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日立市(ひたちし)は、茨城県北東部の県北地域にある太平洋に臨む。市域の大半は旧多賀郡で一部は久慈郡である。総合電機メーカー・日立製作所の創業の地として知られる。

ひたちし
日立市
日立鉱山の大煙突 市庁舎位置
Flag of Hitachi, Ibaraki.svg Hitachi Ibaraki chapter.JPG
日立市旗 日立市章
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 茨城県
団体コード 08202-3
法人番号 4000020082023
面積 225.78km2
総人口 176,787[編集]
推計人口、2019年6月1日)
人口密度 783人/km2
隣接自治体 高萩市常陸太田市那珂市那珂郡東海村
市の木 ケヤキ
市の花 サクラ
市の鳥、魚 ウミウ
サクラダコ
日立市役所
市長 小川春樹
所在地 317-8601
茨城県日立市助川町1丁目1番1号
北緯36度35分56.9秒
東経140度39分5.4秒
座標: 北緯36度35分56.9秒 東経140度39分5.4秒

Hitachishinchousha.JPG
外部リンク 公式ウェブサイト

日立市位置図

― 市 / ― 町・村

特記事項 NTT市外局番:0294(市内全域)
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目次

概要編集

日立鉱山から発展した鉱工業都市である[1]。1905年(明治38年)、江戸時代から採掘されていた日立村の赤沢銅山を久原房之助が買収し、村名にちなんで日立鉱山に改名、久原鉱業所(現在のJX金属)を創業して以来の企業城下町として後年はその機械部門が分離・独立した日立製作所日立グループの企業城下町となるが、現在の日立グループの本拠は東京に所在している。他に、日立市と同様に鉱山町から企業城下町になった地域としては愛媛県新居浜市別子銅山住友グループ)が代表的である。

7世紀国造の時代から、現日立市の中心部は助川(すけがわ)という地名だったが、1939年(昭和14年)9月1日に助川町が日立鉱山を擁する日立町新設合併して市制を敷く際に日立市となった。1939年以後、都市名と企業名の混同を避けるために、日立市民は都市名を『日立(ひたち)』と呼び、日立製作所を『日製(にっせい)』と呼んで区別している[2](日製の略称はかつての日製商事=現在の日立ハイテクノロジーズなど日立グループでも用いられる)。

戦後の一時期、人口は県庁所在地の水戸市を上回っていたことがあるが近年は日立グループの再編などによって人口が減少し、十王町の編入にも関わらず、最盛期には21万人を数えていた人口も20万人を割り、現在はつくば市に抜かれ、県内3位となった。人口の半数近くは日立製作所関連の職員である。

市名の由来編集

1939年(昭和14年)に、旧日立町と旧助川町が対等合併して「日立市」となる。なお、日立製作所発祥の地であるが、日立製作所が市名の由来であるというのは誤りである。

日立村の誕生編集

明治から昭和にかけて行われた大合併の影響を受けており、村から町、町から市という流れを経て行政区域ならびに行政種別が変化してきた。行政区域または地名において、『日立』という名称が初めて使われたのは、1889年(明治22年)に旧宮田村と旧滑川村の合併によって誕生した「日立村」である[3]

佐藤敬忠の存在編集

日立村の誕生にあたっては、明治7年に記された「佐藤敬忠事蹟書上」や、大正後期にまとめられた町政移行時の史料が詳しい[4]。なお、同史料は原本が消失しており、昭和32年に日立市が行った「日立市史編纂事業」の過程で行われた写本でのみ確認できる[3]

宮田村と滑川村が合併して誕生した日立村であるが、文字通り、合併元の村に関する名称(文字)は含まれていない。「日立」の由来については後述する徳川光圀由来説なども存在するが、現存する書物、史料、日立市の歴史編纂活動によって、佐藤敬忠の影響が大きいことが明らかになりつつある[4]

