抹茶(まっちゃ)は、緑茶の葉を細かく砕いた粉末である。日本では茶道で飲用として用いられるほか、和菓子洋菓子料理の素材として広く用いられる。

抹茶
中国語
中国語 抹茶
発音記号
標準中国語
漢語拼音mǒchá
IPA[mɔ̌.tʂʰɑ́]
粤語
IPA[mūːt̚.tsʰȁː]
粤拼mut3-caa4
日本語
漢字 抹茶
朝鮮語
ハングル말차
漢字抹茶
発音記号
RR式malcha
MR式malch'a

概要 編集

日本の食品表示で「抹茶」とされるのは、日本茶業中央会による「覆い下で栽培生葉を揉まないで乾燥した碾茶茶臼で挽いて微粉状に製造したもの」、および「『茶臼で挽いて』という表現は粉砕の代表例を示したもので、他の方法で微粉末にしても「抹茶」と言える」との補足説明に当てはまるもの[1]

『碾茶』と『抹茶』の流通量を比較すると、世間で流通している抹茶の3分の2は本来の意味の抹茶ではないと見られている[2]

工業的に粉砕機で破砕したものも抹茶と表示されるが、「加工用抹茶」「工業用抹茶」「食品用抹茶」などとして流通する粉末茶や、煎茶を製造する際に生じる微細な「出物」である粉茶[注 1]はこの定義に含まれない。

粉末としての抹茶 編集

チャノキの葉(茶の葉)を蒸してから乾燥させた碾茶を茶臼で挽いたもの。飲用として濃茶や薄茶に用いるほか、日本では定番となっている抹茶味のアイスクリーム[3]のように、爽やかな苦味は和菓子や洋菓子の風味付けにも好まれる。

家庭用に流通しているプラスチックフィルム袋や金属製などの密閉容器に入った製品は、変質を避けるために開封後に冷暗所で保存する必要がある。

飲料としての抹茶 編集

 
茶碗と茶杓と茶筅

黒味を帯びた濃緑色の濃茶(こいちゃ)と鮮やかな青緑色の薄茶(うすちゃ)がある。

現在では一般的な飲料として煎茶緑茶飲料を含む)に需要があるが、地域によっては農作業の間の休憩などに飲用する習慣が残る。

味はその年の茶畑や茶葉の仕上がりによって異なるため、高級品や一般向け製品の味わいを統一するために様々な茶葉を組み合わせて配合する合組(ごうぐみ)が行われる。

挽きたてのものを飲用した[4]江戸時代、茶臼で挽いた抹茶を供する茶道では甘みがより強く、渋み苦味のより少ないものが良いとされる。

茶道では、濃茶は茶杓に山3杯を1人分として、たっぷりの抹茶に少量の湯を注ぎ、茶筅で練ったものを供する。薄茶は茶杓1杯半を1人分として、柄杓半杯の湯を入れ茶筅で撹拌する。茶道では茶を「点(た)てる」(点茶=てんちゃ)というが、濃茶は特に「練る」という。現在の茶道では、濃茶を「主」、薄茶を「副(そえ)」「略式」と捉えている。 茶筅で撹拌する際に、流派によって点て方が異なる。三千家ではそれぞれ、たっぷりと泡を立てるのが裏千家、うっすらと泡立てるのが表千家、最も泡が少ないのが武者小路千家といわれる。

歴史 編集

中国の時代の茶は、茶葉を固めて塊状にした餅茶(団茶)が主流であった。8世紀頃、中国の陸羽が著した『茶経』には茶の効能や用法が詳しく記されている。それによると、餅茶を固形のまま火であぶり、木製の碾(てん、薬研)で挽いて粉末にし、(現在の茶釜の祖先)で湯を沸騰させ塩を加えて煎じる団茶法であった[5]。また、茶にネギ、ショウガ、ナツメ、みかんの皮、呉茱萸、ハッカの類を入れることもあった。

『茶経』に、茶には觕(そ=粗)茶、散茶、末茶、餅茶の4種類があると述べられている[6]。このうち、「末茶」を抹茶(粉末茶)と解するべきかについては意見がわかれる[7]。末茶の説明として、ただ「煬(あぶる)」とだけあり、乾燥もしくは焙煎のために火にかけて作られた茶であることは確かだが、形状が粉末状であるかは述べられていないからである。ただし餅茶同様、飲む時に碾で挽いて粉末にした可能性はある。

