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王辰爾(『前賢故実』より)

王辰爾(おうしんに[1]、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。名は智仁とも記される。氏姓は船史。第16代百済王辰斯王の子である辰孫王の後裔で、塩君または午定君の子。渡来系氏族である船氏の祖。学問に秀で、儒教の普及にも貢献したとされる。

経歴編集

欽明天皇14年(553年勅命を受けた蘇我稲目によって派遣され、船の賦(税)の記録を行った。この功績によって、王辰爾は船司に任ぜられるとともに、船史姓を与えられた[2]

また、敏達天皇元年(572年)には、多くのが3日かけても誰も読むことのできなかった高句麗からの上表文を解読し、敏達天皇大臣蘇我馬子から賞賛され、殿内に侍して仕えるように命ぜられた。上表文はカラスに書かれており、羽の黒い色に紛れてそのままでは読めないようにされていたが、羽を炊飯湯気で湿らせて文字を写し取るという方法で解読を可能にしたという[3]

懐風藻』の序文には、「王仁は軽島に於いて(応神天皇の御代に)啓蒙を始め、辰爾は訳田に於いて(敏達天皇の御代に)教えを広め終え、遂に俗を漸次『洙泗の風』(儒教の学風)へ、人を『斉魯の学』(儒教の学問)へ向かわしめた」[4]と表現されている。

鈴木靖民加藤謙吉によると、『日本書紀』の王辰爾の伝承は船氏が西文氏の王仁の伝説をまねて創作されたものだという。田中史夫は、王辰爾が中国系王氏の姓を持っていることに着目しており[5]、鈴木靖民によると、実際は王辰爾の代に新しく渡来した中国南朝系百済人だという[6]

子孫・同族編集

子に那沛故が、孫に船王後がおり、子孫はのち連姓に改姓し、さらに一部は天長年間(830年頃)に御船氏(御船連・御船宿禰)に改姓している[7]

延暦9年(790年)に菅野朝臣姓を賜る事を請願した百済王仁貞・元信・忠信および津真道らの上表によれば、辰爾には兄の味沙と弟の麻呂がおり、それぞれ葛井連津連の租である[8]。また、これに合致する形で新撰姓氏録において辰孫王の後裔に相当する氏族に、右京の菅野朝臣・葛井宿禰・宮原宿禰・津宿禰・中科宿禰・船連のほか、摂津国の船連などがみえる[9]

日本書紀』によれば、欽明天皇30年(569年)には王辰爾の甥の胆津が白猪屯倉に派遣され、田部の丁籍が定められた。これにより胆津には白猪史の姓が授けられ、田令に任ぜられた[10]。さらに敏達天皇3年(574年)10月には船史王辰爾の弟の牛が津史姓を与えられた[11]

系譜編集

  • 父:塩君[9]または午定君[12]
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:那沛故[13]

脚注編集

  1. ^ 「王辰爾」『日本人名大辞典』 講談社。
  2. ^ 『日本書紀』欽明天皇14年7月条
  3. ^ 『日本書紀』敏達天皇元年5月
  4. ^ “王仁始導蒙於軽島辰爾終敷教於譯田遂使俗漸洙泗之風人趨齊魯之学”(『懐風藻』序文)
  5. ^ 伊藤英人朝鮮半島における言語接触東京外国語大学語学研究所論集 第18号、2013年3月。p68
  6. ^ 朝日日本歴史人物事典』【王辰爾】『日本大百科全書』【王辰爾】
  7. ^ 『日本後紀』天長7年正月7日条
  8. ^ “午定君生三男 長子味沙 仲子辰爾 季子麻呂 従此而別始為三姓 各因所職以命氏焉 葛井 船 津連等即是也”(『続日本紀』延暦9年7月17日条)
  9. ^ a b 『新撰姓氏録』右京諸蕃
  10. ^ 『日本書紀』欽明天皇30年4月
  11. ^ 『日本書紀』敏達天皇3年10月
  12. ^ 『続日本紀』延暦9年7月17日条
  13. ^ 『船氏王後墓誌銘』

参考文献編集

関連項目編集