富永章敬

日本の元プロ野球選手 (1972-)

富永 章敬(とみなが あきのり、1972年4月17日 - )は、愛知県名古屋市中川区一色新町出身の元プロ野球選手[1]投手外野手[6])。右投右打[1]

富永 章敬
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市中川区一色新町[1]
生年月日 (1972-04-17) 1972年4月17日(52歳)[2]
身長
体重
183[注 1][1][2] cm
78[3][2] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手外野手[6]
プロ入り 1990年 ドラフト外[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴 編集

プロ入り前 編集

1972年4月17日、名古屋市中川区一色新町で生まれた[1]市立西前田小学校4年生の時にクラブ活動で野球部に入部し、6年生の時に投手になった[1]市立助光中学校への進学後も野球部に所属し、3年生の時には一塁手で主将を務めた[1]

愛知県立蟹江高等学校へ入学後、肩の強さを買われて投手へ転向した[注 2][7]。蟹江高校は野球に関しては無名校であり、野球部でも本格的な指導をできる教諭がいなかったことから[9]、監督からは独学で野球の練習をするように言われていたという[10]。富永本人は当初、野手に魅力を感じていたことから投手転向には消極的だったが、制球力がついたことで三振を取る面白さを感じるようになったという[7]。高校時代はほとんど速球だけの投球で、3年間に投球回約200イニング、通算162奪三振を記録した[7]。高校3年生だった1990年の春の県大会ではベスト8まで進出する原動力になったが、東邦高校との準々決勝で12失点と打ち込まれて敗退した[1]。中央球界では無名だったが、この大会で中日ドラゴンズスカウトの目に留まったことがプロ入りのきっかけとなった[8]。担当スカウトは新宅洋志(富永の入団後にバッテリーコーチに就任)で[1][11]、新宅は富永の父親と同じ島根県出身であることから互いに懇意にしていたという[1]。同年夏の愛知県大会ではエース投手かつ5番打者として臨んだが[12]一宮工業高校に3回戦で敗退した[1]。本人はプロ入り後も、この試合を「思い出の試合」に挙げている[2]。同大会前には大会屈指の本格派投手として、プロのスカウトが目を光らせている逸材と報じられていた[13]

11月24日に開催されたドラフト会議では指名有力とされながらも[注 3][15]、12球団のどこからも指名されなかったが、中日からドラフト外で入団するよう勧誘され、既に推薦入学が決まっていた愛知工業大学への進学を断念して中日に入団、同月26日に入団発表が行われた[1]契約金は1500万円、入団時の年俸は360万円(いずれも推定額)だった[16]。また、蟹江高校出身のプロ野球選手は彼が初であった[8]背番号58[17]。同期で入団した選手には、ドラフト指名選手として小島弘務(ドラフト1位)、矢野輝弘(ドラフト2位)、森田幸一(ドラフト5位、1991年にセ・リーグ新人王を獲得)ら6人がおり、同じドラフト外入団の選手では加賀元がいた[4]

プロ入り後 編集

単位認定の厳しい県立高校出身であったため、プロ1年目の1991年は春季キャンプ直前まで昼間は学校で授業を受け、夜は屋内練習場で筋力トレーニングに励むという生活が続いていた[7]。同年4月11日には近藤真一中嶋治彦辻本弘樹、加賀、小池貴志とともに支配下選手登録を外されて「準支配下選手」[注 4]として公示された[18]。同月末にスライダーを投げた際[11]投球フォームが我流だったことが原因で右肘を痛め、5月以降は9月に投球練習を再開するまでボールを握ることができなかった[9]。その間、「三軍扱い」でランニングによる下半身強化に取り組んだ[11]。同シーズンは同じドラフト外で入団した加賀が二軍ウエスタン・リーグで登板を重ねていた中[9]、富永は一軍だけでなく二軍でも登板機会はなかったが、下半身強化を経て投手コーチの水谷啓昭から投球指導を受けて腕を真上から振り下ろす投球フォームを身に着け、本人も球速が高校時代より速くなったと実感していた[11]。同年秋の沖縄キャンプ[注 5]球速150 km/h近くの速球を首脳陣から評価されていた[21]。同年オフには年俸400万円(増額)で契約更改した[22]

2年目の1992年1月には快速球を買われ[21]、主力投手である郭源治小松辰雄与田剛らとともに、オーストラリアゴールドコースト[注 6]で開催された合同自主トレーニングのメンバーとして選抜された[24]。一軍のオープン戦にも登板するなど大きな期待をかけられていたが、同年も右肩と肘を痛め[25]、一軍公式戦での登板はなかった[26]。二軍では3試合に登板して投球回7イニングを記録したものの、5被安打4与四球1与死球、奪三振はゼロ、5失点(いずれも自責点)、000セーブ防御率は6.43という成績だった[26]。同年オフには年俸400万円(現状維持)で契約更改した[27]

