メインメニューを開く

剣晃 敏志(けんこう さとし、1967年6月27日 - 1998年3月10日)は、大阪府守口市出身で高田川部屋に所属していた元大相撲力士。最高位は西小結。本名は星村 敏志(ほしむら さとし)。

剣晃 敏志 Sumo pictogram.svg
基礎情報
四股名 星村 敏志→剣晃 敏志
本名 星村 敏志
愛称 角界(土俵)のならず者
角界のヒール役
土俵の天然記念物
貴ノ浪最大の天敵
生年月日 1967年6月27日
没年月日 (1998-03-10) 1998年3月10日(30歳没)
出身 大阪府守口市
身長 190cm
体重 145kg
BMI 40.17
所属部屋 高田川部屋
得意技 左四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 西小結
生涯戦歴 414勝411敗54休(81場所)
幕内戦歴 181勝224敗15休(28場所)
優勝 なし
殊勲賞1回
敢闘賞1回
データ
初土俵 1984年11月場所
入幕 1992年7月場所
引退 1998年3月場所
引退後 現役中に死亡
備考
金星2個(1個、貴乃花1個)
2013年7月12日現在

来歴編集

入門前編集

1967年6月、大阪の守口市で繊維業を営んでいた家の2人兄弟の次男(大阪弁でいう、なかぼんさん)として生まれた。しかし2歳の時に父親を亡くし、母親の手一つで育てられた。庭窪中学校では柔道を習っており、母校の先輩でもある8代高田川親方(元大関前の山)を紹介されたが、「まだ遊びたい」として定時制の大阪府立守口高等学校へ進学した。しかし守口高等学校では1年で退学し、セールスマンなどのアルバイトを務めていた。その後、盲腸の手術で入院した際に高田川部屋の体験入門の様子を撮影した写真を見て、高田川部屋に入門した。

剣晃の四股名は、入門前の荒れた生活とかつ不摂生で顔色が悪かったことから「健康」を願ったもの[1][2]で、行司の木村和一郎(現・41代式守伊之助)が命名した。なお、「」という文字は「折れるもの」「割れるもの」として不吉な意味合いがあるため、四股名を付ける時に高田川からは止められたものの、剣晃は頑として譲らず「折角(木村)和一郎さんが、一生懸命に考えて名付けてくれた四股名だから」と、一生その四股名で通していた[1]

角界のヒール役として編集

剣晃は平成の大横綱貴乃花光司など、上位力士相手にも容赦ない張り手をかますなど闘志溢れる相撲が取り口で、自ら「ヒール」を公言していた[1]。特に1993年3月場所での対浪乃花教天戦の張り手合戦は有名である。さらに大関貴ノ浪貞博には幕内対戦成績が過去9勝9敗の五分で3回にわたり3連勝するなどと圧倒的に強く、「貴ノ浪の最大の天敵」とも言われていた。剣晃は差し身が上手く根は左四つだが、右四つでももろ差しでも相撲が取れて投げや吊り、寄りにも鋭さがあった。

大相撲の愛好家であるデーモン閣下尾崎亜美からは、その悪役のイメージから「角界(土俵)のならず者」とも呼ばれていた[3]1997年1月場所後には、相撲雑誌の企画でデーモン閣下と剣晃の対談が実現し、その時に剣晃からデーモン閣下に直接「そのニックネーム(「角界のならず者」)を変えて欲しいんですがね…」と苦笑しつつ要望を申し入れていた(後日デーモン閣下は、剣晃の別のあだ名として「土俵の天然記念物」と名付けている)。それでも、悪役イメージとは裏腹に母親思いの上、若い者からの人望はとても厚く、存命当時から在籍している若手の力士達は剣晃を目標にしている力士として挙げることが多かった。さらに高田川も、部屋の後継者にすることを考えていたといわれる。

