西川好次郎

昭和時代日本の作詞家

西川 好次郎(にしかわ よしじろう、1903年10月 - 1990年)は、大正昭和時代に活動した日本作詞家和歌山県出身。

西川 好次郎
にしかわ よしじろう
1934年頃
基本情報
出生名 垣口 好次郎
生誕 1903年10月
出身地 日本の旗 日本 和歌山県日高郡寒川村(現:日高川町
死没 1990年
ジャンル 県民歌市町村歌校歌
職業 作詞家、小学校教員
活動期間 大正昭和時代

来歴 編集

1903年(明治36年)10月、和歌山県日高郡寒川村美山村を経て現在の日高川町)の垣口家に生まれる[1]。のち川上村(同)の西川家で養子に迎えられた。

小学校高等科を卒業後は植林の仕事に就き、和歌山市を訪れた際に「紅葉渓納涼音頭」の公募に入選して懸賞金50銭を得る[1]尋常小学校訓導であった1934年(昭和9年)、報知新聞社皇太子明仁上皇)の生誕を記念して歌詞を一般公募した「皇太子殿下御降誕奉祝歌」で応募作が全国から寄せられた約5800編の中から一等入選で採用され[2]東京音楽学校の作曲によりキングレコードから発売される。審査委員の佐佐木信綱は入選作を「荘重、雄快の作に加えて作曲上の字脚、音楽的効果、詩趣のゆたかさのこもったもの」と称賛し、名声を得た西川の元には全国の学校から校歌の作詞依頼が相次いだ[1]

1937年(昭和12年)に応召、漢口の基地を報道班担当として訪ねて来た西條八十と出会う。復員後、西條から「私がいっさいの面倒をみる」と上京を薦められたが、迷った末に同郷の沖野岩三郎へ相談を経て誘いを固辞し[3]、生まれ故郷の美山で生涯を過ごした[2]

懸賞歌謡で生涯に140編余りの入選・採用を勝ち取り、その作風は日本歌謡学会『日本歌謡研究』1965年(昭和40年)7月号において

西川好次郎さんは、往年の懸賞歌謡界では巨星と呼ばれ、大正昭和の五〇年間、詩魂を燃やし続けた歌謡詩人である。西川さんの作風は清純、正統派と言えるので、校歌の委嘱作が六、七〇校もあるそうだが、一面、音頭、小唄風のものも得意で、名作が数々ある。昭和九年から十五年間だけでも、一等当選三十七曲、レコード曲一二曲という、プロなみの驚くべき成果をあげている。

と評されている[2][4]1948年(昭和23年)の「和歌山県民歌」(作曲・山田耕筰)を筆頭に県内外の市町村歌音頭小唄に至るまで数多くの作品を手掛け、1976年(昭和51年)に和歌山県文化功労賞を受賞した[2]

本業の教員としては、美山村立(現在は日高川町立)川原河小学校(同)寒川第一小学校上初湯川小学校校長を務めた。川原河小学校の校長職に在った1949年(昭和24年)には、山田耕筰へ門前払いを覚悟しながら歌詞を添えて校歌の作曲を依頼したところ山田が依頼料3万円のうち2万円を建て替えて仕事を引き受けたと言うエピソードがある[3]1957年(昭和32年)に校長を依願退職した後は家業の旅館経営に専念した[3]1983年(昭和58年)、文化庁から地域文化功労者表彰を受ける[2]

1985年(昭和60年)11月、村民の8割にのぼる747世帯が集めた270万円の浄財を当てて村役場(現在の日高川町役場美山支所)にほど近い自宅横に歌碑が建立された[2][3]1990年平成2年)没。享年88歳。

作品 編集

  • 歌集 瞼の青魚(芸術教育社「藝術・方法シリイズ」、1934年NCID BN06057833
  • 歌集 山びこよ雲にのれ(私家版1985年[5]

作詞 編集

自治体歌
校歌
その他

参考文献 編集

pp 903-905 「歌謡詩人 西川好次郎」, pp 1170-1171 「西川好次郎歌碑」。
pp 7-8「懸賞歌謡の巨星 西川好次郎」。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 戦後は演奏実態が無くなり、1968年(昭和43年)の2代目市歌制定に伴い廃止。
  2. ^ a b 日高川町への新設合併に伴い廃止。
  3. ^ 中津分校が1997年第69回選抜高等学校野球大会へ出場した際は3番が歌唱された。
  4. ^ 旧川原河小学校校歌。歌詞に校名が含まれていなかったため、統合後の美山小学校に継承された。

出典 編集

  1. ^ a b c ほうぼわかやまvol.19(2017), p8
  2. ^ a b c d e f 朝日新聞大阪本社)和歌山県版、2005年1月14日付「西川好次郎歌碑」
  3. ^ a b c d ほうぼわかやまvol.19(2017), p9
  4. ^ 美山村史(1997), p904
  5. ^ 美山村史(1997), p905

関連項目 編集

外部リンク 編集