中曽根康弘

日本の政治家、第71~73代日本国内閣総理大臣

中曽根 康弘(なかそね やすひろ、1918年大正7年〉5月27日 - 2019年令和元年〉11月29日)は、日本政治家

中曽根 康弘
なかそね やすひろ
Yasuhiro Nakasone cropped 1 Yasuhiro Nakasone 19821127.jpg
内閣官房内閣広報室より
公表された肖像写真
生年月日 (1918-05-27) 1918年5月27日
出生地 大日本帝国の旗 群馬県高崎市末広町
没年月日 (2019-11-29) 2019年11月29日(101歳没)
死没地 日本の旗 東京都
出身校 東京帝国大学法学部政治学科卒業
前職 海軍主計少佐
内務省官僚
拓殖大学総長・理事長・名誉総長
世界平和研究所会長
所属政党民主党→)
国民民主党→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党→)
無所属→)
自由民主党
称号 従一位
大勲位菊花章頸飾
衆議院名誉議員有資格者
法学士(東京帝国大学・1941年
フランス共和国ルイ・パスツール大学名誉博士
中華人民共和国上海交通大学名誉教授
群馬県名誉県民
正論大賞特別賞
配偶者 中曽根蔦子
子女 中曽根弘文(長男)
双川美智子(長女)
渥美美恵子(次女)
親族 中曽根松五郎(父)
中曽根康隆(孫)
サイン NakasoneY kao.png

日本の旗 第71・72・73代 内閣総理大臣
内閣 第1次中曽根内閣
第2次中曽根内閣
第2次中曽根第1次改造内閣
第2次中曽根第2次改造内閣
第3次中曽根内閣
在任期間 1982年11月27日 - 1987年11月6日
天皇 昭和天皇

内閣 鈴木善幸内閣
鈴木善幸改造内閣
在任期間 1980年7月17日 - 1982年11月27日

日本の旗 第34・35代 通商産業大臣
内閣 第1次田中角栄内閣
第2次田中角栄内閣
第2次田中角栄第1次改造内閣
第2次田中角栄第2次改造内閣
在任期間 1972年7月7日 - 1974年12月9日

内閣 第1次田中角栄内閣
在任期間 1972年7月7日 - 1972年12月22日

日本の旗 第25代 防衛庁長官
内閣 第3次佐藤内閣
在任期間 1970年1月14日 - 1971年7月5日

その他の職歴
日本の旗 第38代 運輸大臣
第2次佐藤第1次改造内閣
1967年11月25日 - 1968年11月30日
日本の旗 第7代 科学技術庁長官
第2次岸改造内閣
1959年6月18日 - 1960年7月19日
日本の旗 衆議院議員
1947年4月26日 - 2003年10月10日
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自由民主党では三角大福中の一角を占め、第71-73代内閣総理大臣に就任。国鉄民営化を成し遂げるとともに、ロナルド・レーガン大統領とのロン・ヤス関係や不沈空母発言で、貿易摩擦等により悪化していた日米関係を改善させ、強固なものとした。若手議員の頃は青年将校と呼ばれ、後に原子力関連法案の議員立法にも尽力。首相公選制を唱え、憲法改正を悲願とした。小派閥を率いる中で「政界の風見鶏」と呼ばれることもあった。

衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年)。科学技術庁長官(第725代)、運輸大臣第38代)、防衛庁長官第25代)、通商産業大臣(第3435代)、行政管理庁長官第45代)、内閣総理大臣(第717273代)、自由民主党総務会長、自由民主党幹事長自由民主党総裁(第11代)、公益財団法人世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長、新憲法制定議員同盟会長などを歴任[1]位階従一位勲等大勲位菊花章頸飾

概要編集

群馬県出身。東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省に入省する。海軍短期現役制度で戦時中に海軍主計士官に転じるも、終戦後には内務省に再勤する。退官後、衆議院議員に当選。以来、中曽根派を形成するなど自由民主党内で頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとして運輸大臣防衛庁長官通商産業大臣行政管理庁長官などの閣僚経験を経て、1982年(昭和57年)から1987年(昭和62年)にかけて内閣総理大臣を務める[1]国鉄電電公社専売公社日本航空の民営化を達成した事績が特に知られる。またアメリカロナルド・レーガン大統領と「ロン・ヤス」関係と呼ばれる信頼関係を構築して日米安全保障体制の強化にも努めた。

2004年(平成16年)7月19日鈴木善幸が死去したことにより最年長の首相経験者となり、昭和時代の歴代総理大臣の中で最後の存命者となった。歴代総理大臣の中では死去時102歳48日の東久邇宮稔彦王に次ぐ長寿の首相経験者であり、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては最高齢である。2018年(平成30年)5月27日には満100歳を迎えた。これも首相経験者としては東久邇宮稔彦王に続く2人目、現行憲法下で首相就任を果たした人物としては初となった。

公称の身長は178cmであり、歴代の内閣総理大臣では大隈重信の公称180cmに次ぐ第2位の長身といわれている。

略歴編集

来歴・人物編集

内務省入省まで編集

 
1919年、1歳の中曽根

群馬県高崎市材木商・中曽根松五郎の二男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である[10]。敷地は3ヘクタールもあって、そこに住居と工場があり、働いている職人が中曽根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いたという[11]

高崎北尋常小学校へ進学後、旧制高崎中学旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。

同大学を卒業後、内務省に入省。同期入省組に早川崇小沢辰男大村襄治らがいた。

海軍時代編集

 
海軍時代の中曽根

短期現役制度(第六期二年現役主計科士官)に応募し、海軍経理学校にて初任教育を受け、1941年(昭和16年)4月18日附で海軍主計中尉に任官[2]。同年8月11日附で青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」(第一艦隊、第六戦隊所属)に配属される[12]高知県土佐湾沖の太平洋で訓練を受けた。

同年11月20日、第二設営班班員に補職[13]。11月26日に広島県呉市呉鎮守府(司令長官豊田副武大将、参謀長中島寅彦少将)に到着[14]。同鎮守府参謀長から第二設営隊の主計長に任命され、工員3000名と海軍陸戦隊の糧食・弾薬・資材、零戦一式陸上攻撃機の武器・燃料を調達して輸送船団に積み込むよう命令される[14]。11月29日に出港するまで、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという[14]

11月29日、二千人の工員とともに輸送船団は出発。中曽根は「台東丸」に乗船した。この船に乗船したのは刑余者(前科のある者)を含め様々な背景を持つ者たちであり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曽根は一計を案じて、荒くれ者の力を借りて統率することにした。中曽根は甲板に集めた八十余人の中から一番凄そうな親分肌の者を士官室に呼び出した。古田と名乗る前科八犯のその男に中曽根は「お前を男と見込んでの頼みだ。ひとつオレの子分になってくれないか。お前も天皇陛下に随分と迷惑をかけてきたんだろう。ここらでご恩返しをしようじゃないか」と申し出ると古田は了承した。中曽根と仁義を切って酒を呑み交わした古田は班長に抜擢された[15][16][17]

同年12月8日太平洋戦争開戦以後、輸送船団はアメリカ領フィリピンのミンダナオ島ダバオに上陸する[16]。上陸後、飛行場の設営がはじまるとアメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の爆撃を受けた[16]

次にボルネオ島バリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。1月24日、バリクパパン沖で日本軍輸送船団約20隻が急襲上陸のために停泊したところ、オランダイギリス駆逐艦と思しき敵艦艇[注釈 1]潜水艦が殴り込みをかけてきた(バリクパパン沖海戦[18]。こちらには軽巡洋艦[注釈 2]がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曽根が乗船している前後左右の4隻は轟沈、さらに接近してきた敵駆逐艦から副砲や機関銃で攻撃され、輸送船も炎上する[注釈 3][18][20]。中曽根が情況を確認すると、船倉は阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、多数の重傷者を出していた[18]。班長も脚部ほぼ切断の重傷であり、中曽根は軍医長に託したものの、班長は負傷者を励ましながら治療を優先させているうちに戦死した[17][20]。27日、この戦いで戦死した23人の仲間達の遺体をバリクパパンの海岸で荼毘(火葬)に付した[17][20]。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる[注釈 4]

友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜

夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ

当時の経験を振り返り、中曽根はこう語った。

彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです。 [21]

中曽根は間近に部下の戦死を目の当たりにしたただ一人の戦後の総理大臣といわれる[22]

中曽根はその後も主計科士官として従軍。同年3月10日に台湾の馬公に転任し、海軍建築部附となり、11月に大尉へ昇進。1943年(昭和18年)8月18日附で中曽根は高雄海軍施設部部員(高雄警備府)に任命された[注釈 5][22][24]。1944年(昭和19年)11月1日、中曽根は横須賀鎮守府附となる[25]。終戦時の階級は海軍主計少佐であった。

なお、1945(昭和20)年2月11日、戦友の妹で早稲田大学教授小林儀一郎の娘蔦子と結婚している[10][22]。その直後の2月25日に、同じく海軍士官であった弟の良介が航空事故のため死亡している[22][26]

首相就任後の1985年10月29日、衆議院予算委員会での東中光雄委員(日本共産党)からの靖国神社問題(後述)に絡めた質疑への応答において、中曽根は太平洋戦争[注釈 6]について「これはやるべからざる戦争であり間違った戦争である」と述べ、中国に対しては侵略の事実もあったと認めている[28][29]

政治家への転身編集

復員後、内務省に復帰し、官房調査部でアメリカ軍との折衝を担当。このとき、アメリカ軍将校との交流を通してアメリカ流の民主主義に触れる一方で、日本が占領されたことへの無念さや悔しさを抱えていたことも、後に政治家を志す原点となった[30]

内務大臣官房事務官香川県警務課長、警視庁警視監察官を務める。その後退官し、1947年衆議院議員選挙に当選。以後1955年保守合同までの所属政党は、民主党国民民主党改進党日本民主党。この間、反吉田茂勢力として、自主憲法制定や再軍備を標榜し、長く野党議員として過ごしている。議場では吉田政権を激しく攻撃していたが、吉田個人のことは「日本のために堂々とやっていた。マッカーサーの司令部にいっても、あまり卑屈にならないでやった」と評価しており、むしろその背後にある占領政策への反発の発露であった[30]

1954年3月2日、一議員でありながら原子力研究開発のための予算を上程、これを通した(具体的には科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金が2億3500万円、ウラニウム資源調査費が1500万円、計2億5000万円。これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっている)。1955年保守合同に際しては、長らく行動を共にした北村徳太郎が旧鳩山派である河野一派に合流したことから、河野派に属した。第2次岸改造内閣において、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け、科学技術庁長官として初入閣。党内で頭角を現し、河野派分裂後は中曽根派を形成し一派を率いた。

