木下 達生(きのした たつお、1987年11月28日 - )は、愛知県名古屋市緑区出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

木下 達生
東邦高等学校硬式野球部 コーチ
東京ヤクルトスワローズ時代
(2012年3月22日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市緑区
生年月日 (1987-11-28) 1987年11月28日(36歳)
身長
体重
183 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2005年 高校生ドラフト3巡目
初出場 2006年8月6日
最終出場 2011年7月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東邦高等学校

経歴

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プロ入り前

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少年時代から大の中日ドラゴンズファンで、特に川上憲伸のファンであった。リトルリーグ時代は自ら希望して川上と同じ背番号11をつけた。中京大中京高校のセレクションを受けるも不合格となり、東邦高校に一般入部。2年生となった2004年春に1学年上の岩田慎司の控え投手として第76回選抜高等学校野球大会に出場も登板なし。3年生となった2005年春にはエースとして水野祐希とバッテリーを組み、第77回選抜高等学校野球大会でチームをベスト8に導いた。同年秋の高校生ドラフト会議北海道日本ハムファイターズから3巡目指名を受けた。事前に日本ハム側から指名挨拶がなかったことと、自身が地元で大ファンであった中日入りを希望していたこと[注 1]で入団交渉は難航したが、最終的には日本ハム側の熱意が通じ合意する形となった。

日本ハム時代

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ルーキーイヤーの2006年8月に一軍昇格しチームが優勝争いをする中、2試合に先発した。2年目の2007年は開幕は二軍スタートだったが、5月に一軍へ昇格。この年初登板となった5月19日の対福岡ソフトバンクホークス戦でプロ初完投、初完封で初勝利をマーク。その後先発ローテーションに入り、5試合で防御率2.40の数字を残すが6月20日に故障のため登録抹消。以降二軍でも登板はなく、一軍へ昇格することはできなかった。現役引退を明らかにした時、本人は「2年目の途中の脇腹痛以来、体が思う様に動かず、イップスにもなった」と振り返った[2]

2010年10月1日に球団から戦力外通告を受けたが、本人は現役続行を望み12球団合同トライアウトに参加した[3][4]

その後、中日ドラゴンズより入団テストのオファーがあり[5]秋季練習に参加[6]。11月19日に中日からテストの合格と育成選手として契約を結ぶことが発表された[7][8]。その後、自費でドミニカのウィンターリーグの練習に参加した[9]

中日時代

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中日ドラゴンズ時代
(2011年6月15日)

2011年7月15日に支配下選手登録され[10]、2日後の7月17日の対広島戦で4シーズンぶりに一軍登板を果たした。しかし、11月11日、2度目の戦力外通告を受けた[11]

2011年11月24日、2年連続で12球団合同トライアウトを受験。この模様はTBS系「プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」でも特集された。翌25日、高校時代にバッテリーを組んでいた水野の所属する東京ヤクルトスワローズに入団することが発表された[12]

ヤクルト時代

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2012年シーズンは、二軍でも11試合の登板に終わり、10月2日に3度目の戦力外通告を受ける[13]。12月26日、本人のブログにて現役引退を発表した[2]

引退後

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引退直後、高校野球指導者を目指して愛知東邦大学人間健康学科に入学。指導資格を得た2014年3月より東邦高校のコーチを務める[14]が、身分は大学生であったためボランティア扱いとなっていた。

2018年4月より、母校の東邦高校にて保健体育担当の教諭となる[15]。現在も同高硬式野球部のコーチを務めており[16]、大会中はスコアラー役も務め、第91回選抜高等学校野球大会での30年ぶりの優勝に貢献した[17]

選手としての特徴

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最速140km/h台後半のストレート[18]変化球カーブカットボールスライダーフォークボールを投げる[19]

人物

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練習試合で、江川智晃三重県立宇治山田商業高等学校)に自信を持って投げ込んだ外角直球を本塁打されて、レベルの違いを感じたことを野球生活での一番の思い出として挙げている。

