初期仏教

原始仏教から転送)

初期仏教(しょきぶっきょう、: Early Buddhism)とは、 釈迦が生きていた時代を含む初期のおよそ150年から200年の間のプレ部派仏教英語版をいう[1]

原始仏教根本仏教主流仏教[2][注 1]とも呼ばれるが、「原始」「根本」「主流」という言葉にはさまざまな価値的な判断の意味が含まれるため、ここでは中立的な時間的に先であることを示す「初期仏教」という用語を使用する。必ずしも時代区分ではなくオリジナルという意味で「原始仏教」という用語を用いる学者も多い。初期仏教を原始、根本、主流と見る見方に福音主義の影響を見る学者もいる[3]

初期仏教の歴史編集

ブラーフマナ時代編集

リグ・ヴェーダによれば、紀元前13世紀頃、現在のアフガニスタンバルフから多神教のヴェーダの宗教(紀元前11世紀頃に誕生するザラスシュトラの興した一神教・ゾロアスター教の原型でもある)を奉ずる民族が十王戦争においてインドに侵攻し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する封建社会体制が形作られた。

紀元前10世紀に始まるドラヴィダ人との同化の時代であるブラーフマナ時代(紀元前900年 - 紀元前500年)になると、司祭階級バラモン(ブラフミン)を頂点とするカースト制を持つバラモン教がインドで形作られていった。紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成した。しかし、ヴェーダの宗教的権威に従わない人々(ヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)、マッカリ・ゴーサーラガウタマ・シッダールタ釈迦))も同時期に登場し、ジャイナ教(より正確にはジナ教またはジャイナ)・アージーヴィカ教仏教といった反ヴェーダの立場をとる宗教を開いた。このように、当時のインド四大宗教はほぼ同時期にそろって誕生したのである。

釈迦の初期仏教編集

仏教は、約2500年前(紀元前5世紀)に釈迦が、インド北部ガンジス川中流域のブッダガヤ悟りを開き、サールナート初転法輪(初説法)を行ったことに起源が求められている。発生当初の仏教の性格は、同時代の孔子などの諸子百家ソクラテスなどのギリシャ哲学者らが示すのと同じく、従来の盲信的な原始的宗教から脱しようとしたものと見られ、『マハー・ワッガ』をはじめとする初期仏典では、このとき五比丘(5人の修行仲間)に説かれた教えが、中道八正道四諦三転十二行相であったとされている。

釈迦と五比丘、すなわちコンダンニャワッパバッディヤマハーナーマンアッサジの6人が阿羅漢となり創設された初期仏教教団は、シュラーヴァスティージェータヴァーナー寺院を教団本部とし、インド各地で布教活動を行った。これら釈迦の生涯において重要な各地を八大聖地と呼ぶ。

仏教経典ができるまでの数世紀間の伝承編集

多数ある経典の中で最も古いとされてる『スッタニパータ』の中には[4]、ゴータマ・シッダッタが語ったとされる初期の言葉が伝えられている。この経典には、最古層の仏教思想とともに、最初期の仏教教団の状況についても、伝えられているとされている。[5][6] 大蔵経の中では、『パーリ語三蔵』が最も古くまとめられたとされ、その中で最も古いのは、『サンユッタ・ニカーヤ』における第一集であるとされている。[7]

仏典作成の発端となった何回かの結集において、はじめのころは、各弟子が記憶していた教えを直ちに文字として記録することがなかった。弟子たちの記憶にもとづいて弟子から弟子へ口伝されたのである。そのため、初期のものとされる経典は、記憶しやすいように短い詩の形式にまとめられるものが多かった。この記憶による伝承は数世紀間続いたとされ、その間には、弟子たちの思想も混入したと考えられている。伝承されてきた教えがはじめて文字として保存されるようになったのは、前一世紀頃だといわれている。[8]入滅は前383年と考えられている[9]ので、ゴーダマ・シッダッタの死から200年以上は文字としての経典は成立していなかったことになる。

