五十嵐 章人(いがらし あきひと、1968年4月12日 - )は、群馬県前橋市出身の元プロ野球選手監督野球解説者

五十嵐 章人
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 群馬県前橋市
生年月日 (1968-04-12) 1968年4月12日(55歳)
身長
体重
180 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1990年 ドラフト3位
初出場 1991年4月9日
最終出場 2003年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

全ポジションでの出場高橋博士以来、日本プロ野球史上2人目)、全打順本塁打(同6人目)の記録を達成した選手として知られる。この両方を達成しているNPB史上で唯一の選手。また、全打順での先発出場及びその上での本塁打も記録している。

木田優夫とは従弟にあたる(木田の父と五十嵐の父が兄弟)。

来歴・人物 編集

二人の兄の影響で小学1年生から野球を始める。中学時代は投手内野手だったが、高校では野手に専念。3年生の時にエース候補の部員が退部したため監督命令で投手に再転向した[1]

1986年群馬県立前橋商業高等学校のエース投手で3番打者として第68回全国高等学校野球選手権大会に出場し、3回戦まで進出した。日本石油野球部に入部後、2年目から外野手に転向。1989年の都市対抗野球では5番を打つが2回戦で松下電器潮崎哲也に抑えられて敗退。秋の日本選手権では3番を打って準優勝、1990年の都市対抗野球では初戦で本塁打を放つが敗れる。日本選手権では前年に続いて決勝へ進むも日本生命新谷博木村恵二という継投の前に敗れたが敢闘賞、優秀選手となった。1990年度ドラフト会議ロッテオリオンズから3巡目指名を受けて外野手として入団。3年目以降は内野手としても起用されるようになる。

1995年5月7日の対オリックス・ブルーウェーブ戦では、風疹の流行により福澤洋一が離脱していたこともあり、捕手二人体制だった。先発捕手の山中潔は代打を送られ交代し、定詰雅彦がマスクをかぶったが8回にクロスプレーに抗議して退場処分を受け捕手がいなくなり、急遽五十嵐が捕手として出場した。捕手経験は中学時代に少し練習したことがあるだけだったが、8球を受け1球もこぼさなかった。試合後、監督のボビー・バレンタインは「いい捕手だよ」とコメントした。

1998年渡部高史との交換トレードでオリックスへ移籍。前年までの古巣であるロッテは同年6月13日から7月8日まで日本記録の18連敗を喫していたが、翌9日のオリックス対ロッテ戦(GS神戸)でストップさせた。奇しくもこの試合で最後の打者となったのは元チームメイトの五十嵐であった。

2000年6月3日の対大阪近鉄バファローズ戦の8回裏に投手として登板。五十嵐が投手として出場するのは高校時代以来のことであったが、1安打を浴びたものの3つのアウトを取り、プロ野球史上2人目となる全ポジション出場を達成した。パリーグでは投打二刀流の大谷翔平を除くと、2023年時点における野手が投手起用された最後の事例[2]である(セ・リーグでは2020年8月6日に内野手登録の増田大輝巨人)、同じく巨人の内野手で北村拓己2023年9月2日に、それぞれ登板している)。

この試合での登板は、捕手の時のようにベンチ入りしていた投手を全て使い切ったと言うような特殊な事情によるものではなく、当時の仰木彬監督が五十嵐に全ポジション出場を達成させるために登板させたもの(但し、既に大差をつけられていた為敗戦処理の側面はあった。また前日の試合では延長12回までもつれこむ総力戦であった為、投手起用に制限があったことも背景にある)である[要出典]。当時オリックスに在籍していた嘉㔟敏弘今村文昭のように完全に投手転向したわけではなく、それ以降投手として起用されることは二度となかった。

この登板はチームが16失点した後であったため、ベンチに戻ると五十嵐の前に登板した投手と投手コーチが仰木監督に「投手じゃなくても抑えられるんだ!」と怒られており、本人は「投手に申し訳なかった」と語っている。また、対戦相手の近鉄・梨田昌孝監督は試合後「野手を投げさせるならイチローも投げればよかった」という旨のコメントを残している。二軍コーチ時代は、くすぶっている若手投手に「俺は通算防御率0.00だぞ」と冗談で話すなど、時を経ていい思い出になったことも語っている。

2001年6月22日の対西武ライオンズ戦に4番・一塁手として先発出場し、全打順先発出場を達成した。更にこの試合で西口文也から右越えに2号ソロ本塁打を放ち、この時点で本塁打を打ったことのない打順は8番を残すのみとなった。なお、五十嵐のプロ人生において4番での先発出場はこの1試合のみであった。また、同年5月25日にはプロ2度目の捕手を務めた。