1956年には「憲法改正の歌」を発表するなど、改憲派として活発に行動し、マスコミからは「青年将校」と呼ばれた。同年11月27日の日ソ共同宣言を批准した衆議院本会議において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行ったが、内容はソ連に対する厳しい批判だったり「涙を呑んで渋々賛成。」等と述べたため、社会党や共産党が抗議、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除される異例の出来事もあった[31]

初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をしたことはよく知られているが、若い頃から総理大臣を目指すことを公言し、憲法改正首相公選論の主張など大胆な発言やパフォーマンスを好んだことや、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。なお、既に1965年には福井県九頭竜ダム建設を巡る落札偽計事件(九頭竜川ダム汚職事件)に名前が挙がるなど、疑惑とも無縁でなかった。日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』は、行政管理庁長官時代の1980年に行われた総選挙においても、富士通日本製作所から違法献金を受け取ったと報じた[32]

三角大福中編集

第2次佐藤内閣第1次改造内閣運輸大臣第3次佐藤内閣防衛庁長官を歴任する。運輸大臣として入閣した際には、それまで佐藤栄作を「右翼片肺内閣」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏と揶揄され、以後これが中曽根の代名詞になった。中曽根本人はこの変わり身について佐藤が沖縄返還を目指していたことからそれに協力することにした旨を説明している[30]

運輸大臣時代は成田空港問題にかかわり、1968年4月6日に友納武人千葉県知事とともに新東京国際空港公団と条件賛成派の「用地売り渡しに関する覚書」取り交わしに立ち会っている。「札束を積めば農家なんてすぐ土地を売る」と反対派の訴えに耳を貸さない政治家が多い中、同年8月9日には自宅にアポなしで訪れた戸村一作反対同盟と面会している[33]。また、これに先立って空港公団幹部によるアポなし訪問を受け、中曽根は買い取り単価を引き上げて畑1反あたり一律110万円にすることにその場で同意しており、そのことが上述の覚書締結に貢献したとされる[34]

防衛庁長官時代、防衛庁の事務方で権勢を振るっていた海原治が国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画について批判したことが1970年3月7日の衆議院予算委員会で取り上げられた際、中曽根は「(海原は)事務屋なので政策論を述べる地位ではない。事務局長というのは庶務課長、極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎない」という趣旨を同席する本人を前に言い放ち、議場を騒然とさせた(「お茶汲み」の箇所は議事録から削除されている[35])。三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが、三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体などから強く批判された(中曽根は自著の中で「三島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけではない」と釈明している)。

こうして要職を経験する中で、いわゆる「三角大福中」(木武夫・田中栄・平正芳・田赳夫、そして曽根)の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。佐藤後継を巡る1972年の総裁選に際しては、野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていたことなどから、自らの出馬を取り止め、田中支持に回った。このことは田中が福田に勝利するにあたり決定的な役割を果たしたが、田中の買収などと後に週刊誌で憶測を呼ぶことにもなった。このように少数派閥を率いるがゆえに自民党内の合従連衡に腐心しただけでなく、資金調達にも苦労し、殖産住宅事件で起訴された東郷民安が旧制静岡高の同級生である中曽根から自民党総裁選のための資金提供を頼まれ一部の自社株売買を行ったと主張したことから、1977年に証人喚問を受けている[36][37][38]

第1次田中角栄内閣通商産業大臣科学技術庁長官となり、第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木内閣時代、自由民主党幹事長となり、三木おろしの際には、三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。

1976年ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。後に“(刑務所の)塀の上を歩いて内側に落ちたのが田中角栄、外側に落ち勲章までもらったのが中曽根”と揶揄された。同年の衆院選では事件との関係から落選すら囁かれたが、辛うじて最下位で当選した。福田政権総務会長に就いたのちは福田に接近し、まとめ役とされる総務会長ながら、政権ナンバー2で福田の潜在的ライバルの大平幹事長の政策とは逆方向の発言を繰り返す。栗栖弘臣統幕議長金丸信防衛庁長官に解任された際には、問題とされた来栖発言の主旨である有事法制必要論を肯定する発言をしている。

1978年自由民主党総裁選挙に「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で総裁選挙に名乗りをあげ、一時は予備選挙で大平を上回り2位につけるという世論調査が出るほどであったが、予備選挙の結果は大平が1位となり中曽根は3位となる。第1次大平内閣では幹事長ポストを要求するも、逆に蔵相を提示され拒否した[注釈 7]。非主流派としていわゆる四十日抗争でも反大平連合に属したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず、早くから本会議での造反に反対するなど、三木・福田とは温度差があった。そのため大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。

鈴木内閣では主流派となるとともに、行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ、鈴木善幸首相の信頼を得る。中曽根自身は蔵相ポストを希望していたものの、派の後輩の渡辺美智雄にその座を奪われるという屈辱を味わう[注釈 8]。しかし、財政再建の手段として行政改革にスポットライトが当たる中、行政管理庁長官として職務に励み、首相就任後分割民営化などの答申をすることになる土光敏夫の信頼も得ることになった。

内閣総理大臣編集

総理大臣就任編集

1982年11月の自民党総裁選で、盟友の渡邉恒雄は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた[39]。早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党党員という繋がりがあった。「日本一の中曽根嫌い」を公言していた金丸信との和解もあり田中派の支持を得た中曽根は、党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年11月に鈴木善幸の後を受けて第71代内閣総理大臣に就任する。三角大福中では最後、のべ6度の閣僚経験と2度の党三役経験を経ての首相就任であった。行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ[注釈 9]1987年まで在任し、歴代第7位(戦後5位・昭和時代では3位)の長期政権となった。従来の官僚頼みの調整型政治を打破し私的諮問機関を多数設け、首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目され、「大統領型首相」とも呼ばれた。

ただし政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官に田中派の後藤田正晴を起用し[注釈 10]、党幹事長に同じく二階堂進[注釈 11] を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「角影内閣」さらには「直角内閣」などと揶揄された。これは1983年10月に田中がロッキード事件の一審判決で実刑判決を受け、中曽根が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を出した後に行われた同年12月の総選挙(田中判決選挙)での自民党過半数割れへとつながり、中曽根は新自由クラブとの統一会派結成により第2次中曽根内閣を形成し、自分とは政治信条が合わない田川誠一自治大臣国家公安委員会委員長として迎える苦渋を味わった。1984年には福田赳夫元首相に野党の公明党民社党まで加わった「二階堂擁立構想」まで持ち出されたが、1985年2月に田中が脳梗塞で倒れて政治生命を事実上失うと、官房長官として留まった後藤田の協力もあって、政権運営の主導権は中曽根の手に移った。中曽根は自民党単独政権の回復に執念を見せ、「死んだふり解散」とも呼ばれながら衆参同日選挙を強行した1986年7月の衆院選参院選で自民党を圧勝させた。衆院選での公認候補300議席は当時単独政党では戦後最多であり、これに追加公認4人、さらに開票直後に解党した新自由クラブからの合流5人などが加わった。参院選での72人当選(追加公認2人)、非改選議員と合わせた所属議員数145人も自民党史上最多であった。中曽根は党規約改正による総裁任期1年延長という実利を得た上、「保守回帰」と呼ばれた1980年代後半の政治潮流の創設者として歴史に名前を残した。なお、この選挙期間中の街頭演説で、「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と発言した。

一方で改憲こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等、強い復古調姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」などといった激しい批判を浴びた。教育改革については、文部省日教組の二項対立の教育改革に終止符を打つため1984年に自身の私的諮問機関として臨時教育審議会(臨教審)を設置した。その後臨教審の答申は受け継がれ、1988年に内閣の主導による学習指導要領改訂を成し遂げた。これが日教組の歴史的分裂の契機となった。政府税制調査会の会長として税収の「直間比率」是正[注釈 12] の観点から売上税導入を唱えた加藤寛をはじめ、石川忠雄勝田吉太郎香山健一小堀桂一郎西義之佐藤誠三郎[注釈 13] など、自らの主張に近い意見を持つ学識経験者を各諮問機関の中心人物に起用し、迅速な決定によるトップダウン型の政策展開に活用した。これは自民党内の非主流派や野党などからは「御用学者の重用」と批判され、選挙を経た国会議員によって構成される国会の委員会より、中曽根が任意で選任できる諮問機関での審議の方が重要と見られて報道される事態も招いた。

1986年に発生した伊豆大島三原山噴火では、首相権限で海上保安庁所属の巡視船や南極観測船を出動させ、滞在者も含めた島民全員の救出に成功した。頭越しに決定を下された国土庁の官僚や野党などからは独断専行を非難されたものの、当時の内閣安全保障室長であった佐々淳行らは、後年の阪神・淡路大震災発生時における村山内閣の初動対応の遅れと比較して、その決断力と実行力を高く評価している。また、三里塚闘争が今だ継続する中であったが、成田空港二期工事着工を決断した[40]性風俗店の摘発やお色気番組の規制にも力を入れ、風俗営業法を大幅に改正し風俗店の出店区域を大幅に制限し、日またぎ営業を禁止し、テレビコマーシャルを禁止するなどしたため、同時期に起こったエイズ騒動とともに、「日本における性風俗産業は壊滅した。」という風説が流れるほどになった。お色気番組に関しては国会答弁で「まず当面は、郵政省が監督権を持っておるわけでございますから、郵政省の側においてよく民放の諸君とも話をしてもらって、そしていやが上にも自粛してもらうし、その実を上げてもらう。郵政省としてはそれをよくチェックして見て、そして繰り返さないようにこれに警告を発するなり、しかるべき措置をやらしたいと思います。」と述べ、その後のお色気番組の自粛の遠因になった。

一方、広島市原爆病院視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曽根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」などの失言で物議を醸すことも多かった(これら一連の事象については知的水準発言を参照)。

首相在任中2度あった総選挙(1983年1986年)では、現職首相でありながらトップ当選できなかった(当時は中選挙区制であり、2位当選している)。これは戦後の首相では中曽根だけである。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた小渕恵三や社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物がそろった、日本でも有数の激戦区でもあった(上州戦争を参照)。なお、日本において現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は片山哲石橋湛山海部俊樹の例がある)。