各宗教に存在したブッダや阿羅漢編集

初期のものとされる経文に見られるブッダという呼び名については、当時インドに流布していたどの宗教でも、理想的な修行者のことをブッダと呼んでおり、仏教でもその名を取り入れただけであるとされている。[10] ゴータマ・シッダッタが、「もろもろのブッダは、逃げ隠れをして身を守ることをしない」と語ったとされる場面では、荒野の中で修行している修行者を指してブッダと語ったとされている。 [11]そして、説法の中でブッダを複数形にて表現している場面においては、「仏教」という特殊なものを説いているという意識がゴータマ・シッダッタには見られなかったとされている。[12] また、阿羅漢という語も、元はインドの宗教一般においては尊敬されるべき修行者のことを指していたとされている。しかし、のちに大乗仏教の時代になると批判的に声聞を阿羅漢と呼んで、仏と区別するようになったとされる。[13]。そのため初期の経典において、ブッダや阿羅漢という記述があるときは、仏教という枠組みを超えたインド宗教界全般における理想的な修行者を指している場合があると捉える必要がある。[14][15]

最初期の教え編集

初期仏教の教えとされるものでも、時代が少し下がると整理され、体系化された経文として後世に伝わっていった。しかし、実際にゴータマ・シッダッタが説いた教えは、もっと素朴で、相手の心を読んだとも見える、機根に応じたものであったとされる。[16]いわゆる仏の説法とも、対機説法ともいわれるものである。[17]

対機説法編集

ゴータマ・シッダッタは、相手に応じて法を説いた。学問のある知識階級に対しては、哲学的な用語を用いて語ったときもあれば、知識階級でも道諦の欠けているものには、無記という回答をしているときもある。あるいは、論理的な説明がかえって害となる場合には、黙して返事をしない場合もあり、知識のないもの、知能の低い弟子には、チューラパンタカの場合のように、ただ掃除することだけを命じるだけのこともあった。ゴータマ・シッダッタはこうした指導方法をとったとされる。[18]

『スッタニパータ』の例としては、1084~1087において、ある者には、解脱を求めよと説き、ある者には、1088~1091において、解脱というものはないと説いていることがあげられている。[19]

初期の悟りについて編集

初期に作成された経典において、ゴータマ・シッダッタの悟りの内容が異なった伝わり方をしていて、はっきりと定まっていないのは、ゴータマ自身が自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じ異なった説き方をしたためであるとされている。[20] 歴史的人物としてのゴータマは、臨終に際しても仏教というものを説かなかったとされている。彼が明示したのは、八正道の実践をする人を「道の人」と呼び、その道はいかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道であり、それはこれまでのインド社会に現れたブッダたちの歩んできた道であったということとされている。[21] ブッダたちの歩んできた道とは、過去七仏とされる者の道のことではなく、ウパニシャッドの哲学等における悟達の境地に到達した古仙人たちの歩んできた道であると考えられる。原始仏典の古い詩句では、古来言い伝えられた七人の仙人という観念を受け、ブッダのことを第七の仙人としていた。[22]

初期の悟りにおける仏教の位置づけ編集

初期においては、ゴータマが説法することを「梵輪をまわす」と呼んでいた。これは古ウパニシャッドからきており、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があるとされる。[23]それらのことを考えると、ゴータマの意識の中では、宇宙の真理を悟ったという自覚があったようであるけれども、悟りの内容を定式化して説く機縁にあった弟子がほとんどいなかったために、それを説く機会がなかったと見ることもできる。

ウパニシャッドでは、「解脱」とは宇宙原理たるブラフマンと自己との合一を意味していた。[24]しかし、初期仏教では人間の理法を体得して、安心立命の境地に至ることが悟りであるとされている。[25]梵我一如を体得した古仙人たちの歩んできた道を歩んだとされるゴータマには、宇宙の真理を悟った人が説法をするという自覚があったのだけれども、その悟りの内容は、四諦という言葉によって体系化されているという状況にあるようである。[26]そして、大乗仏教に至ると、宇宙の真理(法)と一体になることを悟りとする宗派が生まれてきた。[27]

ウパニシャドでは、ブラフマンとは宇宙の最高原理とみなされており、この最高原理が人格的に表象されたものがブラフマーであり、創造神とされていた。ブラフマンは大宇宙的概念であり、アートマンは小宇宙的概念とする見方もある。善い行いをした人が死後天上界に行くとした場合や、自島明におけるなんらかの主体性などの教説を見ても、自然の中には還元しきれない何ものかを仮定しているともいえる。[28]梵天勧請の経文には、最高原理の人格的な表象として、この世の主ブラフマー神というものが出てくるので、ゴータマの悟達の境地と宇宙の最高原理を悟るということには、何らかの関係があると見ることができる。また、人格的な表象としての梵天による勧請の一段は、後世の追加とする見解もある。[29]ここにあげられているやや古い詩句は、心の中での出来事を現わしたものとされ、散文の説明は明らかに後世のものであるとされている。[30]いずれにしても宇宙の真理としての最高原理とゴータマの悟りとの間には深いつながりがあるようである。