2002年に金銭トレードで大阪近鉄バファローズへ移籍。同年4月21日の対福岡ダイエーホークス戦に8番・二塁手として先発出場。星野順治から右中間に2点本塁打を放ち、プロ野球史上6人目の全打順本塁打を達成した。なお、五十嵐はわずか通算26本塁打で記録を達成しているが、これは全打順本塁打を記録した選手で最少である。次いで清田育宏の58本塁打、後藤光尊の95本塁打が続き、それ以外の10人(古屋英夫松永浩美田中幸雄堀幸一小川博文井口資仁吉村裕基浅村栄斗T-岡田島内宏明)は100本塁打以上を達成している。また、これが五十嵐の現役生活において最後の本塁打となった。前半戦は一軍で水口栄二高須洋介らと二塁手としての併用が続いたが、後半は二軍生活になった。

捕手としての出場は緊急事態であり、投手としての出場も1イニングだけだったが、五十嵐にはどの守備位置でもある程度守れる器用さがあり、また固定するほど得意な守備位置もないという絶妙なバランスの守備力を持っていた。また、通算打率.234、通算本塁打26本だが、日によって異なるポジションをこなし、クリーンナップを任された試合であってもしっかり結果を残すなどの勝負強さも兼ね備えていた。前述のように2001年は、1試合のみの先発4番で本塁打を放つという強運があり、他に先発出場では1番・3番・4番・8番・9番でそれぞれ1本塁打ずつしか打っていない。内外野どのポジションも守れた為、試合前のシートノックでは「その日に選手が少ないポジションを守る」ことを意識していた。ある日サードでノックを受けているとコーチに呼び出され、「今日はファーストでスタメン」と言われ驚いたことが何度かあったと引退後に明かしている。

2003年に現役引退。シーズン最終盤には引退試合として、かつての古巣であるロッテ戦、オリックス戦で先発出場の機会を与えられた。

その後はJ SPORTS野球解説者、サンケイスポーツ(大阪)野球評論家。また、2006年からプロ野球.comでドリームベースボールというオンラインゲームに参加し、ブログも開設していた。

2006年シーズン終了後、福岡ソフトバンクホークス二軍外野守備走塁コーチに就任し2011年まで務めた。2012年からはベースボール・チャレンジ・リーグ群馬ダイヤモンドペガサスの監督に就任し[3]2013年まで務めた。

2013年12月24日より2015年からプロ野球独立リーグベースボール・チャレンジ・リーグ参入予定の武蔵ヒートベアーズの取締役ゼネラルマネージャー就任が発表された[4]

2015年5月8日、星野おさむ監督退団によりヘッドコーチに就任[5]。シーズン終了後にコーチを辞任し、同球団の副社長に就任した。2017年12月15日に、「一身上の都合」を理由として武蔵球団副社長・ゼネラルマネージャーを退任することが発表された[6]

2018年から、人材派遣会社「エイジェック」のスポーツ・文化部門(現・エイジェックスポーツマネジメント[7])に在籍し、エイジェック硬式野球部のコーチやシニアマネージャーなどを務めた後[8]、現在は同社事業連携統括本部スポーツ文化プロジェクト(PJ)チーム部長として栃木ゴールデンブレーブスの公式戦で解説を務める一方、BCリーグを引退した選手をNPB球団へバッティングピッチャーやブルペンキャッチャーとして派遣で送り込むなど、NPBとBCリーグをつなぐパイプ役を担っている[9]

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1991 ロッテ 89 195 175 11 42 5 1 3 58 18 1 1 7 3 9 0 1 30 2 .240 .277 .331 .608
1992 12 10 9 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 1 0 2 1 .111 .200 .111 .311
1993 16 12 12 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .083 .083 .083 .167
1994 97 324 295 33 83 15 1 3 109 24 0 2 9 2 16 0 2 52 5 .281 .321 .369 .690
1995 101 268 225 21 47 9 1 4 70 18 1 0 13 0 30 2 0 21 4 .209 .302 .311 .613
1996 114 362 321 32 87 14 1 3 112 35 1 2 13 1 27 2 0 32 3 .271 .327 .349 .676
1997 30 57 46 5 6 2 0 1 11 3 0 0 2 0 8 0 1 10 1 .130 .273 .239 .512
1998 オリックス 110 245 214 17 44 7 2 3 64 21 1 2 7 1 23 1 0 38 4 .206 .282 .299 .581
1999 85 161 141 16 33 6 0 2 45 15 0 0 4 1 15 1 0 25 4 .234 .306 .319 .625
2000 112 221 180 30 43 8 0 4 63 26 0 1 9 2 30 1 0 24 4 .239 .344 .350 .694
2001 75 152 132 19 27 5 2 2 42 8 1 0 5 1 14 2 0 20 3 .205 .279 .318 .597
2002 近鉄 27 52 50 3 7 1 0 1 11 2 0 0 1 0 0 0 1 11 0 .140 .157 .220 .377
2003 2 2 1 0 1 1 0 0 2 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1.000 .500 2.000 2.500
通算:13年 870 2061 1801 188 422 73 8 26 589 171 5 8 70 12 173 10 5 267 31 .234 .347 .327 .674