ハイテク景気バブル景気といった好景気を演出し、支持率も高水準を維持して自民党も単独で史上最多の議席を獲得するとともに、任期後半には上記の通り田中の影響を脱した。好調すぎる高付加価値製品の対米輸出によって貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し、国鉄分割民営化に伴い日本国有鉄道清算事業団が大規模に行った旧国鉄用地売却[注釈 14] を含んだ国有地の払い下げ等を行った。これにより、大都市圏やリゾート開発地をはじめとして日本全国で地価が高騰したが、それに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こしたという批判も根強い。また、このバブルにおいて横行した各種のマネーゲームからは、やがて発覚したリクルート事件や、田川に次いで新自由クラブから労働大臣として中曽根政権に入閣し、1986年の自民党復党後は中曽根派に所属していた山口敏夫の失脚・収監など、政治家とカネを巡る問題が再び取りざたされるようになった。

外交編集

日米・日韓関係編集
 
1986年4月13日キャンプ・デービッドにてアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン(左)と
 
1986年5月4日、中曽根康弘とロナルド・レーガン(右)

1982年11月当時、日米関係は最悪と呼べる状態だった[注釈 15]。時代背景は、ソ連大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備して、それに対抗する形でアメリカはパーシングIIを配備しようと計画しており、東西冷戦構造が一段と厳しさを増し、一触即発の事態にもなりかねない核の脅威の中で、西側の首脳達は厳しい外交の舵取りを行っていた。そんな中、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、アジアが全く無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。

1981年5月、当時の首相である鈴木善幸は、初めて『シーレーン千海里防衛術』を公表するが、渡米の帰りの機中で「日米安保条約には軍事的協力は含まれない」と発言し、帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って、共同声明に対する不満を表明してしまい、アメリカの世論を怒らせた。

そして参議院本会議では、鈴木首相・宮澤喜一内閣官房長官伊東正義外務大臣が日米同盟の解釈を巡って対立し、伊東外相が辞任するという前代未聞の事態にまで発展してしまう。これに武器技術供与の問題が重なることとなる。大村襄治防衛庁長官がワシントンワインバーガー国防長官と会談した際に、アメリカ側から武器技術供与は同盟国に対しては「武器輸出三原則」の枠外にしてほしいと頼まれていたのに、鈴木首相はこれに対応しなかった。

おまけに伊東の後任である園田直外務大臣が、韓国との関係を損なう事件を起こす。事の経緯は、韓国が、防衛および安全保障に絡み、5年間で60億ドルの政府借款を要請したことに対して、園田は経済協力の切り離しを要求して40億ドル以下に削減、その上「資金をもらう方が出す方に向かって、ビタ一文安くすることはまかりならんと言うのは筋違いだ」というような発言をして、韓国の反発を招いたものである。中曽根は総理になる前から、最初にこれらの問題を解決してしまおうと密かに計画しており、首相就任直後に全斗煥と電話会談を行っている[30]

1983年1月の訪米に先立ち、中曽根は電話会談から1ヶ月あまりで総理大臣として戦後初となる韓国公式訪問を実現。全斗煥と個人的な信頼関係を構築した[30]。アメリカが執心していた防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曽根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曽根は首相になって初めての訪米の途についたのである。

訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言、「日本列島不沈空母化」(後述)および「三海峡(千島津軽対馬)封鎖発言」により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に愛称で呼び合うほどの“個人的に親密な”関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した[注釈 16]。一連の防衛力強化政策の仕上げとなったのは、中曽根政権が最後に編成した1987年(昭和62年)度予算での「防衛費1%枠」撤廃だった。ブレーンの一人だった高坂正堯の意見を採用し、防衛費の予算計上額を日本の国民総生産 (GNP) の1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を放棄し、長期計画による防衛費の総額明示方式に切り換えて急速な軍備拡張への新たな歯止めとした。この決定により、日本政府はより積極的な防衛政策の立案が可能となり、米軍との協力関係はさらに緊密となった。これは米国への隷従の強化と取る向きもあり、また、“ヤスはロンの使い走り”(Messenger boy) と批判されることもある。

また、日本からの輸出の増加により日米間の通商、経済摩擦が深刻化したことから、アメリカの貿易赤字が増加したことに対処するために、日本国民に外国製品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分、当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなどの点でも、中曽根はアメリカからの要求へ積極的に応えた。この時の広告は「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」だった。

ただし、中曽根自身が引き起こした日米間の懸案として、1986年9月に自民党の全国研修会の講演で「アメリカの知的水準は非常に低い」と発言したことから「知的水準発言問題」が起きた。黒人(アフリカ系アメリカ人)やヒスパニック系の議員連盟によってアメリカ下院に提出された中曽根非難決議案は本人の謝罪により採択が見合わされたが、その釈明に際して「日本は単一民族国家」と発言したことは北海道ウタリ協会からの新たな抗議を呼び、北海道旧土人保護法などが存続していたアイヌ民族に関する内政問題へと転化していった[注釈 17]

不沈空母発言編集

1983年1月、ワシントン・ポストが、同紙会長キャサリーン・グラハム会長宅で行われた朝食会にて、中曽根が日本列島を空母に見立てて津軽海峡を封鎖しソ連の進出を防ぐ趣旨の発言をしたとする旨を報じた。日本政府は同行記者団にこの発言を紹介していなかったため、記者団が政府側に確認を求め、専守防衛からの逸脱であるとして議論を呼ぶ騒動となった[41][42][43][44]

当時ワシントン・ポストで本記事を担当していたドン・オーバードーファーによれば、この「不沈空母」発言は、中曽根が日本語で「大きな船」と述べたのを通訳が過大な言葉に訳していたものであり[42]、中曽根も発言後にその趣旨の説明をしている[43]

一方、2017年1月12日に日本の外務省が公開した外交文書では、中曽根がこのインタビュ内において確かに日本列島について「不沈空母のように強力に防衛する」と述べていたことが記録されていた[43]

ウィリアムズバーグ・サミット編集
 
1983年第9回先進国首脳会議にて(右から3人目)

中曽根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがMGM-31 パーシングII準中距離弾道ミサイルを配備すべきか否か、であった。

だが、前向きな姿勢なのはアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスミッテラン大統領、西ドイツコール首相、カナダトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議は今にも決裂しそうな気配を見せていた。

そうした状況の中、中曽根は敢然と発言する。「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示すことであり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示すことだ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。

そして政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、またそのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長のための10項目からなる共同指針が示された。

クレムリンの機密文書編集

ソ連が崩壊し、クレムリンの機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時のグロムイコ外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、アンドロポフ書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。

このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曽根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っているといえよう[誰によって?]

日中関係編集

以前から総理大臣の靖国神社参拝は恒例であったが、中曽根内閣の際に靖国神社参拝問題が持ち上がり、また日米同盟と防衛力の強化に努めた。この問題が対中関係として際立った印象を与えているのは、中曽根が首相として初めて8月15日に公式参拝をしたこと(8月15日に公式参拝をしたのは中曽根だけである。小泉純一郎は首相在任中の2006年8月15日に参拝しているが、公私の別を明らかにしていない)、当時中国共産党指導部の胡耀邦総書記親日傾向を持つグループとその反対勢力との権力争いがあり、その中で靖国参拝が問題として浮上、中華人民共和国からの抗議が激しくなっただけであるという見方もある。自身の著書の中で中曽根は「親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国参拝を中止した」としている。胡耀邦と鄧小平は、当時日米同盟や日本の防衛力強化を歓迎すらしていた[45][46]。東京裁判史観は否定しつつアメリカではなく、中華人民共和国には過去の歴史を謝罪すべきとする独自の歴史観を持っており、当時の日中関係は「蜜月時代」とも言われた[28][30]

角福対立時代には一貫して日中国交正常化支持の立場をとっている。総理在任中の1983年11月に中国の総書記として初となる胡耀邦の訪日を実現[30]。「日中友好21世紀委員会」(現・新日中友好21世紀委員会)を発足させることで合意し、中曽根総理訪中に合わせて1984年3月に実現した。同委員会第1回会合(1984年)で日中青年交流の拠点として「日中青年交流センター」を北京に建設することが提言され、1991年5月に実現している[47]

総理退任後も対中関係改善に努め、六四天安門事件での対中制裁の解除を鈴木善幸・竹下登とともに政府に働きかけを行ったり[48]、日中青年世代友好代表団団長として訪中して胡錦濤総書記と会談し[49][50]習近平国家副主席が訪日した際の天皇特例会見でも関与が取り沙汰されるも中曽根元首相の要請は「1か月ルール」によって断られたという[51]

民営化推進編集

中曽根内閣は戦後の自民党で最も新保守主義新自由主義色が濃い内閣であった。日本専売公社日本国有鉄道および日本電信電話公社三公社民営化させた。これによって総評および総評を支持母体とする社会党を切り崩す意図があった[要出典]。また、長年半官半民であったフラッグキャリア日本航空の完全民営化を推進させた。

次第に国民からの支持も安定し、1986年の衆参同日選挙(死んだふり解散)では衆参ともに自民党史上最多獲得議席となる圧勝となり、その功により総裁任期が1年延長された。しかし、経済政策ではアメリカの貿易赤字解消のためプラザ合意による円高ドル安政策を採り、これが結果的に日本をバブル経済に突入させたこともあり、批判の声も少なくない[要出典]

退任編集

同日選大勝後、中曽根にとって最悪の状態となった。藤尾正行文部大臣が中曽根の自虐史観転換を批判する発言を雑誌に行い罷免され、中曽根自身も「黒人は知的水準が低い」「日本は単一民族」「女の子が書いた文章だから」などの失言が問題化し、さらに選挙中に「大型間接税は導入致しません」「この顔が嘘をつく顔に見えますか」と宣言していた売上税を導入しようとしたことから「公約違反」と追及され、支持率が一時的に急落する。

1987年の予算審議は空転を続け、4月の統一地方選も敗北し、党三役の総辞任論や内閣の早期退陣論さえ囁かれ始めた[注釈 18][52]。翌月に売上税は撤回を表明することになるが、選挙の敗北から18日後に行われた日米首脳会談でも準国賓待遇とは裏腹に、下院本会議は貿易相手国に黒字減らしを強要する包括貿易法案を290対137の大差で可決した。さらに、内需拡大と公定歩合の引き下げによるドル支えを露骨に強要した。このためNBCは「中曽根首相は『特別なあいさつ』を受けた」と皮肉っている。