同じブラフマー神が関係していると思われるウパニシャッドの哲学の梵我一如の悟達とゴータマの悟達とを比べた場合、大きく異なる点は、梵我一如におけるアートマンの存在が存在しないということである。しかし、この点についても、初期の仏教には不確かな部分があり、「アートマン」は存在しないとは説いていないとされている。これは、アートマンを実体視しているウパニシャッドの哲学に対して仏教の側が反対しただけの教説にすぎない、というのがその理由となっている。ゴータマの悟りの内容に関しては、アートマンが存在するかどうかについての返答をゴータマが与えなかったものであるとされている[31]ので、ゴータマにおいては、通過点としての(インド古来の)梵我一如の境地をも悟ったがゆえに、(実体的なアートマンは無いとする無我・非我の立場に立って)説法することを「梵輪をまわす」と表現したと見ることも可能なようである。

最高原理としてのダルマ編集

詳細については、「法 (仏教)」を参照

サンユッタ・ニカーヤⅡにおいて「わたしは、わたしが悟ったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだろう」という経文は、ダルマがブッダよりも上位に位置する最高原理とみなされており、ゴータマの悟りは、本来ダルマに準拠するものであるとされている。[32]

「ダルマ」という語は、多様な用いられ方をするようになったが、初期においては、ゴータマの悟った宇宙の真理としての万古不易の法を指していたようである。[33]

ニルバーナを「ブラフマンの道」と呼んでいる場合編集

「正しくさとった人は、ブラフマンの道においてふるまい、心のやすらぎを楽しんでいる」(テーラガーター 689)の句において、ブラフマンの道とされているのは、解脱に至る道のことであるとされている。それは元は、『ウパニシャド』の哲学において、「ブラフマン世界に至る道」を意味していた。 [34]

ダルマを人格視している場合編集

後代の仏教(アッサムやスリランカ)で、ダルマが人格神のように見なされるに至った源泉として、「理法(ダンマ)は、実に、理法を実践する人を護る。理法をよく実践するならば、幸せをもたらす」(テーラガーター 303)の句があるとされる。ここでは、理法(ダンマ)がほとんど人格視されているとされる。[35]

無我の捉え方編集

詳細については、「無我」を参照

ゴータマは、「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、真人となった修行僧は、『わたしが語る』と言ってもいい」と語ったとされる。これは、悟りに達した者は、我(アートマン)は存在すると主張し、議論しても真理からははずれていないとする見解を示したものである。[36]これによると、無我ということで修行してきた者は、煩悩の汚れを滅ぼしたのちには、真人の我を頼りとして歩むということになる。

非我の概念が有する霊魂的側面編集

当時のインド社会において、通俗的な一般的観念として、解脱とは霊魂が体から脱出して、束縛のない状態におもむくことであるとする見解があり、それはウパニシャッドからヴェーダーンタ学派に至るまで一貫して存していたとされる。あるとき、どうしたら身体から霊魂が解脱することができるでしょうか、と問われたゴータマは、解脱についてのその見解を受け入れ、怒りや怨恨を断ち、悪い欲求と貪りとを断ち切って、妄執を根こそぎ抉り出せば、身体から霊魂が解脱することができると答えたとされる。この場合のゴータマの見解では、霊魂と身体から人間存在はできており、解脱には身体から霊魂が脱け出るという面もあったことが記されている。[37]

肉体に執着し、多くの煩悩に覆われ、迷妄のうちに沈没している人のことを、「窟のうちにとどまっている」と表現している[38]が、これは、霊魂またはアートマンが身体の中に入ってとどまっている様を現わしているとされている。この考えはウパニシャドからきており、『アーパスタンバ法典』(第22章4)では、アートマンのことを「窟のうちにとどまる者」と呼んでいる。[39]

迷妄にもとづいて起こる煩悩は何ら存在しなくなり、あらゆることがらについて智見があり、最後の身体をたもち、めでたい無上の悟りを得ること・・・これだけでも人のたましい(霊)は清らかとなるとされた。[40][41][42]

