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概要編集

国際都市・香港ポートピア'81で賑わう神戸を舞台に、真田扮する主人公が、肉親を謀殺した叔父と対決し、悪のシンジケートを追いつめ復讐を遂げる青春活劇[1][2][3]

キャスト編集

スタッフ編集

製作の経緯編集

1980年11月に公開された真田広之の初主演映画『忍者武芸帖 百地三太夫』は、真田を本格的アクションスターとして売り出そうと企画された作品であったが[4][5]、同作が興行不振に終わった後[4][6][7]、同作の監督・鈴木則文が京都に来ていた岡田茂東映社長と飲み、そこで岡田から「真田広之でもう一本やらせろ。俺も責任があるから、真田の。絶対客来るから」と頼まれた[7]。また千葉真一の「アクション映画を作りたい」という執念も承知しており[7]、この二人の情熱と鈴木自身も「『忍者武芸帖 百地三太夫』一本で真田を終わらせたくない」という真田への愛情と責任感から本作の製作を決意した[7]

脚本編集

『忍者武芸帖 百地三太夫』で脚本第一稿で岡田社長に却下されたジャッキー・チェン映画の影響が伺え『忍者武芸帖 百地三太夫』が暗い復讐劇に対して[5]、こちらも復讐劇ではあるものの、笑いも取り入れたさわやかな作りとなっている[5]。 

キャスティング編集

真田と対決するアブドーラ・ザ・ブッチャーは当時大人気であった[5]。 

撮影編集

香港ロケは1981年5月13日から16日まで行われた[8]

  • 5月13日にランタオ島での海上シーンの撮影。仇を追ってモーターボートで島に向かうシーンの撮影を予定していたが風が強く波も高かった。スタッフが鈴木監督に「吹き替えでやりましょう」と進言。真田は「香港くんだりまでロケにきて、吹き替えを使われたんじゃ、アクション・スターの名前に傷がつく」と怒り、「桃山城天守閣(セット)から飛び降りたことを考えりゃ(『忍者武芸帖 百地三太夫』での撮影)、どうってことないですよ! 」と必死に鈴木に食い下がった。真田はどんな危険なシーンでも一度も吹き替えを使ったことはなく、一度でもスタントマンを使えば、映画を観るお客さんは「あれは別の人がやってるんだ、と思うに違いない、中学からJACに通い苦労したことが水の泡になってしまう」という自身のアクション・スターとしての誇りから鈴木を説き伏せた。モーターボートは時速80キロで吹き飛ばし、水煙で前は見えず、カメラも追えないスピードだった。撮影終了後はパンツまでぐっしょり濡れた[8]
  • 5月14日香港二階建てバスの屋根の上での決闘シーンの撮影。小雨が降りバスの屋根は濡れて滑りやすく、しかも想像以上に揺れが激しかった。撮影は香港のメインストリートネイザンロード。屋根から落ちれば、後続の車に確実に轢かれる。失敗は許されない。念入りに打ち合わせ後、30キロから40キロのスピードでバスを走らせアクションスタート。道路上に張り出した看板がやけに多く、そのたびに屋根に這いつくばらなくてはならない。突然本物のパトカーサイレンを鳴らし追って来て、助手席の警官がピストルに手をやったため、バスが急停車。あやうく振り落とされそうになる。警官と話がつきロケが再開された。バスの屋根から看板に飛び移るシーンは一発で決めた[8][9]
  • 5月15日九龍城ロケ。ここは現地の人も怖がって足を踏み入れず、映画のロケ隊が入るのは初めてといわれた[注釈 1]。香港の暗黒街を支配する大ボスに話をつけロケが許可された。人一人がやっと通れる細い路地ばかりで昼間なのに薄暗く異様な匂いが漂う。ロケ隊前で若い女がスカートを捲り上げ麻薬を注射したり、小さな子供までタバコを吸うような場所だった[8]。鈴木はこれら香港ロケは、鈴木の友人でショウ・ブラザーズ副社長だった蔡瀾が裏から手をまわしてくれ、通常絶対撮影不許可のロケが敢行できたと述べている[6][7]
  • 5月16日、水上レストランのシーンで香港ロケ終了[8]
  • 6月12日福井県三国町東尋坊で岩場から20メートル下の海にダイブする撮影が行われた[9][11]。桃山城のときは下にエアマットが敷いてあったが、今回は海なのでそういうものは敷けず、潮が澄んでて海底の岩がよく見え緊張したが無事ダイブに成功した[9]

