ボブ・デイズリーRobert "Bob" Daisley1950年2月13日 - )は、オーストラリア出身のベーシスト。多数のハードロック関連アーティストと共演し、オジー・オズボーンと活動してからは、作詞家作曲家としてヒット曲を書いた。

ボブ・デイズリー
Bob Daisley
出生名 Robert Daisley
生誕 (1950-02-13) 1950年2月13日(74歳)
出身地 オーストラリアの旗 オーストラリア シドニー
ジャンル ハードロックヘヴィメタル
職業 ベーシスト作詞家作曲家
活動期間 1964年 - 2016年
共同作業者 カーバス・ジュート
ウィドウメイカー
レインボー
オジー・オズボーン
ユーライア・ヒープ
ゲイリー・ムーア
公式サイト bobdaisley.com

来歴

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黎明期

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1964年に初めてベース・ギターを手にし、モータウンをはじめとするリズム・アンド・ブルースを弾きこなしてゆく。初めての本格的なレコーディングはカーバス・ジュートの"Wide Open"(1970年)[1]ロンドンへ移住後、ブルース・ベースのバンドであるチキン・シャックマンゴ・ジェリーに参加。1975年ブラック・サバス・スタイルのバンドであるウィドウメイカーへ加わり、2枚のアルバムの制作に関与した。

レインボー

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1977年7月、アルバム制作中のレインボーに加入を打診され、マーク・クラークの後任として加入する[2]。彼は完成したアルバム『バビロンの城門』の一部の曲にしか参加していないが、同アルバムはイギリスのチャートで7位を記録するヒットとなる。1977年から1978年にかけてのツアーに参加し[注釈 1][2]、リーダーのリッチー・ブラックモアによるバンドの刷新に伴い脱退する。ブラックモアは彼のソングライターとしての能力を高く評価していたという。

オジー・オズボーン

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1979年、ブラック・サバスを解雇されたオズボーン、ランディ・ローズ(ギター、クワイエット・ライオット)、リー・カースレイク(ドラムス、元ユーライヤ・ヒープ)とブリザード・オブ・オズを結成する。ドン・アーデンのJETレコードからシングル一枚を制作した後の活動は、オズボーンのバンドとしてクレジットされた。1980年、デビュー・アルバム『ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説』が制作され、デイズリーは演奏のみならず曲作りにも大きく関わって「アイ・ドント・ノウ」「グッバイ・トゥ・ロマンス」「クレイジー・トレイン」などのヒット作を生み出した。しかし1981年、2作目のアルバム『ダイアリー・オブ・ア・マッドマン』の制作に参加した後、アルバム発表前に解雇された[注釈 2]

同年、カースレイクとともにユーライア・ヒープのアルバム『魔界再来』(1982年)と『ヘッド・ファースト』(1983年)の制作に参加し、曲作りにも関与する。この2作は若いグラム・メタルのファンに支持された。1983年のユーライア・ヒープのツアーには参加せずに、オズボーンとの活動を再開。オズボーンによる1983年5月29日の「US Festival」で725,000人の大観衆を前に新ギタリストのジェイク・E・リーとともに演奏。アルバム『月に吠える』の制作に携わり、1985年にも『罪と罰』の作詞に関与する。

ゲイリー・ムーアとのセッション・ワーク

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オズボーンとの契約期間以外にはゲイリー・ムーアとの活動を行なった。アルバム『ヴィクティムズ・オブ・ザ・フューチャー』(1984年)のレコーディングに参加した後、その年の冬に行われたヨーロッパ・ツアーのバック・アップ・バンドに加入し[3]、12月のムーアとフィル・ライノットとのドキュメント・フィルム『エメラルド・アイルス』に出演している。その後、『ラン・フォー・カヴァー』(1985年)、『ワイルド・フロンティア』(1987年)のレコーディングとツアーに参加する。他にアルバム『アフター・ザ・ウォー』(1989年)に参加、ツアー後半にはムーアのキャリアの成功作ともなるブルース作品『スティル・ゴット・ザ・ブルーズ』(1990年)への礎を築き、次作『アフター・アワーズ』(1992年)の録音にも参加する。ムーアとの信頼関係は続き、アルバム『パワー・オブ・ザ・ブルーズ』(2004年)にも作曲家とベーシストとして参加をしている。

1980年代末からは様々なレコーディングに参加。ブラック・サバスのアルバム『エターナル・アイドル』(1987年)、ギタリストのイングヴェイ・マルムスティーンのレコーディングの他、ジェフ・スコット・ソートのタカラに参加。また元ナイト・レンジャージェフ・ワトソンのアルバム『ローン・レンジャー』の制作に関わり、これを機にワトソン、カーマイン・アピスジョー・リン・ターナーマザーズ・アーミーを結成したが、アルバム『マザーズ・アーミー』(1993年)を発表後にマネージメントのトラブルに巻き込まれて解散に追い込まれた。

シャロン・オズボーンとの法廷闘争

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1988年にオズボーンに依頼され、アルバム『ノー・レスト・フォー・ザ・ウィケッド』では作詞とベースを担当。1991年には再び彼とアルバム『ノー・モア・ティアーズ』(1991年)を制作。同作はアルバム・チャートの最高位がアメリカで7位、イギリスで10位と、これまでで最大のヒットになった。しかし、クレジットの件でオズボーンのマネージメントに携わるシャロン・オズボーンとの法廷闘争が発生した。

1997年、シドニーに居を構えブルース・バンド、ザ・フーチー・クーチー・メンを結成。ジョン・ロードとともにアルバムを発表するなどして音楽活動を行なっていた。しかし、2002年にオズボーンのマネージメントが過去の作品を再発した際、デイズリーが演奏したベース・パートと彼の作詞作曲のクレジットを削除したため、2003年7月に当時の同僚だったカースレイクとドン・エイリー(キーボード)、スティーヴ・モーズ(ギター)を招いてリヴィング・ラウドを結成。オズボーンの声質に似たボーカリストのジミー・バーンズを迎えて、オズボーンとの活動中に作った曲を演奏しアルバムを制作して、著作物権利の保護の主張を行っている。裁判は現在も係争中だが、彼はライブ・ツアーを続行している。

ディスコグラフィ

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カーバス・ジュート

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  • 『ワイド・オープン』 - Wide Open (1971年)

ウィドウメイカー

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  • 『ウィドウメイカー』 - Widowmaker (1975年)
  • 『呪いの使者 (トゥ・レイト・トゥ・クライ)』 - Too Late To Cry (1977年)

レインボー

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オジー・オズボーン

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ユーライア・ヒープ

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ゲイリー・ムーア

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その他

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1977年9月より開始したツアーに参加。ミュンヘン公演がビデオ収録され、後年、DVDソフト『Live in Munich 1977』として発表。1978年1月、2度目の日本公演に参加して、札幌公演でファンが圧死する事故に遭遇した。
  2. ^ クレジットにはルディー・サーゾとトミー・アルドリッジの名前が記載された。

出典

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  1. ^ Discogs”. 2024年1月16日閲覧。
  2. ^ a b Popoff (2016), pp. 227, 234.
  3. ^ Biography | Bob Daisley - 2014年3月1日閲覧

引用文献

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  • Popoff, Martin (2016). The Deep Purple Family Year By Year Volume One (to 1979). Bedford, England: Wymer Publishing. ISBN 978-1-908724-42-7 

外部リンク

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