また、涅槃についても、無我的な無余涅槃をしりぞけ、たましいの最上の境地としての有余の涅槃にとどまって、活動してゆくことが目的であるとしていたとされる。 小乗仏教の伝統説では無余涅槃に入ることが修行の目的であったが、ゴータマは無余涅槃に入るという見解は偏見であるとして排斥した。「たましい(霊)の最上の清浄の境地」のうちにあって、多くの人々の幸福のために、世間の人を憐れむために、清浄な行いを存続してゆくことが目的であるとした。[43]有余の涅槃だけでも人のたましい(霊)は清らかとなるけれども、その上に立って人類を救済してゆくことが、修行の目的であると考えていたようである。

初期仏教における真人となった我とは編集

ゴータマの説法を「梵輪をまわす」と言うときは、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があり、「梵」という語と「ブラフマン」という語は深い関りがあるとされる。[44]ヒンドゥーにおいて世界創造神とされていたブラフマンというのは、当時最高の神と考えられていた。そして、梵天勧請の経文では、その神様がゴータマに説法を始めたとされる。ブラフマンとは、絶対原理であり、宇宙の根本原理のことであるけれども、一般の民衆にはなかなか理解しにくいから、それを人格神(世界の主である梵天)と考えたとする見解もある。[45]また、ブラフマンは大宇宙的概念であり、アートマンは小宇宙的概念とする見方もある[46]ので、後代になって、アートマンの小宇宙的概念が否定されるようになると、真理(ブラフマン)における大宇宙的概念も不明確なものとなったようである。[47]

「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている。[48][49]

ゴータマが実践していたのは、「つとめはげむ道」といって、自己を制することにつとめはげんだこととされている。ただ、それによってさとりを得たとかそういうことは書いてなく、自己を制することのうちにさとりがあるとしていたとされる。[50]人が佛となった転換点は、古来から言われている梵我一如の境地として、問われた時には意識にのぼる程度の通過点にすぎないとみなされていたようだ。自己を調御し、悪魔を寄せ付けず、清浄な行いを久しくし続けるということが、さとり「つとめはげむ道」(さとりの道)であるとされた。

悟りの道編集

ゴータマがさとりを開き、最初の説法をしたときよりも後におこったとされる鹿の園での悪魔の誘惑の伝説は、悟った人でも悪魔の誘惑は依然として存在していることを示していて、それらの誘惑を断固として斥けつづけてゆくことのうちに、真のさとりがあるとされている。[51]

初期の教えにおいて、悟りの道を歩んでゆく人の道筋には、世間を覆っている無明というもの[52]から抜け出るまでは、無我という観点から、実体的なものと考えられやすい身体的な自己を調御してゆくことがその始まりにあるとされた。そして煩悩の汚れを滅ぼしつづけることにより窟のうちに留まっているたましい(霊)を解脱するという観点から、真人の我となることを目的としてゆくということが、悟りへの道であると説かれていたようである。[53]真の悟りとはさとりの道を歩むことであることのもう一つの大きな特徴は、三つの束縛[54]について学ぶだけで、自他を含めて、聖者の流れに踏み入ることになるとされていたことである。[55]

初期の悟りの内容編集

あるバラモンに語ったとされる経文には、四種の禅定を完成して、明知が生まれたことが記されている。第四禅を成就したままにて生じた第一の明知においては、この宇宙が生成と消滅の幾多の宇宙期の過去を有しているものであることまでを知ることに至った。[56]その第一の明知によって、無明が滅び、暗黒は消滅して、光明が生じたとされている。 第四禅を成就したままにて生じた第二の明知においては、超人的な天眼を用いることが出来るようになり、この世界に生存するすべての衆生が死にまた生まれる様を見ることが出来るようになり、それぞれの生存者の業(内面的な部分)についても明らかに知ることが出来るようになったとされる。そしてさらに諸々の汚れを滅する智に心を向けたとされるが、その内容については説かれていないとされる。[57][58] そして、第四禅を成就したままにて生じた第三の明知においては、「解脱した(悟った)」という智が起こったとされているが、これは単なる自覚ではなく、第三の明知とされているので、自己を含めての諸々の生存者における悟りの現実を知る智慧と解釈できる。

また、過去現在未来にわたる阿羅漢(等正覚者と同じ)については、心に関して、心でもって知ることが出来るとされているので[59]、やがて弟子に悟達者が出てくるようになった頃には、「この世界に生存するすべての衆生」という枠組みを超えて、過去現在未来にわたるこの世界に生存するすべての阿羅漢の心のありさまを知ることができたと見ることもできる。

