酒井くにお・とおる
酒井くにお・とおる(さかいくにお・とおる)は、松竹芸能所属の兄弟漫才コンビ。
酒井くにお・とおる | |
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メンバー |
酒井 くにお 1948年5月3日 - 2022年10月28日(74歳没) 酒井 とおる 1951年5月12日(73歳) |
結成年 | 1970年 |
解散年 | 2022年 |
事務所 | 松竹芸能 |
活動時期 | 1970年 - 2022年 |
師匠 | さがみ良太 |
出会い | 実兄弟 |
現在の活動状況 | くにおの死去により事実上解散 |
芸種 | 漫才 |
過去の代表番組 | お笑いスター誕生!! |
公式サイト | 公式プロフィール |
受賞歴 | |
第7回NHK上方漫才コンテスト優秀敢闘賞(1977年) お笑いスター誕生!!銀賞(1981年) 第29回上方漫才大賞奨励賞(1994年) 第25回上方お笑い大賞金賞(1996年) 第32回上方漫才大賞大賞(1997年) |
メンバー
編集来歴・人物
編集2人は5人兄弟の4番目と5番目[1]。兄のくにおは地元で秀才の誉れ高く、岩手県立水沢高校から東京教育大学[2]に現役合格。全盛の全共闘運動に加わり日々機動隊と戦っていたが、ふらっと立ち寄った浅草松竹演芸場で見た社会派コント「コント・コンビネーション」の風刺劇に魅せられ、リーダーのみなみ良雄(後のさがみ良太)に弟子入り。大学は中退してしまい、出番をフケた大空かんだの代役を経て、城後光義(元ゆーとぴあのホープ)らの女装コントグループに混じって、ストリップ劇場・新宿ニューアートで初舞台を踏む。間もなく友人の伊原某と「コント・コマーシャル」を結成し、ストリップ劇場の幕間で修業を積んでいた。
弟のとおるも同じ岩手県立水沢高校卒業後上京し、千代田テレビ技術学校で学ぶうちに裏方志望が高まり、ストリップ劇場で窓口や大道具のアルバイトをしていたところ、別の劇場で働いていた兄と偶然再会。相方に逃げられた兄に誘われて、1970年みなみ良雄門下に兄弟で直り、正式にコンビを結成した。コンビ名は「コント・コマーシャル」を引き継ぎ、浅草松竹演芸場で初舞台。その後男子同士のコンビということで「マンとマン」とコンビ名を変えた。
花柳流日本舞踊の素養があるくにおに合わせて、振袖・日本髪でタップダンスを踊ったり、ローラーゲームよろしく舞台を走り回ったり、上野動物園に来たばかりのパンダの着ぐるみで暴れたりと、体を張った時事物ドタバタコントだった。他にもキャバレーでチュチューレース[3]等の営業をしていたがなかなか芽が出ず、名古屋・大須演芸場で知り合ったラッキー幸治の紹介で心機一転1974年から上方(大阪)に移住。吉本興業に入るも、関西弁が馴染めなかったこととナンセンス・コントの芸風自体が漫才主流であった当時の関西では全く受け入れられず、翌年には契約解除されたところを松竹芸能に拾われる。
漫才転向に伴い「酒井くにお・とおる」に改名した頃、新世界新花月の舞台で極度の緊張から台本を忘れてしまったくにおが、咄嗟に「とおるちゃん!」と連呼して急場を凌いだことから、定番のギャグが生まれた。
関西弁をマスターし[4]努力した結果、1977年の『NHK上方漫才コンテスト』では優秀敢闘賞を得た。1980年の『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)では審査員からマンネリを酷評されつつも[5]女装コントを中心に7週勝ち抜くが、体力を消耗するコントからしゃべくり漫才に比重を移す。
その後、スタッフの手違いで急遽代役出演する羽目になった『お笑いネットワーク』(読売テレビ)収録時に、吉本印天然素材や水玉れっぷう隊ら、若手目当ての追っかけ女子高生ファンには予想通り全く受けなかったため、絶望したとおるが客席に向かって放った「ここで笑わないと、もう笑うトコ無いよ」「ウチらの漫才、二つか三つしか笑うトコないから、皆さん笑う努力して」「忘れて頂戴忘れて頂戴~」「こんな話二度とやらんわ」等の捨て鉢な客いじりが突如脚光を浴び、自虐的ボヤキ漫才の第一人者の地位を確立した。
中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいしの後を継ぐ、現役最ベテランの兄弟漫才コンビになっていた。漫才以外に、小劇団の定期公演も行っていた。出囃子は「ゲイシャ・ワルツ」。
2022年10月28日8時30分、くにおが慢性虚血性心疾患のため、大阪市の自宅で死去した。訃報は同年11月7日に松竹芸能より公表された[6][7]。74歳没。とおるによれば、くにおは亡くなる5年前から体調を崩しがちになっており、肺やリウマチを患っていた。3度救急搬送されたこともあり、亡くなる1年前からは安否確認のため毎朝9時半にくにおから連絡する事が日課となっていたという。当日はくにおと連絡が取れずに心配したとおるが一人暮らしをしていたくにおの自宅を訪れ、くにおがソファとテーブルの間に倒れ、亡くなっていたのを確認した[8][9]。くにおの生前最後の出演は同年10月21日の心斎橋角座の鰻谷寄席であった[10]。くにおの追悼公演は翌2023年2月18日に心斎橋角座で行われ、親交のあった芸人が参加。とおるもくにおの死去後初めて単独で出演し漫談を披露している[11]。
