神戸藩

日本の江戸時代に、伊勢国に所在した藩

神戸藩(かんべはん)は、伊勢国河曲郡神戸城三重県鈴鹿市神戸)を居城とした[1]。江戸時代初期に一柳氏が入封。1651年より石川氏が3代約80年治めたあと、1732年に本多氏が入部して7代約140年続き、幕末・廃藩置県を迎えた。

歴史

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四日市
 
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桑名
 
神戸
関連地図(三重県)[注釈 1]

前史

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神戸城は、天文年間(1532年 - 1555年)に神戸具盛が築城したとされる[1]。のちに織田信長の三男・織田(神戸)信孝が養嗣として神戸氏を継ぎ、天守を築いた[1]本能寺の変後、伊勢国は織田信雄の所領となり、天正13年(1585年)には信雄の重臣である滝川雄利が神戸城主となった[1]

天正18年(1590年)に信雄は追放されるが、雄利は引き続き神戸城主を務め[注釈 2]、2万石を領した[1]慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて雄利は西軍に属し、戦後に改易された[1]

一柳直盛の入封

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慶長6年(1601年)、尾張国黒田城愛知県一宮市木曽川町尾張黒田藩も参照)3万5000石の城主だった一柳直盛が5万石で入部し、神戸藩が成立した。

寛永13年(1636年)に直盛は更に加増を受け、6万8000石で伊予国西条藩に転封となった。これにより同地は幕府領となり、神戸城も主要な建築物は破却された。

石川氏の時代

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慶安4年(1651年)、近江国膳所藩主・石川忠総の次男・石川総長が、忠総の遺領のうち神戸周辺の1万石を分与されたため、神戸藩が再興した[注釈 3][1]万治3年(1660年)、総長は大坂定番となり、河内国石川・古市両郡内で1万石の加増を受けたため[1]、知行高は2万石となった。寛文元年(1661年)、河内国石川郡白木村(大阪府南河内郡河南町白木)に白木陣屋(白木役所)が設けられ、代官を置いて河内の知行地の管轄にあたらせた[2][3]。白木陣屋は堅固に造営されて陣屋町も発展し、管轄地域は地域的にまとまりを有したことから、河内の飛び地領あるいはその領主としての石川家は「白木藩」とも称される[3]

第3代藩主・石川総茂は弟の大久保忠明に3000石を分知したため、1万7000石となった[1]。総茂は徳川吉宗に仕えて若年寄から西丸側用人を務めた[1]

享保17年(1732年)に3000石加増の上、常陸国下館藩に転封となった。総茂は善政を布いたとされ、転封の際には十日市場村(鈴鹿市神戸)など領内の農民40人が江戸に出て留任運動を行ったという[1]

本多氏の時代

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享保17年(1732年)、石川氏に代わって河内国西代藩より本多忠統が1万石で入部した[4]延享2年(1745年)には5000石を加増され、以後1万5000石が神戸藩の知行高となった。忠統が若年寄に就任したことにより築城を許され、寛延元年(1748年)には神戸城が再興された。忠統は文人大名としても有名で、荻生徂徠の門人であり、また茶人としては宗範を名乗っていた。城内に「三教堂」、江戸藩邸に「成草館」という藩校をそれぞれ興したのもこの忠統である。

第5代藩主本多忠升享和3年(1803年)に倹約令を出したが、自身も節食するほど徹底したものだった。また藩校を改革し、従前の古学朱子学に変更するとともに、文化10年(1813年)には城内の藩校を「教倫堂(こうりんどう)」、江戸の藩校を「進徳堂」と改めている。

第6代藩主本多忠都の時代の嘉永7年(1854年)に起きた安政東海地震では、神戸城と城下町に大きな損害を被り、47人の死者が出た。

明治4年(1871年)、廃藩置県により神戸県となり、その後安濃津県を経て三重県に編入された。藩主家は明治2年(1869年)に華族に列し明治17年(1884年)に子爵となった。

歴代藩主

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一柳家

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外様 5万石 (1601年 - 1636年)

  1. 直盛

幕府領

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1636年 - 1651年

石川家

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譜代 1万石→2万石→1万7000石 (1651年 - 1732年)

  1. 総長 加増により2万石
  2. 総良
  3. 総茂 分知により1万7000石

本多家

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譜代 1万石→1万5000石 (1732年 - 1871年)

  1. 忠統 加増により1万5000石
  2. 忠永
  3. 忠興
  4. 忠奝
  5. 忠升
  6. 忠寛
  7. 忠貫

領地

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石川氏時代の領地

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寛文印知に見られる、石川氏(2万石)時代の藩領は以下の通り[1]

幕末の領地

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日永村 (2310石5斗1升7合0勺9才0撮)

矢田部村 (343石3斗5升4合0勺0才4撮)・地子町村 (530石5斗7升0合9勺8才4撮)・寺家村 (732石9斗7升9合0勺0才4撮)・十日市場 (164石3斗6升0合0勺0才1撮)・西条村 (1079石0斗2升6合0勺0才1撮)・河田村 (571石4斗6升8合0勺1才8撮)・山辺村 (211石8斗8升6合9勺9才3撮)・木田村 (555石3斗6升1合0勺2才3撮)・国分村 (517石3斗3升6合9勺7才5撮)・高岡村 (1204石0斗5升7合0勺0才7撮)・十宮村 (1247石9斗5升9合9勺6才1撮)・南長太村 (1676石6斗8升6合0勺3才5撮)・矢橋村 (853石6斗7升7合9勺7才9撮)・柳村 (127石4斗1升6合0勺0才0撮)

甲斐村 (49石8斗3升2合0勺0才1撮)・高宮村 (659石4斗2升6合0勺2才5撮)・上田村 (450石1斗9升2合9勺9才3撮)・汲川原村 (476石9斗3升4合9勺9才8撮)

原村 (424石7斗4升4合9勺9才5撮)・長野村 (215石3斗1升1合4勺9才3撮)・日野村 (520石5斗3升3合0勺2才0撮)・清水村 (212石5斗3升9合9勺9才3撮)・天見村 (217石2斗8升7合0勺0才3撮)・流谷村 (124石5斗9升9合9勺9才8撮)・鬼住村 (93石2斗2升5合0勺0才6撮)

新家村 (202石4斗2升9合0勺0才1撮)・伏見堂村 (337石4斗6升0合9勺9才9撮)・古野村 (151石3斗2升0合9勺9才9撮)・下岩瀬村 (128石6斗2升8合0勺0才6撮)

    • 明治維新後に、錦部郡1村(旧膳所藩領)が加わった。

脚注

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注釈

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  1. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  2. ^ 途中の一時期、水野忠重が神戸城主となったことがある[1]
  3. ^ 『角川地名大辞典』では、慶安3年に遺領中1万石を分与され、慶安4年に神戸に入部したと記す[1]。忠総は慶安3年12月24日没(慶安3年の大部分はグレゴリオ暦の1650年に相当するが、12月24日はグレゴリオ暦換算で1651年に入る)。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 神戸藩(近世)”. 角川地名大辞典. 2024年9月6日閲覧。
  2. ^ 白木陣屋跡”. 河南町. 2024年9月6日閲覧。
  3. ^ a b 白木村(近世)”. 角川地名大辞典. 2024年9月6日閲覧。
  4. ^ 西代藩(近世)”. 角川地名大辞典. 2024年9月6日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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先代
伊勢国
(藩としては西代藩)
行政区の変遷
1651年 - 1871年 (神戸藩→神戸県)
次代
安濃津県