村井 英司(むらい ひでし、1950年1月9日 - )は、北海道札幌市出身の元プロ野球選手捕手外野手)・コーチ

村井 英司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道札幌市
生年月日 (1950-01-09) 1950年1月9日(71歳)
身長
体重
173 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手外野手
プロ入り 1973年 ドラフト4位
初出場 1974年4月10日
最終出場 1983年9月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 日本ハムファイターズ (1984 - 1994)

経歴編集

札幌南小学校では投手札幌柏中学校で当時の先生が「お前は肩が良いのだからキャッチャーを」と勧めてくれたことがきっかけで捕手に転向し、2年次の1963年春の選抜で準優勝した北海高校へ憧れを抱く。中学時代から捕手として評判となり、卒業後の1965年に希望の北海高へ進学。飛沢栄三部長は村井らが入部してすぐに「今年の1年生は素質のある選手が多いから3年間甲子園へ出場して日本一を狙おう」と言っていたため、村井らも帽子の裏に全国制覇、とマジックで書き込んだが、当時は日本一を意識したわけではなかった。入部して最初は練習もできないだけでなく、グラウンドにすら入れず、一日中陸上部のように走るだけであった。一週間であっという間に部員は半減したが、村井は非常に恵まれていて、宮田昭弘監督に「お前、ショートやれ」と言われる。捕手で入部した村井は内野をやっていなかったが、連日宮田のノックで鍛えられる。練習に参加できたことや遊撃手として期待されていること、新しい野球に取り組めるという喜びもあり、毎日の練習だけでは足りないことから朝早くに起きてランニング、夜はバットスイングと夢中になって取り組んだ。野球センスが早くから評価され、1年次の同年秋からは試合に出場するようになると、秋季全道大会一週間前に宮田から「今度はセンターをやれ」とコンバートの話を聞かされ、初体験の外野で連日宮田の猛ノックを受け、宮田のライナーを追いかけて頭にぶつけたこともあった。秋季大会は早くも村井ら1年生ながら多くベンチ入りを果たし、村井は1番・中堅手として活躍。決勝で室蘭工に敗れるが、準優勝に貢献。2年次の1966年春の全道大会では札幌光星に敗退するが、6月2日中島球場で来札した同年の選抜優勝校である中京商と対戦。中京商は同年の夏も制して史上2校目の春夏連覇を達成する強力チームで、往年の名選手で名指導者でもある滝正男をトップに名将・杉浦藤文監督が率い、加藤英夫矢沢正平林二郎伊熊博一らを擁していた。村井は中京商のユニフォームの着こなしに驚かされ、「北海は田舎のチームだなぁ」と本気で思ったほどであった。杉浦のシートノックと選手の動き、外野手の肩、中継プレーの見事さに「こういうチームじゃないと日本一にはなれないのでなぁ」と痛感したが、村井は1番・中堅手として初回に右安打を放ち、先制のホームを踏んで3打数1安打を記録。試合は2-7で敗れており、夏の甲子園南北海道予選でも札幌商に敗退し、主将兼外野手になった秋の全道大会は札幌光星に敗退。3年次の1967年は夏の甲子園南北海道予選決勝で苫小牧東高を降して甲子園本大会に進むが、村井は初戦の登別大谷戦で塁上で骨折して入院したため本大会出場はならず、村井を欠いたチームも1回戦で広陵高に敗退[1]同年のドラフト南海ホークスから15位指名を受けるも拒否し、卒業後は1968年電電北海道へ入社。1970年大昭和製紙北海道の補強選手、1971年から1973年まで同社の捕手として都市対抗に4年連続出場[2]若松勉は高校、社会人野球で2年先輩に当たる。

