基町

広島市中区の町名

基町(もとまち)は、広島県広島市中区の町名。1887年(明治20年)「広島開基の地」に因んで名付けられた。

基町
基町地区再開発事業完成記念碑
基町地区再開発事業完成記念碑
基町の位置(日本内)
基町
基町
基町の位置(広島県内)
基町
基町
基町の位置(広島市旧市内内)
基町
基町
北緯34度24分02.2秒 東経132度27分25.0秒 / 北緯34.400611度 東経132.456944度 / 34.400611; 132.456944
Flag of Japan.svg 日本
都道府県 広島県の旗 広島県
市町村 Flag of Hiroshima, Hiroshima.svg 広島市
中区
面積
 • 合計 0.978509694km2
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
730-0011
市外局番 082
ナンバープレート 広島

中世においては太田川河口付近にあたり、近世においては広島城城郭内にあたり、近代においては大日本帝国陸軍用地となり軍都広島の中心地であった。日清戦争時には広島大本営が設置され一時的に日本の首都であった。

広島市への原子爆弾投下で破壊目標地点となり壊滅的な被害を受ける。荒廃した地に公営住宅が整備されたがそれ以上に人が流入したため原爆スラムが形成、と戦後都市計画の歪が集約したような地区となった。そこで市営基町高層アパートを中心とした一大再開発事業が行われた。

広島市都心部の紙屋町・八丁堀に接し、広島県庁舎広島県警察本部・日本銀行広島支店などが揃う官公庁街であり、そごう広島店・NTTクレド基町ビル(基町クレド)・紙屋町シャレオなどの大型商業施設が密集する。広島市中央公園・広島城址公園と広大な公園敷地を有し、その中にスポーツ文化施設に加え、大本営跡・中国軍管区司令部跡・被爆樹木・勝鯉の森などの歴史的文化財が点在する。

地理編集

広島平野の中央上部に位置する。戦国時代末期に毛利輝元広島城を築くにあたり整地された地区である。現在の行政区域は、西端が太田川水系旧太田川、南端が相生通り、東端が京口門通り、北端が城北通りになり、広島城の旧外堀に一致する。

丁目は無い。郵便番号は730-0011(広島中央郵便局管区)。

地形の起伏はほぼない。地質は20万分の1地質図によると、後期更新世-完新世の海成または非海成堆積岩[3]。町の西側を一級河川旧太田川が流れる。広島市中央公園内には城の内堀を旧太田川の河川水を用いて循環浄化する目的で整備された堀川が流れており、内堀および堀川は旧太田川を本流とする準用河川に指定されている[4]

道路は、城を基準に碁盤目状に配置されている。その基準となった城の曲輪が時計回り方向に約18度傾いているが、その理由は不明であり当時の河川の状況から決まったものと推定されている[5]。町の中央を城南通りが横断し、町の南端の相生通りで広島電鉄本線が通る。町の南北方向を鯉城通り祇園新道が貫きその下をアストラムラインが通る。広島バスセンターが位置する交通の要所である。

ハザードマップは以下の通り。うち高潮、土砂災害は想定されていない。


基町の行政区域。1988年[6]


沿革編集

城郭編集

中世までこの地は太田川河口の干潟であった[7]。応安4年(1371年)今川了俊の紀行文『道ゆきぶり』には「しほひ(潮干)の浜」として登場する[7]。広島県教育委員会の資料によると、中世以前の遺跡・埋蔵文化財は発見されていない[8][9]

戦国時代末期、毛利輝元は平野部に城と城下町を一体化して築き領国の政治・経済の中心とすること(近世城郭)を決める[7]。当時「五箇」(ごか、五ヶ村とも)と呼ばれた寒村であったこの地に天正17年(1589年)築城を開始、慶長4年(1599年) 落成した[7][10][11]。「広島」が名付けられたのはこのときである[10]。のち城は福島正則、次いで浅野長晟が入場し、幕末まで浅野氏が統治した[10][11]