 
中国の茶碾、法門寺出土品、9世紀。

「抹茶」という言葉は使われていないが、茶筅で点(た)てる粉末茶の発生は10世紀の中国と考えられている。文献としては宋時代の蔡襄『茶録』(1064年)や徽宗『大観茶論』(12世紀)などが有名である[8][9]。これらの文献では龍鳳団茶に代表される高級な団茶を碾で粉末にした後、羅()にかけ、その後、盞(さん、天目茶碗)に粉末を入れて湯を注ぎ、茶筅で点てた。羅のめが細かいと茶が浮かび粗いと沈むとあるので(『茶録』)、粉末の粒子は現代の抹茶より大きかったらしい。京都の建仁寺、鎌倉の円覚寺の四つ頭茶会はこの遺風を伝えている[10]

皇帝に献上される団茶は表面に光沢を出すために珍膏という油脂類香料を塗ったり、香りのきつい龍脳を入れたりして、茶本来のもつ香りが消し飛ぶほどであった。こうした加工を蔡襄は批判している[9]。また、茶の色も緑や茶色ではなく、白が理想とされた。しかし、茶の粉末を点てても通常は白にならないため、白にするために様々な加工を施さざるを得なかった。たとえば、茶の芽を芽生えたばかりの粒のうちに摘み、それを繰り返し搾り、何度も水を足して研(す)ったりした。また茶の芽の肉の部分を取り除いて筋の部分だけを材料とする「水芽」という白茶の銘柄もあった[11]

このように宋代の団茶は複雑な製造工程のため、大変な労力と金銭がかかり、また途中のちょっとした落ち度でも失敗してしまうほどであった。当然、庶民には手の届かない高価なものとなった。また味も茶本来のもつ「啜苦咽甘(啜ると苦く、飲み込むと甘い)」(『茶経』)を、無理やり「香甘重滑(香り、甘み、濃さ、滑らかさ)」(『大観茶論』)の四拍子が揃ったものに変え、それを理想とした[11]。こうして団茶(抹茶)は宋代では高価で複雑な加工茶となったため、明代以降、急速に衰退する原因の一つになったという指摘もある[11]

日本には平安時代初期に唐から喫茶法(おそらく団茶法)が伝えられたが、粉末茶が伝わったのは鎌倉時代とされる。その伝来としては、日本の臨済宗の開祖となる栄西1191年、中国から帰国の折にチャノキの種子を持ち帰り、筑前国(現・福岡県)の脊振山に植えたとされる(『俗事百工起源』)[12]

栄西の『喫茶養生記』には茶の種類やその製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれている。1214年建保2年)には源実朝に「所誉茶徳之書」(茶徳を誉むる所の書)を献上したという[13]。この時代の茶は、褐変しており黒褐色のいわゆる団茶(磚茶)であり、現在の抹茶のような緑色ではなかった[14]。茶色の語源もここから来ていると考えられる。この磚茶を削って煎茶風に飲んだり、粉砕して抹茶風に飲んでいたようである[14]

 
『運歩色葉集』の「抹茶」の文字。

ただし、栄西の書には「抹茶」という語は使われていない。また同時代の中国の茶に関する書にもこの語は見いだせない。日本では室町時代の国語辞典『運歩色葉集』(1548年)に「抹茶」の語が掲載されている[15]

王禎の『農書』(1313年)に「末茶」、「末子茶」という語が使われており、そこに記載されている製法は抹茶の製法と矛盾せず、これらは抹茶のことを指すとする説がある[7]。ただしこの書の出版は栄西より約100年後であり、これらの語が日本に伝わり抹茶に転化した具体的な記録は見つかっていない。

栄西の弟子である明恵は、茶の種子が入った茶壺を師より譲り受け、京都栂尾に茶の種を蒔き茶園を開いた。鎌倉時代には、栂尾茶は本茶と呼ばれ、他の地域の茶は非茶と呼ばれるほどの評価を得た。また、伝説では明恵は京都宇治にも茶園を開いたという[16]。ただし、明恵が開いたされる茶園は、厳密には現在萬福寺がある宇治郡小幡の地で、本来の宇治茶の産地は平等院付近の久世郡宇治郷で、両者は隣接しているが別々で、後者は足利義満の命を受けて大内義弘が開いたともいう[17][16]

明代に入り、初代皇帝朱元璋が洪武24年(1391年)に団茶の製造禁止を発令し、これをきっかけに中国では団茶が廃れ、散茶をお湯に浸して抽出する泡茶法が主流となった。沈徳符の『万暦野獲編』補遺巻一、供御茶に、「国初四方の供茶、建寧、陽羨の茶品を以て上と為す。時なお宋制に仍(よ)る。進むる所の者、倶に碾(てん)してこれを揉み、大小龍団を為(つく)る。洪武二十四年九月に至り、上(しょう)、民力を重労するを以て、龍団を造るを罷(や)む。惟だ茶芽を採り以て進む」とある[18]