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
2000 オリックス 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 4 1.0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 1.00
通算:1年 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 4 1.0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 1.00

年度別守備成績 編集


捕手 一塁 二塁 三塁 遊撃 外野








































































1991 - - - - - 80 98 9 2 2 .982
1992 - - - - - 2 0 0 0 0 .000
1993 - - - - 15 11 12 0 5 1.000 -
1994 - - 60 114 124 6 25 .975 - 45 67 88 5 16 .969 3 3 0 0 0 1.000
1995 1 0 0 0 0 .000 17 112 4 0 6 1.000 41 55 74 2 12 .985 11 5 17 0 3 1.000 16 18 34 1 11 .981 -
1996 - 54 364 25 2 24 .995 - 1 0 1 0 0 1.000 12 14 28 1 7 .977 52 79 4 1 3 .988
1997 - 3 2 0 0 0 1.000 - 6 1 6 1 0 .875 1 0 0 0 0 .000 15 12 3 2 1 .882
1998 - 21 44 2 1 5 .979 13 17 18 1 8 .972 77 19 113 7 11 .950 1 0 1 0 0 1.000 3 1 0 1 0 .500
1999 - 21 51 5 0 2 1.000 4 1 6 0 1 1.000 56 31 71 7 11 .936 - -
2000 1 1 0 0 1 1.000 46 120 10 2 11 .985 10 13 15 0 3 1.000 28 16 37 3 2 .946 11 6 14 0 3 1.000 12 17 1 1 0 .947
2001 - 39 204 7 2 24 .991 8 7 8 1 1 .938 1 0 1 0 0 1.000 1 0 0 0 0 - 11 10 0 0 0 1.000
2002 - - 15 14 26 1 2 .976 6 0 3 0 0 1.000 - -
2003 - - 2 2 1 0 1 1.000 - - -
通算 2 1 0 0 1 1.000 201 897 53 7 72 .993 153 223 272 11 53 .978 186 72 249 18 27 .947 102 116 177 7 42 .977 178 220 17 7 6 .971
  • 出典:オフィシャルベースボールガイド・日本プロ野球記録大百科

記録 編集

初記録
打撃記録
投手記録
  • 初登板:2000年6月3日、対近鉄バファローズ9回戦(大阪ドーム)、8回裏に4番手で救援登板・完了、1回無失点
その他の記録
  • 全ポジションでの出場:同上 ※高橋博士以来、史上2人目[10]
  • 全打順本塁打:2002年4月21日、対福岡ダイエーホークス6回戦(大阪ドーム)、8番・二塁手で先発出場、5回裏に星野順治から右越先制2ラン ※史上6人目、通算26本までの達成は史上最少[11]

背番号 編集

  • 9(1991年 - 1997年、2001年)
  • 29(1998年 - 2000年)
  • 39(2002年 - 2003年)
  • 79(2007年 - 2011年)
  • 84(2012年 - 2013年)
  • 77(2015年)

関連情報 編集

出演番組 編集

脚注 編集

  1. ^ 熊谷人図鑑 第65回 五十嵐章人さん(3/24放送) - YouTube
  2. ^ なお同年10月16日にはチームメイトの嘉勢敏弘が外野手登録のまま登板しているが、嘉勢はこのシーズン途中から事実上投手に専念していた。
  3. ^ 新監督決定のお知らせ”. 群馬ダイヤモンドペガサス (2011年11月11日). 2011年11月15日閲覧。
  4. ^ 埼玉新球団設立準備開始のお知らせ” (2013年12月24日). 2013年12月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月24日閲覧。
  5. ^ 五十嵐章人ゼネラルマネージャー、ヘッドlコーチ就任のお知らせ (PDF) 武蔵ヒートベアーズ (2015年5月8日)
  6. ^ 球団役員退任及び退職のご報告 (PDF) - 埼玉県民球団(2017年12月15日)
  7. ^ (株)エイジェックスポーツマネジメント 設立のお知らせ エイジェックグループ公式ホームページ(2020年1月6日)2021年7月11日閲覧。
  8. ^ 五十嵐章人 株式会社エイジェック | Eight プロフィール”. シェアNo1名刺アプリ「Eight」. 2019年10月19日閲覧。
  9. ^ ““究極の万能選手”五十嵐章人氏。NPBとBCリーグをつなぐビジネスで手腕を発揮/パンチ佐藤の漢の背中!”. 週刊ベースボールONLINE. (2021年7月11日). https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20210711-10 2021年7月11日閲覧。 
  10. ^ 11人全員がパ・リーグ経験者。「全打順本塁打」達成者から見える傾向とは?”. パ・リーグインサイト (2019年5月17日). 2022年6月1日閲覧。
  11. ^ “ロッテ清田が全打順本塁打 五十嵐、島内に次ぐ記録”. 日刊スポーツ. (2020年11月1日). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202011010000861_m.html 2022年6月1日閲覧。 

関連項目 編集

外部リンク 編集