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服部 正重(はっとり まさしげ、天正8年(1580年) - 承応元年(1652年))は、江戸時代旗本。通称は半蔵(はんぞう)。服部正成服部半蔵)の次男。兄は服部正就。弟は僧侶正広。妻は大久保長安の長女。子は服部正吉ら。

生涯編集

1600年関ヶ原の戦いで初陣。戦いの前日夜に徳川家康の陣で酒盛りしながら、父親の初陣話や活躍を聞く。翌日合戦(法螺貝の合図)の前に敵陣に一人で入り、寝込を襲い敵の侍大将の首を取り、家康に届けるが、無断での行いであったために、恩賞は認められなかった。

1605年、配下の同心達に抗議騒動を起こされて支配役を解かれてしまった兄・服部正就(3代目服部半蔵)に代わり、服部家の家督と服部半蔵を襲名する。服部家は伊賀忍者の頭領として一般に知られるが、既に兄の服部正就の代において伊賀同心の支配の役目は解かれており、正重は舅の大久保長安と共に佐渡金山などの政策を担当した(佐渡金山の同心)。

しかし、1612年大久保長安事件で、長安が不祥事を起こしていた事実が発覚。この件について娘婿である自らの関わりや事の真偽を問うべく目付より佐渡で待てと言われたものの、佐渡で待たずに佐渡島の対岸の出雲崎で目付一向を出迎えたために、徳川家康の逆鱗に触れることとなってしまい、長安の不祥事でのお咎めはなしであったものの、結局は3千石を没収され浪人となる。一説では、処分の命令を行ったのは家康ではなく、その後継者である徳川秀忠であるとされている。

その後、越後国(新潟県)の3藩に家来として仕えるが、どの藩も藩取り潰しやお家断絶、家督争いにより再び浪人となり、5年後、兄嫁の実家久松松平家松平定綱に召し抱えられ、2千石を得たことで桑名藩の家老として服部半蔵家は存続することになった[1]。正重は1652年、73歳で没した。

なお、桑名では正重の子孫の家を大服部家、正就の子・服部正辰の子孫の家を小服部家と呼ぶ。

脚注編集

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  1. ^ 厚遇された半蔵の子孫-桑名藩古文書が伝える” (日本語). 発見!三重の歴史. 三重県. 2016年6月2日閲覧。

外部リンク編集


先代:
服部正就
服部半蔵
第4代
次代:
服部正吉
先代:
-
大服部家
服部正重
次代:
服部正吉