つまり近世においては広島城の城郭内にあたり、幕末まで機能し続けた[5]。現在の基町の範囲内では、本丸・二の丸・三の丸(内大手郭)・外郭の大手郭と西の郭にあたる(大手郭の一部・北の郭・北の丸は現在の白島と上八丁堀)。外堀つまり現在の町境には二重櫓が築かれ、特に太田川(現旧太田川)を外堀に位置づけ隣接する西側沿岸にも築かれていた[12]。川には防衛上の観点から架橋制限が行われていた[13]

中枢部であった本丸・二の丸には厳重な警備がしかれ誰でも簡単には立ち入ることができなかった[12]。三の丸には一族の大名や重臣が住んでおり[11]外郭で城下町と隔離していた[5]ものの、日中であれば藩士でなくても入ることができた[12]

明治時代の初め、本丸・二の丸・三の丸と大手郭を「南町」、白島側の北の丸・北の郭を「北町」、川側の西の郭(小姓町)を「西町」と称していた[14]。1887年(明治20年)南町・北町・西町が一緒になり広島開基の地に因んで「基町」と名付けられた[10][14][15]

軍都編集

1873年(明治6年)城内に広島鎮台が置かれ、のち1888年(明治21年)第5師団となり、城郭一体は大部分を大日本帝国陸軍が占有し、諸部隊が編成されその関連施設が建設された[13][11][16]。1894年(明治27年)日清戦争勃発、戦況の変化に対応するため城内に広島大本営が設置され明治天皇が行幸され戦争が終わるまでの7ヶ月間滞在、政府高官も広島に移動し、第7回帝国議会が招集され広島臨時仮議事堂が建設された[13][17][18]。日清・日露戦争から軍施設が広島市全域にも広がっていった[16][15]

映像外部リンク
中国放送 ひろしま戦前の風景
  1.「広島市家族同伴」より - 大正15年(1925年)。後半に西練兵場に入る。
  47.招魂祭 - 昭和3年(1928年)西練兵場で行われた招魂祭の様子。
  6.昭和産業博覧会 正門 - 昭和4年(1929年)。
  7.昭和産業博覧会 子供の国 - 昭和4年(1929年)。
  10.広島城の花見 - 昭和11年(1936年)ころ。
  50.八丁堀周辺 - 昭和15年(1940年)ころ。

こうして基町の全域が軍用地となり[15]、一種の不可侵領域であったと推定されている[13]。城の櫓などは軍施設建設と引き換えに壊されていった。市中心部にありながら行政機関はその外に置かれ、広島県発足後広島県庁舎は元々広島城内にあったが鎮台が置かれて以降城外へ移転し[17]、1889年(明治22年)広島市が市制施行した際には広島市役所中島新町に置かれた[13]。一方で近世の架橋制限は近代に入ってから解かれ[13]、1878年(明治11年)相生橋が、1912年(明治45年)三篠橋が架橋する。また1911年(明治44年)までに城の外堀が埋め立てられ[13]、民間の宅地や相生通り・白島通り(現京口門通り)が整備され、その道を広島電鉄本線広島電鉄白島線が通った[11][17][14]。1928年(昭和3年)広島市で初めて都市計画が策定されたが、この段階では基町内を縦横断する道路計画はなかった[13]

ただ軍事色の強い地であったが、市民に開かれた場所でもあり憩いの場でもあった[19]。西練兵場で行われていた軍事訓練を見学することができ、軍の許可を得れば大本営跡も見学することができた[19]。また軍の許可があれば西練兵場で催し物を開催でき、1929年(昭和4年)昭和産業博覧会ではここがメイン会場のひとつとなった[19]

1945年広島市への原子爆弾投下では破壊目標地点となり、ここに近い相生橋が原爆投下標準点に選ばれた。 基町は全域が爆心地から1km以内に位置し、広島城の天守も倒壊するなどほぼすべての建物が壊滅的な被害を受ける[20][21][22]

 
1947年昭和天皇の全国巡幸。旧護国神社境内、現在の青少年センター・PL広島中央と旧市民球場跡地付近。

基町はそのまま1945年末まで野ざらしの状況が続いた[23]。1946年春頃から引揚者が住み着いて旧西練兵場の紙屋町側を開墾しだし、戦後の食糧難の中で他のものもそれに続いた[23]