明は尚武の精神が強い重農主義的な王朝であり、洪武帝も社会の最下層から身を起こした人物であったため、贅沢な団茶を嫌ったのではないかと指摘されている[19]

チャノキを藁や葦簀(よしず)で覆って日陰で栽培する方法(覆下栽培)は、従来、16世紀後半に日本で発生したと考えられていた。例えば、1577年に来日したポルトガルの宣教師・ジョアン・ロドリゲスは、『日本教会史』(1604年)の中で覆下栽培について書き記している。しかし、近年の宇治茶園の土壌分析から、覆下栽培は遅くとも15世紀前半には始まっていたことが明らかとなっている[20]

日光を遮ることで茶葉の光合成が抑制され、うま味成分のテアニンが苦味や渋味の元となるタンニン類へ変化するのを抑制し、結果としてうま味を多く含んだ茶葉へと成長する[21]。また、覆下栽培によって、茶葉のクロロフィル(葉緑素)が増加し、鮮やかな緑色になることが明らかとなっている[22]

室町時代以降、茶を製造販売する業者を「茶師」と呼ぶようになった。江戸時代になると、茶師は、特に幕府によって身分を保証された、選ばれた宇治の「御用茶師」を指すようになる。宇治茶師には、御物茶師、御袋茶師、御通茶師の三階級があった。

宇治茶師は苗字帯刀を許され[16]、もっぱら将軍、朝廷、各地の大名とだけ茶(碾茶)の取引をし、一般の人々に売る「町売り」はしなかった[16]。また、覆下栽培は宇治茶師にのみ許され、高級な抹茶や玉露の生産は宇治茶師が独占した[16]

最古の抹茶の銘柄としては「祖母昔(ばばむかし)」が知られている。祖母とは六角義賢の娘で上林久重に嫁いだ妙秀尼(慶長3(1598)年没)のことで、徳川家康から「ばば」と呼ばれていた[23]。『台徳院殿御実紀』(徳川秀忠の記録)によると、妙秀尼は茶の製法にすぐれ、家康は妙秀尼の茶をよく好んで飲んでいたという。そして「今、祖母昔と名づける茶は、この老母の遺法によるものである」とある[24][23]。また、松浦清甲子夜話』には、家康(神君)が「ばば昔」と名付けたとあり、妙秀尼に若林という茶園を与え、ゆえに祖母昔は若林昔とも称すとある[25]。久重、妙秀尼の長男久茂、四男政重はともに家康に仕え、政重は伏見城で討ち死にしている。上林一族はその後宇治茶師の筆頭として、徳川幕府に重用された。祖母昔の銘は、宇治茶師でも上杉家以外は使えなかったとされる[25]。祖母昔の銘茶はいまでも続いている。

祖母昔以外の銘茶としては、やはり将軍家への献上茶であった「初昔(はつむかし)」、「後昔(あとむかし)」や、「鷹の爪」、「白」も著名であった[26]。当時の抹茶は茶葉のままの碾茶を茶壺に入れて出荷し、飲むときに茶臼で挽いて粉末にした。宇治から将軍へ献上するために江戸へ茶壺を運搬する行事は「御茶壺道中」と呼ばれ、茶壺を運ぶ行列が通る際には諸大名も道を開けなければならなかった。

明治時代になると、それまで覆下栽培のもとで碾茶の生産を独占していた宇治の茶業者はその特権的地位を失った。また将軍家や諸大名といった取引先も失った。一方、覆下栽培は宇治以外でも可能となった。大正時代になると、碾茶乾燥機が発明され、製茶の機械化が進められた。

現在、日本における碾茶の生産量は、一位が鹿児島、ニ位が京都、三位が静岡となっている[27]。近年は、愛知県西尾市の業者が中国で技術指導する等して栽培技術が流出し[28] 、中国でも碾茶の栽培が進んでおり、生産量で日本を凌駕するまでに至っている。

日本の製法 編集

原料となる碾茶(てんちゃ)に用いる茶は葭簀(よしず)と(わら)または、寒冷紗を用いて直射日光を遮り「簀下十日、藁下十日」被覆栽培する(玉露と同様の栽培法)。これにより茶葉は薄くなり、うまみやコクが増す。1回目に収穫したものを1番茶、2回目に収穫したものを2番茶とし、若葉をていねいに手で摘む他、機械で刈る方法も存在している。刈り取った茶葉はその日のうちに蒸した後、揉捻(じゅうねん)を行わずに乾燥させる。揉まないところが煎茶玉露との大きな相違点である。