1863年(天保7年)、佐藤敬忠は、旧中里村(現在は日立市に編入合併)にあたる久慈郡中深萩村の會澤家の三男・敬忠として生まれた後に、宮田村の豪家である佐藤家の養子になり、佐藤敬忠となる。

敬忠は水戸藩主に仕え、藩内で起きた乱を鎮めるなど多大な功績をあげた。その結果、旧暦1986年(明治2年)からわずか4年間で、助川村から折笠村に至る7村の区長を命じられるに至る。その後、さらに掌握範囲を広げ、水木村から里川新田(旧里美村、現在は常陸太田市に編入)までの広大な範囲を治めた。里川新田については、江戸時代末期、旧里美村と周辺河川を含めた新田開発事業として藩をあげて進められた事業であり、当時の事情を鑑みると新規開発地域も任された意味は大きく、現在の日立市と旧里美村における敬忠の影響力は絶大なものであったと推測される。実際に1873年(明治6年)から始まる「地租改正」までの間に、7村における区長、34村の学区取締を任されていた。

合併後の村名争い編集

1889年(明治22年)、茨城県の命によって宮田村と滑川村の合併が決まる。前述のとおり、「日立」という名称に決定した経緯や理由を明確に記した文献や記録は存在していない。しかし、断片的な証拠の組合せと歴史編纂員が行った佐藤敬忠の末裔に対するインタビューを経て、2つの村の間で合併後の村名について争いが起き、佐藤敬忠が仲裁役的な役割を果たした事がおおよそ推定される[3]。ちなみに、1939年(昭和14年)に日立村と助川村が合併して『日立市』となった際にも名称に関する争いが起きている。

市史編纂事業は日立市が主導して昭和30年代前半から取り組まれた事業であり、過去の資料や編纂員によるインタビューも収録されており、1959年(昭和34年)に公開された。編纂事業の過程において、佐藤敬忠の孫にあたる「佐藤みつ」氏にインタビューを行い、村名が「日立」に決まった過程において祖父の敬忠が仲裁役を果たしたこと、それらの記録を残した『佐藤家旧記』が存在したものの太平洋戦争の戦火で消失したことが明らかになった。

鎮守神社と日立風流物編集

ユネスコの無形遺産委員会によって無形文化遺産リストに記載された『日立風流物』は、日立市における旧村郡の合併に関する歴史を紐解く際に重要な鍵となる。

1695年(元禄8年)、徳川光圀の命によって、神峰神社の大祭礼に山車が出されたことが日立風流物のはじまりである。その際に、神峰神社が宮田・助川・会瀬の鎮守になった。神峰神社が建立されている場所は宮田村であり、日立風流物が「宮田風流物」と呼ばれていた時代も長く、7年に一度だけ4台の山車が神峰神社に向かって集う際には、宮田町を4つに区切る形で存在する町会(北町・東町・西町・本町)が山車を取り仕切る。明治22年当時における神社の存在は大きく、さらに宮田・助川・会瀬の3地域が鎮守になったことも相成って、宮田村の住人から名称について不満の声が挙がったということが歴史編纂員のインタビューで判明している[3]

光圀の命によって鎮守になった3つの地域にはそれぞれ神社が存在しており、神峰神社(宮田村)、助川鹿嶋神社(助川村)、会瀬鹿島神社(大瀬村)がある。滑川村にも鎮守六所明神を祀った神社が存在するものの、光国によって鎮守の命を受けなかった。現在も日立市滑川本町に存在しており、1873年(明治6年)からは「塩釜神社」を名乗るようになった。同神社は常駐する神主が居ないが、現在でも旧滑川村の住民が交代で、晦日・大晦日・正月三が日や節目で社殿を開いている。

このような経緯もあり、宮田村と滑川村の合併によって「宮田」の文字が消えることを嫌がったと推測されるが、インタビュー以外で明確に記録されている文献は今のところ発見されていない。

