秦 早穂子(はた さほこ、1931年7月31日 - )は、日本映画評論家随筆家

はた さほこ

秦 早穂子
『新週刊』1961年5月25日号
生誕 (1931-07-31) 1931年7月31日(93歳)
東京府豊多摩郡渋谷町(現・東京都渋谷区
国籍 日本の旗 日本
出身校 女子学院高等学校
職業 映画評論家随筆家
受賞 日本映画ペンクラブ賞
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経歴

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小林信彦と(1959年)

東京府豊多摩郡渋谷町(現・東京都渋谷区)生まれ。祖父はシンガーミシン極東支配人を務めた秦敏之。秦敏之は日本初の本格的な洋裁学校であるシンガーミシン裁縫女学院を設立し、妻の秦利舞子が初代院長を務めた[1][2]ファッションデザイナー秦万紀子は早穂子の叔母に当たる。

女子学院高等学校卒業。1957年、雑誌社の特派員という名目でフランスに渡る[3]。帰国後、映画輸入業の新外映に入社。1958年、新外映の買い付け担当としてフランスへ渡る。

1959年半ばに帰国[4]。同年5月、フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』がカンヌ国際映画祭監督賞を受賞し、7月にはクロード・シャブロル監督の『いとこ同志』がベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した。ヌーヴェルヴァーグの時代の到来が明らかとなるが、日本では6月8日から13日にかけて東京の読売ホールで開かれた第2回「フランス映画祭」で『いとこ同志』が上映されただけで[5][6]、主要作品はいずれもまだ一般公開されていなかった[注 1]。同年8月22日発売の『ヒッチコック・マガジン』10月号に掲載された鼎談で、秦はいち早くこの新しい映画の潮流を紹介した[8][注 2]

いまフランス映画というのは、俗に言っている流行――ヌーヴェルヴァーグというのがあるのよ、ね。ヌーヴェルヴァーグというのは直訳すると「新しい波」というわけね。新しい波、つまり若い連中がプロデューサーでも監督でも自分たちでやるという。(中略)その中にシャブロールとかルイ・マルエドワール・モリナロオッセンジャック・ロジェとか今のジャン・ピエール・モッキーとかいろんな人がいるわけよ。 — 『ヒッチコック・マガジン』1959年10月号、宝石社、69頁。

同年10月10日、『いとこ同志』が東和の配給により日本で公開[11]。10月22日発売の『ヒッチコック・マガジン』12月号の誌上で荻昌弘、編集長の中原弓彦らと共に作品を激賞した[12]

 
映画雑誌に掲載された『勝手にしやがれ』(1960年)のポスター

同年秋、フランスに渡ると[12]、映画プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールの車に乗り、パリ近郊のジョアンヴィルにある撮影所の作業室で、撮影されたばかりの映画のラッシュを見た。部屋には西ドイツからやってきたと思われる女性のバイヤーもいた。「モノクロの画面は光り輝き、ジャン=ポール・ベルモンドは自由で無造作だった。二十分あまりのラウール・クタールのカメラは鮮烈だった」「これだ、こんな映画を探していたんだ」。秦は「À bout de souffle」(「息切れ」「息せき切って」)というタイトルを「勝手にしやがれ」という邦題にし、買値と配給収入予想額を記した報告書を日本の本社に送った。試写会(11月)が行われる前の決断だった[13][14][注 3]ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』は本国フランス公開から10日後の1960年3月26日に日本で公開され、世界各国でヒットした。

1960年、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』を日本に輸入。日本公開(6月11日)にあわせ、主役のアラン・ドロンの来日宣伝を企画するも、ドロン側が安保闘争による政情不安を危惧したため計画は中止となった。同年6月19日、日本に帰国[18]

同年夏、ゴダールはジュネーヴで撮影した長編第2作『小さな兵隊』のプライベートの試写を開いた。ゴダールに招かれた秦も鑑賞した[19]。同年9月7日、映画倫理規程管理委員会はアルジェリア戦争を扱った『小さな兵隊』の上映禁止を決定した[20]

1961年、秦は『映画評論』9月号に「『小さい兵隊』メモ帳から―公開禁止になったゴダールの第二作」と題する評論を寄稿。試写の様子をこうあらわした[19]

試写室は、フランス人ばかりだった。トリュフォおり、シャブロールがいた。ふだん、じょうぜつな彼らは、一様に押し黙っていた。映画がおわったとき、人々はあきらかに、各々のショックを、おおいかくせないでいた。それぞれのショックや、反撥や、共感を。しかし、それを口に出すことは、あえてできないでいた。ゴダールは相変らず、むっつり黙っている。フランス人に与えるこの問題は我々の想像以上に、より大きく、より複雑なのであろう。 — 『映画評論』1961年9月号、28-31頁。

同年9月、ゴダールの長編映画『女は女である』がフランスで公開。秦はこれを買い付け、日本では同年12月に公開された。

のち、独立してロアイヤル社、ジャフラ(映画、テレビフィルム輸入業)を設立。以後、半世紀以上にわたって映画の世界に関わる。

2012年、自伝的小説『影の部分』を発表し、日本映画ペンクラブ賞を受賞した[21]

