植原悦二郎
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植原 悦二郎(うえはら えつじろう、旧字体:植原 悅二郞、1877年(明治10年)5月15日 - 1962年(昭和37年)12月2日)は、日本の政治家・政治学者。国務大臣・内務大臣。
植原 悦二郎 うえはら えつじろう | |
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衆議院副議長の頃(1932年/昭和7年) | |
生年月日 | 1877年5月15日 |
出生地 | 日本 長野県南安曇郡明盛村 |
没年月日 | 1962年12月2日(85歳没) |
出身校 |
ワシントン州立大学 ロンドン大学大学院 |
所属政党 |
立憲国民党 革新倶楽部 立憲政友会 日本自由党 民主自由党 自由党 分党派自由党 日本民主党 自由民主党 |
称号 | 政治経済学博士(ロンドン大学) |
来歴
編集長野県南安曇郡明盛村(現・安曇野市)生まれ。3歳の時に生家が没落し、豊科高等小学校卒業後、製糸工場での女工の検番、横浜税関勤務を経て、1899年(明治32年)渡米。学校で給仕として働きながらハイスクールを出て、週刊紙『日米商報』を発行しながら、1907年(明治40年)ワシントン州立大学を卒業。ワシントン大学ではジョン・アレン・スミスの政治経済、ウイリアム・ セーボリーの哲学などを学んだ。さらに同年ロンドン大学大学院に進み、1910年(明治43年)に修了して政治経済学の博士号を取得した。
翌年に帰国後は明治大学教授、立教大学教授、東京高等工業学校講師を歴任し、政治学や比較憲法論、社会学等を講じていた[1][2]。吉野作造の民本主義に対し、天皇には統治権はあるが、主権は国民に存するとする国民主権論を大胆に主張、急進的な大正デモクラットとして言論活動を展開した。1917年(大正6年)犬養毅の要請に応えて第13回総選挙に立憲国民党公認で旧長野全県区から立候補し当選。以後当選13回を数える。普選実現に尽力しながら、犬養に従って革新倶楽部→立憲政友会と移籍する。1924年(大正13年)加藤高明内閣で逓信参与官、1926年(大正15年)田中義一内閣で外務参与官に就任。1932年(昭和7年)から1936年(昭和11年)にかけては衆議院副議長を務めた。1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては鳩山一郎・久原房之助らとともに正統派(久原派)に属した。
大政翼賛会には批判的な立場を取り、1941年(昭和16年)11月10日には鳩山・尾崎行雄らと反翼賛会の「同交会」を結成。1942年(昭和17年)の翼賛選挙には落選した。翌1943年(昭和18年)の東京都発足直後の東京都会議員選挙に立候補したが[3]、落選した。戦後は鳩山・芦田均・安藤正純らと日本自由党の結成に参画。1946年(昭和21年)の第22回総選挙で政界復帰。総選挙後の第1次吉田内閣の国務大臣として入閣する。日本国憲法の公布書に署名する。改造後は内務大臣。炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている[4]。
剛直なリベラリストとして知られたが、戦時中の予算委員会で東郷茂徳外務大臣の「戦争を早期に終結して和平に導くのが外務大臣の職務」の答弁に対して「敵を撃滅するのが戦争の目的なのに講和の準備をするとは何事か」とこれを糾弾した。また新憲法の第9条については「独立国でありながら軍隊が持てないのはおかしい」という明快な見解で、同じく国務大臣の斎藤隆夫とともに閣内で強く反対した。
1955年(昭和30年)4月、アジア・アフリカ会議(バンドン)の日本代表団の一員として衆議院より派遣[5]。1961年(昭和36年)7月、沖縄と台湾を訪問し、台湾で蔣介石総統と会見した[5]。
1962年(昭和37年)12月2日、高血圧性動脈硬化症で死去、85歳没。戒名は宏順院法毅日悦大居士。葬儀は12月7日に自由民主党葬で行われた[5]。墓所は青山霊園(1ロ-8-1)。
栄典
編集脚注
編集参考文献
編集関連項目
編集- 植原・笹川事件 - 1920年から1921年に明治大学で起きた学校騒動。
外部リンク
編集議会 | ||
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先代 喜多壯一郎 |
衆議院外務委員長 1955年 |
次代 前尾繁三郎 |
先代 上林山栄吉 |
衆議院予算委員長 1949年 - 1950年 |
次代 小坂善太郎 |
先代 増田義一 |
衆議院副議長 第24代:1932年 - 1936年 |
次代 岡田忠彦 |
公職 | ||
先代 大村清一 |
内務大臣 第66代:1947年 |
次代 木村小左衛門 |