悟りと慈悲編集

苦行の7年間慈心を修したという詩句が残されているので、慈悲の体現は当初よりゴータマの修行の中心的位置を占めていたとする見解もある。[60]

法を明らかにするということが、ゴーダマの基本的な立場であった。修行僧において、人間としての理法を実践し、清浄な行いを久しく存続することは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人を憐れむために、神々(死んだ人)と人々との、利益・幸福につながることになるとしたとされる。[61]

カッサパは九次第定と六神通とに関してゴータマと等しいとゴータマから認められているとされたという。 [62]『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇には、カッサパはアーナンダに対して自らの悟りの内容について確認をしている。そこには、空間の無限性や意識の無限性を超越した境地や、宇宙期、他心通、心の解脱と智慧による解脱とを達成したことが記されている。カッサパはバラモン出身で、ゴータマと出会ってから八日目に開悟したとされる。[63]仏教教団が定住生活に移行した後も、林野に住み、厳しい修行生活(頭陀行)を送っていたとされる。バラモンの修行経験は長かったようであるが、慈悲の体現については心においていなかったようである。そのことは、ゴータマが最終的にそこに住したと思われる慈悲の境地(托鉢遊行・他心通・苦集滅道・対機説法)には至っていなかったと見ることができる。

自覚としての悟りのいろいろ編集

サーリプッタが解脱をしたときに、ゴータマが「再びこの存在に戻ることはないと開悟したことを明言したのか」と問うたとき、「内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、阿羅漢位に達した」と語ったとされる。他に、「内に専心して、内に向かうと道が出起」、「外に専心して外に向かうと道が出起」「外に専心して、内に向かうと道が出起」という四通りがあるとされる。[64]「この存在」という自己意識から解脱するとき、道(宇宙の真理)が出起すると見ることができる。

聖者ごとに解脱の内容がいろいろであり、聖者ごとに解脱の内容はいろいろで、複数あったとされる。[65]ゴーダマが到達したさとりの境地は深遠で、弟子には到達しがたいという反省から、滅後弟子たちの時代になると、さとりの深浅に応じて四向四果の段階が考えられた。[66]

在家信者においても師の話を聞いただけで悟ったという経文は多数あり、その中のある女性は、ある遊園に行った帰りに、ゴータマと出会い、「大いなる仙人のことばを聞いて、真実に通達し、まさにその場で、汚れのない真理の教え、、不死の境地を体得しました。」と語ったとされる。 [67]


初期仏教における清浄なる行い編集

清浄行の項目を参照

初期仏教の世界観編集

初期仏教の世界観の項目を参照

初期仏教の集団について編集

人は同類の人と交わり一体となるという考えがゴータマにはあり[68]、初期の集団では、比丘となる前に属していた集団や、比丘尼の集団、修行の段階ごとの集団などでまとまって生活をしていたようである。

あるときゴータマはギッジャクータ山にいて、弟子の集団を見ていたという。ゴータマからあまり遠くないところで、サーリプッタ(大いなる智慧を持っている比丘の集団)、モッガラーナ(大いなる神変を持っている比丘の集団)、カッサパ(林野に住み、厳しい修行生活を説く比丘の集団)、アヌルッダ(天眼を持っている比丘の集団)、プンナ(説法者とされる比丘の集団)、ウパーリ(戒の保持者とされる比丘の集団)、アーナンダ(多聞とよばれる比丘の集団)、デーヴァダッタ(ゴータマの方針とは異なる方針の比丘の集団)は、それぞれ多くの比丘たちと修行をしていたとされる。[69]

サーリプッタの例でいうと、彼はモンガッラーナとともに、それまで属していたある沙門の弟子250人とともに、ゴータマの弟子となったとされる[70]ので、基本的にはその集団に対して、ゴータマは対機説法を行っていたようである。また、ゴータマは尼僧の集団をはじめてつくったとされている。[71]尼僧の集団については、集団をけん引する指導者がはっきりせず、アーナンダが説法をしていたようであるが、未熟な比丘尼が多かったようである。[72]カッサパは九次第定と六神通とに関してゴータマと等しいとゴータマから認められた開悟者とされたが、対機説法においては、対機した幾人かの比丘尼が還俗したりしたことが記されており、慈悲という面では、及ばないところがあったようである。 [73]