現代における旧村の名残編集

旧宮田村は、現在の日立市神峰町周辺に位置する「桐木田(きりきだ)」「宮田(みやた)」「駒王作(こまおう)」を中心に、西方面には神峯山側に広がる「神峰」「赤沢」が該当する。現在においてもそれらの名称は残っており、神峰町2丁目にある「桐木田グラウンド(日立消防署の裏)」「宮田小学校」「駒王中学校」などがある。

旧滑川村は、現在の日立市東滑川町周辺に位置する「小幡(おばた)」「清水(しみず)」を中心とした、海岸沿いに広がる地域が該当する。現存するものとしては、東滑川町1丁目にある「小幡公民館」、国道6号日立バイパスに沿った浜辺の「清水浜(しみずはま)」などがある。なお、日立市内に「滑川本町」が存在するが、旧滑川村には「本町」ないし「滑川本」という名称は存在せず、市政が始まった頃に作られた町名である。

さらに、宮田村と滑川村の合併に伴う歴史は、現代でも特殊な形で残っていることは興味深い。その一つとして、旧滑川村地域における公立小中学校の通学規定が挙げられる。

日立市教育委員会は学区制を採用しており、住んでいる場所に応じて通学する公立の小中学校が決まっている。しかしながら、旧滑川村の中心地に該当する、現在の東滑川町1丁目および2丁目においては例外規定が設けられており、中学校については駒王中学校と滑川中学校の2校から選択することが出来る。この選択制度は2000年代中頃から始まったものであり、比較的新しい。選択性の経緯としては、宮田小学校に通う児童のほとんどが学区制の規定によって駒王中学校に進学するため、当該地域に住む児童の保護者からの要望で実現したものである。選択性が採用されるまでは、小学校は宮田小学校(旧宮田村)、中学校は滑川中学校(旧滑川村)に通う規定であった。

なお、滑川中学校は1980年(昭和55年)に開校した比較的に新しい学校であり、滑川中学校が開校するまでは同地域の児童も駒王中学校に通っていた。なお、滑川小学校も1973年(昭和48年)に開校しているが、未だに宮田小学校に通う理由は定かではなく、登校距離も滑川小学校の方が近い。

日立市の誕生編集

1939年(昭和14年)に、旧日立町と旧助川町が対等合併して日立市となるが、対等な立場からどちらかの町名を使うわけにいかず、日立鉱山が調停案として新市名に「常陸市」を提案するも協議不調になり、新市名は茨城県に一任されることとなった[5]。すると県は、すでに日立鉱山と日立製作所が全国的に知られていることを理由に、新市名を日立市に決定した[5][6]。茨城県の新市名決定により、その理由が旧日立町からとられたものではなかったことから、市の中心地にあたる旧助川町にも受け入れた[5]。 日立製作所(およびその母体である日本鉱業)の成立以前から「日立村」という自治体は存在していたが、「日立」の地名は、神峰山を登山した徳川光圀によって名付けられたとされるのが定説になっており、明治の大合併で成立した旧日立村(のちに町制を施行して日立町となる)は、この光圀の言い伝えにちなんで名づけられたとされる[5]

地理編集

関東平野久慈川(日立市と東海村の境)で北端となるため、東側の太平洋と西側の多賀山地に挟まれ、南北に細長く可住地が伸びている。可住地の多くは、日立製作所、三菱日立パワーシステムズおよびその関連企業の施設が占めているため、山間地を切り開いて造成した住宅地が多い。

1980年(昭和55年)撮影の日立市中心部海岸線沿い一帯の空中写真。この画像は左側が南方角、右側が北方角である。
1980年撮影の9枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
 
玉簾の滝
 
平和通りのサクラ並木

可住地は大半が海岸段丘扇状地であるため、水の便が悪い所が多い。河口付近までになっているものが多い。昔は、の上流からかけどいと呼ばれる水道橋を作って用水を確保していた地域もある。また、扇状地の末端部分では泉が森のように地下水が湧き出しとなっているところもある。