作品の評価編集

興行成績編集

松田聖子主演『野菊の墓』との同時上映。松田は当時すでに人気が爆発しており、松田の主演第一作ということもあって映画製作中からマスメディアもよく取り上げパブリシティは充分だった。真田広之は1981年に入って「週刊セブンティーン」などのティーン雑誌にピンナップグラビア、特集などで取り上げられるようになり[12]、1981年の春頃から人気が急上昇し[13][14]、その頃から「明星」や「近代映画」などのアイドル雑誌やティーン雑誌に度々グラビアや特集記事などで取り上げられるようになった[14][15]。また、1981年7月から大正製薬リポビタンDCMに起用され「ファイト・一発!」シリーズで勝野洋とコンビを組み[16]、お茶の間の知名度を上げた[5]。急上昇した真田人気と松田人気もあり[6]東宝の超大作『連合艦隊』(配給収入19億円)、松竹男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』(配給収入13.1億円)を向こうに回して配給収入8億円[17]、配給収入10億円のヒットを記録した[6]。ただ、松田と真田のファン層が全く違ったため、一方の映画だけ観て、もう1本の方は観ないで帰ったといわれた[18]。またファン層の年齢が低いため、東映が強かった午後3時以降の夜の入りが極端に悪かった[19]

批評編集

映画評論家桂千穂は「主演スタア・真田広之青年のしなやかで強靭な肉体が、跳んだりハネたり登ったり格闘したりするのを見ているだけでワクワクした。邦画でこんな経験は絶えてなかった。プロットは至極単純だが篇中至るところで展開する真田とJACとの激闘ぶりは、まさしく観客への献身的サービスの極致であり、人間ワザとはとても思えぬ瞬間すら感じさせる。勿論、鈴木監督最近の作中でもずば抜けたまとまりとテンポを持つ。ほんの例外を除いては、前作『忍者武芸帖 百地三太夫』のようなお涙シーンやセックス描写で、話の展開を渋滞させる弊に陥ってない。ところどころ、笑いまで散りばめられているのも快い」などと評した[20]

二階堂卓也は「久しぶりに日本映画のイキのいいアクションを見ることができた。単に格闘場面のみならず、ギャグチックなど街頭での追っかけなど、映画はやはり動いていなければならない。ヤングに人気のあるという真田広之は、演技面はともかく、立ち回り、アクションだけはさすがに素晴らしい。マスクもまあまあだし、ゼイ肉のない筋肉質の肉体は一昔前の千葉真一を彷彿とさせる。真田とプロレスラー、ボクサー、達人との戦い、京都の町を疾駆する自転車をうまく使っての笑い、敵の巣窟に乗り込んでの大立ち回りは、カンフーの本場・香港映画も顔負けのスピーディかつ小気味良さを発揮している。久しぶりに見る東映現代活劇のエネルギーを感じさせる。しかしドラマの骨子が弱い。真田がアメリカで育ったという過去も本筋に全然生きていないし、香港=麻薬という図式も旧態依然たるものだし、悪玉のボスの貧困から成り上がろうとする野望もみみっちい。悪が悪たるべき、善が善たるべきバックボーンが欲しい。真田が文字通り体を張って孤軍奮闘しているだけに、一本芯が通ってこそ、彼と悪党どものアクションも、より生きたのではないか。撮入前の脚本にもっと時間をかけてほしいのである。個人的にはヤング志向に、という今の、あるいは今後の東映路線には反対だ。この『吼えろ鉄拳』はともかく、併映が『野菊の墓』とは正に泣けてくる。なぜ東映が原作・伊藤左千夫なのか、なぜ松田聖子なのか。この会社の本質はやはり暴力とポルノだろう。これは昭和三十年代初期からあの三角マークを見続けてきた一人として素直な感想である」などと評している[21]

後続作品への影響編集

本作は海外でも売れ、フランス語吹き替えで『Roaring Fire』というタイトルでソフトが発売された[7]。海外のカンフー映画マニアの間でも高く評価されるJAC作品の一つといわれる[7]

1980年代に入ると大作一本立ての時代が来て、撮影所育ちでない監督の登用も増え、鈴木則文のような撮影所出身の監督が容易に映画を撮れない困難な時代になった[22][22]。鈴木は1970年代後半に『トラック野郎』という鉱脈を掴み、東映の主力級監督になったが「トラック野郎シリーズ」が1979年で終わり1980年代に入ると、マンガ原作やアイドル映画、そして本作を含む千葉真一の主宰するJACと組んだ映画の量産でこれを乗り切っていく[22]。鈴木自身も「"トラック野郎シリーズ"の突然の打ち切りは、懐かしい映画故郷〈アクション活劇〉への道をわたしに歩ませることになった」と述べている[6]