復興編集

公営住宅。1946年春頃。

1945年12月戦災復興都市計画基本方針が閣議決定、それを元に1946年10月「広島復興都市計画」が立案した[24]。ここで大半が旧軍用地つまり国有地であった基町は公共用地となり、初めて基町内を縦横断する道路(鯉城通りの延伸や城南通り)、そして基町の東側を官公庁施設用地に西側の大部分を公園用地にする計画が立てられた[20][24][25]

それよりも急を要したのは、被爆により焼け出された戦災者のために住宅を用意することであった[20]。そこで1949年まで公園用地として計画された場所に県・市・住宅営団によって応急処置的に公営住宅が建設された[20][25]。ただ1949年頃から基町の旧太田川土手沿いに不法住宅を立ち始めその範囲を広げていった[20][25][23]。その原爆スラムと呼ばれた地に住みだしたのは戦災者・引揚者に加えて疎開から帰ってきたものや復興事業の中で強制立ち退きさせられたものなど土地を持たない人たちであった[20][25][23][26]。そこではたびたび火災が発生し、入り組んだ狭い路地に消火設備が不十分なままであったたため延焼し大火災となった[27]

広島平和記念都市建設法が公布され国庫補助率の引き上げや国有財産の譲与などが決まり、そこから1952年「広島平和祈念都市建設計画」が立案し[28]、広島市内では順調に戦後復興が進んでいった。その中で基町の不法住宅群が目立つようになってしまった[25]。貧民街として世界に発信されていたという[26]

 
児童文化会館。1955年頃。現存せず。手前側に見える平和の鐘(2代目)は同位置で現存している。
 
基町高層アパートと基町護岸。2013年。

一方で公園用地のうち南側側つまり原爆ドームに近い場所は早い段階から公園化が進んだ[28]。まずシンボル的な建物として広島児童文化会館が建てられた[29]。1949年第3回広島平和祭(広島平和記念式典)は中央公園内の児童文化会館前で行われている[28]。同年には広島中央公民館が建てられ、その一室に原爆参考資料陳列室が設けられた[28]。これが広島平和記念資料館の前身となった[28]

また基町の東側から八丁堀の一帯は官公庁街が形成され、南と東側の大手町・紙屋町・八丁堀など隣接する商業地区側から商業施設が建てられていき、広島市立広島市民病院広島バスセンターが整備された[25][20][30]。倒壊していた広島城天守も1958年広島復興大博覧会を機に再建される[28]。同時期に児童図書館(現広島市こども図書館)、(初代)市民球場、県立体育館(現広島県立総合体育館)なども建てられていった。1967年明治百年公園事業により広島城址の復旧工事が完了した[24]

仮設公営住宅の老朽化に伴い、公園用地の一部を住宅用地に変更し県・市・日本住宅公団で中層アパート群整備が進められたが、それでもスラム化解消には至らないことから、1969年住宅地区改良事業「広島市基町地区」として国の再開発事業となり1978年に完成にこぎつけた[27][31][26]。なおこの事業は強制執行なく遂行された[26]。一方で被爆した旧陸軍施設である旧軍被服倉庫は1977年に撤去されており[32]、広島城内以外にあった旧陸軍施設はなくなっている。また不法住宅が乱立した旧太田川沿いは、治水機能と河岸緑地公園とを合わせた機能を持つ護岸として1983年に整備された[31]

現代編集

 
(初代)市民球場。1957年開場、2009年移転し現存せず。

1980年代後半から1990年代前半広島アジア大会招致とバブル景気が重なった時期に、広島では戦後建てられた施設の更新、宿泊施設や会場、祇園新道の整備とアストラムラインが整備された[33]。基町では県立総合体育館・NTT中国支社から基町クレドに更新、リーガロイヤルホテル広島が建てられた。

近年、市都心部にありながらいくつか問題を抱えている。基町アパートは老朽化と住居者の高齢化が問題となっている[26]。県庁舎・中国放送など1950年代に建てられたまま更新していないものが存在する(県庁は建て替え断念)。

また広島は年々観光客増加傾向にあるが、原爆ドームや広島平和記念公園への来訪に比べて広島城址へは少ない傾向にある[34]。中央公園は、市民球場移転に伴う跡地利用についてあるいは広島のサッカースタジアム構想が論議された。そうした中で、城址公園と平和公園との回遊性を高めつつサッカースタジアム建設にむけて整備が進められている。