南北に大きく伸びた海岸線を持つことから、市内には6箇所の海水浴場を持つ。名勝として、玉簾の滝(たまだれのたき)や諏訪梅林(すわばいりん)などがある。市内各地にの木が多く見られ、「日本さくら名所100選」にも選ばれている(かみね公園・平和通り)。

市北西部の日立鉱山には1914年(大正3年)に煙害対策として当時世界一の高さ155.7mの大煙突(だいえんとつ)が建てられ、鉱工業都市日立のシンボルとして長く親しまれた。これをモデルにした小説として、新田次郎の「ある町の高い煙突」がある。大煙突は、1993年(平成5年2月19日、この日に吹いた強風と老朽化の影響で倒壊し、現在は高さ54mとなっている。

総じて、常磐線の駅を目安に各地区が形成されており、大甕(おおみか)・多賀(たが)・助川(すけがわ)・小木津(おぎつ)・十王(じゅうおう)の国道6号沿線と、中里(なかざと)の国道349号沿線に分けられる。中里地区は、同じ国道349号沿線の常陸太田市との交流が多い。

なお、多賀山地の各所に露出する日立変成岩は5億年以上前のカンブリア紀のもので、日本最古の地層とされる。このことからこの地域が、昔ゴンドワナ大陸の東にあった火山島で、日本列島の始まりの地ではないかとも考えられている。[7]

 
カンブリア紀の変成花崗岩でできた小木津不動滝

気候編集

太平洋阿武隈高地に挟まれているため、茨城県では北に位置しているにもかかわらず気候は比較的温暖であり、同じ茨城県内の大洗鹿嶋よりも、福島県浜通り南部の小名浜広野に近似する気候である。1月の平均気温は4.4℃と、茨城県中部の水戸や南部の土浦千葉県北西部の我孫子よりも高い。また、夏もさほど気温が高くならない。

日立(標高 34 m)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C (°F) 17.2
(63)
23.2
(73.8)
25.0
(77)
29.1
(84.4)
30.6
(87.1)
33.6
(92.5)
37.4
(99.3)
36.3
(97.3)
35.8
(96.4)
32.5
(90.5)
24.9
(76.8)
24.7
(76.5)
37.4
(99.3)
平均最高気温 °C (°F) 9.0
(48.2)
8.8
(47.8)
11.2
(52.2)
16.1
(61)
19.7
(67.5)
22.4
(72.3)
26.3
(79.3)
28.3
(82.9)
25.2
(77.4)
20.5
(68.9)
16.0
(60.8)
11.6
(52.9)
17.9
(64.2)
日平均気温 °C (°F) 4.4
(39.9)
4.4
(39.9)
7.0
(44.6)
11.9
(53.4)
15.9
(60.6)
19.0
(66.2)
22.8
(73)
24.7
(76.5)
21.6
(70.9)
16.6
(61.9)
11.7
(53.1)
7.1
(44.8)
13.9
(57)
平均最低気温 °C (°F) 0.1
(32.2)
0.2
(32.4)
2.7
(36.9)
7.6
(45.7)
12.1
(53.8)
16.0
(60.8)
20.0
(68)
22.0
(71.6)
18.8
(65.8)
13.1
(55.6)
7.6
(45.7)
2.8
(37)
10.2
(50.4)
最低気温記録 °C (°F) −6.2
(20.8)
−6.9
(19.6)
−3.7
(25.3)
−1.9
(28.6)
3.7
(38.7)
9.1
(48.4)
13.0
(55.4)
15.2
(59.4)
10.8
(51.4)
3.7
(38.7)
−1.1
(30)
−3.9
(25)
−6.9
(19.6)
降水量 mm (inch) 51.4
(2.024)
57.8
(2.276)
111.6
(4.394)
137.9
(5.429)
155.8
(6.134)
167.5
(6.594)
164.7
(6.484)
147.0
(5.787)
181.4
(7.142)
177.3
(6.98)
80.5
(3.169)
44.6
(1.756)
1,477.3
(58.161)
平均月間日照時間 184.8 168.5 170.5 179.4 164.6 125.2 137.9 167.5 127.5 138.3 153.3 179.6 1,895.7
出典: 気象庁[8]