入団当時は亀田興毅に似ていることを売りにしていた。しかし、同僚だった小笠原道大からは「お前はピエロだ」と言われ、高校時代の監督にも窘められたことから亀田パフォーマンスを封印した。

現役時代に始めたブログは本人による現役引退発表の場となり、さらに引退後も更新を続けている。その中では各地の野球教室に参加した事などを記している。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
2006 日本ハム 2 2 0 0 0 0 1 0 0 .000 39 8.1 9 2 5 1 0 7 1 0 7 7 7.56 1.68
2007 5 5 1 1 0 2 1 0 0 .667 119 30.0 27 3 7 0 0 11 1 0 8 8 2.40 1.13
2011 中日 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 5 1.0 0 0 2 0 0 1 0 0 0 0 0.00 2.00
通算:3年 8 7 1 1 0 2 2 0 0 .500 163 39.1 36 5 14 1 0 19 2 0 15 15 3.43 1.27

記録

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背番号

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  • 35 (2006年 - 2010年)
  • 206 (2011年 - 同年途中)
  • 97 (2011年途中 - 同年終了)
  • 62 (2012年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 当時の中日監督だった落合博満は、2013年の講演会の中で、中日側も木下を岡田貴弘(T-岡田)や平田良介と並ぶドラフト1巡目指名候補に入れていたものの、最終的には自身の意向で平田を指名した事を明らかにしている。その後2011年に、木下は落合監督が指揮する中日でプレーした。[1]

出典

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  1. ^ 落合流ドラフト指名術 かつてT-岡田より平田を優先した理由. NEWSポストセブン (2013年10月26日). 2019年1月2日閲覧。
  2. ^ a b 7年間ありがとう!ウォッチのブログ 2012年12月26日付
  3. ^ 感謝!八木智哉オフィシャルブログ「絆」
  4. ^ プロローグウォッチのブログ(木下本人のブログ)2010年10月8日付
  5. ^ 断食誕生日(笑ウォッチのブログ 2010年11月12日付(2010年11月17日参照)
  6. ^ 木下を中日がテスト 落合監督も見守る日刊スポーツ 2010年11月14日付(2010年11月17日参照)
  7. ^ 木下と育成選手契約=プロ野球・中日 時事ドットコム 2010年11月19日付
  8. ^ 中日ドラゴンズウォッチのブログ 2010年11月19日付(2010年11月19日参照)
  9. ^ “中日育成の木下が自腹でドミニカ修行”. 日刊スポーツ. (2010年12月1日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20101201-708705.html 2020年3月18日閲覧。 
  10. ^ 木下達生投手が支配下選手登録に 中日ドラゴンズ 公式サイト、2011年7月15日
  11. ^ 来季の選手契約について中日ドラゴンズ公式サイト 2011年11月11日閲覧
  12. ^ 選手獲得のお知らせ東京ヤクルトスワローズ公式サイト 2011年11月25日閲覧
  13. ^ 来季の契約について”. 東京ヤクルトスワローズ公式サイト (2012年10月2日). 2012年11月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月2日閲覧。
  14. ^ 2014年8月9日付中日新聞30面「東邦高校コーチ 元中日・木下さん 夢の続き後輩と」
  15. ^ 愛知東邦大学で教員資格 東邦高校野球部の木下、山田コーチが教諭デビュー| お知らせ|愛知東邦大学
  16. ^ 指導スタッフ紹介”. 東邦高校硬式野球部OB会 公式ホームページ. 2020年3月18日閲覧。
  17. ^ “平成最初と最後のセンバツVを陰から支援 東邦高 野球部 木下達生コーチ”. 中日スポーツ. (2019年4月22日). https://web.archive.org/web/20190426091527/https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/penpen/CK2019042202100047.html 2020年3月18日閲覧。 
  18. ^ 日本ハム木下の夢は1軍初勝利 河野祥一郎「今週のイチ押し!」 : nikkansports.com
  19. ^ 後半戦に期待!ハムのルーキー木下 河野祥一郎「今週のイチ押し!」 : nikkansports.com

関連項目

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外部リンク

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