しかし、統一地方選での敗北や売上税を巡る混乱は、皮肉にも党内に「厭戦ムード」をもたらし、次期総裁は公選ではなく「話し合い」で決めるべきという雰囲気が高まっていく[52]。中曽根はこれを利用し、有力候補の三人を巧みに分断、夏を越すと支持率が回復したこともあり、次期総裁を自らの裁定に委ねさせることに成功する(中曽根裁定)。こうして、中曽根はニューリーダーと呼ばれた竹下登安倍晋太郎宮澤喜一のうちから、竹下を後継に指名、余力を持ったまま11月に総理を退任した。

中曽根自身の回顧によれば、後継候補に必要な条件として、自身が断念した売上税(消費税)の導入について党内をまとめられる人物、当時容態が悪化していた昭和天皇の不慮に備え、「大喪の礼」を滞りなく行える人物、の2件があり、竹下が最もふさわしいと判断したという。首相在任1,806日は歴代7位(戦後5位)、中曽根内閣は3次4年11ヶ月に及ぶ20世紀最後の長期政権となった。

リクルート事件編集

1989年、自身が関与していた戦後最大の汚職事件といわれるリクルート事件が直撃した。野党は予算審議と引き換えに中曽根の証人喚問を要求したが、中曽根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。その後、リクルート事件の責任を取って党を離れるものの復党し、1994年の首班指名選挙では村山富市首班に反発し、小沢一郎と共に海部俊樹を担ぐが失敗する。しかし、党からは貢献度を重視して不処分であった。

鳩山由紀夫は事件を機に、政官財の癒着の解明を目指してユートピア政治研究会を党内で立ち上げ、中曽根らを糾弾した。その後、鳩山が新党さきがけを経て、1996年に「友愛」を掲げて旧民主党を創設した際、中曽根は「政治は友愛だの何だのと綺麗ごとを言うが中身がなく薄っぺらい。ソフトクリームのようにすぐ解けてしまうだろう。」と嘲笑したが、鳩山は「夏にはおいしい」と切り返し、政治理念を守り通して「友愛」がその年の流行語大賞となった[53]。自身は薩長連合になぞらえて保保連合を一貫して主張した。首相退任後は議会最後尾にある通称長老席に陣取っていた。宮澤喜一竹下登とともに居眠りをしている姿が老害の象徴としてマスコミに盛んに揶揄された。

その後編集

1991年湾岸戦争では中東特使に任じられ、当時のイラク大統領サッダーム・フセインと会談して日本人の人質全員解放を成功させた。1996年には小選挙区比例代表並立制導入の際、小選挙区での出馬を他の候補に譲る代わりに、比例北関東ブロックでの終身1位の保証を受ける。1997年2月に憲政史上4人目の議員在職50周年を迎え、同年4月に大勲位菊花大綬章を生前受章する。同年、第2次橋本内閣改造内閣で腹心の佐藤孝行の入閣を希望したが、ロッキード事件で有罪が確定したことを批判されて佐藤は短期間で辞任に追い込まれ、橋本内閣も支持率急低下で大打撃を受け、第18回参議院議員通常選挙では自民党派が大敗し橋本龍太郎は総理を辞任した[54]中曽根派山崎拓率いる近未来政治研究会と分裂した後、1999年亀井静香平沼赳夫率いる亀井グループと合併し志帥会となり、最高顧問に就任する。

1996年12月30日号の「AERA」誌上で、「国鉄分割民営化の真の目的は国労を潰すことだった」と暴露した。

政界引退編集

中曽根は中選挙区制から小選挙区制への移行に際し、比例北関東ブロックにおける終身1位を約束されていた。自民党では2000年の総選挙から比例区における73歳定年制が導入されており、原健三郎櫻内義雄の両元衆議院議長がこれにより引退しているが、中曽根と宮澤喜一はこの時は特例により比例区定年制対象外となっている。しかし「特例をもうけていいのか」と全国の県連などから批判が上がり(群馬県連でも世代交代を求める声があった)、小泉純一郎総裁が中曽根と宮澤の両長老に引退を勧告した。一度、党執行部が約束したことを小泉が一方的に破棄して中曽根に引退勧告したことは、一部で「きわめて非礼なものである」との批判も呼び、中曽根は「政治的テロだ」と強く反発し、立候補断念の記者会見でも「引退はしない」と公言した(詳細は上州戦争を参照)。

最終的に中曽根は2003年の総選挙では自民党の比例北関東ブロックからの立候補を断念し、衆議院議員から引退した(なお、比例名簿で終身比例名簿1位から退いたことで、比例当選最下位順位の早川忠孝が復活当選している)。このとき、小泉の指示を受けて中曽根に引導を渡す役目を務めたのが、当時の党幹事長である安倍晋三であった。中曽根に「私はその判断によって50年の議会人として人生に終止符を打つことになる。今までの経緯からいって首相が判断した。その判断を合理的に説明し、私を納得させてほしい」と求められ、安倍が「なんとかご理解いただきたい」と頭を下げると、中曽根は「君も貧乏クジをひいたな」と笑い、「安倍君、君は幹事長だろ。幹事長の仕事は選挙に勝つことだ。全力を尽くせ。おれも応援するよ」と励ました[55][56]

晩年編集

個人事務所を世界平和研究所内に置く(旧個人事務所を2009年まで43年間砂防会館内に置いた)。財団法人世界平和研究所で会長を務め、中曽根康弘賞を創設し、世界の平和・安全保障に関する研究業績を表彰する。

2004年から2014年にかけて、日本テレビにて自らの名を冠した対論番組『本音激論!なかそね荘』のホストを務めた[57]

2005年10月28日、党新憲法起草委員会が新憲法草案を発表した。中曽根が前文小委員長として前文をまとめたが、発表された草案では内容が変更されていた(中曽根原文より大幅に簡略化された内容となる)。

2007年3月23日午後(ブルームバーグ)における日本外国特派員協会での記者会見で、慰安婦問題について質問され、「日本軍による慰安婦の強制動員事件について、個人的に知っていることは何もない。新聞で読んだことがすべてだ」と語った。また、自身の回顧録で海軍将校だった時に『三千人からの大部隊だ。そんな彼らのために、私は苦心して、囲碁を打つ休憩所をつくってやったこともある。彼らは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。しかしこれら民衆も、悲劇のクライマックスでは、古田班長のように、あるいは、従兵の佐々木のように、人間の尊厳をまざまざと見せつけてくれる尊い存在であったのである。』[20] と言及した「慰安所」とは兵隊相手の慰安婦による売春が行われていたものではないかとの質問には「工員たちのための娯楽施設を設営した」、「慰安所は軍人らがを打つなど、休憩所の目的で設置した」と説明した[58][59][60]。なお、中曽根が主計長を務めていた海軍航空基地第二設営班について防衛庁が戦後資料を取りまとめており、バリクパパンで飛行場建設後に慰安所が建設されたとの記録が残されている。2011年、その中から高知市の市民団体が「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」との記載を見付けたと、日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』が報じた[注釈 19][61]

2008年9月3日付の『読売新聞』朝刊に、9月1日に首相辞任の会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿している。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べている。

2008年12月7日に自宅で転倒し、右肩を骨折して入院したが順調に快復し、2009年3月7日に開かれた鳩山一郎没後50年の会合でも演説するなど、活動を続けていた。また同年10月、急逝した中川昭一財務大臣告別式に出席した際は、介添えを必要とせず自力で席を立って焼香をするなど、90歳を過ぎても矍鑠とした姿が見られた。

2013年12月4日夜、国会近くにある東京・紀尾井町ホテルニューオータニで、5月に95歳を迎えた中曽根の祝賀会が行われたが、企画者とされる山口敏夫元労相以外にも、山崎拓元幹事長、伊吹文明衆院議長、石破茂自民党幹事長、石原伸晃環境相、古屋圭司国家公安委員長、島村宣伸元農相、二階俊博衆院予算委員長、亀井静香国民新党代表、渡辺喜美みんなの党代表らが出席した。海外訪問中の村上正邦元労相や体調を崩している与謝野馨元官房長官を除けば、旧中曽根派の主だった人物が結集しており、旧中曽根派の同窓会のようだったと報道された[62]

2015年5月には97歳の誕生日を迎えたが、同年8月7日の読売新聞に戦後七十年にあたっての長文の寄稿を行うなど健在ぶりを示している。

2017年5月には99歳の誕生日を迎えた。尾崎行雄記念財団は公式フェイスブックで「2003年の自民党の比例区における73歳定年制導入がなければ、中曽根元総理は恐らく尾崎の連続当選25回、在職連続63年の記録を塗り替えていただろう」というコメントを残している(計算上は、2003年以降も北関東ブロック比例1位の処遇が継続していて中曽根本人が辞退していなければ、2011年に在職連続64年となる。連続当選は2017年に26回となる。)。

2018年5月、日本の総理大臣経験者では史上2人目の100歳の誕生日を迎えた(前述)。関係者の話によれば、近年足腰が衰えたものの、都内の事務所を週2回程度訪れ、書類整理や来客との面会をこなしているという[63]

2019年11月29日、老衰により死去[5][6]。101歳没。没後に日本国政府より従一位大勲位菊花章頸飾を授与された[8][64]

孫で衆議院議員である中曽根康隆によれば、晩年は入退院を繰り返し、最期となる2か月間は入院していたものの「医者も説明できないような生命力があり、元気に過ごして」おり、病室でも相変わらず新聞に線を引きながら、3、4時間もかけて端から端まで読んだり、テレビで国会中継を見たりしていたという。最期は子供や孫たちに囲まれながら、息を引き取ったという[65]

中曽根死去により、昭和時代の総理大臣は全員この世を去った。また令和期まで生きた、唯一の昭和時代の総理大臣経験者となった。

大連立構想を仲介編集

自民党と民主党の大連立を裏で仲介していたと報道されている。

ライフワーク編集

「自主憲法制定」をライフワークとしており、防衛力増強や「国労つぶし」を行った。また、小泉総裁との関係が悪化したことから、自民党の新憲法起草委員会では前文小委員長であった中曽根が作成した憲法前文の試案は使用されなかった。このため、左派護憲派だけでなく、右派改憲派からも中曽根への批判がある。

政治姿勢編集

憲法改正編集

前述のように改憲をライフワークとしている。議員引退後の現在もなお新憲法制定議員同盟会長を務めている。

核武装編集

日米同盟が破棄された時に備えて、日本は武装の準備をするべきと主張している。[要出典]

