石川要三
石川 要三(いしかわ ようぞう、1925年〈大正14年〉7月6日[1] - 2014年〈平成26年〉6月21日)は、日本の政治家。位階は従三位。勲章は勲一等瑞宝章。
石川 要三 いしかわ ようぞう | |
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日仏防衛首脳会談にて(1990年4月) | |
生年月日 | 1925年7月6日 |
出生地 | 東京府西多摩郡(現東京都青梅市) |
没年月日 | 2014年6月21日(88歳没) |
死没地 | 東京都青梅市 |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 勲一等瑞宝章 |
第49代 防衛庁長官 | |
内閣 | 第2次海部内閣 |
在任期間 | 1990年2月28日 - 1990年12月29日 |
選挙区 |
(旧東京11区→) 東京25区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 |
1976年12月10日 - 1993年6月18日 1996年10月21日 - 2003年10月10日 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1967年 - 1975年 |
概要
編集東京府西多摩郡(現東京都青梅市)生まれ。旧制府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)を経て1951年早稲田大学政治経済学部卒業後、西東京バス株式会社取締役、青梅市議会議員などを経て、1967年に青梅市長選挙で初当選した。1975年まで市長を2期務め、1976年に第34回衆議院議員総選挙に旧東京11区から出馬し、当選した(当選同期に愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・西田司・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正らがいる)。福田派を経て、鈴木派に所属。
1981年、鈴木善幸改造内閣で環境政務次官。1982年、第1次中曽根内閣で外務政務次官に就任。自民党国際局長、衆議院内閣委員長などを経て1990年、第2次海部内閣で防衛庁長官に任命され、初入閣[2]。防衛庁長官在任中、私邸が放火による火事で全焼する被害に見舞われた。
1993年の第40回衆議院議員総選挙では次点で落選する。1996年、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い、東京都第25区から出馬し、当選。1998年、宮澤派会長の宮澤喜一元首相は加藤紘一に派閥を禅譲したが、これに反発した河野洋平らが宮澤派を離脱し、大勇会を結成。石川も宮澤派を退会し、大勇会に参加した。2000年の第42回衆議院議員総選挙では東京25区で民主党の島田久を破り、再選を果たした。2003年の第43回衆議院議員総選挙には出馬せず、政界を引退した(東京25区の地盤は井上信治が継承)。
2014年6月21日午前6時15分、肺炎による急性呼吸不全のため東京都青梅市内の病院で死去した。88歳没[4]。叙従三位。
世界連邦運動推進団体である世界連邦日本国会委員会の会長(第12代)および事務総長(第8代)を務めた。
関連項目
編集脚注
編集- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、142頁。
- ^ 勲一等・瑞寶章の石川要三元防衛庁長官永眠 青梅スポーツ
- ^ 「2002年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2002年11月3日朝刊
- ^ “石川要三元防衛庁長官が死去”. NHK NEWSWEB. (2014年6月21日) 2014年6月22日閲覧。
議会 | ||
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先代 志賀節 |
衆議院内閣委員長 1986年 - 1987年 |
次代 竹中修一 |
公職 | ||
先代 松本十郎 |
防衛庁長官 第49代:1990年 |
次代 池田行彦 |
先代 榎本栄蔵 |
青梅市長 1967年 - 1975年 |
次代 山崎正雄 |