デーヴァダッタの属していた集団は、悪人の集団と表記されているが、伝説にあるような悪行をなしたわけではなく、ゴータマの方針とは異なる方針を持っている異端者の集団というくらいの意味であったとされている。デーヴァダッタは当時の遊行の沙門たちが守るべき厳格な禁欲主義である、林野に住み、托鉢のみ、糞掃衣のみ、屋根のある家に住まない、魚や肉を食べないという、ゴータマの方針(定住生活に移行)とは異なる五つの法則を定め、自ら従ったとされる。それを支持した遊行の沙門たちとともに集団を形成したようであるが、悪行の伝説が創作されたのは、デーヴァダッタの死後であるとされる。ゴータマ自身は厳格な修行者としてのデーヴァダッタも受け入れ、対機説法をなしていったようである。[74]

釈迦仏教教団編集

釈迦がクシーナガラで死亡(仏滅)して後、直ぐに出家者集団(僧伽、サンガ; Early Sangha)は個人個人が聞いた釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を行った。これは「三蔵の結集」(さんぞうのけちじゅう)と呼ばれ、十大弟子の一人、マハーカッサパ(摩訶迦葉尊者)が中心になって開かれた。

仏典はこの時には口誦によって伝承され(このため当初は「多聞」(釈迦の教えを多く聞いた)が褒め言葉になっていた)、後に文字化された[注 2]釈迦の説いた法話を経・律・論と三つに大きく分類し、それぞれ心に印しているものを持ち寄り、仏教聖典の編纂会議を行った。これが第一回の三蔵結集である。この時、アーナンダウパーリの編集責任者となった。編集責任者が伝わっていないは、のちに根本分裂の原因となった。[独自研究?]

初期仏教からの展開編集

根本分裂編集

釈迦の死から約100年後のアショーカ王(前3世紀)のころ、仏教教団(プレ部派仏教英語版)は保守的な上座部と進歩的な大衆部とに分裂した。これを根本分裂と呼び、それ以前を初期仏教、以後を部派仏教と呼びならわす。分裂の原因は、上座部教典パーリ語経典に含まれる論蔵の解釈にあった。[要出典]

インド最大の宗派となった上座部の説一切有部は三世実有・法体恒有と云われる立場を完成させた。一方、大衆部及び上座部の経量部法蔵部は現在有体・過未無体を主張する立場となっていった。後者の集団について書かれた『八千頌般若経(29品)』の古写本が発見され、大乗仏教の形成期についての解明が期待されているが、研究結果は発表されていない。[要出典]

ただし、これらが分裂の要因とされたという見解については、漠然としているという説や、そのように画一的に線を引くことが出来るかどうかという点も指摘されており、分裂の原因は、いまなお、混沌としていて、研究結果不明の状態である。

年表編集

仏教宗派の伝来に関するタイムライン (紀元前450年 – 1300年)

  紀元前450年[75] 紀元前250年 100年 500年 700年 800年 1200年[76]

 

インド

初期
仏教

 

 

 

部派仏教 大乗仏教 密教

 

 

 

 

 

スリランカ ·
東南アジア

  上座部仏教

 

 
 

 

 

 

中央アジア英語版

 

ヘレニズム仏教英語版

 

チベット仏教

 

シルクロード仏教

 

東アジア英語版

  天台宗浄土教

真言宗

 

 

  紀元前450年 紀元前250年 100年 500年 700年 800年 1200年
  説明:   = 上座部仏教   = 大乗仏教   = 密教を兼学する大乗仏教


脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ Paul Williams, Mahayana Buddhism the Doctrinal Foundations, 1989, 2nd. ed.2009, 268頁註7で「小乗(Hīnayāna)」の変わりに「主流仏教(Mainstream Buddhism)」と呼ぶと述べ、以後この呼称を使用する学者が他にもいる
  2. ^ これに近いのがアーガマサンユッタ・ニカーヤであることが文献学的考証から定説になっている。(文献学的考証