隣接する自治体編集

 
助川山山頂から見た日立市市街(2017年)

歴史編集

鹿野場遺跡六ツヶ塚遺跡などから約3万年前の石器が出土しており、この地域には当時から人が定住していたと考えられている。

古代編集

7世紀前半の国造の時代には、現在の日立市は、道口岐閉国造の本拠地で、多珂国の南端であった。この多珂国は、現在の日立市から福島第一原発付近(大熊)まで広がる沿岸国であり、『常陸国風土記』では大熊が「苦麻」「道後 (道の尻)」と呼ばれたのに対して、日立市は「助川」「道前 (道の口)」と呼ばれていた。そして、7世紀後半に律令制が浸透すると、この多珂国は常陸国に編入された。

戦国時代から戊辰戦争終結まで編集

戊辰戦争終結から第二次大戦終結まで編集

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、多賀郡日立村・高鈴村(1925年より助川町)が発足。
  • 1897年(明治30年)2月25日 - 日本鉄道大甕駅下孫駅(現常陸多賀駅)、助川駅(現日立駅)、川尻駅(現十王駅)が開業。
  • 1905年(明治38年) - 久原房之助による日立鉱山(日立村内)の開発に伴い鉱山町として発展を始め、その従業員であった小平浪平が設立した日立製作所の規模拡大によって工業都市へと発展した。
  • 1908年(明治41年)11月 - 日立鉱山専用電気鉄道が開業。
  • 1914年(大正3年)12月 - 日立鉱山から排出される煙害対策として、大煙突が完成。
  • 1928年(昭和3年)12月27日 - 常北電気鉄道(後の日立電鉄)が大甕〜久慈(現久慈浜駅)間を開業。
  • 1929年(昭和4年)7月3日 - 常北電気鉄道が久慈(現久慈浜)〜常北太田駅間を開業。
  • 1939年(昭和14年)9月1日 - 多賀郡日立町・助川町が合併し、日立市となった。(県内2番目)
  • 1945年(昭和20年):艦砲射撃(7月17日)と日立空襲(6月10日と7月19日の2度)で被災。その被災規模は北関東でも上位であった。

第二次大戦後編集

  • 1947年(昭和22年)9月1日 - 日立電鉄が大甕〜鮎川駅間を開業。
  • 1955年(昭和30年)2月15日 - 多賀郡多賀町・日高村・久慈郡久慈町・坂本村・東小沢村・中里村を編入。
  • 1956年(昭和31年)9月20日 - 多賀郡豊浦町を編入。
  • 1960年(昭和35年)5月31日 - 日立鉱山専用電気鉄道が閉業。
  • 1981年(昭和56年)9月 - 日立銅山が閉鎖。
  • 1991年(平成3年)10月 - クリストとジャンヌ=クロードの『アンブレラ 日本-アメリカ合衆国、1984-91』開催。
  • 1993年(平成5年)2月19日 - 市のシンボルであった大煙突が倒壊。
  • 2004年(平成16年)11月1日 - 多賀郡十王町を編入。
  • 2005年(平成17年)4月1日 - 日立電鉄線が廃止される。
  • 2011年(平成23年)3月11日 - 東日本大震災で被災し、震度6強を記録。
  • 2018年(平成30年)7月18日 - 新市庁舎での一部運用を開始。東日本大震災で被災した市庁舎の建替えによる。設計は日立市出身の世界的建築デザイナー妹島和世氏。
  • 2019年(平成31年)3月31日 - 新市庁舎の整備事業がすべて完了。記念式典が開催される。