主要施設編集

政治・行政

医療機関

商業施設

報道機関

郵便局

居住空間

都市公園

教育機関

市営基町高層アパートの建設に合わせて、基町保育園・幼稚園・小学校は設置され、3施設は隣接している。

その他

旧跡・文化財編集

文化財指定
  • 広島城跡 - 本丸・二の丸が国史跡、旧城郭全域つまり基町全域が県史跡
    • 外郭櫓跡 - 空鞘橋付近にある捨石遺構。
    • 周辺の地下道では旧石垣を用いたモニュメントが設置されている。
    • (広島大本営跡 - 旧法による史跡で現法では外されている)
市認定被爆遺構
その他

交通編集

主な著名人編集

ゆかりのある武士・軍人が多数いるためここでは省く

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 広島県広島市中区 > 基町”. 人口統計ラボ. 2020年5月16日閲覧。
  2. ^ 広島市 人口,世帯数(町丁目別)
  3. ^ 20万分の1日本シームレス地質図”. 産業技術総合研究所. 2019年1月13日閲覧。
  4. ^ しろうや!広島城 No.14 (PDF)”. 広島城博物館. 2020年5月16日閲覧。
  5. ^ a b c 小谷 1996, p. 328.
  6. ^ a b c d e f g 国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
  7. ^ a b c d 築城前の広島/広島城築城”. 広島城博物館. 2020年5月16日閲覧。
  8. ^ 広島(地図) (PDF)”. 広島県教育委員会. 2020年5月16日閲覧。
  9. ^ 広島市(旧・佐伯郡湯来町を含む) (PDF)”. 広島県教育委員会. 2020年5月16日閲覧。
  10. ^ a b c d 小谷 1996, p. 327.
  11. ^ a b c d e 広島城跡(史跡)”. ひろたび. 2020年5月16日閲覧。
  12. ^ a b c しろうや!広島城 No.24 (PDF)”. 広島城博物館. 2020年5月16日閲覧。
  13. ^ a b c d e f g h 小谷 1996, p. 329.
  14. ^ a b c 『広島市史 第4巻』広島市、1922-1925、182-183頁。NDLJP:965811/1072020年5月16日閲覧。
  15. ^ a b c 原爆戦災誌2 1971, p. 59.
  16. ^ a b 軍都の中心 1”. 広島平和記念資料館. 2019年1月13日閲覧。
  17. ^ a b c 近代の広島城”. 広島城博物館. 2020年5月16日閲覧。
  18. ^ 軍都の中心 2”. 広島平和記念資料館. 2019年1月13日閲覧。
  19. ^ a b c 軍都の中心 3”. 広島平和記念資料館. 2019年1月13日閲覧。
  20. ^ a b c d e f g 再建から再開発 1”. 広島平和記念資料館. 2019年1月13日閲覧。
  21. ^ 原爆戦災誌2 1971, p. 61.
  22. ^ 原爆戦災誌2 1971, p. 69.
  23. ^ a b c d 原爆戦災誌2 1971, p. 70.
  24. ^ a b c 小谷 1996, p. 330.
  25. ^ a b c d e f 小谷 1996, p. 331.
  26. ^ a b c d e 検証 ヒロシマ 1945~95 <3> 基町再開発”. 中国新聞 (2012年3月30日). 2020年5月16日閲覧。
  27. ^ a b 再建から再開発 2”. 広島平和記念資料館. 2019年1月13日閲覧。
  28. ^ a b c d e f にぎわいの場へ 1”. 広島平和記念資料館. 2019年1月13日閲覧。
  29. ^ 原爆戦災誌2 1971, p. 71.
  30. ^ 小谷 1996, p. 333.
  31. ^ a b 小谷 1996, p. 332.
  32. ^ ヒロシマの記録1977 1月”. ヒロシマ平和メディアセンター. 2020年5月16日閲覧。
  33. ^ 活性化 2017, p. 9.
  34. ^ 活性化 2017, p. 12.

参考資料編集

関連項目編集