1993年は右肘の故障に泣かされ[2]、同年も一軍出場の機会はなく、二軍で4試合に登板して投球回5イニングを記録、0勝0敗0セーブ、防御率5.40、被安打10、被本塁打1、与四球4、奪三振1、3失点(いずれも自責点)という成績だった[28]。同年オフには年俸410万円(増額)で契約更改した[2]

1994年はシーズン途中で投手から外野手に転向した[6]。同シーズンは一軍・二軍とも投手としての登板はなく、二軍では打者として5試合に出場したが、3打席(3打数)無安打1得点の成績に終わった[29]。シーズン終了後の黒潮リーグには野手として参加しており、本人も打者として結果が出始めたと感じていたが[6]、同年10月19日に戦力外通告を受けた[6][30]。他球団での現役続行を希望し[6]、同月27日付で自由契約選手となった[31][32]。プロ入りから退団まで、一軍公式戦で登板することはなかった[33]

選手としての特徴 編集

プロ入り当時は球速140 km/hの速球を武器とする本格派投手と評されていた[16]。その速球は高校2年生だった1989年夏時点から高く評価されていたが、コントロールにやや難がある[34]、投球が単調になる傾向にあるという評価もあった[12]。また肘の使い方が良く、しなりがあるとも評されていた[5]。長打力もあり、高校3年生の時には場外本塁打も打っていた[5]

担当スカウトの新宅は富永の腕の振りの良さを高く評価しており、下半身を鍛えれば将来大いに期待できると評していた[1][8]。ドラゴンズの親会社である中日新聞社の発行する『中日スポーツ』紙上では、同じくドラフト外でプロ入りした先輩である西本聖のような活躍を期待されていた[1]

中日で投手コーチとして富永を指導した水谷は、「野球王国」の愛知県でも無名校である蟹江高校には野球をしっかり指導できる監督がいなかったため、富永は我流で投げていたと評し、また1991年秋季キャンプでは牽制球フィールディング、制球力といった課題点を挙げつつも、球速と大きな投球フォームを高く評価し、「期待度という点では、若手の中で一番なんだ」と述べていた[11]。同キャンプで臨時コーチを務めたトム・ハウスも、富永を「素晴らしい素質を持った選手」と高く評価していた[9][11]。1992年のオーストラリアキャンプで富永の投球を見た郭源治は、伸びのある速球を高く評価しており、投球フォームに関するアドバイスを精力的に送っていた[21]

人物 編集

ビル・ガリクソンに顔が似ていたことからガリーという愛称があった[5]。カラオケの十八番は『想い出の九十九里浜[22]

本人はプロ入りの際、チームの先輩である今中慎二のように腕の振りの良い投手になることを目標として掲げ[16]、また「究極の目標」として金田正一を挙げていた[7]。プロ入り当時、蟹江高校の野球部部長を務めていた高橋和久は、富永が練習後も一人で木曽川の河川敷でランニングしていたことを語っており[1]、またプロ入り直後も他の選手たちが里帰りする中、年末の12月28日まで屋内練習場で練習していたことや[10]、1年目の秋季キャンプで休日返上で精力的に練習していたことが報じられていた[9]

1990年12月22日に行われた新人選手入団会見に富永を含む新人選手8人が出席した際には、富永だけは他の新人選手たち7人とは異なり、中日のユニフォームではなくMLB球団であるロサンゼルス・ドジャースのユニフォームを着用しており[注 7][4][11]、当時の『中日スポーツ』でもその旨が報じられていた[4]。これは当時、背番号が入っていない入団会見用のユニフォームとドジャースのユニフォームを同じ場所で保管していたところ、間違えた可能性があるということで、同じく新人選手として同席していた小島弘務寺西秀人(同年時点で球団代表補佐)も、当時は富永のユニフォームが間違っていたことに気づかなかったという[37]。この逸話は33年後の2023年12月に大谷翔平がドジャースに入団したことを受け、中日とドジャースのユニフォームが互いに似ていることがSNSで話題になった際、名古屋テレビ放送(メ~テレ)の情報番組『ドデスカ!+』が視聴者からの情報提供を受けて報じたことがきっかけで改めて注目された[37][33]

詳細情報 編集

年度別投手成績 編集

  • 一軍公式戦出場なし[33]