剣晃は少しずつ番付を上げて、最高位の小結を2場所(1995年5月場所・同年9月場所)務めたほか、三賞は殊勲賞と敢闘賞を1回ずつ受賞している。特に1995年7月場所4日目の貴乃花戦などは、取組後に「顔を出してジッとしていたので、『あれっ、張っていいのかな』と思って張っただけだよ」と張り手を放ったことに対して答え、この取組に寄り切りで負けて貴乃花に睨まれると「チクショー。もう1回、やりたいのかよ」と睨み返した[1]。また1993年3月場所に曙太郎が横綱に昇進してからは、同じ高田川部屋の鬼雷砲良蔵らと共に横綱土俵入り露払い太刀持ちをよく務めていた。なお1995年7月場所7日目には、その曙と対戦し送り出しで下して金星を獲得している[4]

原因不明の奇病で長期入院・幕内から幕下へ陥落編集

しかし新三役(小結)だった1995年5月場所では40度を超える高熱を発したが、一切休場せずに5勝10敗で取り終えた。剣晃はその後も持病の痛風にも悩まされながら、幕内上・中位で活躍していた。

ところが、1996年11月場所辺りから再び体調を崩し、原因不明の発熱貧血の症状に苦しむも場所中に点滴治療などを続けながら強行出場していた。だが1997年3月場所に入ると急激に体重が落ち、120kg台まで痩せてしまう。次の同年5月場所には前頭11枚目の地位で千秋楽に8勝7敗と勝ち越したが、これが剣晃にとって生涯最後の出場場所となってしまった。

剣晃は1997年5月場所後、大阪市内の病院に緊急入院。同年7月場所(前頭6枚目)の剣晃は、初土俵以来初めての休場(休場理由は「不明熱」[5])となった。当場所以後は、一度も出場が無いまま全休を続けたために、番付は幕内から十両(1997年9月・11月場所)を通り越して、幕下(1998年1月・3月場所)の地位まで転落した。剣晃はこの際に、検査によって病名が「汎血球減少症」と判明し、抗がん剤など投薬の影響によって剣晃の髷は全て抜け落ちてしまっていた。汎血球減少症とは白血病の一種で、当時の日本ではまだ4例しか報告例が無い(そのうち2例は当時既に死亡)奇病であり、治療法は確立されていなかった。入院して間もない1997年の夏、剣晃の実母は既に医師から「残念ですが、息子さんは助かりません」と非情の宣告を受けていた[1]

なお発症の原因について、ある担当医は痛み止め注射が好ましくない化学反応を起こしたという説を、またある担当医はウイルス感染説も唱えていた[1]。ただ、剣晃は最後の最期まで生きる希望を捨てなかった。「オレの本当の病気はなんなんだ。もう一度社会復帰できるのか、出来ないのか。親には言わずにオレにだけ、本当の事を言ってくれ!」と迫り、自身も枕元のカバンが一杯になるほどの医学書で真相解明に励んだ。病気による全身の痛みから気が動転し、ベッドの傍にあるものを掴んでは投げるを繰り返していた[1]。翌1998年2月、一時退院出来る程に体調が一旦回復した剣晃は、実兄と共に小・中学校や幼少時に遊んだ公園など思い出の場所を歩いたり、家族揃って和歌山県へ3泊の温泉旅行に出掛けたりしていたという。だが、この頃の実母は「本人も死が近い事を分かっていたようです…」と述懐している。

30歳で現役死編集

1998年3月に入ると血圧が急降下するなど病状が悪化し、3月7日には意識不明の重体に陥る。そして、地元の大阪で開催された同年3月場所は幕下55枚目まで下がっていたが、3月場所3日目だった3月10日11時50分、剣晃は母と兄が見守る中で、汎血球減少症による肺出血のため、大阪狭山市の近畿大学付属病院で死去[6]。30歳没。剣晃の生涯最期の言葉は「母ちゃん、もう眠りたい…」だったという。その余りにも早過ぎる病死に、親族や部屋の弟弟子達は葬儀の席で涙を流し続け、特に高田川親方は告別式で最後の挨拶時、剣晃の遺影に向かって「剣晃!俺はまだ死んだとは思ってない!!」と叫びながら号泣していた。なお、剣晃は生涯を通じて独身だった。奇病のため病理解剖による研究の進歩が期待され、担当医も病理解剖を申し出たが「力士だから綺麗な体をお客さんに見せたいので、メスを入れたくない」という生前の本人の遺志によって行われなかった[1]