著書

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単著

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  • 『スクリーン・モードと女優たち』(文化出版局、1973年)
  • 『パリに生きる女たち』(時事通信社、1978年)
  • 『パリの風のなかで』(講談社、1979年)
  • 『東京パリ闘い通り』大和書房、1981年11月10日。 
  • 『巴里と女の物語』(PHP研究所、1981年)
  • 『不滅の女たち マルゴ王妃からコレットまで』(文化出版局、1984年)
  • 『「椿姫」と娼婦マリ』(読売新聞社、1986年)
  • 『シャネル 20世紀のスタイル』(文化出版局、1990年)
  • 『おしゃれの平手打ち』(文化出版局、1996年)
  • 『影の部分』リトル・モア、2012年3月26日。ISBN 978-4898153314 

共著

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翻訳

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  • 『ぼくの伯父さん』(ジャック・タチ著、三笠書房〈若草文庫〉、1958年)
  • 『エレガンスへの招待』(マギ・ルフ著、婦人画報社、1959年)
  • 『獅子座の女シャネル』(ポール・モラン著、文化出版局、1977年、新版1990年)
  • 『シャネルの生涯とその時代』(エドモンド・シャルル・ルー著、鎌倉書房、1981年)
  • 『リキエル』(ソニア・リキエル著、婦人画報社、1988年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 1959年6月8日から13日にかけて開催された第2回フランス映画祭(主催:ユニフランス、日本映画海外普及協会、外国映画輸入配給協会)では、『いとこ同志』のほか『レ・ミゼラブル』『自殺への契約書』『二十四時間の情事』『燃える大地』『アルピニスト 岩壁に登る』など計6本の新作長編と短編映画『セーヌの詩』が上映された[6]。なお、アラン・レネの『二十四時間の情事』は6月20日に日本で一般公開された[7]
  2. ^ 『いとこ同志』が「フランス映画祭」で上映されると、『映画評論』1959年7月号で植草甚一が、『スクリーン』同年8月号で岡田真吉がそれぞれ批評を執筆した[9][10]
  3. ^ 秦は『勝手にしやがれ』のラッシュを見たのを「1959年7月」と書き記しているが[14]、多くの研究資料により、同作品の撮影時期は「1959年8月17日から9月19日まで」と特定されている[15][16][17]

出典

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  1. ^ 池田仁美「メディアに見るシンガーミシン裁縫女学院の沿革とミシン裁縫教育」『デザイン理論』第66巻、意匠学会、2015年8月、3-16頁、CRID 1390858518830857216doi:10.18910/56263hdl:11094/56263ISSN 091015782023年8月24日閲覧 
  2. ^ 池田仁美「初期のシンガーミシン裁縫女学院の型紙教育 : 明治41年の実物型紙による検討」『デザイン理論』第67巻、意匠学会、2016年1月、100-101頁、CRID 1390858518830897920doi:10.18910/56405hdl:11094/56405ISSN 091015782023年8月24日閲覧 
  3. ^ 秦 1981, p. 38.
  4. ^ 秦早穂子、森田和雄、中原弓彦「第一回 パリへの道(上)」 『ヒッチコック・マガジン』1959年9月号、宝石社、70頁。
  5. ^ 映画評論』1959年7月号。
  6. ^ a b キネマ旬報』1959年7月夏の特別号。
  7. ^ Hiroshima, mon amour - IMDb(英語)
  8. ^ 秦早穂子、森田和雄、中原弓彦「第二回 パリへの道(下)」 『ヒッチコック・マガジン』1959年10月号、宝石社、69頁。
  9. ^ 『映画評論』1959年7月号”. 国立国会図書館オンライン. 2023年7月13日閲覧。
  10. ^ 『スクリーン』1959年8月号”. 国立国会図書館オンライン. 2023年7月13日閲覧。
  11. ^ いとこ同志 - IMDb(英語)
  12. ^ a b 秦早穂子、荻昌弘、中原弓彦「秋の話題作をめぐって」 『ヒッチコック・マガジン』1959年12月号、宝石社、68-76頁。
  13. ^ 秦 2012, pp. 22–25.
  14. ^ a b 秦早穂子 (2021年9月10日). “「勝手にしやがれ」あの夏の衝撃 ジャンポール・ベルモンドの訃報に寄せて”. 朝日新聞. https://www.asahi.com/articles/DA3S15038911.html 2022年1月16日閲覧。 
  15. ^ 『ジャン=リュック・ゴダール』(改訂第二版)エスクァイアマガジンジャパン〈E/Mブックス〉、2003年8月1日、28-31頁。ISBN 978-4872950199 
  16. ^ ベルガラ 2012, pp. 68, 678.
  17. ^ 山田宏一『映画はこうしてつくられる―山田宏一映画インタビュー集』草思社、2019年9月4日、476-480頁。ISBN 978-4794224019 
  18. ^ 『週刊平凡』1960年7月6日号、「日本のデモに驚いたアラン・ドロン 来日中止の真相」。
  19. ^ a b 秦早穂子「『小さい兵隊』メモ帳から―公開禁止になったゴダールの第二作」 『映画評論』1961年9月号、28-31頁。
  20. ^ ベルガラ 2012, pp. 110–118.
  21. ^ 第41回 2012年度”. 日本映画ペンクラブ. 2023年5月1日閲覧。

参考文献

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  • 秦早穂子『東京パリ闘い通り』大和書房、1981年11月10日。 
  • 秦早穂子『影の部分』リトル・モア、2012年3月26日。ISBN 978-4898153314 
  • アラン・ベルガラ 著、奥村昭夫 訳『六〇年代ゴダール―神話と現場』筑摩書房〈リュミエール叢書〉、2012年9月25日。ISBN 978-4480873194