背番号 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 182 cmとする文献もある[3][4][5]
  2. ^ 転向時期は入学と同時とする報道[7]、2年生の時とする報道がある[8]
  3. ^ A・B・Cの3段階評価ではC評価だった[14]
  4. ^ 「準支配下選手」については河野博文#失踪騒動も参照。
  5. ^ 沖縄県石川市(現:うるま市)の石川市営球場で同年10月23日から[19]、11月21日まで開催された[20]
  6. ^ 中日は1989年から1992年にかけ、春季キャンプをゴールドコーストのパームメドウ球場と石川市営球場で行っていた[23]
  7. ^ 中日は星野仙一が監督に就任した1987年から2003年の17シーズンにわたり、ドジャースのホーム用ユニフォームをモデルにしたホーム用ユニフォームを用いていた[35]。これは中日がドジャースと業務提携していた縁で実現したもので、その後変更はあったが、星野の下でプレーした立浪和義が監督に就任して2年目の2023年には星野時代と同じデザインのホーム用ユニフォームが再び導入されている[36]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 中日スポーツ』1990年11月27日付第5版一面1頁「富永(蟹江高)中日入り 今季ドラフト外1号 天性の腕の振り、140キロ速球 新宅スカウトほれ込んだ」(中日新聞社
  2. ^ a b c d e f g 「保存版94プロ野球全選手写真名鑑」『週刊ベースボール』第49巻第8号、ベースボール・マガジン社、1994年2月28日、72頁、NDLJP:7909860/1/39  - 通巻:第2043号(1994年2月28日号)。
  3. ^ a b 『中日新聞』1990年12月23日朝刊運動一面21頁「即戦力頼むゾ 中日、新入団8選手を発表 小島「速球でグイグイ」」(中日新聞社)
  4. ^ a b c d 『中日スポーツ』1990年12月23日第5版3頁「小島矢野吉田森田寺西 期待の豪州キャンプ切符 輝け中日の星、新人8選手入団発表 私が名前呼べる選手になれ 星野監督熱いエール」「ドジャースの富永!?」(中日新聞社)
  5. ^ a b c d 「保存版91プロ野球全選手写真名鑑」『週刊ベースボール』第46巻第8号、ベースボール・マガジン社、1991年2月25日、128頁、NDLJP:7909686/1/65  - 通巻:第1869号(1991年2月25日号)。
  6. ^ a b c d e f 『中日スポーツ』1994年10月20日第5版2頁「4選手に戦力外通告」(中日新聞社)
  7. ^ a b c d e f 『中日新聞』1991年1月25日朝刊運動一面25頁「飛び出せ若竜 '91新戦力(8) 富永章敬投手 ドラフト外 腕の振り光る速球派」(中日新聞社) - 縮刷版1125頁。
  8. ^ a b c d 『中日新聞』1990年11月27日朝刊県内総合版19頁「【愛知県】夢かないうれしい 蟹江高の冨永投手 ドラゴンズ入団発表」(中日新聞社) - 縮刷版1197頁。
  9. ^ a b c d e 『中日スポーツ』1991年11月17日第5版3頁「ドラフト外ルーキー 沖縄キャンプで脚光 剛腕富永 150キロズバッ グングン素質開花 来季の秘密兵器へ名乗り 4ヵ月間の走り込みの成果」(中日新聞社)
  10. ^ a b 『'91 ドラゴンズファンブック』1991年3月6日発行、33頁「58 富永章敬 小松さんがぼくの夢」、中日ドラゴンズ(発行・企画制作)、中日新聞社(発売)
  11. ^ a b c d e f g 「12球団週間通信 中日ドラゴンズ 今週の特集 今週のテーマ 秋季キャンプの赤マルチェック男集合! 150キロ右腕が表舞台に飛び出すのはいつ? 首脳陣が待ち焦がれる富永章敬が“与田を超える日”」『週刊ベースボール』第46巻第54号、ベースボール・マガジン社、1991年12月9日、75頁、NDLJP:7909732/1/38  - 通巻:第1915号(1991年12月9日号)。
  12. ^ a b 『中日新聞』1990年6月28日朝刊市民総合版19頁「【愛知県】甲子園めざして 高校野球愛知大会出場175校の横顔(128) シャープな振り心がけ 蟹江」(中日新聞社)
  13. ^ 『中日新聞』1990年7月12日朝刊市民総合版19頁「【愛知県】“熱球ドラマ”栄光は? 高校野球愛知大会の展望(中) Cゾーン」(中日新聞社)
  14. ^ 『中日スポーツ』1990年11月24日付第5版2頁「本紙特選ドラフト候補100人」(中日新聞社)
  15. ^ 『中日スポーツ』1990年11月21日付第5版3頁「ドラフトあと3日、中部地区の候補87選手」(中日新聞社)
  16. ^ a b c 中日新聞』1990年11月27日朝刊運動一面23頁「ドラフト外で富永 中日の正式入団第1号 蟹江高の140キロ右腕」(中日新聞社) - 縮刷版1201頁。
