東海林隆

博報堂DYホールディングス相談役、博報財団理事

東海林 隆(しょうじ たかし、1933年6月22日 - 2022年2月9日)は、博報堂DYホールディングス相談役、博報財団理事。博報堂史上初めてクリエイティブ部門出身で社長となった。2011年第30回白川忍賞、2016年11月旭日中綬章を受章[1]

しょうじ たかし

東海林 隆
生誕 (1933-06-22) 1933年6月22日
日本の旗 日本山形県
死没 (2022-02-09) 2022年2月9日(88歳没)
日本の旗 日本神奈川県横浜市
出身校 多摩美術大学図案科
職業 実業家、デザイナー
配偶者 東海林洋子(妻)
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来歴・人物

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山形県出身。多摩美術大学図案科卒業後、八歐電機(現:富士通ゼネラル)入社。宣伝部で働くが、3年で独立しデザイン事務所を興す[2]。独立から3年後、日本航空の仕事ができるグラフィックデザイナーを探していた博報堂から社員になることを条件に声がかかり、「日航のような大きな仕事はひとりではできない」として、博報堂入りを決める[3]

デザイナーからテレビCMなど広告の企画、制作を指揮するディレクターに昇格してからも話題作を相次いで制作し、日本航空、ソニーなどのCMでACC賞やクリオ賞などの国内外の広告賞を多数受賞した[4][3]

オーナーと一部経営陣が主導権を巡って争ったお家騒動がようやく収まり、社長に就任した大蔵省出身の近藤道生が経営改革を進める中、クリエイティブディレクターとして多くの制作者を指揮し、優秀な作品をまとめた手腕が認められ[3]1976年12月、新設された第4本部長に就任した[4]

1980年取締役に選任。翌年にはモノ優先の社会から生活者優先の社会に世の中が変化していると感じ、その先端を探る部署として博報堂生活総合研究所の創設を提案し、初代所長となった[3]

1999年2月、近藤、磯邊と2代続いた大蔵省出身者の後を受け、初の生え抜き、制作畑出身として社長に就任[4]

2003年10月、博報堂大広読売広告社の3社の株式移転によって設立された博報堂DYホールディングスが発足すると代表取締役会長を担う。2006年4月、同相談役に退く。

2022年2月9日間質性肺炎のため、横浜市内の病院で死去[5][6]。88歳没。

略歴

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映画作品

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脚注

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  1. ^ 秋の叙勲 野間口元三菱電機社長に旭日大綬章 (1/2ページ)”. SankeiBiz (2016年11月3日). 2018年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月30日閲覧。
  2. ^ 「博報堂社長に東海林隆氏内定」『朝日新聞』1994年1月19日
  3. ^ a b c d 「トップの素顔 博報堂社長東海林隆氏 デザイナー 経営描く」『日経産業新聞』1994年4月22日
  4. ^ a b c 『博報堂120年史』p.306
  5. ^ 博報堂元社長、東海林隆氏死去 早期からインタラクティブ強化を推進 | AdverTimes(アドタイ) by 宣伝会議”. AdverTimes(アドタイ)宣伝会議が運営する、広告界のニュース&情報プラットフォーム. 2022年2月16日閲覧。
  6. ^ 東海林隆氏死去(元博報堂社長)」『時事ドットコム』2022年2月16日。2022年3月13日閲覧。

参考文献

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  • 博報堂編『博報堂120年史』博報堂、2015年。

外部リンク

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先代
-
博報堂DYホールディングス会長
(2003年 - 2006年)
次代
宮川智雄