この碾茶を刻み、葉柄、葉脈などを取り除いて真の葉の部分だけにし、粉末にする。45℃前後の一定温度で乾燥させ、茶葉に変化の少ない石臼(茶臼)で挽く。この工程は11月までに行う。12月以降の冬場は味が変わってしまうからである。

茶銘とお詰め 編集

茶にはそれぞれ「初昔(はつむかし)」「後昔(あとむかし)」「千代昔」「葵の白」「青海白」などの銘がつけられる。茶人が茶銘に趣向を凝らして楽しむようになったのは江戸時代に入ってからだと考えられている。茶畑は「茶園」、製茶業者は「茶師(ちゃし)」と呼ばれる。茶師は元々は茶葉を茶壷などに詰めて納めたところから「お詰め」とも呼ばれる。

「昔」と「白」 編集

茶銘の末尾についている「昔」「白」という表現は、現代では濃茶と薄茶の区別として用いられる。しかし、本来は昔だけであり、後になって昔に対して白という表現が用いられた。昔という字は、最上級の茶の初摘みを行うといわれる3月20日 (旧暦)(廿日)の「廿(にじゅう)」と「日」を組み合わせたものとの説がある。

白という表現は、江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に見られ、当時の大名茶人が盛んに「茶を白く」と宇治茶師に求めたことがきっかけといわれる。当時の「白く」という表現が何を意味していたかは不明である。古田織部は青茶を、小堀遠州は白い茶を好んだという記録が遺されている。宇治では、白と青の違いは茶葉の蒸し加減によるとされている。おそらくは、嗜好の移り変わりを示すものと考えられる。 また業界の一説では、茶の製茶過程において特に初摘みの新芽に白い産毛が入ったものが多く見られることがあり、そのような貴重な新芽を用いたお茶はふわふわとした白い産毛が入るお茶となることから、その茶を「白」と呼んでいたのではないかとしている。

銀座平野園(創業明治16年、東京・銀座)には「御園の白」という銘の濃茶が明治時代から今日に至り存在する。当時の店主、草野話一は明治天皇に献上する抹茶の銘を考えていた際、濃茶に用いる上質な茶葉を臼で挽く時に臼の周囲に特有の白い輪が広がることから茶銘を「御園の白」と名付けた。 また明治天皇が病を患った際、話一は銀座の地にて自ら臼を挽いて製造した「御園の白」から抹茶のアイスクリームを製造して献上した。

成分と効能 編集

茶には眠気の除去や利尿作用など様々な効能がある。特に抹茶は茶葉を粉にして飲むため、葉に含まれる栄養素をそのまま摂取することができる。抹茶に含まれる主な成分は次のとおり[要出典]

賞味方法 編集

飲む 編集

 
醍醐寺境内の茶屋の抹茶
濃茶
亭主を中心とした少人数の茶事では一つの椀の濃茶を主客より順に回して飲む。菓子は生菓子で、「主菓子」(おもがし)と呼ばれるもの。
薄茶
「おうす」ともいう。大寄せの茶会や禅寺のもてなしには、一人一椀ずつの薄茶を点てる。茶事の折には薄茶の前に「干菓子」(ひがし)を出すが、濃茶を出さない茶会やもてなしでは生菓子を出すこともある。
グリーンティー(うす茶糖)
抹茶とグラニュー糖から成り、湯や牛乳を入れて撹拌して飲む。玉露園が日本で1930年(昭和5年)に初めて商品化した。昭和40年代同社がお茶屋(茶葉販売店)の店頭にドリンクサーバー(ドリンクチラー)を数多く設置し、無料の試供品を提供したことから広く知られるようになり[30]、今では玉露園以外の多数のメーカーも同様の製品を販売している。静岡周辺では「うす茶糖」の名前でほぼ同じ物が売られている。こちらは竹茗堂の1932年発売の「ウス茶糖」が元祖であり、グリーンティとは微妙に製法が異なる。また近年は「抹茶ミルクの素」「抹茶ラテの素」といった名前で商品化されている。甘く口当たりが良いので、子どもでも無理なく飲める。登場当初は冷やす飲み方のみであったが、近年、温めた牛乳を用いた飲み方も考案され、喫茶店などでも、提供されるようになった。

