台与
臺與 / 壹與(台与 / 壱与、とよ / いよ、235年 - 没年不明)は、日本の弥生時代3世紀に、『三国志 (歴史書)・魏志倭人伝』中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女である。卑弥呼の後継の男王(名は不明)の次に、13歳で女王になり倭をまとめたとされる。魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書倭国伝』『北史倭国伝』では「臺與」と記述されている。
臺與 | |
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倭 女王 | |
出生 |
235年 |
死去 |
不明 |
「台与」は「臺與」の代用表記であり、「壱与」は「壹與」の新字体表記である。臺與の表記・読みについては異説が多く詳細は後記。
表記・読み編集
壹與編集
『三国志』魏書東夷傳の倭人之条、(通称魏志倭人伝、陳寿編纂、3世紀・晋代)では2写本系統とも「壹與」と記載されている。発音は「い(ゐ)よ」か。
臺與編集
『梁書』諸夷伝 倭(姚思廉編纂、636年・唐代)、『北史』東夷伝(北史倭国伝、李延寿編纂・唐代)などに記述[1]。新字体では「台与」。
発音に関する議論編集
「臺與」を「とよ」と読むのが通説となっているが、これには議論がある。
- 「臺」の文字は中国の時代ごとにより、また地方ごとにより異なる。昔は[də]と表現していた時もあった。「ト」「ド」の音韻の音節があるとすればこれに該当する。但し一般には「ダ」が主流であり、隋の時代に「ダイ」に変化し、それがそのまま今の日本の発音になり、中国ではその後に「タイ」と変化していった。
- 「台」であれば、「と」と読めるということに異論は無いようである。しかし、「臺」と「台」は異なる文字である[2][3]。
- 「臺」を「と」と読む根拠は、例えば藤堂明保『国語音韻論』[4]に、「魏志倭人伝で、『ヤマト』を『邪馬臺』と書いてあるのは有名な事実である」と記載されていることに求められているが、これはすなわち「邪馬臺=ヤマト」という当時の通説に基づいた記述に過ぎないとする指摘がある[5]。もしこの意見が妥当なら、漢和辞典の記載を根拠に「『邪馬臺』はヤマトと読める、『臺與』はトヨと読める」と言ったところで、大元にある通説の同義反復に過ぎないことになるが、「臺」の発音に関する中国語音韻論による議論はこの意見とは無関係である[6]。また、そもそも「魏志倭人伝」には「邪馬臺」とは書かれておらず、「邪馬壹」(=邪馬壱)と書かれており、前提からして誤っている。
- 邪馬臺(邪馬台)の発音をヤマドとする説がある[7]。
魏志の編纂が後者二書に比べ大きく先行している。三書はいずれも『魏略』[8]を元にしていると考えられる。『魏略』には他の書に引用された逸文[9]が残っているが、そこには該当部分は存在しないため正確にはどう書いてあったのか不明である。
事跡編集
(この項では便宜上『台与』の名称で記述する)
魏志倭人伝によると、
正始8年(247年)に帯方郡[10]太守として王頎が着任した。
倭国は帯方郡へ載斯烏越ら使者を派遣し、親魏倭王の女王卑弥呼に未だ従わない狗奴国の男王卑弥弓呼を攻撃中であると(王頎に)報告した。
太守は塞曹掾史の張政らを派遣し、詔書および黄幢(魏帝軍旗)を難升米(なしめ)に授けて和平を仲介した。
後に女王卑弥呼が死ぬと径百余歩の大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬した。 後継者として男王が立った。 ところが男王を不服として国が内乱状態となり、千余人が誅殺し合った。
改めて卑弥呼の宗女である台与を13歳の女王として立てた結果、倭国は遂に安定した。
張政らは(幼くして新女王となった)台与に対し、檄文の内容を判りやすく具体的に説明した。
とされる。 張政が倭に渡った正始8年から、卑弥呼の死と台与の王位継承は、それ程年月が経っていないと思われる。
『日本書紀』の神功紀に引用される『晋起居注(現存せず)』に、泰初(「泰始」の誤り)2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝紀と四夷伝では、266年に倭人が朝貢したことは書かれているが、女王という記述は無い。卑弥呼#神功皇后説にもあるように、江戸時代にはこの女王は卑弥呼と考えられていたが、卑弥呼は249年(正始10年)までに逝去(『梁書』)してしまっていることから、近年ではこの倭国女王は台与のことであると考えられている。
なお、この正始10年(4月に改元されて嘉平元年)(249年)は、中国では曹操に始まる曹氏の魏から、司馬懿に始まる司馬氏の晋へ禅譲革命が行われる265年12月(泰始元年)に至る契機となった年である。
この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶え、次に現れるのは150年の後の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)である。
人物比定編集
台与を誰に比定するかという議論は、卑弥呼が誰であるかという議論、邪馬台国がどこにありどんな国家に受け継がれていったかと言う議論と、切り離すことができない。ただし卑弥呼と共に記紀に登場する人物とは限らないことに留意すべきである。
