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明照遠山氏(あてらとおやまし)は、美濃国恵那郡明照(岐阜県中津川市手賀野)に拠った利仁流加藤氏の子孫・美濃遠山氏の一族。居城は阿寺城(明照城)。

概要編集

文治元年(1185年)に源頼朝の重臣・加藤景廉が戦功により遠山荘を与えられ地頭となり、景廉の子の景朝が遠山荘に赴任して遠山氏と改姓した。これが美濃国の遠山氏の祖である。

その後、遠山氏は、本家の岩村遠山氏以外にも遠山荘各地に分散し、居城ごとに分かれて「遠山七頭」(岩村苗木明知飯羽間串原、明照、安木など)と呼ばれるようになった。このうち、明照城(阿寺城)に拠ったのが明照遠山氏である。しかし、元亀3年より前の明照遠山氏の動向は史料に無く、分岐した年代は他家と比べて比較的新しいと考えられる。

永禄12年(1569年)5月18日、苗木遠山氏の遠山直廉が死去し嗣子が無かったため、飯羽間遠山氏の遠山友勝織田信長の命により苗木遠山氏を継いで苗木城に移り、飯羽間城は子の遠山友忠に譲った[1]。しかし、遠山友忠はすぐに庶長子の遠山友信(右衛門)に飯羽間城を譲り、自身は次男友重(次郎五郎)、三男友政(三郎兵衛/久兵衛)らを連れて明照城に移ったという[2]。遠山友忠は『信長公記』では元亀元年(1570年)の比叡山攻めにおいてすでに苗木久兵衛の名で登場するが、『遠山譜』では明照遠山久兵衛として記載されている。

天正2年(1574年)2月武田勝頼の東濃侵攻が起こると、木曾義昌の兵が阿照城に攻め寄せた。友忠父子三人は城を固守し[2]、木曾重臣の三尾五郎右衛門、三尾将監父子が負傷したが、次男友重が討ち死にし阿照城は落城した。その後、友忠と三男友政は苗木城に移り、明照遠山氏は途絶えた。

脚注編集

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』
  2. ^ a b 『濃飛古跡誌』

参考文献編集