神代辰巳

1927-1995, 映画監督。

神代 辰巳(くましろ たつみ、1927年4月24日 - 1995年2月24日)は、日本映画監督佐賀県佐賀市水ヶ江町出身[1]

くましろ たつみ
神代 辰巳
生年月日 (1927-04-24) 1927年4月24日
没年月日 (1995-02-24) 1995年2月24日(67歳没)
出生地 日本の旗 日本佐賀県佐賀市
死没地 日本の旗 日本東京都世田谷区船橋
国籍 日本の旗 日本
職業 映画監督
ジャンル 日本映画ロマンポルノ
テレビドラマ
活動期間 1968年 - 1995年
 
受賞
日本アカデミー賞
ブルーリボン賞
  • 監督賞
  • 1994年『棒の哀しみ』
その他の賞
日本映画批評家大賞
監督賞
1994年『棒の哀しみ』
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来歴 編集

徴兵逃れのために九州帝国大学付属医学専門部に入学するも中退し、早稲田大学第一文学部を卒業[1]松竹の助監督を経て日活へ移籍[1]。助監督時代に東宝のスター女優だった島崎雪子と結婚するも、10年ほどで離婚。デビュー作となった『かぶりつき人生』は、日活の衰退期とその内容もあってか、一般作としては日活史上最低の興行失敗となった。そのため、この後の日活の一般作の監督オファーはなかったが、ロマンポルノ路線とともに監督復帰。大車輪の活躍となる。特に、絵沢萌子は、彼の作品の常連女優であった。

1972年『一条さゆり 濡れた欲情』、1973年『四畳半襖の裏張り』でキネマ旬報ベストテン入選。前後して3本を入選させた田中登とともに、ロマンポルノのエースと目される。ロマンポルノから他社一般映画に招聘されたのはこの2人だけである(他に日活一般映画を経て他社招聘された曽根中生金子修介、日活退社後に他業界やTV映画を経て他社一般映画で復帰した村川透がいる)。ただし、東映進出で芳しい評価を得られなかった田中に対し、神代は東宝に乗り込んでの1974年『青春の蹉跌』でキネマ旬報ベストテン4位という高評価を獲得。以降は、一般映画でも盛名を馳せていき、ロマンポルノを超えて日本映画界の重要監督の一人となっていった。現在の日本映画界でも多数を占める「ポルノ、ピンク出身の巨匠」の先駆的存在である。

1983年昭和58年)に肺気胸で入院、肺結核に感染しており、片肺の機能はほとんど失われ[2]、酸素ボンベを携えての生活を余儀なくされたが、それ以後も入退院を繰り返しながら監督業を続けた。

車椅子に乗っての撮影となった『棒の哀しみ』は、数々の映画賞を受賞したが、1995年平成7年)2月8日第37回ブルーリボン賞授賞式の5日前に急性肺炎で有隣病院に入院。同年2月24日に息を引き取った。

人物 編集

萩原健一は、自分の主演作『もどり川』へ監督のオファーを願い出るほどのファンであり、桃井かおりも「くまさん」と呼び、親しんでいた。

身だしなみには気を遣う方でなく、桃井かおりによれば、「歯を磨かないことなど当たり前」だったほどである。しかし、「ロマンポルノの帝王」という称号が一人歩きしてしまったことには、大っぴらにしなかったが心を痛めていたという。

1991年の竹中直人監督の「無能の人」では、カメオ出演ではない演技出演をしている。

受賞 編集

監督作品 編集

映画 編集

テレビドラマ 編集

CM 編集

著作 編集

  • 『神代辰巳 オリジナルシナリオ集』ダヴィッド社、1983年
  • 『映画監督 神代辰巳』国書刊行会、2019年

脚注 編集

  1. ^ a b c "神代 辰巳". 20世紀日本人名事典. コトバンクより2023年10月22日閲覧
  2. ^ 山根貞男『日本映画の現場へ』筑摩書房、1983年。ISBN 9784480871626 
  3. ^ 第19回日本アカデミー賞優秀作品”. 日本アカデミー賞協会. 2019年8月30日閲覧。
  4. ^ 日本のピンク映画を紹介する「お尻映画祭」がパリで開催 : 佐藤久理子 Paris, je t'aime”. 映画.com. 2020年7月26日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集