万幡豊秋津師比売 説編集
卑弥呼を天照大神(アマテラス)に比定する場合の説。万幡豊秋津師比売(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)は高御産巣日神(タカミムスビ)の娘。アマテラスの息子天忍穂耳命(アメノオシホミミ)と結婚し、天火明命(アメノホアカリ)と邇邇芸命(ニニギ)の母となった。アマテラスの極めて近い親族で名前の中に「トヨ」の文字がある彼女を台与に比定する説で、安本美典が『新版・卑弥呼の謎』(講談社現代新書)で述べている。彼女はアマテラスが主祭神である伊勢神宮の内宮の相殿神の一人であり[11]、安本はそれをこの説の根拠のひとつとしている。
天豊姫命 説編集
桂川光和が唱える説。尾張氏、海部氏の祖彦火明、七世孫建諸隅命の子、天豊姫を台与とする説。この人の二世代前に卑弥呼と思われる、日女命(宇那比姫)がある。[12]
豊玉姫命 説編集
石原洋三郎の説[13]。13歳の台与が登場した際、卑弥呼は少なくとも、70歳以上で没したと考えられ、その年齢差は60才以上と考えられる。 梁書倭国伝・北史倭国伝によれば、『正始年間(240-249年)、卑弥呼が死に、更に男王が立つが国中が服さず、更に互いに誅殺しあう。また卑弥呼の宗女である台与が立ち王となる。その後、また男王が立つ。』とあり、台与は短命かもしれない。 豊玉姫命は、天照大御神の曾孫である山幸彦と結婚をしているが、ウガヤフキアエズノミコトを出産した後、山幸彦のもとを去っている。
豊鍬入姫命 説編集
崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命に比定する説。天皇の命で天照大神を祭った初代斎宮が台与に当たるという説であり、この説の場合は卑弥呼を倭迹迹日百襲媛命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)と比定することが前提[14]だが、卑弥呼を倭迹迹日百襲媛命に比定する説は箸墓古墳の研究などから勢いを増している。
豊姫 説編集
神功皇后の妹の豊姫に比定する説。肥前国風土記の神名帳頭注に「人皇卅代欽明天皇の廾五年(564年)甲申、肥前國佐嘉郡、與止姫神鎭座。一名豐姫。」とあり、與止日女神社の祭神。
卑弥呼と台与が一人にされているという説編集
- 「二人の天照大神」説
「日本神話の天の岩戸伝説の前後の天照大神(アマテラス)は別の人物であり、それぞれ卑弥呼と台与である」という説[15]。この説を唱える者は、卑弥呼没年前後1月の皆既日食[16]によって岩戸隠れの神話を説明しようとすることが多い。
- 「二人の神功皇后」説
直接に明示された説ではないが、『日本書紀』は神功皇后の在位期間を、わざわざ卑弥呼と台与の両方を含む年代に設定しており、『日本書紀』の編纂に携わった人々は卑弥呼と台与のどちらも神功皇后のことだと考えていたと推定できる。
台与(壱与)が登場する作品編集
小説編集
- 長谷川潤二『まつら伊世姫』(集英社/スーパーファンタジー文庫、1991年)
- 定金伸治『kishin -姫神-』(集英社/スーパーダッシュ文庫、2001年)
漫画編集
- 寺島優(原作)、藤原カムイ(作画)『雷火』(初出はスコラ・現出版元は角川書店/Kamui Collection、2000年 - 2001年・連載は『コミックバーガー』1987年 - 1997年)
- 矢吹健太朗『邪馬台幻想記』(集英社/ジャンプ・コミックス、1999年・連載は『週刊少年ジャンプ』1999年12号 - 同年29号)
- 山岸凉子『青青の時代』(潮出版社/希望コミックス、1999年 - 2000年・連載は『comicトムプラス』1998年5月号 - 2000年2月号)
ゲーム編集
- TYPE-MOON『Fate/Grand Order』(2022年、声:小澤亜李)
注釈編集
- ^ 梁書諸夷伝
- ^ 「壹」と「壱」の場合は単に新旧の字体の違いで済むのだが、「臺」と「台」は元々別々の文字で後から「台」が「臺」の代替字となったに過ぎない。
- ^ 漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)のため教科書等では使用せざるをえない。
- ^ 江南書院 1957年
- ^ 『邪馬一国への道標』古田武彦、講談社 1978年
- ^ 藤堂明保編『漢和大字典』によると、「臺與」の上古音は[dəg-ɦiag]、中古音は[dəi-yio]、「邪馬臺」の上古音は[ŋiǎg-mǎg-dəg]、中古音は[yiǎ-mǎ-dəi]となる。
- ^ 長田夏樹「邪馬台国の言語」等
- ^ 魏代に編纂
- ^ 通称、逸文魏略
- ^ 朝鮮半島にあった魏の領土
- ^ 伊勢神宮#祭神参照
- ^ 『勘注系図』に見る、台与の系譜
- ^ 『邪馬台国』P56-57 石原洋三郎 令和元年(2019年)十月 第一印刷 p56-57
- ^ 小路信次『卑弥呼 千七百年の謎を解く―日本書紀には年代改変前の原形が残されている』近代文芸社 2005年
- ^ 井沢元彦『逆説の日本史』小学館 1993年
- ^ 毎日新聞(関西)朝刊 1995年7月25日、8月5日