行政区域変遷編集

  • 変遷の年表
  • 変遷表

人口編集

 
日立市と全国の年齢別人口分布(2005年) 日立市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 日立市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
日立市(に相当する地域)の人口の推移
 
総務省統計局 国勢調査より

 2016年10月1日現在の人口は、182,905人(男性91,475人・女性91,430人)である。同年に茨城県内で人口減少数が最も多かった市町村は日立市で2,101人の減であった。[13]

行政編集

 
手前が東日本大震災で被災した旧市庁舎群、左奥が2017年7月に完成した新庁舎

歴代市長編集

氏名 就任 退任
初代 福田重清 1939年11月 1940年11月
2代 新開渧観 1940年9月 1945年5月
3代 高嶋秀吉 1945年9月 1963年4月
4代 萬田五郎 1963年5月1日 1975年4月30日
5代 立花留治 1975年5月1日 1991年4月30日
6代 飯山利雄 1991年5月1日 1999年4月30日
7代 樫村千秋 1999年5月1日 2011年4月30日
8代 吉成明 2011年5月1日 2015年4月30日
9代 小川春樹 2015年5月1日 現職

広域事務編集

  • 高萩市・日立市事務組合
  • 茨城県市町村総合事務組合
  • 日立・高萩広域下水道組合
  • 茨城北農業共済事務組合
  • 茨城租税債権管理機構

日立市天気相談所編集

地方自治体としては全国的にも珍しい予報業務許可事業者の許可を持つ天気相談所がある。

議会編集

衆議院編集

茨城県議会編集

  • 選挙区:日立市選挙区
  • 日立市選挙区選出議員
    • 井手義弘(公明党
    • 福地源一郎(いばらき自民党
    • 菊池敏行(いばらき自民党)
    • 長谷川修平(国民民主党)
    • 齋藤英彰(国民民主党)

市議会編集

  • 定数:28[15]
  • 議長:茅根茂彦(日立市政クラブ)
  • 副議長:西川光世(民主クラブ)

会派構成編集

  • 民主クラブ:8
  • 日立市政クラブ:7
  • ひたち未来:6
  • 公明党:5
  • 日本共産党日立市議団:2

日立製作所連合労組に支持されている国民民主党が市政・県政・国政とも強い。

産業編集

企業城下町編集

日立市は、日立製作所日立グループおよび三菱日立パワーシステムズ企業城下町として有名である[16]。市の人口のおよそ40%は日立製作所、三菱日立パワーシステムズおよびグループ会社の社員かその家族である。他の企業城下町では、豊田市トヨタ自動車)や新居浜市住友グループ)と対比されることが多い。

市内には、日立製作所およびその系列企業の工場や社宅、社員寮が多数点在する。東日本でも有数の工業集積地域として発展し、その事業所数はピーク時で1000を数えたが現在は約700。機械、電機、輸送機に関連する中小企業が日立市のものづくり産業を支えている。日立地区産業支援センターは1999年(平成11年4月に開設された産業支援機関であり、こうした中小企業のさまざまな事業活動をサポートしており、その精力的な活動は全国的にも注目され、モデルケースとなっている。

日立鉱山は、現在のJXTGエネルギーJX金属の元になっている日本鉱業発祥の地でもある。日立鉱山は1981年(昭和56年)に閉鎖されたが、JX金属の工場は現在も所在する。現在は日立グループに比べると日立市内での規模はずっと小さく、グループ相互間の資本関係もないが、起源を同じくする会社として地元でも財界でも懇親関係は続いている。

鉱業地帯編集

阿武隈高地太平洋に挟まれている、日立市から大熊にかけての地域は、7世紀中期の多珂国であり、20世紀前半には日立鉱山常磐炭田で知られる鉱業地帯であり、常磐線の助川駅(20世紀前半、「日立駅」は「助川駅」を名乗っていた)からは日立山手工場や日立銅山への「鉱山鉄道」が走っていた。1960年代高度経済成長によって、石炭産業は衰退し、閉山に追い込まれた。