その他
編集- くにおのオカマしゃべりは、女装コント時代に身に付いた癖や、岩手訛りを誤魔化すためのものである。
- 大阪に移住してから4年は2人で暮らしとおるがアルバイト、くにおが家事を担っていた。くにおは若い頃に結婚したが4年程で離婚し、以後一人暮らしだった[1]。とおるは27歳の時、楽屋へ出入りしていたカツラ屋の娘と結婚し、1男1女に恵まれる。
- くにおは2017年に「第5腰椎圧迫骨折後遅発性神経障害[12]」で腰の手術をした後、肺炎などで3度救急車で運ばれている。その他にもリウマチや泌尿器科、皮膚科、脳外科にかかりながら舞台を務めていた[1]。腰の影響で歩くのが難しくなっても杖をつけば歩けると断らず[13]、とおるの手を借りてセンターマイクまで自力で歩いていた。
- 師匠のみなみ良雄は後年漫才師・さがみ良太として活動していたが、元々は浪曲の出であり、くにおが入門した当時はコントを演じるコメディアンであった。従ってくにお・とおるの漫才は師匠から授かったものでは無く、全て独学である。
- 元大阪市長の平松邦夫と市長選で平松を下した橋下徹元市長(前大阪府知事)の二人は、くにお・とおると同音の名前であることから『大阪政界のくにお・とおる』と言われていた。
受賞歴
編集出演
編集テレビ番組
編集- お笑いスター誕生!!(日本テレビ)
- 24時間テレビ 「愛は地球を救う」(日本テレビ系列合同) - 1992年度の名古屋地区神宮会場でアシスタントを担当。
- 痛快!エブリデイ(関西テレビ)
- ちちんぷいぷい(毎日放送) - 木曜「なすなかにし(→いまぶーむ)のどっから来はったん?」ナレーション担当(とおるのみ)。2011年1月11日 - 2月11日には、毎日放送本社1階ロビーに設けられた「大吉とおるちゃん神社」で神主(くにお)・受験生代表(とおる)の姿で参拝者のラッキー祈願を行った(平日のみ)。
- バラエティー生活笑百科(NHK総合) - 準レギュラー
- ドラマ30 / 暖流(2007年、毎日放送) - 男性入院患者 役
- 連続テレビ小説
ラジオ番組
編集- 日清です まいどおおきに(ラジオ関西)
- 上方演芸会(NHKラジオ第1放送) - 準レギュラー。
脚注
編集- ^ a b c “酒井とおるさんは今…「もう引退やなと思ってた」兄のくにおさんが慢性虚血性心疾患で急逝|あの人は今こうしている”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2023年6月26日). 2023年8月14日閲覧。
- ^ 現在の筑波大学
- ^ ねずみにレースをさせ勝敗を決める賭け事。
- ^ 細かいイントネーションは若干違うが、それも「味」として認知される域まで来ている。なおこれ以降日常生活でも岩手方言を余り使わなくなった。
- ^ 「華がない。ネタに中身がない。」とタモリに酷評されたくにおが「アンタに言われとうないわ」と舞台で逆上してみせたが、これもネタ。
- ^ “酒井くにおさん死去 相方とおる「兄貴」追悼【全文】「寝ているような姿」「もう頑張らなくて良いよ」”. デイリースポーツ online. デイリースポーツ社 (2022年11月7日). 2022年11月7日閲覧。
- ^ 「漫才師の酒井くにおさんが死去 74歳、兄弟コンビで活躍」『47NEWS』2022年11月7日。2022年11月7日閲覧。
- ^ 酒井くにおさん死去、74歳 弟で相方・とおる「感謝の言葉しかありません」 - デイリースポーツ online 2022年11月7日
- ^ 「とおるちゃん」が見た兄・酒井くにおの愛嬌と信念 18日に追悼公演 - 産経ニュース 2023年2月17日
- ^ “酒井くにおさん死去 漫才コンビ「酒井くにお・とおる」 74歳”. 毎日新聞. 毎日新聞社 (2022年11月7日). 2022年11月7日閲覧。
- ^ 「酒井くにお追悼公演」元相方の弟・酒井とおるは初の漫談で追悼 後輩芸人は流血騒動を明かす - よろず〜ニュース 2023年2月18日
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2022年11月7日). “酒井くにおさん死去 相方で弟のとおるの手を借りてでも最近まで舞台出演”. サンスポ. 2023年8月14日閲覧。
- ^ 沙織, 藤井 (2023年2月17日). “「とおるちゃん」が見た兄・酒井くにおの愛嬌と信念 18日に追悼公演”. 産経ニュース. 2023年8月14日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 酒井くにお・とおる | 松竹芸能株式会社 - 公式プロフィール
- 兄弟インタビュー(財団法人大分県文化スポーツ振興財団)