出典編集

  1. ^ 三枝充悳『仏教入門』《岩波新書》、1990年[要ページ番号]
  2. ^ 前田惠學、「何故「原始仏教」か」『印度學佛教學研究』 49巻 2号 2001年 p.765-772, doi:10.4259/ibk.49.765,日本印度学仏教学会
  3. ^ Stanislaw Schayer, Ausgewählte Kapitel aus der Prasannapadā, 1931, IX頁; J. W. de Jong, Buddhist studies, 1979, 散説されるが、主に29頁以下
  4. ^ 岩波書店『仏典を読む1仏陀の生涯』2017年 P2 中村元 (前田専學 監修)
  5. ^ 岩波仏教辞典第二版P593 中村元ほか、スッタニパータの項目
  6. ^ ダンマパダも、スッタニパータとともに、現存経典のうちの最古の経典といわれる。岩波仏教辞典P927法句経の項目
  7. ^ 原始仏典Ⅱ相応部経典第一巻序文 前田専學
  8. ^ 『続仏教語源散策』東洋選書1977年中村元編 P38 結集の綱目 田上太秀
  9. ^ 『インド仏教の歴史』講談社P22 竹村牧男
  10. ^ 岩波書店『仏典を読む1仏陀の生涯』2017年 P71 中村元 (前田専學 監修)
  11. ^ 原始仏典Ⅱ相応部経典第一巻P447第4篇における注37 中村元ほか
  12. ^ 原始仏典Ⅱ相応部経典第一巻P448第4篇における注56 中村元ほか
  13. ^ 岩波仏教辞典第二版P19 中村元ほか、阿羅漢の項目
  14. ^ スッタニパータ 647 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くしに至った人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。
  15. ^ スッタニパータ 718 独り坐することと<道の人>に奉仕することを学べ。聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。
  16. ^ 『インド仏教の歴史』講談社2004年P58 竹村牧男
  17. ^ 岩波仏教辞典第二版P655 中村元ほか、対機説法の項目
  18. ^ 世界の名著2大乗仏典P22 
  19. ^ 岩波書店『仏典を読む1仏陀の生涯』2017年 P50 中村元 (前田専學 監修)
  20. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P114 中村元
  21. ^ 岩波文庫『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』P291訳注第五章注150 中村元
  22. ^ 過去七仏の観念があらわれ、第七人目の仏がゴータマであるとするようになったのは、後代になってからとされる。(原始仏典Ⅱ相応部第一巻P484第8篇注80 中村元ほか)
  23. ^ ウパニシャッドの言葉であっても、現存パーリ仏典よりも内容や言葉はかなり古いものをうけている。『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P136 中村元
  24. ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P152松本照敬
  25. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P114 中村元
  26. ^ 岩波仏教辞典第二版P371
  27. ^ 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P234松本照敬
  28. ^ 『世界の名著1 バラモン経典 原始仏典』中公バックス 昭和54年 P22 インド思想の潮流の項目 長尾正人 服部正明
  29. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P113 中村元
  30. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P118 中村元
  31. ^ 無我とは、アートマンが存在しないのではなく、我でもないものを我とみなしてはならないという考え方であり、「われという観念」、「わがものという観念」を排除しようとしたのである。(中村元著『佛教語大辞典』より) 『仏教語源散策』中村元編 1977年東京書籍P20無我の項目上村勝彦
  32. ^ 『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』岩波書店1986年P339第Ⅵ編第1章第2節注8中村元
  33. ^ 岩波仏教辞典第二版P901
  34. ^ 『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店1982年 P252注303 中村元
  35. ^ 『仏弟子の告白 テーラガーター』岩波書店1982年 P252注303 中村元
  36. ^ 『ブッダ 神々との対話』岩波書店1986年P248 第1篇第3章第5節注 中村元
  37. ^ 『ブッダ 神々との対話』岩波書店1986年P250 第1篇第3章第9節の注 中村元
  38. ^ スッタニパータ 772
  39. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店1984年 P379  注772 中村元
  40. ^ スッタニパータ 478
  41. ^ ゴータマはここで、人間のうちに存する霊的なものを考えていた。『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店1984年 P395  注875 中村元
  42. ^ アートマンと同じように、霊魂についても、悟りを得た時にはじめて清められる(真人的なもの・実存的なものとなる)とされるならば、肉体という窟にとどまる実体のない非我のようなものが、忍土の中で、内外からくる無明の闇にのまれている、というように見ることができる。
  43. ^ ゴータマは無余涅槃を排斥した。『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店1984年 P395注875 中村元
  44. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P136 中村元
  45. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P144 中村元
  46. ^ 『世界の名著1 バラモン経典 原始仏典』中公バックス 昭和54年 P22 インド思想の潮流の項目 長尾正人 服部正明
  47. ^ 悟りというものを宇宙原理たるブラフマンと真の自己との合一という観点から見た場合、小宇宙的概念としての内的世界(真人としての我)が、大宇宙の根本原理と合一すると言い換えることもできそうである。
  48. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P7 中村元
  49. ^ 肉体的な執着から離れた境地となり、意識が調和されるにしたがって、水が水蒸気になって拡大してゆくように、もう一人の我というものが拡大していって宇宙と一如と感じられるようになってゆくことを悟りとする説もある。内的宇宙が拡大して外的宇宙と合一することが佛への転換点であるとされている。『心の原点』P26 1973年 三宝出版 高橋信次
  50. ^ 『ブッダ入門』春秋社1991年 P113 中村元