1973年のドラフト4位で日本ハムファイターズに入団。1年目の1974年はシーズン後半に正捕手の加藤俊夫が故障欠場し、51試合に先発出場。4月10日阪急戦(藤崎台)の2回裏に渡辺秀武の代打で初出場を果たし、6月14日の南海戦(大阪)に8番・捕手で初先発出場。同16日には4回表に野崎恒男から2点適時二塁打を放って初安打・初打点、7月26日の阪急戦(西宮)で5回表に水谷孝から初本塁打を記録。リードでもマイク・ケキッチの来日2度目の完投勝利をアシスト。2年目の1975年は加藤や高橋博士の控え捕手に回るが、3年目の1976年からは外野手・指名打者も兼ねて長く活躍。左キラーとして鳴らし、1977年8月16日の南海戦(大阪)では永淵洋三の代打で江夏豊から満塁本塁打を打った。1978年には4月1日ロッテとの開幕戦(川崎)から右翼手として起用され、村田兆治から1号本塁打を放ち、25試合に先発出場して自己最多の9本塁打を放つ。1981年には主に左翼手、6番打者として43試合に先発、打率.305の好成績を残す。同年の巨人との日本シリーズは全試合後楽園球場で行われたが、村井は代打として起用される。10月20日の第3戦で8回に工藤幹夫に替わって角三男から左前安打、同23日の第5戦でも工藤に替わって西本聖から二塁安打を放ち、全6戦中4戦に出場して4打数2安打を記録。1982年5月2日のロッテ戦(川崎)で水谷則博から最後の本塁打を放つ。1983年には出場機会が減少し、8月30日の西武戦(西武)で最後の安打を放ち、9月4日の南海戦(後楽園)出場を最後に引退。

引退後も日本ハムに残留し、二軍バッテリーコーチ補佐(1984年)、二軍打撃兼守備コーチ(1985年)、二軍打撃・外野守備コーチ(1986年)、一軍外野守備コーチ(1987年 - 1990年, 1993年 - 1994年)、一軍外野守備コーチ兼打撃コーチ補佐(1991年)、二軍打撃コーチ(1992年)を歴任。退任後は郷里の北海道に戻り、NTTドコモエンジニア北海道に勤務する傍らで少年野球の指導もしている[3]1996年7月29日苫小牧市営緑ヶ丘野球場で「社会人・プロ野球交歓試合」として横浜二軍巨人二軍が北海道選抜と対戦した際、その前日の同28日稲川誠谷木恭平と共に道の選手を指導した。この試合は苫小牧市の協力とイースタン・リーグで来道した横浜二軍と巨人二軍の好意で実現したもので、社会人とプロの試合は、道にとっては1942年以来54年ぶり、全国でも1946年以来50年ぶりであり、日本野球連盟としては設立以来初の事であった。成績は北海道選抜が、横浜二軍と巨人二軍を相手に連勝した[4]

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1974 日本ハム 69 197 174 18 37 5 1 5 59 21 3 1 7 0 14 3 2 37 8 .213 .279 .339 .618
1975 50 91 86 7 18 0 0 4 30 10 1 1 1 0 4 0 0 11 1 .209 .244 .349 .593
1976 35 53 46 6 12 3 1 1 20 8 0 1 1 2 4 0 0 4 1 .261 .308 .435 .742
1977 40 62 54 5 10 1 0 4 23 14 0 0 2 1 5 0 0 11 0 .185 .250 .426 .676
1978 61 124 103 17 27 1 0 9 55 27 0 3 3 1 15 0 2 25 4 .262 .364 .534 .898
1979 51 98 89 3 20 3 1 1 28 6 1 0 1 0 7 0 1 17 1 .225 .289 .315 .603
1980 38 89 74 11 19 4 1 2 31 8 1 1 1 1 11 0 2 7 4 .257 .364 .419 .783
1981 74 162 141 9 43 7 0 2 56 10 2 2 2 0 15 0 4 21 6 .305 .388 .397 .785
1982 63 122 103 7 24 4 0 1 31 8 1 0 2 0 16 0 1 13 4 .233 .342 .301 .643
1983 19 30 27 2 5 1 0 0 6 0 0 0 0 0 3 0 0 2 0 .185 .267 .222 .489
通算:10年 500 1028 897 85 215 29 4 29 339 112 9 9 20 5 94 3 12 148 29 .240 .318 .378 .696

年度別守備成績編集

年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1974 62 77 63 14 .182
1975 36 44 34 10 .227
1976 19 8 7 1 .125
1977 1 0 0 0 -
1978 2 1 1 0 .000
1979 2 0 0 0 -
1980 1 1 1 0 .000
1982 1 0 0 0 -
通算 124 131 106 25 .191

記録編集

背番号編集

  • 33 (1974年 - 1983年)
  • 76 (1984年 - 1994年)

関連情報編集

出演番組編集

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 地域からのお知らせ(北海道) : 「NTTドコモ 少年野球教室」を開催~池田町、せたな町、美幌町の3会場で開催~ | お知らせ | NTTドコモ(2009年8月25日)
  4. ^ 第九期 試練時代 平成 6年 ~

関連項目編集