松竹梅 (お笑い)

日本のお笑いトリオ (1985-1992)
竹田倫克から転送)

松竹梅(しょうちくばい)はかつて存在したトリオコントのお笑いグループ。ホリプロに所属していた。「コント松竹梅」とも言う。

コント松竹梅
メンバー 松みのる
梅村達也
竹田倫克 
結成年 1985年
解散年 1992年
事務所 サワズ・カムパニー→フリー→ホリプロ
活動時期 1985年 - 1992年
師匠 松みのる(竹田、梅村)
平川幸男(Wヤング)(松)
現在の活動状況 解散
芸種 コント
過去の代表番組 お笑いスター誕生!!
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1985年トリオ結成。1992年解散。

メンバー 編集

松みのる(兵庫県出身、1953年1月14日 - )
リーダー。本名・松下信幸。
Wヤング(平川・中田の初代コンビ)に師事。厳しい修業時代を過ごす。
「松みのる・杉ゆたか」のコンビで吉本興業より漫才師として1977年にデビュー。島田紳助・松本竜介と同時期に活躍したが、漫才ブームに乗り損ね[注 1]、結局吉本と折り合いが悪くなりコンビを解散した。
2013年2月13日に生前葬を実施[1][2]
梅村達也(大阪府出身、1966年3月5日 - )
本名・中村達也。師匠並びに芸名の名付け親は相棒の松みのる。
プロレスファンで、宮戸優光が設立した『U.W.F.スネークピットジャパン』の会員だった。また川田利明と親交があり、必殺技であるストレッチ・プラムを考案したのは梅村である。技の名前であるプラムは、梅村の梅である。
竹田倫克(大阪府出身、1962年5月14日 - )
本名・信田倫克。師匠並びに芸名の名付け親は相棒の松みのる。

概要 編集

吉本興業を辞めた松みのるが、たまたま知り合った中村達也、信田倫克の二人とトリオを1985年に結成。「これからのお笑いはルックスも良くなければならない」と再度吉本に売り込んだが、相手にされず東京に移駐。

お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)のオーディションに合格し、第5回オープントーナメントサバイバルシリーズで初登場。二回戦から行った女装コントが大受けし、そのまま決勝まで進出。第3位で敢闘賞を受賞し、その後決勝進出の常連となる。同時デビューだったウッチャンナンチャンとともに番組の人気者となった。その頃、サワズカムパニーに所属するも、マネージャーと喧嘩別れをしている。

『お笑いスター誕生!!』終了後の1989年にスカウトされ、ホリプロ第一号お笑いタレントとなる。またホリプロお笑い部門の立ち上げに尽力。[3]

担当マネージャーとの関係が悪くなり、仕事を干されるようになった。松は3人で退社するつもりだったが、[要出典]梅村と竹田がマネージャーに説得されてホリプロに残ることを決めたため、1992年にトリオを解散。松のみ退社した。

梅村と竹田は「ザ・ディスカス」を結成したが、1997年に解散。竹田はそのまま芸能界を引退。梅村もピン芸人として活動していたが、数年で芸能界を引退した。

松は裏方に回り、お笑いライブなどのプロデュースを中心として活動。松稔お笑い塾やお笑いショーのあるレストラン 笑龍門、各種交流会を主宰している。なお、鳥居みゆきはここの出身。2009年1月には、松がプロデュースするお笑いプロダクション『笑築売』(しょうちくばい)を設立した。

テレビ 編集

松みのる・杉ゆたか時代 編集

コント松竹梅時代 編集

ザ・ディスカス時代 編集

ラジオ 編集

テレビCM 編集

受賞歴 編集

松みのる・杉ゆたか時代 編集

  • 1980年:大阪若手漫才集団「笑の会」として文化庁芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞

コント松竹梅時代 編集

  • 1985年:「お笑いスター誕生!!」敢闘賞・最優秀個人賞・団体戦優勝
  • 1986年:「第7回ABC漫才・落語新人コンクール」新人賞(本選出場)
  • 1986年:「お笑いスター誕生!!」ウッチャンナンチャンに負け惜しくも準優勝・団体戦優勝二連覇

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 原因は、自身が起こした交通事故を機に吉本側が売らなくなってきたため。またNSC開校間も無い時期だったので、NSC卒業生を売り出したかった為。

出典 編集