  51. ^ 『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』岩波書店1986年P306第Ⅳ編第1章第4節注1中村元
  52. ^ 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店1984年 P415 注1026、P217 ・1033  中村元
  53. ^ 真実の自己を探求してゆくことが初期の仏教修行者の目的であったとされている。『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P244 中村元
  54. ^ 1,自身を実在とみなす見解と、2、疑いと、3外面的な戒律・誓い、という三つのことがらのことであるが、内容的には身体的な自分のほかに、真人の我がいるということを自覚することが中心とも見える
  55. ^ 死んだ500人以上の在家信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、(聖者の流れに踏み入った人)であり、悪いところに堕することのないきまりであって、必ずさとりを達成するはずである。『ブッダ最後の旅』岩波文庫P48中村元(大パリニッバーナ経二章7)
  56. ^ この宇宙の前には、幾多の宇宙の生成と消滅があり、それらの幾多の宇宙期における歴史と、そこにおける自らの一々の百千の生涯について思い起こすことができるようになったとされる。
  57. ^ ここで四諦に関連して書いてあることは、後世の付加であるとされている。『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P105 中村元
  58. ^ 諸々の汚れを滅する智は、自らが清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れない状態で生じたものであるので、この世に生きる諸々の生存者の諸々の汚れを滅することのできる智と見ることが出来る。
  59. ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P205注29 中村元
  60. ^ 『ゴータマ・ブッダ 釈尊伝』法蔵館1958年 P95 中村元
  61. ^ 『<仏典を読む>1ブッダの生涯』P145中村元(前田専學監修)
  62. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇P616注24  春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  63. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇P396解説  春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  64. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』P596 第1篇注60 春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
  65. ^ 『ブッダ最後の旅』 岩波文庫P204注28 中村元
  66. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第1篇P600注88  春秋社2012年 中村元監修 前田専學編集 浪花宣明訳
  67. ^ 『尼僧の告白』1982年岩波書店P36中村元
  68. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』P608第3篇注19 春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  69. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』P328第3篇第5節 春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  70. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』P596 第1篇注59 春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  71. ^ 当時のヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、東アジアを通じて、尼僧の教団なるものは存在せず、世界の思想史において驚くべき事実であるとされる。『尼僧の告白』1982年岩波書店P120 あとがき 中村元
  72. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』P616 第5篇注24 春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  73. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇P616注24  春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  74. ^ 『原始仏典Ⅱ相応部経典第2巻』 第5篇P609注23 春秋社2012年 中村元監修 浪花宣明訳
  75. ^ Cousins, L.S. (1996); Buswell (2003), Vol. I, p. 82; and, Keown & Prebish (2004), p. 107. See also, Gombrich (1988/2002), p. 32: “…[T]he best we can say is that [the Buddha] was probably Enlightened between 550 and 450, more likely later rather than earlier."
  76. ^ Williams (2000, pp. 6-7) writes: "As a matter of fact Buddhism in mainland India itself had all but ceased to exist by the thirteenth century CE, although by that time it had spread to Tibet, China, Japan, and Southeast Asia." Embree et al. (1958/1988), "Chronology," p. xxix: "c. 1000-1200: Buddhism disappears as [an] organized religious force in India." See also, Robinson & Johnson (1970/1982), pp. 100-1, 108 Fig. 1; and, Harvey (1990/2007), pp. 139-40.

出典編集

  • Buswell, Jr., Robert E. (ed.) (2003). Encyclopedia of Buddhism (MacMillan). ISBN 0-028-65718-7.

関連項目編集

  • 阿含経 - 初期仏教の教えを色濃く残す最古の経典集。

外部リンク編集

  • 初期仏教における聖典成立と修行体系
  • 初期仏教教団の研究 −サンガの分裂と部派の成立−
  • 安藤淑子、「原始仏教におけるkāmaの考察」『佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇』 46号 2018年 p.1-18, NAID 120006455767, 佛教大学大学院