炭田時代の産業遺産として、セメントの原料である石灰石運搬用の架空索道がある。日立セメント株式会社が太平田鉱山で採掘したセメントの原料である石灰石を山根貯鉱場までの山間3.8kmの区間を運搬しているものである。ロープウェーにいくつものゴンドラが付いており、一つで1.25トンを積載、毎分150m移動する。さらに、山根貯鉱場からセメント工場までは、ベルトコンベアが通っており、数沢川の上に架かる線路上を通過し、日立市役所付近から地下に入り市街地を縦断して工場まで運搬しているものである。現在日本国内で架空索道が運転されているのはここだけの珍しい設備である。助川山市民の森の何カ所かで間近に見られる。

自動車の輸出入編集

茨城港日立港区では自動車の輸出入も盛んに行われており、ダイムラーメルセデス・ベンツ)やルノー日産自動車が主に利用している。特にメルセデス・ベンツは常磐自動車道日立南太田ICそばに新車整備センター (VPC) を設けており、日本国内における重要な輸入拠点となっている。

漁業編集

  • 川尻漁港
  • 会瀬漁港
  • 水木漁港
  • 久慈漁港

十王地区の伊師浜海岸には、日本で唯一、海鵜(ウミウ)の捕獲が許可されている鵜捕り場が設けられている。

教育施設編集

大学編集

高等学校編集

中学校編集

  • 日立市立


小学校編集

  • 日立市立


特別支援学校編集

金融機関編集

交通編集

鉄道編集

上野駅から常磐線特急ひたち・ときわ」で90分前後。
廃線

路線バス編集

高速バス編集

空港バス編集

  • 日立・勝田・水戸 - 成田空港(日立電鉄交通サービス、茨城交通、千葉交通
  • 日立・勝田・水戸 - 羽田空港(日立電鉄交通サービス、茨城交通、東京空港交通京浜急行バス
  • 常陸太田・新田中内・勝田・水戸 - 茨城空港(茨城交通)

道路編集

高速道路
有料道路
一般国道
主要地方道
一般県道
その他の道路
  • けやき通り(市道・一部区間県道
  • 中央線(市道)

交通事情編集

地理的に東西を山と海に挟まれた地帯に市街地が発展したため、市内の国道6号と国道245号は朝夕の通勤時は渋滞し、昼間も日立市を通過する際にはかなりの時間を要するため、日立市内を通過するためには常磐自動車道を用いるのが一般的である(市内の南部にある日立南太田ICと北部にある日立北ICはいずれも国道6号と直結している)。

市でも渋滞の緩和は課題のひとつであり、種々の施策を行っている。現在、日立市北部の田尻町〜河原子町の海岸沿いを通る国道6号バイパスが完成している。国道6号とは別に小木津〜石名坂間山越えの県道ルートも計画され、一部多賀地区と石名坂間が開通している。

 
昇開式歩道橋(茨城県日立市の水木歩道橋)

市内を貫く国道245号線は、三菱日立パワーシステムズの日立工場(日立事業所)や日立製作所の国分工場で製造された大型構造物(主に発電用のタービンなど)の輸送に耐えるよう、日立事業所のある幸町から南部の日立港までの区間が特殊な構造になっている。まず、以前はドイツアウトバーンのようにコンクリートで鋪装された白い道路であったが、現在は、雨天時の安全性と重量物の輸送の両方に対応できるように、表面がアスファルト鋪装され、その下にコンクリートが敷かれている。次に、この区間には2ヶ所の歩道橋が架けられているが、橋梁部が可動式(道路上空の部分が水平に持ち上がる構造)になっている。同様に、区間内にある信号や道路標識は、支柱を中心に水平方向に回転するようになっている。おおむね月1回程度のペースで深夜に大型構造物の輸送があり、国道245号が通行止めか一方通行になる。