小泉内閣への評価編集

小泉内閣の最大の功績として「アフガニスタンイラクでの国際貢献を目的とした自衛隊の海外派遣」を挙げる(中曽根も第3次内閣でイラン・イラク戦争での掃海艇派遣を検討していた)。また最大の失政として「憲政の常道に反し、参議院で否決された郵政民営化法案を成立させようと衆議院を解散したこと」(郵政解散)を指摘した。「小泉内閣は、私がやったような政治の本道―たとえば財政とか行革とか、教育―ではなくて、道路と郵政をやっただけだ。どちらかと言えばはじっこのことだ。それを劇場政治として面白くやったんだな。俺に言わせれば印象派の政治だ(笑)」とインタビューに答えている[66]

保守意識編集

中曽根派三木派と並んで保守傍流扱いされることに反発していた。なお保守本流は、吉田自由党系の池田派佐藤派の系列を指すのが通常で、佐藤派・保利系と合同した福田派まで含めることまではあっても、通常中曽根派は含まない。

戦後政治の生き証人編集

松村謙三から「緋縅の鎧を着けた若武者」と賞賛された新人議員時代や、いち早く一派を率いた時代から平成の世まで保守政界の一方の核にあった。保守合同以前は野党、自民党においても反主流時代が長く、保守本流の嫡流ともいえる宮澤喜一(2007年死去)とは別の意味で、国会や内閣、派閥取引の裏事情を知る生き証人として知られ、本人も長い政治生活を背景とした過去との比較などの発言をたびたび行う。

とりわけ、保守合同の立役者であり、自民党史上最高の軍師として鳴る三木武吉を比喩として使い、その時代の参謀型・調整型政治家を持ち上げる手段としていた。鈴木内閣時の金丸信に対しては、「三木武吉以来の人材だ!」とおだて上げ、加藤の乱鎮圧後の野中広務には、「三木武吉を超えましたなあ」と褒め上げている。

交友関係編集

ロナルド・レーガン
レーガンとは互いに「ロン」「ヤス」と呼び合うほどの親密な仲を築き、自著の中でも「たぐい稀な人間的魅力」と評している。
1983年1月16日、ブッシュ副大統領の晩餐会に招待された席上で、中曽根はこう述べた。
「今回の渡米に同行している次女の美恵子は、小学生だった11歳の時、インディアナ州ミシガンシティのモルト・ウィンスキー氏のお宅にホームスティしたのです。高校時代には互いに1年間、交換留学させました。ウィンスキー家とは20年近い交流が続いてます。今回の渡米に際しても、一家をあげてわざわざワシントンまで駆けつけてくれて、一同抱き合って再会を喜び合ったばかりです。かつて11歳の娘の美恵子をアメリカに送り出すとき、家内と『いつか総理大臣なって渡米する時が来たら、その時は美恵子が通訳をやってくれるといいなあ』と夢見たものですが、その後二十数年、政治家として家族とともに幾山河を越え風雪に耐えて、ここワシントンを訪れ、それが今、現実になって感無量です。国と国との関係も、ウィンスキー家と私の家とのように友情と信頼で築き上げたい」
この話の途中で中曽根は感情がこみあげ、言葉を詰まらせてしまう。これを聞いていたブッシュ副大統領、シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官、ブロック通商部代表、ボールドリッジ商務長官など、並んでいた閣僚がハンカチを取り出して目頭を押さえる一幕があった。翌朝シュルツから前夜の話を聞いたレーガン夫妻も目に涙を浮かべたという。
1983年1月17日、『ワシントン・ポスト』紙の社主だったキャサリン・グラハムの朝食会に招かれ、その席上で「日本は不沈空母である」「日米は運命共同体である」と発言したと『ワシントン・ポスト』は大きく取り上げた。この会食の翌日にレーガンがホワイトハウスの私的な住居で朝食に招き、その時レーガンから「今後はお互いファーストネームで呼び合おう」と言われたという。
ヘンリー・キッシンジャーは「もし政治が可能性の芸術であるならば、レーガンは掛け値なしに一流の芸術家」と発言し、中曽根もこれに同意している。
マーガレット・サッチャー
大英帝国伝統の血を引いた現代宰相で卓抜な能力を備え、強気ながらも一方で女性らしい非常にきめ細やかな繊細さを持っていると中曽根は評した[注釈 20]
竹村健一
中曽根は竹村を畏友と評し、竹村とは中曽根がまだ、総理・総裁候補だった頃からの付き合いであった。その当時から「体の中に国家を持っている」政治家として、竹村は中曽根を敬愛し続けているという。「竹村会」という勉強会の1月の全国大会では、毎年中曽根が基調講演を行っている。
渡邉恒雄
読売新聞会長の渡邉は初入閣や総理就任にも貢献した盟友であり、同じ憲法改正論者でもある一方で小泉純一郎の推し進めた郵政民営化靖国神社参拝などには異議を唱えた。
田中角栄
永遠の競争相手として認めており、代議士会では論戦に明け暮れた仲である一方で総理就任の際は田中の影響力を利用した。同じ1918年5月生まれでもある。
胡耀邦
三国志演義』の登場人物のようで、英雄的要素を持ち、度量も視野も広かったと評し、兄弟のような付き合いをした仲だったと述懐している[67]
全斗煥
中曽根の首相就任から間髪を入れない訪韓は、教科書問題が沸騰した直後にという微妙な時期であったが、晩餐会での韓国語でのスピーチ[注釈 21]や全大統領のカラオケで韓国語の歌を披露するといったパフォーマンスも奏功してか、学生など少数の左翼過激派を除く韓国人一般に好意的に受け止められた。この訪日での全大統領による要請で胡耀邦と親交があり、中国と国交もある日本の中曽根首相は中韓の仲介を行った[30][68][69][70]。日韓関係はその後、紆余曲折を経ることとなり、全大統領も部下だった盧泰愚が大統領となるや政治力を奪われ、金泳三政権の下で冷遇された。そうした中でも、全の来日の際には必ず付き添うなど、中曽根の過去の盟友に対する一貫した友情は、日韓併合時代も経験した保守的な韓国人高齢者の間でも好意的に受け止められている。
不破哲三
『サンデー毎日』2009年7月19日号において対談を行い、互いに一定の評価をし合った[71][72]

