服部天神宮(はっとりてんじんぐう)は、大阪府豊中市の南部、服部に鎮座する神社少彦名命菅原道真を主祭神として祀る。関西では「足の神様」として知られている。

服部天神宮
服部天神宮 社殿

拝殿
所在地 大阪府豊中市服部元町1丁目2-17
位置 北緯34度45分46.9秒
東経135度28分33.5秒
座標: 北緯34度45分46.9秒 東経135度28分33.5秒
主祭神 少彦名命
菅原道真
例祭 10月25日
主な神事 豊中えびす祭
足の守護祈願大祭
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由緒編集

 
豊中えびす祭(平成19年)
 
六月大祓(茅の輪くぐり)
 
足の守護祈願大祭(平成18年)

御鎮座の時期については詳らかでないものの、帰化人集団「秦氏」が允恭天皇の御世(412年 - 453年)に織部司に任じられ、当地を服部の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬の神)を祀ったのが始まりとされる。この頃はまだ、小さな祠だったという。しかし允恭天皇の御世に服部連を賜姓されたのは秦氏ではなく伊豆国造族の麻羅宿禰(麻羅足尼)であり[1][2]、その祖神が少彦名命と見る説もある[3]


783年延暦2年)、藤原魚名大宰府に左遷され筑紫国へ向かったものの、当地で病没。祠の近くに葬られた(「川辺左大臣藤原魚名公の墓」が今も境内に残る)。約100年後の延喜元年(901年)、菅原道真が魚名と同様、大宰権帥として左遷され任地へ赴く途中、当地で持病の脚気に襲われ動けなくなった。そこで里人の勧めるまま、路傍の祠と魚名を祀る五輪塔に平癒を祈念したところ、たちまち健康を取り戻して任地へ辿り着けた、との言い伝えがある。菅原道真の没後、天神信仰の高まりと共に当社にも菅原道真を合祀することとなり、新たに堂宇が建立された。この頃から「服部天神宮」と呼ばれるようになり、菅原道真の故事にちなみ「足の神様」として崇敬を受けた。

歴史編集

近世に入ると、当地が能勢街道宿場町だったこともあって徐々に門前市を成すようになり、中でも江戸時代後期の文化年間(1804年 - 1817年)、文政年間(1818年 - 1829年)には殷賑を極めたという。1910年3月10日、箕有電軌(現阪急電鉄)が開業し、服部停留場が開設された。2013年12月21日に阪急宝塚線の服部駅が服部天神駅に駅名変更した。これは「駅間近の歴史的観光資源を分かりやすく案内する」という阪急電鉄の方針による。

主な祭礼編集

大祓/茅の輪くぐり編集

半年に1度行われる大祓。6月晦日と大晦日に行われる。形代に半年間の罪・穢を託し、茅萱で編んだ輪をくぐることにより罪・穢を祓う。

足の守護祈願大祭編集

「足の神様」としての当社の面目躍如たる祭礼。8月25日午前10時より行われ、祭典の後、参列者全員に宮司が特大金幣を授け、神職が形代を以って参列者の足を摩る。大阪近辺の夏祭りとしては最後に当たり、24日25日の夕方からは夜店も並び、「摂州だんじり(地車)囃子」などの奉納がある。この摂州だんじり囃子(地車囃子)が奉納される櫓の周囲には人だかりが幾重にもでき、子供、若衆、そして名物の長老のだんじり踊りや、若衆の太鼓の華麗なバチさばきに大きな拍手・歓声が起こる。

例祭(秋祭)編集

10月25日に例大祭が斎行される。神幸式(神輿巡行)はその前後の日曜日に行われ、本神輿・ギャル神輿・子供神輿や稚児行列が氏子区内を練り歩く。

豊中えびす祭編集

境内社である豊中えびす神社の祭。昭和26年から平成14年までは「服部えびす祭」の名で斎行されていたが、平成15年に「豊中えびす祭」と改称された。 1月9・10・11日に行われ、35万人の参拝者で大変な賑わいを見せる。約3分サイクルのエンドレスでスピーカーから流れる囃子は毎年吹き込み直されており、独特の口調に情緒が感じられる。

福娘編集

豊中えびす神社(服部天神宮境内社)の十日戎で奉仕を希望する福娘は公募で選ばれている。毎年600 - 700名の応募があり、第1次審査の書類選考を通過した者の中から、第2次審査の面接選考を経て約25名が選出される。平成9年には初めて外国人が選ばれ、母国の各メディアで報道されるなど話題となった。以降、留学生枠が設けられ毎年外国人が福娘として選出されている。日本人の福娘も語学に堪能な者が多く、国際交流に大きく貢献している。

