山之内秀一郎

日本の実業家

山之内 秀一郎(やまのうち しゅういちろう、1933年7月10日 - 2008年8月8日)は、日本実業家東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)では初代副社長、会長、顧問を歴任し、宇宙航空研究開発機構(JAXA)では理事長に就任した。
2007年瑞宝重光章を受章。

やまのうち しゅういちろう

山之内 秀一郎
アメリカ合衆国海洋大気庁長官コンラッド・ラウテンバッハー(左)と(2002年)
生誕 (1933-07-10) 1933年7月10日
日本の旗 東京都
死没 (2008-08-08) 2008年8月8日(75歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京大学工学部
職業 実業家
活動期間 1956年 - 2008年
団体 東日本旅客鉄道
肩書き 東日本旅客鉄道株式会社顧問
同社元会長
宇宙航空研究開発機構初代理事長
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来歴・人物 編集

東京都出身。1956年東京大学工学部機械工学科卒業。同大在学時には鉄道研究会に所属していた。鉄道研究会に入った理由は、国鉄への就職を志していたからという。JRの経営者としては、石井幸孝(車両分野)、須田寬(営業分野)と並ぶ、鉄道ファンとして知られていた。

同年に日本国有鉄道入社。京都客貨車区長(1961年10月より向日町運転区長)にて、特急「白鳥」「かもめ」「みどり」等のディーゼル化、その後本社運転局にて信越本線横川駅軽井沢駅間の粘着運転切り替えや、特急列車のスピードアップに携わる。1965年に東京鉄道管理局電車課長、1968年に本社運転局保安課、1969年から国際鉄道連合事務局へ出向しパリに赴いた。日本に戻った1972年6月以降は名古屋鉄道管理局運転部長・東京北鉄道管理局長・本社運転局長・常任理事を歴任。運転局長時代には運転業務全般に携わった。

1987年国鉄分割民営化と同時にJR東日本副社長に就任(反対派の仁杉巌前総裁他9名を放逐した事に対する中曽根康弘の論功行賞と見られている)。オリエント急行の日本運行に携わったほか、「寿命半分・価格半分・重量半分」のフレーズを掲げる新型車両(後の209系)の開発を発案し京浜東北線に導入した[1]。さらに自動改札機の導入を強く推進し、Suicaの成立にも影響を与えた。また、鉄道における事故対策に注力した[2]。国鉄では運転士が自らの原因で正常運転から30秒遅れると処分を受ける慣行が100年以上続いていたが、JR発足後やめさせるなど、常に先例主義を嫌い、発想の転換を貫き、改革を実現させていった[1]。その後副会長・会長職に就いた後、2000年に退任。

JR東日本から退任後、ロケットの連続打ち上げ失敗で批判が高まっていた宇宙開発事業団(NASDA)理事長に国鉄分割民営化を成功させた手腕を買われて就任した[3]2003年10月にはNASDAと宇宙科学研究所航空宇宙技術研究所の機関統合によって発足した宇宙航空研究開発機構(JAXA)の初代理事長に横滑りし、日米間の宇宙協力関係への強化に携わり、2004年11月に退任した。この時の功績が評価され、2005年にはNASAより栄誉賞を受けている。

JAXA退任後、JR東日本に顧問として復帰していたが、2008年8月8日、心不全により死去[4]。75歳没。

略歴 編集

エピソード 編集

  • 名古屋鉄道管理局時代、新聞記者から当時開発に携わっていた振り子電車の乗り心地について質問を受け、「ワルツを踊っているようなもの」と答えたところ、そのまま記事の見出しで「ワルツ電車、中央線を走る」と書かれた。開発に悪戦苦闘した事もあり、後に山之内本人は振り子機構には消極的な思考に至ったと自著で明かしている[5]
  • 東京機関区にて電気機関車の運転実習を受けたが、西明石駅列車脱線事故の後、東京機関区を視察した際、態度の悪い乗務員を見て閉口。東京機関区の廃止を指示し、東京機関区は廃止となった[6]

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ a b 「惜別 元JR東日本会長、元宇宙航空研究開発機構理事長 山之内秀一郎さん」『朝日新聞夕刊』2008年10月10日
  2. ^ 『JRはなぜ変われたか』(毎日新聞社、2008年)の記述。
  3. ^ 「追悼抄 8月 宇宙航空研究開発機構前理事長・山之内秀一郎さん」『読売新聞夕刊』2008年9月16日
  4. ^ 共同通信2008/08/13 18:19配信
  5. ^ 『新幹線がなかったら』178 - 179頁。
  6. ^ 『なぜ起こる鉄道事故』156 - 158頁。

著書・参考文献 編集