
  14. ^ a b 読売新聞、2005年2月22日付夕刊、P.3
  15. ^ a b c d e f 「ニッカン今井でございます」2010年7月15日 元日本ハム、巨人・中村隼人 引退後記
  16. ^ 「日本野球連盟2006年登録・変更情報」5月29日
  17. ^ プレジデント社『dancyu』第25巻第9号(2015年9月号)19ページ
  18. ^ 読売新聞、2002年7月12日付夕刊、P.3
  19. ^ 読売新聞、2005年2月15日付朝刊、P.25
  20. ^ 読売新聞、2004年8月5日付夕刊、P.2

関連項目編集

外部リンク編集