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尾崎士郎(天野派の学生リーダー)

早稲田騒動(わせだそうどう)は、1917年(大正6年)に早稲田大学で発生した学校騒動・学園紛争である。

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概要編集

1914年(大正3年)4月16日、早稲田大学総長大隈重信が首相に任命され第2次大隈内閣を組織したが、翌年8月の内閣改造で文部大臣として当時の早大学長高田早苗を起用し、後任の学長には早稲田三尊の一人である天野為之が就任した。しかし、同時に理事および維持員の増員を行い、名誉教職員規定が制定され、天野学長の権限を抑制する措置がはかられた。

1916年(大正5年)10月4日に第2次大隈内閣が瓦解し、高田も文相を辞職することになると、高田を再び早大学長に担ごうとする一派があり、天野一派と対立し、やがてそれが新聞で報道されると、学生や卒業生をも巻き込む大騒乱へと発展した。

  • 「早大校友大会気色ばむ 天野氏再任を辞せずと語る」(東京朝日、1917年7月7日付)
  • 「大隈総長遂に乗出す 早大の学長問題益紛糾」(同、7月30日付)
  • 「学長問題の大論判 高田博士の辞表迄朗読」(同、8月3日付)
  • 「天野博士応ぜず 評議員会委員の調停案 早大学長問題尚紛糾す」(同、8月17日付)
  • 「維持員の大譲歩 早大問題は本日決定 松平氏等の調停案を容れ昨夜深更まで評議を続く」(同、8月26日付)
  • 「調停遂に成らずして 早大問題逆戻り 仲裁者天野博士の態度に憤慨し紛擾再燃せん」(同、8月27日付)

1917年(大正6年)9月4日、天野派と目された永井柳太郎など5教授と前学長秘書橘静二が解任され、学生6名が退学処分となった。それに対して9月11日夜、天野派は早稲田劇場で高田派弾劾演説会を開催、石橋湛山尾崎士郎らの演説ののち、学生革新団による校門占拠事件にまで発展した。しかし、事態を静観していた警視庁第一方面監察官正力松太郎の仲介により、革新団は2日後に大学から退去した。

最終的には、9月26日の維持員会によって当分の間学長を置かないことに決定し、天野為之は早大から排斥され、翌年9月に校規が大幅に改正されて、代表者理事の平沼淑郎が学長に就任した。そして、平沼体制の下で早稲田大学は大学令による認可を目指すことになる。

騒動後に早大を去った人々編集

罷免された者編集

辞職した者編集

退学した学生編集

外部リンク編集

参考文献編集

関連項目編集