評価編集

  • 渡邉恒雄
    • 「私が平記者、中曽根さんがまだ陣笠代議士の頃から、毎週土曜日には決まって読書会をして、良書を読みあさった。夜二人で酒を飲むときも、話題は読書の話、政治の話ばかりだった。あのような勉強家、読書家は他に知らない。小泉首相の時、勝手に国会議員定年制を作られ、国会議員を八十五歳で無理矢理引退させられた時は、本当に憤慨していた。質素な生活にも感銘していた。私にとって彼以上に敬愛した人物はいない」[73]
    • 「いろいろ話をしたけれど、中曽根さんは全部、政治の話だ。彼と猥談をしてもダメ、興味ないんだよ。奥さん一筋で、二号さんを持たない政治家は、彼と安倍総理くらいのものじゃないかね(笑)。家族はとても仲良しだった。昔は、議員宿舎の8畳1間に親2人子供3人と女中さん1人の6人で暮らしていた。お金がないから料亭に行けなくて、夜、女中さん起こして、彼女の布団の上にお盆を置いて、その上に徳利を載せて飲んだ。そばじゃ子供がスヤスヤ寝てる。ある時、中曽根さんがベルサイユ宮殿のような豪華な所に引っ越したから来てくれ、というので行ってみたら、新しい議員宿舎で、8畳6畳4畳半と三つの部屋があった。それでベルサイユになっちゃうんだからな。それでいよいよ大臣になる時に『豪邸』を建てたという。行ってみたら建坪40坪ほどの普通の家だ。箱庭のような池があり、そこに金魚が4、5匹泳いでいた。お嬢さんによれば、中曽根さんは、政治家は小さな借家に住まなきゃいけないと言っていたそうだけどね。その後、総理になるという時には、長嶋茂雄君の家を借りて住んだね。最初、長嶋君は、政治家は嫌だと断ったんだ。そこで何とかしてくれないかと中曽根さんに頼まれた。だから長嶋君に、政治家といっても俺の親友なんだから貸してやってくれよ、と言ったよ。『豪邸』は、廊下もすれ違えないくらいの家だったな。若い頃は毎週土曜に読書会をしていた。週に1冊、僕が読んで報告し、それについて議論する。1年で四十数冊だね。政治学の論文みたいな堅い本ばかりだ。お互い相当に勉強になった。彼と学者を呼んで、食事会もずいぶんしたよ。カントでもヘーゲルでも、僕が読みなさいと言うと、中曽根さんはみんな読むんだ。まあ、あれほど勉強家の政治家はいなかったね。中曽根さんはゴルバチョフのソ連ともうまくやったし、韓国ともいい関係を築いた。総理として初めて訪韓した際には、韓国語を勉強していたな。そんな俄か勉強で大丈夫かと思ったら、韓国へ行って、韓国語で歌を歌ってきたらしいんだ。風呂場で一所懸命に練習したみたいだね。熱心なんだよ。そんな面倒なこと、普通はやらないよ」[74]
  • 金丸信 「そもそも田中派は中曽根を総理にすることに反対だった。ところが田中のオヤジがどうしても中曽根だと言う。後藤田が何であんなおんぼろ神輿を担ぐのかと言ったら、オヤジがおんぼろだから担ぐんだと言った。そこで俺がオヤジの言うことが聞けない奴は派閥を出ろと言ったらみんな収まった。俺は大の中曽根嫌いで通っていた。その俺が賛成したのだから中曽根は恩義を感じたのだろう。総理になった時に料亭に呼ばれた。中曽根は畳に手をつき深々と頭を下げてあなたを将来幹事長にすると言った」
  • 後藤田正晴
    • 「戦後の総理大臣の中で、中曽根総理は出色の総理大臣と言える。(中略)もちろん、中曽根首相にはペルシャ湾に自衛隊を派遣しそうになるなど、その体質からくる危なっかしさがある。しかし、彼は、政治家になって以来、(中略)政策を勉強し、蓄積していた。総理になったら何を実行するかを考えつづけていた。最近みられるような、『間に合わせ』の総理になる人たちとは違っていた」[75]
    • 「宮澤(喜一)さんは真面目すぎるわな。頭が良すぎて先が見えすぎる。だから、やろうとすることに勢いがない。その点、中曽根さんというのは頭よくないですよ。それだけに、非常に馬力がある」[76]
  • 二階俊博 「国の大きな問題で羅針盤の役割を果たした。常に大局と歴史に立脚した政治家だった」[77]
  • 小沢一郎 「文字通り戦後政治を総決算された素晴らしい指導者だった」[77]
  • 不破哲三 「首相在任当時は激しい論戦をやり合った。政治的に対立する立場にあったが、率直な討論のできる政治家だった」[77]
  • 枝野幸男 「学識にあふれ、毅然としていた。学ぶべき点のたくさんある先輩だった」[77]
  • 玉木雄一郎 「背中に『ニッポン』という背骨がまっすぐ入った気骨ある政治家だった」[77]
  • 下村博文 「戦後史に残る大宰相。ご存命中に憲法改正できなかったのは後輩政治家の責任だ」[77]
  • 山口那津男 「自民党を基礎からつくった根っからの党人派。時代の荒波を乗り越え、国民に何かを残すという気概を持って当たられた」[77]
  • 大島理森 「時代を読み取る深い洞察力、確固たる信念と志を持ち、それらを実現するため柔軟かつ大胆な政治手法を振るわれた偉大な政治家だった」[77]
  • 葛西敬之 「国鉄の分割民営化は、中曽根元総理のリーダーシップがあったからこそ実現できた。その結果が鉄道の今日の発展につながっており、大変大きな功績を残された」[78]
  • 田中茂 「政治家として何をすべきか、揺るぎない信念と明確なビジョンを持っていた。結縁、尊縁、随縁の『三縁』を大切にしなさいと言われたことがある。国鉄改革などを実践した一方で縁を大切にする一面があった。『歴史から学べ』ともよく言っていた。極めて日本人的な合理主義者だった」[79]
  • 古川貞二郎 「仕えた中で後藤田正晴氏が官房長官を務めた中曽根内閣が、最もいい内閣だったように思う。やるべきことが明確で、毅然とした姿勢で実践する内閣だった」[79]
  • 保利耕輔 「派閥は違ったが、目をかけてもらった。非常にアクティブで努力される人だった。野党時代に取りまとめた自民党の憲法改正草案をよく聞いて、評価してもらった」[79]
  • 稲葉大和 「近年の多くの首相たちとは異なり、理念を口先で語るだけではなく実行が伴う方だった。政治家は信念を持つことが大事だと教えられた。国民と国家の行く末を常に本気で考えておられた方で、まさに『国士』だった」[80]
  • 鈴木哲夫
    • 「彼が語る改憲論には、必ず『国民が全員でしっかり議論して』という枕詞がついていた。現在の改憲論議は、与党を見ても野党を見ても、永田町内部での政争の具だとしか考えていないように思えます。そうした次元ではなく、『憲法は国民のものなんだ』という大前提を決して崩さず、その上で改憲を唱えていたのが、中曽根さんの改憲論の特徴です」[81]
    • 「『風見鶏』という言葉はもっぱらネガティブな意味で使われていますが、言い換えれば『リアリスト』であったということです。自らの理想や信念があっても、それだけでは政治は動かせない。理想とリアリズムをうまく使い分けるのが政治の醍醐味です。そのバランスをうまく取れたからこそ、総理になり、国鉄や電電公社の民営化などの大きな政策を実現することもできた」[82]
  • 深谷隆司 「中曽根さんはめったに怒ることがない人でした。怒ったふりをして、こんこんと説得するのです。『この役職を蹴ったら、君の将来のためにならない』と。私はこれを受け入れ青年局長に就任しました。中曽根さんは若手の生意気を許容する器のある人でした。(売上税に反対し)これだけ中曽根さんを困らせたにもかかわらず、処分されることはありませんでした。嫌みを言われたこともありません。『私のことを悪く言っていた』という話すら一切、私の耳には入りませんでした。人のことを陰で批判することがない人だったのです。それどころか、しばらくして、私を欧州への旅に誘ってくれました。きまりが悪く、中曽根さんを避けていた私をです」
  • 上和田義彦 「田中(角栄)は天才と言われることを嫌う。努力して這い上がって来たと言われたい。中曽根は天才でなく秀才だ。努力して総理になった。ところが本人は天才と言われたい。秀才と言われると不機嫌になる。二人は何から何まで対照的だ」
  • 村上正邦 「1986年、『死んだふり解散』と呼ばれた衆参ダブル選挙で、私は中曽根総理の全国遊説すべてに同行しました。その時驚いたのは、中曽根さんはどんなにハードスケジュールであろうと、飛行機の中、新幹線の中で、居眠りしなかった。分厚い本をカバンから取り出して、聞いたら『大嘗祭』の本だと言うんです。皇室典範や皇室の祭事について、付箋を貼って勉強しておられた。当時、昭和天皇がご高齢で、しかもご病気でもあったので、総理として万一の事態を想定していたんでしょう。選挙期間中ですから『総理、お休みになられたらいかがですか』と進言したところ、『いや、村上君、いま私が総理としてやらなきゃならんことは、一点一字おろそかにしちゃいけない』と。『今は宮中行事を勉強しなければいけない』とおっしゃられた」[83]
  • 服部龍二 「晩年、何度か中曽根さんに話をお聞きしたことがありました。すでに90前後だったにもかかわらず、インタビュー中、彼の背筋はピンと伸び、表情も超然とされていた。ただ、一度だけ、私が『政権途中から憲法改正を棚上げされていたのでは』と尋ねたときは、『改憲を諦めたことは一度もない』と烈火のごとく怒っておられましたね。実際、政界引退後にも憲法改正試案を発表されており、改憲は悲願だったのでしょう」[84]
  • 森和子 「最初に見たときから、背が高くて素敵な人だなと思いました。それに速記を担当しても、完璧なほど無駄な言葉がないんです。まだ20代なのに、優秀で感心しました。将来は必ず首相になると確信していました。みんな憧れていましたよ。私が速記者になって間もなくのころですが、同僚の男性速記者からすまなそうに『次の番、ちょっと代わってくれないかな』って頼まれたんです。私が『誰なの?』と聞いたら、『中曽根さんなんだよ』と困ったような顔で答えました。私は喜んで代わってあげましたが、難しい言葉がズバズバ出てくる中曽根さんは『難物』でもあったんです。でも、それが格好良かったんですよ」[85]
  • 赤松年子 「20年代後半のころ、国会内の食堂で、女性速記者仲間と食事をしていたら、給仕さんがお盆に山盛りのミカンをテーブルに持ってきて、ぶっきらぼうに『ほれ、あっち、あっち』と目配せしたんです。奥の方で中曽根さんが『食べろ、食べろ』という風に口を動かして、ニコニコしながら手を振っていたんです。お互い顔見知りではありましたから、食堂に注文して届けてくれたんです。私たちは『中曽根さんからの差し入れだ!』なんて小躍りして、おいしくいただいた覚えがあります。いつも勇ましい発言をして、ちょっと怖い印象もあったけど、根は優しい人なんだな、と感激しました」[86]
  • 李娜兀 「大学院生だったころ、中曽根氏に直接お会いしてお話をうかがったことがある。そのころ私は、武器輸出三原則による制約の中で、アメリカに対する武器技術供与を認めた中曽根氏の決断について論文を書こうとしていた。しかし公開資料は少なく、どのように調査を進めたらいいのかもよく分からず、とても困った。そこで、ほとんどわらにもすがる思いで知人を通じて中曽根氏に質問の手紙を出した。2004年のことだ。事前の予想とは裏腹に、すぐに中曽根事務所から『お会いしましょう』との返事が来た。国会近くの事務所を訪ねたとき、テレビや新聞を通じてしか知らない大物政治家に日本語で質問しなければならないということで、どれほど緊張したか。言葉に詰まっていると、『あなたは韓国からの留学生? 私は日本の首相として初めて韓国を訪問したんだよ』。中曽根氏は、そうにこやかに語り掛けて、私の緊張をほぐし、韓国についての思い出などを挟みながら、私がちゃんと聞きたいことが話せるように誘導してくれた。時には私に質問もし、答えにも興味深そうに耳を傾けるなど、相手を尊重する姿勢にもあふれていた。事前の手紙で主な関心事項をお伝えしていたので、準備もしてくださったのだろう。中曽根氏は私の質問に対して、当時の情景描写とともに、次々と具体的な人名を挙げた。卓越した記憶力に感銘を受けたし、そのおかげでその後、当時の秘書官や関係省庁の方々に話を聞くことにもつながった。こうした調査は普通、実務者から話を聞き、最後にトップにたどり着くものだが、私の場合はまるで逆になってしまったのだった。『韓国からも、他の国からも、もっと多くの留学生に日本に来てほしいんだよ』。インタビューの場で、そう励まされたことも強く印象に残っている」[87]
  • 国分俊英(共同通信社編集局長) 「長寿を全うした背景には酒とたばこがある。担当を離れていた時期でもメディア各社の記者とともに懇談する機会が多かった。あるときウイスキーの水割りが出された。すると、グラスの中に人さし指と中指を突っ込んで氷をかき出しはじめた。『どうしたんですか』と尋ねると『腹を冷やすのが体に一番よくないんだよ』。以後、中曽根氏の水割りはいつも氷抜きとなった。深酒は決してしなかった。特に首相の五年間は『自衛隊の最高指揮官だから』と、不測の事態が起こる場合に備えていた。中曽根氏の後に酒乱ぎみの首相もいたが、緊張感、心構えが全く違っていた。たばこは極端に嫌った。『朝駆け』(朝自宅に取材に訪れること)の際は、先着二人までが同乗して話を聞くことができた。『ハコ乗り』と称していた。あるとき同乗した某新聞社の記者が車内でたばこに火をつけた。中曽根氏は運転手に車を止めさせ、くだんの記者に『降りてください』と命じた。厳しい口調が示したように、たばこの煙とにおいに我慢できなかった。それほど健康に気づかっていた。碁、将棋はやらずマージャンなど賭け事には一切手を出さなかった。関心がなかったのだろう。女性との浮いた話もなかった。興味は政治だけだった。読書はよくしていた。読んで面白く参考になる本に出合うと記者に配ったりした。『勉強しなさい』という意味だったと思う。いまでも蔵書の中に『謹呈 中曽根』というサイン入りの本が何冊かある。中曽根氏は『大統領的首相』を公言し、安倍首相の官邸主導の源流を作ったといわれる。だが、その前提として、中曽根氏は異論をよく聞いた。中曽根氏が住んでいた首相公邸に夜、実力政治家がひそかに訪れていた。新聞の首相動静には載らない。意見を言うためであった。有益な話を聞くと、常用の赤い手帳にメモするのが常だった。他派閥から起用した官房長官の後藤田正晴氏を重用した。後藤田氏は時には中曽根氏のいさめ役を果たしていた。イエスマンの同類議員と忖度する官僚ばかりを官邸に集めた安倍体制とは、根本的に違っていた」[88]
  • 中曽根康隆
    • 「家の中にいても、祖父は常に背筋が伸びてピシっとしている人でした。もちろん『おじいちゃん』の表情もありましたが、『大きな志を持った一人の大人』というオーラが出ていたから、孫ながらに圧倒されるような感覚がありました」
    • 「初当選後、祖父に挨拶に行き、『おかげさまで当選したよ』と報告しました。普通なら最初から笑顔で迎えますよね。けれど祖父からは開口一番に『歴史を勉強しなさい、浮かれてる場合じゃない』と厳しい目で言われました」
    • 「家庭内でも、祖父は常に背筋を伸ばして、無駄な時間を一切過ごしませんでした。総理大臣になっても忙殺されずに、本を読み、勉強していた。さらに、毎週末には寺で座禅を組んだり、水泳にも行ったりして、自分一人になって考える時間を作っていました」
    • 「知識を吸収することが好きだった。私もあれほど勉強する人は見たことないですね。年齢に関係なく、いろんな人の意見を聞くのが大好きでした。大学時代には、祖父から『ゼミのメンバーを集めろ』と言われました。『いまの若者が何を考えているのかを聞きたいから、お昼にカレーライスを食べながら意見交換をしよう』と。総理大臣経験者で当時80歳くらいの祖父が、20歳の学生の意見をテープレコーダーで録音しながら、メモを取りながら聞いていたのです。この姿勢はすごいと思いましたし、祖父の知識欲からきている行動なのでしょう」
    • 「祖父は常々『自分の身体に国家がある』と述べていました。これは、戦争で部下や弟を失い、焼け野原を見るという強烈な体験から、この祖国を復興しなければいけないと感じていたためです。それから政治家を志し、強い意志があったからこその発言だと思います。だから死ぬ直前まで『国が苦しいと、自分も苦しい』とよく言っていました。群馬の材木屋の次男で、政治には関わりのなかった祖父は、自分の志ひとつで政治家になりました。28歳から総理大臣になると決めていたそうですよ。小派閥を率いる中で『風見鶏』だと批判を受けていましたが、総理になるには『風を読むこと』が必要であることも、よく理解しており、徳富蘇峰の『大局さえ見失わなければ大いに妥協してよい』がモットーでした」
  • 中曽根蔦子
    • 「結婚詐欺にあったようなものでした。役人と結婚したら平穏な生活ができると思って嫁に来たのに、途中で何一つ相談なしで勝手に役人を辞めちゃって。結局、選挙ばかりやらされることになりました」
    • 「私の写真を、いつも内ポケットに入れていたそうですよ。最初の妊娠をしたときも私が酸っぱいものを欲しがるので、あるときなど、主人は会議に出た夏ミカンを食べたふりをしてそっとポケットに入れ、持って来てくれたこともあったのです」

