黒澤元治
黒澤 元治(くろさわ もとはる、1940年8月6日 - )は、日本の自動車評論家であり、元・レーシングドライバー。
茨城県日立市にて日立に勤める技術者の息子として生まれる。1960年代から1970年代に掛けて自動車競技で活躍した後、評論家に転向した。「ガンさん」のニックネームでも知られる。2012年からSUPER GTに関わり、LEON RACINGの監督も歴任した。
年齢が2020年8月で80歳となった現在においても、ビデオマガジンなどでは高度な運転技術を披露する。
経歴編集
自動車競技者として編集
ホンダ系チームで2輪ライダーとして活動。1962年に鈴鹿サーキットで初開催された、第1回全日本選手権ロードレースの50ccクラスで優勝するなどの実績がある。
1965年、日産自動車と契約することによって4輪競技に転身、大森ワークスに所属した。その際、2年間ほどは、大森ワークスのリーダーだった鈴木誠一のチーム城北ライダースへ所属し、2輪モトクロスなどの二輪競技にも並行して出場した。
1968年、日産の上位チームである追浜ワークスの所属へと昇格した。
1969年の日本グランプリに日産・R382で出場し優勝、高橋国光と北野元とともに「追浜ワークス三羽ガラス」などと称され、日本を代表するレーシングドライバーとなった。
その後は、日産ワークスドライバーとしてスカイラインGT-Rなどで活躍した。
1973年、日産追浜ワークスから離脱、プライベートチームであるヒーローズレーシングに所属した。全日本F2000選手権でチャンピオンになった他、富士グランチャンピオンレースで連続ポールポジション・日本グランプリで優勝するなどの活躍をした。
1974年の事故編集
1974年、自らのチームである「クロサワ・エンタープライズ」を設立、チームオーナー兼ドライバーとしてレースに出場した。
同年6月2日、富士グランチャンピオンレースで大事故(多重クラッシュによって、鈴木誠一・風戸裕のドライバー2人が死亡)が発生。黒澤はその責任を問われて(黒澤が他のマシンに複数回にわたり故意に接触したことが事故の原因とされた)レース関係者から糾弾されるとともに、警察に書類送検されたが後に不起訴となった。なおこの事故で書類送検されたのは黒澤ひとりだけである。
日本自動車連盟(JAF)は同年10月に開かれたスポーツ委員会において5年間の資格停止処分を発表し、中央審議委員会において出場停止期間が1年3ヶ月に短縮されるものの、これを受けた黒澤は競技ライセンスを返上し、一時は現役を去った。
出場停止期間明けの1975年にレースに復帰したが、かつてほどの強さを示すことはできず、レースの第一線からは退き、以後はレース活動と平行して従事したブリヂストンの市販スポーツタイヤの開発テスターへと活動の中心を移した。
1974年、富士グランチャンピオンレースでの事故についての証言編集
- 黒澤と北野元の直後を走っていた高原敬武は、「黒澤が反動を付けるようにして、明確な意思を持って北野に何度もぶつかって、北野をはじき飛ばそうとした。この証言については、事故の直後も現在も、同じことを何度も話している。私の記憶を映像にする方法があれば、その映像を見てもらいたい。あれはないよ、ガンさん」と、事故の原因が黒澤にあるということを語っている。
- 漆原徳光は、「ローリングの最中にポールポジションの選手(黒澤)が蛇行したりブレーキを踏んだりして、レースになっていないと落胆した。あまりに危険。やってはいけない。仲間を尊敬し敬愛するのがスポーツマン。それがないならばスポーツではない」と語っている。
- テレビ放送の解説を行っていた田中健二郎は、黒澤がローリング中に蛇行や急減速を行ったこと(ウィービング)に対し「ここまでいったらイカン、やりすぎだと思う」と解説している。また事故の背景を説明する雑誌記事の中で「黒澤は2輪レースの時代から仲間に『ぶつけ屋ガンちゃん』と呼ばれていた」と語り、黒澤が故意の接触や幅寄せの常習者だったことを明かしている。
現役引退後編集
現役引退後に、友人である作家五木寛之の薦めでモータージャーナリスト活動も始める。概ね評価は辛口であるが[注釈 1][注釈 2]、ホンダに対しては舌鋒が甘いことが指摘されてきた。しかし平成末期におけるベストモータリングの企画[1]では、ホンダの新型(当時)NSXを「車が重い」「サスペンションの作り方が間違ってる」「荷重変動もロールも大きすぎる」「シャーシデザイナーが良いのがいない」と歯に衣着せぬ痛烈な批判を行った。
評価編集
- 桜井眞一郎は「私の計測器。普通の計測器じゃ測れないような専心をしてくれる計測器だった。それがあったからR382が出来た。仕事のうえでは大変なありがたい計測器。お金で買えない」と評した。[2]
- 星野一義は「日産三羽ガラスの中で、ドライビングだけじゃなくてマシンの開発、セッティング能力、全てにおいて黒澤さんがナンバーワン」と語る。[3]
- ブリヂストンでタイヤの設計、開発をしていた川端操は「(黒澤のように)タイヤの中身まで透いて見えるようなドライバーは今まで出会ったことなかった」と語っている。[3]
- 高橋国光は著書の中で「日本グランプリのレース中に、富士スピードウェイの30度バンクで黒澤に故意に接触された」と語っている。
- かつてビデオマガジン『ベストモータリング』では、土屋圭市や息子の黒沢琢弥と共にキャスターとして参加していた。辛口で正直な批評やその独特な語り口で人気を博した一方、ブロック等危険を伴う強引なドライビングで共演者からの苦言が絶えなかった。
主なレース戦績編集