港湾編集

姉妹都市・提携都市編集

 
バーミングハム市から送られたバルカン像

観光地・祭事・施設編集

観光地・施設編集

 
吉田正音楽記念館
 
かみね公園
 
東滑川海浜緑地のヒカリモ
 
日立市かみね動物園

祭、郷土芸能編集

 
さくらまつりの日立風流物
  • 日立さくらまつり:4月初旬、平和通りとかみね公園を中心に開催される。日立風流物(山車)数基と日立ささらが披露される。
  • ひたち国際大道芸:4月か5月に日立駅前と常陸多賀駅前で開催される。
  • 常陸国YOSAKOI:5月20日前後の土日に開催(日立会場は土曜日開催・多賀市民プラザ)
  • 日立あんどんまつり:8月。かみね公園に多数の行灯やぼんぼりが灯される。
  • よかっぺ祭り:9月中旬、多賀地区を中心に開催される。「よかっぺ」は方言で「よい」あるいは「よいでしょう?」の意味。
  • 金砂神社磯出大祭礼:72年に一度、3月に行われる。
    • 西金砂神社および東金砂神社は常陸太田市(旧・金砂郷村)の神社であるが、この大祭礼は両神社と日立市水木浜の間を往復する。

スポーツ編集

出身有名人編集

学界
政官界
芸術・文化・芸能
スポーツ

脚注編集

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注釈編集

出典編集

  1. ^ 最新版日本の地理5『関東地方』15頁
  2. ^ 脱原発なんて言えない 日立製作所「城下町」の茨城5区”. 東京新聞 (2012年12月11日). 2014年9月7日閲覧。
  3. ^ a b c d 日立市史資料129番. 日立市史編纂事業. (1959). 
  4. ^ a b 佐藤敬忠”. 2019年6月16日閲覧。
  5. ^ a b c d 小野寺敦 監修 『茨城「地理・地名・地図」の謎』 (2014, pp. 17-19)
  6. ^ 現在、日立製作所の事業所は、旧多賀町・久慈町のエリアに集中している。当時の日立市域(旧日立町、助川町)にあった日立製作所の事業所は、大半が子会社、および他社との合弁会社に分社化された。
  7. ^ 小木津不動滝”. 日立地域ブランド推進協議会. 2012年2月16日閲覧。
  8. ^ 日立 1981-2010年”. 気象庁. 2016年7月18日閲覧。
  9. ^ 『日立市史』日立市(1959年)より
  10. ^ 『新修日立市史』日立市(1994年)より
  11. ^ 『十王町史』日立市(2008年)より
  12. ^ 角川日本地名大辞典 8 茨城県』角川書店(1983年)より
  13. ^ 平成28年茨城県の人口”. 茨城県. 2018年11月1日閲覧。
  14. ^ 日立市|今後の選挙の執行
  15. ^ 平成31年執行 日立市議会議員一般選挙の開票結果”. 日立市. 2019年5月13日閲覧。
  16. ^ かつては日立グループの企業城下町であったが、2014年に日立事業所海岸工場(日立市中心部に位置する、市内最大の工場)の大部分が三菱日立パワーシステムズに承継され、現在は日立・三菱両グループの企業城下町となっている。
  17. ^ "竪破山(たつわれさん)"日立市役所観光物産課、2015年11月18日閲覧。
  18. ^ 2018年1月10日投稿の茨城県知事・大井川和彦のFacebookより。

参考文献編集

  • 小野寺敦 監修「地名と方言にまつわる不思議にせまる」『茨城「地理・地名・地図」の謎』実業之日本社〈じっぴコンパクト新書〉、2014年、初版、pp.17-19。ISBN 978-4-408-45517-4

関連項目編集

外部リンク編集