初天神祭編集

1月25日に斎行される祭。祭典、お火焚き神事、湯立神事が行われる。その後、大根炊きのふるまいがある。

初午祭編集

2月初午の日に斎行される祭。祭典の後にぜんざいのふるまいがある。

境内編集

境内社編集

 
服部天神宮わらじ堂

本殿に向かって右側に「わらじ堂」と呼ばれているお堂があり、その中に鉄や木の草履、靴、杖、千羽鶴などが奉納されている。 足の病に悩む人がわらじを奉納すると言われている。「わらじ堂」の名の由来は、かつて、足の病に悩むものが自分で作った草履 を納めたことによるものである。 [4]

 
服部天神宮豊中三大文化人の碑

文化財編集

  • 算額 [5] 
    • 天保14年6月 吉田伝兵衛奉納[6]
    • 明治9年 井村剛治奉納[7] 
    • 明治12年 小森流の某

 

豊中三大文化人の碑編集

三大文化人の碑は、1990年12月に建立された。その3人とは、「西田王堂」「矢野橋村」「安田青風」である。

3人の略歴編集

  • 書家「西田王堂」1897年7月5日香川県で生まれる。本名、健男。昭和19年疎開により豊中市桜塚元町に居住。昭和30年の豊中市美術協会の発足より書道部門の委員として参加し、同市美術展では審査委員として、活躍するところとなった。平成10年2月27日豊中市において没。享年100歳であった。1988年に『西田王堂作品集』(豊中市立岡町図書館所蔵)が産経新聞社より出版された。
  • 画家「矢野橋村」1890年9月8日愛媛県で生まれる。本名、一智。橋村、智道人、古心庵などの号を用いる。昭和19年、枚方に移転された私立大阪美術学校が閉鎖された際に豊中市刀根山に移住。その後、昭和23年に清風荘に転居し、昭和40年4月17日豊中市において没。昭和30年の豊中市美術協会結成に当たっては参与として参加し、第1回展より第10回展まで豊中市展の審査委員を務めた。昭和25年大阪府芸術賞、同34年大阪市民文化賞、同36年新日展出品の<錦楓>により日本芸術院賞を受賞した。
  • 歌人「安田青風」1895年3月8日兵庫県で生まれる。本名、喜一郎。姫路師範卒。大阪樟蔭女子大や大阪城南女子短大にて日本文学を講じた。大正2年に服部嘉香主宰の「現代詩文」に参加。昭和21年11月に長男安田章生とともに『白珠(しらたま)』(豊中市立岡町図書館所蔵)を創刊した。昭和39年に大阪芸術賞受賞。昭和43年には短歌の創作と指導に尽力した功績がみとめられ勲五等双光旭日章を受勲。1983年2月19日没。

その他編集

  • 「足踏み石」祈願台座 この台座に座って「足病平癒・健脚」等を祈願する。
 
大阪府豊中市の服部天神宮にある「足踏み石」祈願台座

交通編集

参考文献編集

  • 服部天神宮社務所「『足の神様・服部天神宮』由緒」
  • 『新修豊中市史 第6巻 美術』発行豊中市 1998年
  • 『新修豊中市史 第9巻 集落・都市』発行豊中市 1998年
  • 『西田王堂作品集』西田王堂著 産経新聞社 1988年
  • 『矢野橋村名作選集』矢野橋村著 望月信成編 清文堂出版 1975年
  • 『安田青風の人と作品』八谷正著 短歌友の会連盟発行 1970年

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ 「大和国 神別 服部連」『新撰姓氏録』。
  2. ^ 鈴木真年「伊豆宿禰系図」『百家系図稿』一巻。
  3. ^ 平姓秩父一族と丹党」『古樹紀之房間』、2004年。
  4. ^ 『わが家の守り神』三橋 健/編 河出書房新社 1997
  5. ^ 『図説北摂の歴史』郷土出版社1998,桑原秀夫著『服部天神社の洋学算額と井村剛治先生の生涯』富士短期大学出版部1967 
  6. ^ 有形民俗文化財 豊中市「服部天神宮算額」”. 豊中市. 2019年2月12日閲覧。
  7. ^ 有形民俗文化財 豊中市「服部天神宮算額」”. 豊中市. 2019年2月12日閲覧。

外部リンク編集