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支倉町(はせくらまち[3])は、宮城県仙台市青葉区町名地図 - Google マップ)。郵便番号は980-0824。かつては「支倉丁」(はせくらちょう)と表記・発音し、道路名および沿道の住所として使用された[4]

支倉町
支倉町の位置(仙台市中心部内)
支倉町
支倉町
支倉町の位置
支倉町の位置(宮城県内)
支倉町
支倉町
支倉町の位置
北緯38度16分4.46秒 東経140度51分39.11秒 / 北緯38.2679056度 東経140.8608639度 / 38.2679056; 140.8608639
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Miyagi Prefecture.svg 宮城県
市町村 Flag of Sendai, Miyagi.svg 仙台市
行政区 青葉区
人口
2017年(平成29年)4月1日現在)[1]
 • 合計 1,821人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
980-0824
市外局番 022[2]
ナンバープレート 仙台

ここでは、道路名および沿道の住所として江戸時代から使用された「支倉丁」、支倉橋によって繋がっていた「元支倉丁」、さらに支倉丁に通じる「支倉通」、そして昭和期の住居表示によって複数街区を指す町名となった「支倉町」について述べる。

目次

概要編集

現在の「支倉町」は、仙台市都心部から見て北西に位置し、南側には広瀬川が流れている。北で星陵町、東で木町通、南東で春日町、南で桜ケ岡公園、南西で広瀬川を跨いで川内川前丁川内澱橋通、西で広瀬町と接する。

東北大学病院の南側に隣接しているため、町内には多数の薬局や医学書専門の書店があり医院も多い。また、町内には仙台市交通局木町通駐車場があり、仙台市営バスの大半の始着点となっている。

明治期に島崎藤村が詩作を始めた地であり、戦後占領期東北大学医学部に在学していた北杜夫が住んでいた地でもある。

歴史編集

江戸時代から住居表示実施前まで
(道路名および沿道の住所として使用)
住居表示実施後
表記 発音 位置 表記・発音 概況
広瀬川
(支倉橋)
より北
支倉通 はせくらどおり 最終的な北端
当初の北端
南端
支倉通
はせくらどおり
一部区間(google マップ)を
歴史的町名(道路名)として使用
支倉丁
支倉町
はせくらちょう
(はせくらまち)
google マップ 支倉町
はせくらまち
支倉丁を含む複数街区を
指す町名として使用
広瀬川
(支倉橋)
より南
元支倉丁
本支倉丁
元支倉町
川内元支倉丁
もとはせくらちょう

(もとはせくらまち)
かわうちもとはせくらちょう
google マップ 道路名・住所共に使用せず
川内元支倉
かわうちもとはせくら
 東西線川内駅の北側に広がる
川内公務員住宅や宮城県美術館
等がある街区の町名として使用
地図 - Google マップ

江戸時代初期の仙台城下町において、広瀬川に架かっていた支倉橋は、南詰(地図)から中州までの橋、さらに中州から北詰(地図)までの橋の2つの橋で成り立っていた[5]。南詰(標高約33m)のある右岸側は標高が低い河岸段丘仙台下町段丘であり、南詰から仙台城方面に延びる道路は後に「元支倉丁」と呼ばれ、沿道の町名ともなった(支倉橋があった当時の名称は不明)。一方、北詰(標高約30m)がある左岸側は標高が高い仙台中町段丘との間に段丘崖があり、北詰から小さな滝沿いにつづら折れの道を上ると、段丘崖上(標高約48m)には南西に凸の弧状に「支倉丁」(はせくらちょう)と呼ばれる道路が通り、同様に沿道の町名ともなっていた。

元禄7年8月3日グレゴリオ暦1694年9月21日)の大水で支倉橋は流失し、再建されることなく上流側に澱橋が架けられた。そのため、「元支倉丁」と「支倉丁」とは直接往来出来なくなった。

「支倉丁」の東端(地図)は北一番丁と接続した。他方、「支倉丁」の北端(地図)は北二番丁から北側に向かう「支倉通」が通り、当初は恩慶寺を北端とした[4]。「支倉通」は「支倉丁に通じる道」という意味である。「支倉通」の沿道は北六番丁以南が侍町だった[4]。後に支倉通は、北山五山資福寺門前の北山通まで延長された。

