小坂 勝仁(おさか かつひと、1968年6月14日 - )は、大阪府大阪市出身[1]の元プロ野球選手投手)、日本の芸能マネージャー

小坂 勝仁
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市阿倍野区
生年月日 (1968-06-14) 1968年6月14日(56歳)
身長
体重
179 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1990年 ドラフト2位
初出場 1991年9月1日
最終出場 1996年6月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物

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小学3年の時に野球(あべのベアーズ)を始め、投手として中学時代に大阪府大会ベスト4[1]東海大仰星高では1年生の秋からエースとなる。1984年秋季近畿大会府予選決勝では、PL学園高桑田真澄と投げ合うが1-21で大敗。PL学園とともに近畿大会に進むが、1回戦で天理高に惜敗し春の選抜出場を逸する。

1985年も、夏の甲子園府予選決勝に進出。PL学園高と再び対戦するが、清原和博に2本塁打を喫し、桑田に完封を許す[1]。同年の秋季近畿大会府予選も、準決勝でPL学園高の野村弘樹らに抑えられ9回サヨナラ負けに終わった。

1987年に高校卒業後、東北福祉大学に進学。最速144km/hの速球とフォークを武器に活躍。仙台六大学野球リーグでは在学中7回優勝。1990年、4年春のリーグ戦に優勝し、最優秀投手、ベストナイン選出。続く全日本大学野球選手権大会では、準々決勝の水口栄二鈴木浩文、1年生大越基投手擁する早稲田大学戦では、早大4番打者斎藤慎太郎のあわや左中間本塁打かという当たりの1安打のみの完封1-0で早大エース市島徹との投手戦に投げ勝った。準決勝の国際武道大学戦は完勝し、決勝に進みエース小池秀郎高津臣吾川尻哲郎ら3枚看板投手擁する亜細亜大学戦に先発した。小池との息詰まる投手戦のさなか2本の本塁打を連続して浴び1-2で惜敗するもののチームを準優勝に導いた。大学同期に吉田太投手、矢野燿大捕手、宮川一彦らがいる。2学年上に上岡良一投手、1学年上に佐々木主浩投手や大塚光二、1学年下に斎藤隆作山和英の投手陣、金本知憲(1浪入学)、浜名千広伊藤博康らがいた。

1990年のプロ野球ドラフト会議ヤクルトスワローズから2位指名を受け入団[1]

1991年から一軍登板を果たし、同年の秋季キャンプでシュートを持ち球に加えた。

1992年終盤の阪神タイガースとの優勝争いではプロ初セーブを記録。

1993年にはプロ初勝利も挙げ、中継ぎとしてヤクルトの連覇に貢献した。

1995年にはイースタン・リーグで9勝し、最多勝を獲得するも1軍ではヤクルト在籍時としては自己最低の成績に終わり、11月に荒井幸雄と共に木下文信+金銭の交換トレードで近鉄バファローズに移籍[1]

1996年6月9日の対西武戦(新潟)の1試合に登板したのみに終わり、同年11月に戦力外通告を受け現役引退[1]

引退後は吉本興業に在籍。野球選手のマネジメントを行ったのを機にスポーツ選手などをマネジメントするスポーツ部を設立。よしもとクリエイティブ・エージェンシーのスポーツ部に所属し、長谷川滋利などのマネジメントを担当していた。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1991 ヤクルト 10 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 81 19.0 15 1 10 0 1 16 1 0 4 4 1.89 1.32
1992 28 1 0 0 0 0 0 1 -- ---- 214 50.0 46 6 19 1 4 44 4 0 24 20 3.60 1.30
1993 20 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 126 29.1 30 1 7 0 3 17 2 0 17 13 3.99 1.26
1994 13 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 61 13.1 16 3 7 0 1 11 1 1 7 7 4.73 1.73
1995 8 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 65 12.1 17 1 9 2 2 11 0 0 10 10 7.30 2.11
1996 近鉄 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 2 0.2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 1.50
通算:6年 80 1 0 0 0 2 2 1 -- .500 549 124.2 125 12 52 3 11 99 8 1 62 54 3.90 1.42

記録

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背番号

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  • 21 (1991年 - 1995年)
  • 54 (1996年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、127ページ

関連項目

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外部リンク

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