  17. ^ a b 『中日新聞』1991年1月13日朝刊運動一面27頁「新外国人ライアル16、アンダーソンは28 中日の背番号」(中日新聞社)
  18. ^ 『中日新聞』1991年4月12日朝刊運動1面27頁「セが準支配下選手59人を公示」(中日新聞社)
  19. ^ 『中日新聞』1991年10月24日朝刊運動一面27頁「緩い球こう打て 落合が野球教室 中日沖縄キャンプ 立浪ら若手を指導」(中日新聞社)
  20. ^ 『中日新聞』1991年10月23日朝刊運動二面22頁「竜、沖縄入り 秋季キャンプ 来月21日まで」(中日新聞社)
  21. ^ a b c 『中日新聞』1992年1月26日朝刊運動二面24頁「【ゴールドコースト(豪州)25日末次秀行】抜てき富永“登板” 豪の中日自主トレ 郭が好アドバイス」(中日新聞社) - 縮刷版1130頁。
  22. ^ a b c 「保存版92プロ野球全選手写真名鑑」『週刊ベースボール』第47巻第7号、ベースボール・マガジン社、1992年2月24日、116頁、NDLJP:7909743/1/59  - 通巻:第1926号(1992年2月24日号)。
  23. ^ 12球団春季キャンプ地変遷”. NPB.jp. 日本野球機構 (2024年). 2024年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年2月17日閲覧。
  24. ^ 『中日新聞』1992年1月17日朝刊運動二面26頁「富永を大抜てき 豪自主トレ33人を発表」(中日新聞社) - 縮刷版732頁。
  25. ^ 『'94ドラゴンズファンブック』1994年3月16日発行、54頁「58 富永章敬」、中日ドラゴンズ(発行・企画制作)、中日新聞社(発売)
  26. ^ a b 「保存版 記録の手帳 92年プロ野球ペナントレース総括 公式戦出場全選手個人成績」『週刊ベースボール』第47巻第55号、ベースボール・マガジン社、1992年12月14日、101頁、NDLJP:7909791/1/51  - 通巻:第1974号(1992年12月14日号)。
  27. ^ a b 「保存版93プロ野球全選手写真名鑑」『週刊ベースボール』第48巻第7号、ベースボール・マガジン社、1993年2月22日、146頁、NDLJP:7909801/1/73  - 通巻:第1984号(1993年2月22日号)。
  28. ^ 「保存版 記録の手帳 93年プロ野球ペナントレース総括 公式戦出場全選手個人成績」『週刊ベースボール』第48巻第55号、ベースボール・マガジン社、1993年12月13日、69頁、NDLJP:7909849/1/35  - 通巻:第2032号(1993年12月13日号)。
  29. ^ 「保存版 記録の手帳 94年プロ野球ペナントレース総括 公式戦出場全選手個人成績」『週刊ベースボール』第49巻第56号、ベースボール・マガジン社、1994年11月21日、69頁、NDLJP:7909908/1/35  - 通巻:第2091号(1994年12月19日号)。
  30. ^ 『中日新聞』1994年10月20日朝刊運動二面24頁「中日、12人と契約せず」(中日新聞社)
  31. ^ 『中日スポーツ』1994年10月28日第5版2頁「◆コミッショナー公示(27日)【自由契約選手】▽中日 吉田太投手、富永章敬投手、横田真之外野手▽広島 ブラウン内野手」(中日新聞社)
  32. ^ 「12球団週刊事件簿 > 中日ドラゴンズ」『週刊ベースボール』第49巻第52号、ベースボール・マガジン社、1994年11月21日、52-53頁、NDLJP:7909904/1/27  - 通巻:第2087号(1994年11月21日号)。
  33. ^ a b c 大谷翔平のドジャースとユニが似ていると話題の中日 1990年の入団会見ではなぜか一人だけ「ドジャース」だった新人がいた」『中日スポーツ』中日新聞社、2023年12月12日。2024年2月17日閲覧。オリジナルの2024年2月17日時点におけるアーカイブ。
  34. ^ 『中日新聞』1989年6月9日朝刊市民総合版21頁「【愛知県】甲子園めざして 高校野球愛知大会出場172校の横顔(14) 蟹江」(中日新聞社)
  35. ^ 『中日新聞』2004年1月16日朝刊一面1頁「竜キリリ衣替え 17年ぶり」(中日新聞社)
  36. ^ 中日にも大谷効果? ドジャースと酷似ユニが人気―プロ野球」『時事ドットコム』(時事通信社)、2024年1月25日。2024年2月17日閲覧。オリジナルの2024年2月17日時点におけるアーカイブ。
  37. ^ a b 中日ドラゴンズ入団会見に、1人だけドジャースのユニホーム姿の選手が! "激似"が招いた33年前の珍事」『ドデスカ!+名古屋テレビ放送、2023年12月13日。オリジナルの2024年2月17日時点におけるアーカイブ。

関連項目 編集