いずれかの時期に、「支倉丁」は「支倉町」の表記で定着した。1896年(明治29年)9月8日に仙台市の東北学院に赴任してきた島崎藤村は当初、仙台駅前の旅館「針久」支店に投宿し、同月中に「池雪庵」に転居するが、10月には(当時の住所で)支倉町10番地(地図[6])の田代家に転居した[7]10月25日に母が死去して一時的に仙台を離れるが、この広瀬川を望む崖上の田代家で藤村の詩作が始まった[8][9]

1902年明治35年)に(旧制)第二中学校(後に元支倉丁沿いに移転→現・宮城県仙台第二高等学校)が建設される際に「支倉通」の北六番丁から北七番丁までの区間が同校の敷地に転用され、1911年(明治44年)に 県立宮城病院(現・東北大学医学部および東北大学病院)が移転してきた際にも「支倉通」の北四番丁から北六番丁までが転用されたため、「支倉通」は北四番丁から北七番丁までの区間が失われ、南北に分断された[4]

1927年昭和2年)4月1日には仙台市電が後に西公園通と命名される新道沿いに開通したため、交通の利便性の高い地区になった。

1948年(昭和23年)に東北大学医学部に入学した斎藤宗吉(作家:北杜夫)は、1953年(昭和28年)までの5年間を仙台市で過ごした[10]が、支倉町で下宿をしていたと自身の随筆に記している。

1970年(昭和45年)に実施された住居表示により、東側の西公園通、北側の北四番丁(国道48号)、西側の支倉通、南側の広瀬川に囲まれた複数街区をもって「支倉町」(はせくらまち)と命名された[11]。すなわち、従前の支倉町全域、および、北一番丁、北二番丁、北三番丁、北四番丁、支倉通の各々一部が「支倉町」に含まれた[12][13]

1976年(昭和51年)3月31日、仙台市電が廃止された。市電の北二番丁車庫は後に仙台市交通局木町通駐車場に転用され、多数の系統が集まる仙台市営バスのターミナル化した。

「元支倉丁」は「本支倉丁」「元支倉町」「川内元支倉丁」とも表記されていくが、街区をもとに住所が決められた現在は道路名としても住所としても使用されていない。ただし、「元支倉丁」とは全く別の場所の住所として「川内元支倉」が現在使用されている。

世帯数と人口編集

2017年(平成29年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
支倉町 955世帯 1,821人

交通編集

バス編集

仙台市営バスのバスターミナルが存在するためバスによる交通の便は極めてよい。

道路編集

施設編集

出身著名人編集

政治・経済・行政編集

ゆかりのある人物編集

住所が支倉町[14]。氏家榮一の父。

脚注編集

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  1. ^ a b 町名別年齢(各歳)別住民基本台帳人口” (日本語). 仙台市 (2017年4月28日). 2017年6月30日閲覧。
  2. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
  3. ^ 仙台市青葉区の住所一覧日本郵政
  4. ^ a b c d 《支倉通》(仙台市「歴史的町名等活用路線 Archived 2014年4月7日, at the Wayback Machine.」)
  5. ^ 仙臺城下繪圖 1678-1680宮城県図書館
  6. ^ 『復刻版「番地入 最新 仙台市街明細地図(1952年9月15日 仙台市東一番丁 金港堂 発行)」』(仙台市歴史民俗資料館 発行)
  7. ^ 「若き日の藤村 -仙台時代を中心に-」(藤一也 著、本の森 1998年11月23日 発行、ISBN 4-938965-11-9) pp.263-264
  8. ^ 「仙台雑詩」(島崎藤村)
  9. ^ 「若き日の藤村 -仙台時代を中心に-」(藤一也 著、本の森 1998年11月23日 発行、ISBN 4-938965-11-9) pp.18-20
  10. ^ 宮城)仙台で過ごした医学生時代 仙台文学館で北杜夫展(朝日新聞 2015年5月27日)
  11. ^ 中央(昭45) (PDF) (仙台市「仙台市の住居表示実施状況」)
  12. ^ 旧・新住所対照表(か~こ) (PDF) (仙台市「仙台市の住居表示実施状況」)
  13. ^ 旧・新住所対照表(は~ほ) (PDF) (仙台市「仙台市の住居表示実施状況」)
  14. ^ a b c 『人事興信録 第14版 上』ウ43頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年6月21日閲覧。

参考文献編集

  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。

関連項目編集