同時上映編集

野菊の墓

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 1977年の『ゴルゴ13 九竜の首』が最初とするものもある[10]

出典編集

  1. ^ 「邦画ストーリー 吼えろ鉄拳」『近代映画1981年昭和56年)12月号、近代映画社、 189頁。
  2. ^ 「グラビア」『キネマ旬報1981年昭和56年)8月下旬号、キネマ旬報社、 38 - 39頁。
  3. ^ 吼えろ鉄拳 | 日本映画製作者連盟吼えろ鉄拳 | 東映ビデオ株式会社
  4. ^ a b シネアルバム 1981, pp. 154–155.
  5. ^ a b c d e ドラゴン大行進 1996, pp. 226-227.
  6. ^ a b c d e 東映ゲリラ戦記 2013, pp. 183-184.
  7. ^ a b c d e f g 柳下毅一郎・田野辺尚人「鈴木則文の世界 鈴木則文ロングインタビュー」『映画秘宝』、洋泉社、2005年3月、 58頁。
  8. ^ a b c d e 「真田広之香港ロケ日誌 二階バスの屋根で命がけアクション」『近代映画』1981年(昭和56年)10月号、近代映画社、1981年、 95 - 97頁。
  9. ^ a b c 「躍動!真田広之 現代アクション初主演作 吼えろ鉄拳」『明星』1981年(昭和56年)9月号、集英社、1981年、 187頁。
  10. ^ ゴルゴ13 九竜の首 | 日本映画製作者連盟
  11. ^ 「HIROYUKI完全燃焼! 自殺の名所で決死の20メートル空中ダイブ」『週刊セブンティーン』1981年(昭和56年)7月7日号、集英社、 38 - 43頁。
  12. ^ 週刊セブンティーン』1981年(昭和56年)1月27日号、集英社、1981年、 5頁。
  13. ^ 「真田広之近況大レポート ぜ~んぶ初体験ばっかし! 歌・映画・ミュージカル」『週刊セブンティーン』1981年(昭和56年)5月12日号、集英社、1981年、 46 - 49頁。
  14. ^ a b 「こちら情報局。いぜん快情報をキャッチ中! 『柳生あばれ旅』で人気アップの真田広之が、歌と映画に燃える。」『明星』1981年(昭和56年)6月号、集英社、1981年、 117頁。
  15. ^ 「スクリーンからとび出したニュースター真田広之 生い立ちストーリー」『月刊平凡』1981年(昭和56年)3月号、平凡出版、 172 - 175頁。
  16. ^ 広告ポスター STAGE3「ダブルタレント時代」 |リポビタン広告の歴史
  17. ^ 竹入栄二郎「アイドル映画 データ分析」『キネマ旬報』1983年(昭和58年)8月下旬、キネマ旬報社、 41頁。
  18. ^ シネアルバム 1982, pp. 0-15.
  19. ^ 「映画・トピック・ジャーナル 前年並を維持した"夏場興行"」『キネマ旬報』1981年(昭和56年)9月下旬号、キネマ旬報社、 176 - 177頁。
  20. ^ 桂千穂「邦画傑作拾遺集28」『シナリオ』1981年(昭和56年)10月号、日本シナリオ作家協会、 18頁。
  21. ^ 「日本映画批評」『キネマ旬報』1981年(昭和56年)9月下旬号、キネマ旬報社、 166頁。
  22. ^ a b c 風雲録 2010, pp. 298-299.

参考文献編集

  • 佐藤忠男山根貞男『日本映画1981 '1980年公開映画全集 シネアルバム(82)』芳賀書店、1981年。ISBN 4-8261-0082-5
  • 佐藤忠男・山根貞男『日本映画1982 '1981年公開映画全集 シネアルバム(88)』芳賀書店、1982年。ISBN 4-8261-0088-4
  • 「ファイト・一発!ディーク真田!」『映画秘宝Vol.3 ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進』洋泉社、1996年。
  • 鈴木則文『トラック野郎風雲録』国書刊行会、2010年。ISBN 978-4-336-05234-6
  • 鈴木則文『東映ゲリラ戦記』筑摩書房、2013年。ISBN 978-4-480-81838-6

外部リンク編集