剣晃に対して『角界のならず者』というあだ名を付けたデーモン閣下は、死の1年前に相撲雑誌で直接対談した事を懐古しながら、剣晃の訃報に関し「あの頃から既に体調が悪くしんどそうだったが、事前に点滴を打って登場し、脂汗をかきながらも2時間近くの取材に笑顔で応じてくれた。まさかこんなに速く逝ってしまうとは…『残念』という以外、言葉が見つからない」と追悼のコメントを述べていた。

エピソード編集

  • 前述の通り、「剣」の文字は不吉な意味合いがあるとして四股名に使うことは避けられていたが、剣晃は最後まで自分の四股名に強くこだわり続けていた。その剣晃が30歳で病死して以降は、さらに「剣」の字を四股名に使うことは避けられた[7]
  • 幕内在位歴のある力士で現役中に夭折したのは龍興山一人以来(1990年)だが、奇しくも剣晃と龍興山は同じ大阪出身で、さらに1967年6月生まれの同い年だった。他に1967年度生まれ(1983年3月に義務教育を修了した年齢)で病死した力士は大翔鳳昌巳1999年、現役引退し準年寄在任中だった。北海道出身)と大輝煌正人2009年、廃業後。和歌山県出身)がおり、同年度生まれの幕内在位歴のある力士7人中4人が2018年の時点で既に故人となっている。
  • 1996年1月場所の敢闘賞受賞は、史上初めて他力の条件付きでの受賞である。7勝7敗で千秋楽を迎えた剣晃は、5日目に優勝を争っている大関の貴ノ浪に勝利していた。千秋楽当日に開かれた三賞選考会で、13代九重親方(元横綱・千代の富士から「もしも貴ノ浪が優勝したら、その貴ノ浪に黒星を付けた力士に三賞を授与しないのはおかしい」との意見があり、剣晃には受賞条件として三賞受賞最低条件の勝ち越し、すなわち千秋楽の勝利に加え、貴ノ浪が優勝した場合に限りという他力条件も付された。果たして剣晃は千秋楽に勝利し、貴ノ浪も横綱の貴乃花との同部屋力士同士の優勝決定戦を制して優勝し、剣晃は初の敢闘賞を受賞した。受賞が決まった時、「大将(九重親方)、サンキューって感じ」と歓びの談話を残した[8]

主な成績編集

  • 通算成績:414勝411敗54休 勝率.501
  • 幕内成績:181勝224敗15休 勝率.447
  • 現役在位:81場所
  • 幕内在位:28場所
  • 三役在位:2場所(小結2場所)
  • 三賞:2回
    • 殊勲賞:1回(1995年7月場所)
    • 敢闘賞:1回(1996年1月場所)
  • 金星:2個(1個、貴乃花1個)