宗教関連編集

キリスト教
クリスチャンではなかったが、共愛女学校を卒業している母親のゆくの賛美歌を聞きながら育った[89]。中曽根は軍隊に入隊して出征する際、聖書を持って行ったという[90][91][22]
靖国神社
1985年内閣総理大臣として公式参拝した。翌1986年は後藤田官房長官の圧力に屈し、さらに胡耀邦の中国共産党内での立場に配慮し[30]、参拝を中止した。1988年3月11日赤報隊から脅迫状が送りつけられる(赤報隊事件)。国会議員勇退後にはA級戦犯分祀推進[92] や小泉総理の靖国参拝反対など大きく主張を転換した。
島村宜伸は、中曽根の依頼を受けて靖国神社に対しA級戦犯の分祀を求めたことがあった旨を、2005年に述べている[93]
天皇の参拝実現を要望している。2004年に「遺族が一番考えているのは天皇陛下がいつ参拝してくれるかだ。首相ではなく、天皇陛下が参拝できるようにするのが首相の大きな仕事だ」と発言している[92]
自著において宗教観を語っており、どの宗教も心の底から信じられないとするが、座禅だけは好んで行っている[21]。また雑誌の読書特集のインタビューで道元正法眼蔵』を座右の書としていると語った。
世界基督教統一神霊協会(統一教会)
1992年3月、出入国管理及び難民認定法の規定で日本に入国できなかった統一教会の教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国した際、文鮮明と会談した[94]
1992年9月、統一教会発行「中和新聞」 によると、桜田淳子山崎浩子が参加したことで注目を浴びた1992年の統一教会の合同結婚式に中曽根は元総理の名で祝辞を送ったとされている。
1994年8月、勝共連合の幹部の誘いで文鮮明の側近である朴普煕と会談、1991年の文鮮明と金日成の会談の報告を受ける[95]
2006年3月21日、千葉県幕張メッセで開催された統一教会系列の「天宙平和連合 (UPF)日本大会」にその活動趣旨に深い理解を示し、祝電を送ったという[96]

渾名編集

栄典編集

戦後、生存者叙勲の復活が閣議決定された直後には「戦前の勲章の復活などは、いまの憲法にふさわしくない。第一、いまどき勲章をもらったって、いつ、どんな服につけるのかね」[97] と語っていたが、1997年4月29日、大勲位菊花大綬章を受章した。日本国憲法施行後、皇族・外国人以外で大勲位菊花大綬章を生前受勲したのは、吉田茂佐藤栄作に次いで3人目である。その他の栄典としては、大日本帝国海軍の軍人であったとき、海軍主計少佐として従六位に叙されている。2019年(令和元年)12月27日の閣議で、中曽根の叙従一位および大勲位菊花章頸飾追贈が決定された。叙位叙勲は、死去日の11月29日付けである[98]

また、フランスからレジオンドヌール勲章(グラントフィシエ)、ドイツ共和国から功績勲章大十字章をそれぞれ受章している。

称号は、名誉博士ルイ・パスツール大学)、名誉博士(タンマサート大学、政治学)の名誉学位を受けている。その他、1997年(平成9年)には国会議員在職50年表彰を受けた(史上4人目)。

家族・親族編集

 
1983年1月21日アンドルーズ空軍基地にて妻の蔦子(左)と

系譜編集

中曽根家(群馬県高崎市
  • 系図1
平山信
 
 
 
 
 
 
 
中曽根
松五郎
 
 
 
 
 
 
 
斉藤知一郎
 
 
 
 
 
豊田喜一郎
 
 
 
三井高長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千枝
 
川上寿一
 
中曽根
吉太郎
 
中曽根康弘
 
 
 
斉藤了英
 
斉藤滋与史
 
和可子
 
豊田章一郎
 
博子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
川上冽
 
光子
 
八重子
 
斉藤知三郎
 
斉藤斗志二
 
斉藤公紀
 
 
 
 
 
 
 
豊田章男
 
 
 
 
  • 系図2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鹿島岩蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いと
 
鹿島精一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初代中曽根
松五郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稲山嘉寛
 
 
 
梁瀬次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
卯女
 
鹿島守之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渥美育郎
 
 
 
小林儀一郎
 
 
 
 
 
2代中曽根
松五郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稲山孝英
 
弘子
 
公子
 
鹿島昭一
 
よし子
 
石川六郎
 
三枝子
 
平泉渉
 
伊都子
 
渥美健夫
 
小林義治
 
蔦子
 
中曽根康弘
 
中曽根
吉太郎
 
前川昭一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渥美雅也
 
渥美直紀
 
美恵子
 
美智子
 
双川文吾
 
中曽根弘文
 
真理子
 
 
 

選挙歴編集

選挙日 回数 選挙区 政党 得票数 得票率 順位 当落 選数 年齢
1950.05.30 23 群馬
3区
民主党 065,484 25.72% 01位   01選 29歳
1950.05.30 24 045,261 16.33% 02位   02選 31歳
1952.10.21 25 改進党 071,967 22.46% 01位   03選 34歳
1953.04.19 26 065,878 20.58%   04選 35歳
1955.02.27 27 日民党 083,399 26.50%   05選 37歳
1958.05.22 28 自民党 070,852 22.02% 02位   06選 40歳
1960.11.20 29 076,274 24.24%   07選 42歳
1963.11.21 30 084,504 26.20%   08選 45歳
1967.01.29 31 072,731 21.46%   09選 49歳
1969.12.27 32 106,823 29.41% 01位   10選 51歳
1972.12.10 33 093,879 24.32% 02位   11選 54歳
1976.12.05 34 056,454 13.77% 04位   12選 58歳
1979.10.07 35 095,961 23.67% 02位   13選 61歳
1980.06.22 36 096,930 23.79%   14選 62歳
1983.12.18 37 117,970 30.09%   15選 65歳
1986.07.16 38 115,381 28.12%   16選 68歳
1990.02.18 39 086,552 19.88% 03位   17選 72歳
1993.07.18 40 064,387 22.00% 04位   18選 75歳
1996.10.20 41 比例
北関東
比例
1位
32.76% 01位   19選 78歳
2000.06.25 42 28.31%   20選 82歳

主な著作編集

著書編集

  • 『青年の理想』(一洋社、1947年)
  • 『日本の主張』(経済往来社、1954年)
  • 『南極』(弘文堂、1963年)
  • 『日本のフロンティア』(恒文社、1966年)
  • 『新しい保守の論理』(講談社、1978年)
  • 『心のふれあう都市-21世紀への提言-』(サンケイ出版、1980年)
  • 『政治と人生-中曽根康弘回顧録』(講談社、1992年)
    • 元版は「私の履歴書」、「保守政権の担い手 私の履歴書」(日経ビジネス人文庫、2007年)第6章に収録
  • 『二十一世紀日本の国家戦略』(PHP研究所、2000年)
  • 『自省録-歴史法廷の被告として』(新潮社、2004年/新潮文庫、2017年)
  • 『日本の総理学』(PHP新書、2004年)
  • 『保守の遺言』(角川書店[角川oneテーマ21新書]、2010年)
  • 『わたしがリーダーシップについて語るなら』(ポプラ社、2010年)
  • 『中曽根康弘が語る戦後日本外交』(新潮社、2012年)
  • 『なかそね荘 賢人たちは激動の10年をどう見つめてきたのか-』(2015年、世界文化社