- 日本グランプリ 1969年(日産・R382)、1973年全日本F2000(マーチ722/BMW)優勝
- 富士グランチャンピオンレース 2勝 6連続ポールポジション
- 全日本F2000選手権 1973年チャンピオン(マーチ722/BMW)
- スカイラインGT-Rで7勝
全日本F2000選手権/全日本F2選手権編集
年 | 所属チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 順位 | ポイント |
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1973年 | ヒーローズレーシング | FSW 1 |
SUZ 2 |
SUZ | SUZ 1 |
1位 | 42 | |||
1974年 | SUZ 1 |
SUZ | SUZ | SUZ | 3位 | 12 | ||||
1977年 | ターニーレーシング | SUZ 2 |
SUZ 3 |
NIS | SUZ 5 |
FSW 14 |
FSW | SUZ Ret |
8位 | 35 |
1981年 | ジャスコスピードスター | SUZ | SUZ 6 |
SUZ 9 |
SUZ 8 |
SUZ 5 |
10位 | 19 | ||
1982年 | スピードスター | SUZ 7 |
FSW 3 |
SUZ 4 |
SUZ 6 |
SUZ 17 |
SUZ | 6位 | 32 |
全日本ツーリングカー選手権 (JTC)編集
年 | 所属チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | \6 | 順位 | ポイント |
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1986年 | レイトンハウス | メルセデス・ベンツ・190E | DIV.2 | NIS Ret |
SUG | TSU | SEN Ret |
FSW Ret |
SUZ Ret |
NC | 0 |
1988年 | TEAM NOJI | BMW・M3 | DIV.2 | SUZ | NIS | SEN | TSU | SUG 19 |
FSW Ret |
NC | 0 |
愛車編集
1990年の発表以来からホンダ・NSXを乗り継ぎ、NSXタイプRも所有している。またポルシェ・カレラGT、メルセデス・ベンツ・CLSクラス、メルセデス・ベンツ・Cクラスクーペ、ホンダ・レジェンド、トヨタ・ハイエース、クレマー仕様のポルシェ・930ターボ、メルセデス・ベンツ・W126、メルセデス・ベンツ・W140、メルセデス・ベンツ・W210も購入している。
比較的操縦が難しいといわれるホンダ・NSXのオーナー向けドライビング講習会、NSXオーナーズ・ミーティングの特別講師を1991年の開設以来担当し続けている。
家族編集
実子である黒澤琢弥、黒澤治樹、黒澤翼は何れもレーシングドライバーである。しかしながら黒澤自身、息子たちに自動車競技を勧めたことは特になかったとのこと。
著作編集
- 『無敵の最新FF車運転テクニック』(1983年、講談社)
- 『間違いだらけのAT車テクニック』(1986年、講談社)
- 『疾風!ドラテク教本』(1987年、講談社)
- 『間違いだらけのFF車テクニック』(1988年、講談社)
- 『新・間違いだらけのFF車テクニック』(1990年、講談社)
- 『黒沢元治激辛クルマ選び』(1990年、講談社)
- 『おっと危ない!とっさの時の運転テクニック』(1991年、講談社)
- 『決定版’92黒沢元治激辛クルマ選び』(1992年、講談社)
- 『ドライビング・メカニズム―運転の「上手」「ヘタ」を科学する』(2000年、勁草書房)
- 『新 ドライビング・メカニズム』(2013年、主婦と生活社)
映像作品編集
- 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol.3 黒沢元治のドラテク特訓道場』(1989年、講談社)
- 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol.17 黒沢元治のドラテク特訓道場 PART2』(1991年、講談社)
- 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol.19 黒沢元治のAT車運転テクニック』(1991年、講談社)
- 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol.21 黒沢元治のスーパードライビング』(1991年、講談社)
- 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol.35 鉄人黒沢元治のスポーツドライビング道場!』(1996年、講談社)
- 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol.52 黒沢元治のアクティブ・ドライビング その1 一般路』(2000年、講談社)
- 『ベストモータリング・ビデオスペシャル Vol.53 黒沢元治のアクティブ・ドライビング その2 サーキット』(2000年、講談社)
出典編集
- ^ SUZUKA ATTACK NSX + Motoharu Kurosawa - YouTube
- ^ ベストモータリング レーシングヒストリー Vol.1
- ^ a b ベストモータリングビデオスペシャル Vol.17 黒沢元治のドラテク特訓道場PART2