場所別成績編集

剣晃 敏志
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1984年
(昭和59年)
x x x x x (前相撲)
1985年
(昭和60年)
西序ノ口35枚目
6–1 
西序二段90枚目
4–3 
東序二段66枚目
3–4 
東序二段83枚目
4–3 
西序二段69枚目
3–4 
西序二段82枚目
3–4 
1986年
(昭和61年)
東序二段98枚目
6–1 
西序二段30枚目
2–5 
西序二段59枚目
5–2 
西序二段13枚目
4–3 
西三段目89枚目
2–5 
東序二段11枚目
5–2 
1987年
(昭和62年)
西三段目79枚目
4–3 
東三段目56枚目
2–5 
東三段目82枚目
5–2 
西三段目54枚目
5–2 
西三段目32枚目
3–4 
東三段目51枚目
4–3 
1988年
(昭和63年)
西三段目37枚目
5–2 
西三段目11枚目
5–2 
西幕下49枚目
3–4 
西三段目3枚目
4–3 
東幕下52枚目
3–4 
西三段目3枚目
4–3 
1989年
(平成元年)
東幕下49枚目
3–4 
東幕下59枚目
4–3 
西幕下44枚目
5–2 
西幕下25枚目
4–3 
西幕下17枚目
5–2 
東幕下7枚目
3–4 
1990年
(平成2年)
西幕下11枚目
3–4 
西幕下18枚目
2–5 
西幕下38枚目
5–2 
西幕下25枚目
4–3 
西幕下19枚目
5–2 
西幕下7枚目
4–3 
1991年
(平成3年)
東幕下3枚目
5–2 
東十両12枚目
5–10 
東幕下4枚目
5–2 
東十両13枚目
8–7 
東十両8枚目
9–6 
東十両4枚目
9–6 
1992年
(平成4年)
東十両筆頭
6–9 
東十両5枚目
8–7 
西十両2枚目
9–6 
西前頭14枚目
3–12 
東十両6枚目
8–7 
西十両3枚目
8–7 
1993年
(平成5年)
東十両2枚目
9–6 
西前頭14枚目
10–5 
東前頭6枚目
5–10 
東前頭13枚目
9–6 
東前頭4枚目
7–8 
東前頭5枚目
7–8 
1994年
(平成6年)
東前頭6枚目
6–9 
西前頭9枚目
9–6 
西前頭2枚目
4–11 
西前頭10枚目
9–6 
西前頭2枚目
4–11 
西前頭8枚目
8–7 
1995年
(平成7年)
東前頭4枚目
5–10 
西前頭7枚目
10–5 
西小結
5–10 
東前頭4枚目
11–4
西小結
6–9 
東前頭筆頭
5–10 
1996年
(平成8年)
東前頭5枚目
8–7
東前頭筆頭
5–10 
西前頭5枚目
6–9
東前頭8枚目
9–6 
東前頭2枚目
4–11 
東前頭6枚目
8–7 
1997年
(平成9年)
西前頭2枚目
6–9 
東前頭5枚目
4–11 
東前頭11枚目
8–7 
西前頭6枚目
休場[9]
0–0–15
西十両筆頭
休場[9]
0–0–15
西十両13枚目
休場[9]
0–0–15
1998年
(平成10年)
西幕下15枚目
休場[9]
0–0–7
東幕下55枚目
引退
0–0–2[10]
x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

脚注編集

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e f g h 非業の死を遂げた名力士 「剣晃(小結)」 WJN 2018年12月14日 22時00分 週刊実話 2018年12月20日号誌面より(日本ジャーナル出版、2019年3月30日閲覧)
  2. ^ かねてから健康を気遣っていた剣晃は、巡業先へ大量の青汁を作って持ち込み健康管理に努めており、このことは生前から大変有名だった。新三役昇進会見では「ウーン、まずい」と当時の『キューサイ』の青汁のCMをまねるパフォーマンスを行っていた。また新年のインタビューでは「四股名が剣晃なので健康な1年に」と答えることが恒例になっていた。
  3. ^ 当時相撲雑誌でそのニックネームをつけられた剣晃は、デーモン閣下に対して大爆笑しながら「許せん!デーモンの方こそ『芸能界のならず者』だ。もし街で逢ったら張っちゃうぞ」等と挑発するコメントを述べていた。
  4. ^ 同場所で露払い・太刀持ちを担当する横綱との対戦が組まれた場合は、その担当から外される事となる。なお同7月場所の翌8日目、再び曙の太刀持ちを務める際の剣晃は、曙と顔を合わせた時お互いに気不味くなり言葉が出なかったという。
  5. ^ 朝日新聞東京本社版、1998年3月11日付24面、「剣晃のしこ名、願いは届かず」
  6. ^ 相撲レファレンス 大嵐浩之因みに本項の力士以前にも剣晃を名乗った人物がおり、その力士は始めに大嵐を名乗り初土俵から丸1年で幕下に上がるなど才能のある力士だったが、剣晃を名乗り始めた場所から1勝も出来ずに廃業した。
  7. ^ 剣晃の死後に誕生した関取では、2012年5月場所までに剣武輝希が該当する。五剣山博之ともう一人は剣晃の死後も改名せず使い続けた。現在においても、十両22場所を経て2019年9月場所で新入幕を果たした剣翔桃太郎が居る。この他にも幾人か「剣」やその異体字(「劍」「劔」など)を使う力士の事例は散見されるため、全く居ないわけではなく、寧ろ徐々に増えてきている模様。
  8. ^ 朝日新聞東京本社版、1998年3月11日付24面、「剣晃のしこ名、願いは届かず」より
  9. ^ a b c d 不明熱・汎血球減少症により全休
  10. ^ 3月場所3日目の3月10日に死去

関連項目編集

外部リンク編集