共著編集

  • 竹村健一編)『内閣総理大臣中曽根康弘、防衛・憲法を語る-亡国の非武装中立論を撃つ』(山手書房、1984年)
  • 佐藤誠三郎村上泰亮西部邁)『共同研究「冷戦以後」』(文藝春秋、1992年)
  • (聞き手:伊藤隆ほか)『天地有情-五十年の戦後政治を語る』(文藝春秋、1996年)
  • 梅原猛)『政治と哲学 日本人の新たなる使命を求めて』(PHP研究所、1996年)
  • 宮澤喜一)『対論 改憲・護憲』(朝日新聞社、1997年)/『憲法大論争 改憲vs.護憲』(朝日文庫、2000年)
  • 石原慎太郎)『永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い』(PHP研究所、2001年/PHP文庫、2003年)
  • 竹村健一)『命の限り蝉しぐれ-日本政治に戦略的展開を-』(徳間書店、2003年)
  • (木下義昭編)『戦後60年日本の針路を問う-世界日報30年の視点-』(世界日報社、2005年)
  • (聞き手:松本健一)『政治は文化に奉仕する これからの政治と日本』(シアテレ新書、2010年7月)- DHCシアターの番組での対話集
  • (梅原猛)『リーダーの力量 日本を再び、存在感のある国にするために』(PHP研究所、2010年11月)

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 実際にはアメリカ海軍の駆逐艦4隻(ジョン・D・フォード、ポープパロットポール・ジョーンズ)。
  2. ^ 中曽根は「神通」としているが、実際には第四水雷戦隊司令官西村祥治少将が座乗する同型艦那珂[19]
  3. ^ 戦史叢書の記録では、実際の沈没艦は潜水艦による輸送船1隻並びに米海軍駆逐艦による輸送船3隻・哨戒艇1隻で、船尾に被弾した輸送船は「朝日山丸」(死傷者約50名)、マカッサル海峡で沈んだ輸送船は空襲による「南阿丸」1隻であり、中曽根の回想からはやや乖離がある[19]
  4. ^ 『終わりなき海軍』97ページでは「大きな波 黙祷の列の 足に来ぬ/戦友(とも)を焼く 鉄板をかつぎ 浜に出ぬ」
  5. ^ なお、内務官僚としての先輩で後に中曽根政権で官房長官に迎えた後藤田正晴も当時陸軍台湾司令部に配属されており、間接的に資材の獲得を競い合う「好敵手」であった[23]
  6. ^ 中曽根は個人的には「大東亜戦争」の呼称を用いていた[27]
  7. ^ 実際幹事長に就任したのは斎藤邦吉で、蔵相に就任したのは金子一平
  8. ^ 河野一郎の没後に河野派を中曽根が引き継ぐことを進言したのは、当時1年生議員の渡辺である。
  9. ^ これはのち安倍晋三に、「戦後レジームからの脱却」「美しい国」志向として引き継がれる。
  10. ^ 実際には、後藤田の力量を買う中曽根が田中に所望したことによる人事であった[23]
  11. ^ 二階堂はロッキード事件との関与が濃いとされながらも訴追されなかった「灰色高官」の一人とされ、金権政治批判を受けやすい立場にあった。
  12. ^ 所得税法人税などの直接税と比較すると酒税たばこ税揮発油税などの間接税の税収額が低いため、大型消費税の導入と所得税・法人税の減税などを組み合わせて直接税と間接税の税収額を同じにしようという政策。
  13. ^ 佐藤誠三郎の妻の佐藤欣子1989年の参院選で中曽根派の支援を受けて自民党から立候補したが、落選した。
  14. ^ ただし、これは地価高騰抑制などの理由により、当初の債務返済計画通りには進まなかった。詳しくは該当項目参照のこと。
  15. ^ 一方で、「総理就任時、日米関係は最悪と呼べる状態だった」「自分(中曽根)が外交関係を改善した」という認識を強く持ち、公式発言でもたびたび重ねたことが、鈴木善幸をはじめとする宏池会の逆鱗に触れ、(鈴木内閣と鈴木善幸本人への非難・皮肉とも受け取れた)二階堂擁立構想を生む原因となる。
  16. ^ これ以後、日本国内閣総理大臣から、同様の関係を築くことが流行した。後任・竹下登の「ロン・ノブ」、ブッシュと小泉純一郎の「ジョージ・ジュン」など。
  17. ^ こうした背景やレーガンの歴史認識・過去の記憶を基に、「ロン・ヤス」は実態の無い関係であったと指摘されることも多く、これは同じくアメリカのプードル時代といわれた後年の「ジョージ・ジュン」の関係と比較しても歴然とした差が存在した。
  18. ^ 当時の党三役のうち幹事長・総務会長をそれぞれ竹下登・安倍晋太郎というポスト中曽根のニューリーダーが務めていたため、三役辞職により中曽根の早期退陣につなげるとともに、自らの時代を切り開く思惑があった。しかしこの辞任論に対しては、もうひとりのニューリーダーである宮沢喜一の母体の宏池会が猛反発し、実現に至らなかった。宮沢は当時蔵相だったため、売上税を巡っての政権の動揺は宮沢自身の責任論にも繋がりかねなかったためである。
  19. ^ ただし、中曽根は上述の通り3月10日に台湾へ転任となり[22]、慰安所の開設は翌日であることから[61]、開設後の運営には携わっていないものと考えられる。
  20. ^ サッチャーの愛国心はかなりのもので、トルコのダーダネルス海峡に架ける橋の工事を日本企業が請け負った際には、サミットの開会前に中曾根の元に来て、英国の勢力圏の仕事を日本が持っていくのはひどいと抗議している。
  21. ^ 中曽根首相は1983年1月、韓国を訪れた。日程を順調に消化し、最大のヤマ場となる大統領官邸の大広間での晩餐会が始まった。大勢の来賓が招かれた中、全斗煥大統領の歓迎スピーチが終わり、次は中曽根首相の挨拶になった。来賓は、中曽根首相が日本の韓国統治についてどういう言葉で謝罪するのかに注目し、会場は水を打ったように静まり返った。首相はポケットから挨拶文を取り出し、ゆっくりと広げた。「ヨロブン、アンニョン ハシムニカ(ご来賓の皆さん、今晩は、여러분, 안녕하십니까)…」会場は大きくどよめいたという。スピーチの中ほどで日本語になり、韓国語の通訳が入った。そして最後。「オヌルン、テダニ カムサハムニダ(本日は誠にありがとうございました、오늘은 대단히 감사합니다)」会場は割れんばかりの拍手に包まれたという。帰国後、中曽根首相は「隣に座っていた全斗煥大統領は涙を浮かべていた」と語ったという。客席の中にもハンカチで涙を拭いていた人もいたようだ。中曽根首相の謝罪の言葉は脇に押しのけられた格好になった。(町田貢 『日韓インテリジェンス戦争』 文藝春秋 2011年)
  22. ^ 報道2001」において中曾根が語る先見性を予言者ノストラダムスに見立てて名づけられた。
  23. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版』176頁によれば、「母の名前はゆく。その実家は安中市の名家で素封家であった。中曽根は女一人、男四人の二男。そのうち三男・良介は戦死、四男・昌吉は病死している。」という。
  24. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版』178頁によれば、「その妻・真理子は、前川商事や前川産業、あるいは朝霧高原の開発などで有名な前川昭一の長女である。」という。
  25. ^ めちゃ×2イケてるッ!」のコーナー「フジTV警察24時」でもフジテレビの二世社員として紹介され、目の前で本庁からの助っ人だったはなわに“中曽根の孫もフジ、オンエアできるのか?”と歌われた。また、インディーズお笑い芸人としても活躍している
  26. ^ 1973年入局。同期には池上彰(報道記者)、大塚範一宮本隆治(アナウンサー)などがいる[101]

出典編集

  1. ^ a b 日外アソシエーツ編『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(日外アソシエーツ、2003年) 436頁、437頁、日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) 377頁、378頁参照。
  2. ^ a b 昭和16年4月18日(発令4月18日付)海軍辞令公報(部内限)第623号 p.31(原本304上段、任海軍主計中尉)、p.34(原本307上段、海軍経理学校補修学生被仰付)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080800 
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論文編集

参考文献編集

  • 松浦敬紀編著 「衆議院議員中曽根康弘(海軍主計大尉)“二十三歳で三千人の総指揮官”」 『若い世代へ伝えたい残したい 終りなき海軍』 文化社、1978年6月。 
  • 編者 - 週刊ブックス特別取材班『新総理 中曾根康弘の研究』 1982年
  • 日外アソシエーツ編『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(日外アソシエーツ、2003年) ISBN 4816918051
  • 日外アソシエーツ編『新訂現代政治家事典―中央・地方の政治家4000人』(日外アソシエーツ、2005年) ISBN 4816918922
  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 149-152頁
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  • 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年 166-180頁、290-291頁
  • 日本経済新聞編 『私の履歴書 保守政権の担い手』 日本経済新聞出版社、2007年。ISBN 978-4532193737 
  • 服部龍二 『中曽根康弘』 中央公論新社、2015年。 
  • 本澤二郎 『平成の妖怪中曽根康弘の大野望』
  • 『中曽根康弘悪の構図』

関連項目編集

関連人物編集

外部リンク編集

公職
先代:
鈴木善幸
  内閣総理大臣
第71・72・73代:1982年 - 1987年
次代:
竹下登
先代:
宇野宗佑
  行政管理庁長官
第45代:1980年 - 1982年
次代:
斎藤邦吉
先代:
田中角榮
  通商産業大臣
第34・35代:1972年 - 1974年
次代:
河本敏夫
先代:
高碕達之助
荒木萬壽夫
  科学技術庁長官
第7代:1959年 - 1960年
第25代:1972年
次代:
木内四郎
前田佳都男
先代:
高碕達之助
荒木萬壽夫
  原子力委員会委員長
第7代:1959年 - 1960年
第25代:1972年
次代:
木内四郎
前田佳都男
先代:
有田喜一
  防衛庁長官
第25代:1970年 - 1971年
次代:
増原恵吉
先代:
大橋武夫
  運輸大臣
第38代:1967年 - 1968年
次代:
原田憲
党職
先代:
鈴木善幸
自由民主党総裁
第11代:1982年 - 1987年
次代:
竹下登
先代:
二階堂進
自由民主党幹事長
第15代:1974年 - 1976年
次代:
内田常雄
先代:
鈴木善幸
江崎真澄
自由民主党総務会長
第16代:1971年 - 1972年
第21代:1977年 - 1978年
次代:
鈴木善幸
倉石忠雄
先代:
集団指導体制より移行
新政同志会会長
初代:1968年 - 1978年
次代:
改称
先代:
改称
政策科学研究所会長
初代:1978年 - 1990年
次代:
渡辺美智雄
外交職
先代:
ヘルムート・コール
西ドイツ
先進国首脳会議議長
1986年
次代:
アミントレ・ファンファーニ
イタリア