食べる 編集

 
抹茶ケーキ
 
宇治抹茶エスプーマ仕立てのかき氷

前述の通り抹茶は他の茶と異なり茶葉そのものも食す[注 2]ことから、料理の素材などとしても広く用いられる。また、前述のとおり砂糖ともよく合うことから菓子にも用いられる。代表的なものとして以下があげられる。

このほかにも、フォンデュなども含む和洋中料理やビールを含む飲料に加える食材、調味料として使う飲食店や飲食品メーカーもある[31]

バーテンダー後閑信吾茶道具を使用して抹茶のカクテル「Speak Low(スピーク・ロウ」を作り、2012年に、世界的なカクテル競技会「バカルディ レガシー カクテル コンペティション」で優勝した。Speak Lowは、抹茶を茶杓ですくい茶筅を使って茶碗の中で点てて提供される[32]

また日本陸軍航空勤務者向けに開発・採用した各種の栄養補助食品の中に「航空元気食」というものがあり、これは緑茶粉末・ビタミンB1等を米粉に練り込み、ゼリー菓子状に成形したものであった。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 急須などで煎れて飲用する。
  2. ^ 中国には、茶葉をそのまま食す料理「龍井蝦仁」がある。

出典 編集

  1. ^ 日本茶業中央会緑茶の表示基準』(PDF)(レポート)2019年、21頁https://www.nihon-cha.or.jp/pdf/hyoujikijyun.pdf 
  2. ^ 桑原秀樹『お抹茶のすべて』誠文堂新光社、2015年、ISBN 9784416615300、pp.12-16.
  3. ^ 日本アイスクリーム協会の調査では1999年平成11年)から2009年(平成21年)まで、バニラチョコレートに次いで第3位の地位を占めている。
  4. ^ 三輪茂雄. “茶道具から消された茶磨(茶臼)”. 石臼 & 粉体工学 粉体の話はまず高貴な粉から 茶磨(茶臼)の日本史. 2009年8月13日閲覧。
  5. ^   陸, 羽, “五之煮” (中国語), 茶經, ウィキソースより閲覧。 
  6. ^   陸, 羽, “六之飲” (中国語), 茶經, ウィキソースより閲覧。 
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  8. ^   蔡, 襄 (中国語), 茶錄, ウィキソースより閲覧。 
  9. ^ a b 千, 宗室 編『茶道古典全集』 1巻、淡交新社、1957年。doi:10.11501/2466376https://dl.ndl.go.jp/pid/2466376/1/1 
  10. ^ 福持昌之. “京都の無形文化財としての建仁寺四頭茶礼”. 大阪観光大学観光学研究所報『観光&ツーリズム』. http://www2.meijo.ac.jp/img/s17fukumochi.pdf 2020年7月11日閲覧。. 
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  12. ^ 三田村, 鳶魚 編『未刊随筆百種』 3巻、米山堂、1927年、173頁。doi:10.11501/1243560https://dl.ndl.go.jp/pid/1243560 
  13. ^ 龍粛 訳『吾妻鏡』 4巻、岩波書店、東京〈岩波文庫〉、1941年、110頁。doi:10.11501/1684179。"「所誉茶徳之書」が『喫茶養生記』であったと見られている"。 
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  16. ^ a b c d e 穴田, 小夜子「江戸時代の宇治茶師」『学習院史学』第8巻、学習院大学史学会、1971年11月30日、47-70頁。 
  17. ^ 井口, 海仙 編『茶道全集』 7巻、創元社、1936年、513-533頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1868549 
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  27. ^ 農林水産省 (2023年12月). “茶をめぐる情勢”. 農林水産省. 2024年2月27日閲覧。
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  29. ^ 「抹茶で世界を変える」伊藤園が認知機能の課題解決へプロジェクト発足”. 食品産業新聞社ニュースWEB (2020年11月22日). 2020年11月23日閲覧。
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  31. ^ 【仰天ゴハン】食べる抹茶(京都府宇治市)進化 止まっちゃいけない『読売新聞』朝刊2019年6月9日よみほっと(別刷り日曜版)1面。
  32. ^ “世界一”の抹茶カクテル The SG Clubの Speak Low”. Chagocoro 文化をインスパイアするお茶メディア (2019年12月6日). 2023年12月13日閲覧。

参考文献 編集

  • 陳舜臣『茶の話――茶事遍路』朝日新聞社〈朝日文庫〉、1992年。ISBN 4-02-260705-X 
  • ディスカバー・ジャパン編集部 編『日本茶のこと説明できますか?』枻出版社、東京、2010年10月7日。ISBN 978-4777917709 

関連項目 編集