澤井信一郎
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澤井 信一郎(さわい しんいちろう、1938年8月16日 - )は、日本の映画監督。
さわい しんいちろう 澤井 信一郎 | |||||||||
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生年月日 | 1938年8月16日(81歳) | ||||||||
出生地 |
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職業 | 映画監督 | ||||||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ | ||||||||
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経歴編集
静岡県浜松市出身[1]。1961年、東京外国語大学ドイツ語科を卒業[2]。同年、東映に入社[2]。マキノ雅弘に師事した[2]。
1981年、『野菊の墓』で映画監督デビュー[3]。1985年、『早春物語』で第26回日本映画監督協会新人賞を受賞した[4]。
フィルモグラフィー編集
映画編集
監督編集
- 野菊の墓(1981年)
- Wの悲劇(1984年) - 兼脚本
- 早春物語(1985年)
- めぞん一刻(1986年)
- 恋人たちの時刻(1987年)
- ラブ・ストーリーを君に(1988年)
- 福沢諭吉(1991年)
- わが愛の譜 滝廉太郎物語(1993年) - 兼脚本
- 日本一短い「母」への手紙(1995年) - 兼脚本
- 時雨の記(1998年) - 兼脚色
- 仔犬ダンの物語(2002年)
- 17才 〜旅立ちのふたり〜(2003年)
- 蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜(2007年)
助監督編集
- 昭和残侠伝 死んで貰います(1970年)
- ポルノの帝王 失神トルコ風呂(1972年)
- 夜の歌謡シリーズ なみだ恋(1973年)
- 色魔狼(1973年)
- 0課の女 赤い手錠(ワッパ)(1974年)
- 従軍慰安婦(1974年)
- 華麗なる追跡(1975年)
- トラック野郎・爆走一番星(1975年) - 兼脚本
- トラック野郎・望郷一番星(1976年) - 兼脚本
- トラック野郎・一番星北へ帰る(1978年)
- 動乱(1980年)
脚本編集
- ごろつき無宿(1971年)
- トラック野郎・御意見無用(1975年)
- トラック野郎・度胸一番星(1977年)
- 麻雀放浪記(1984年)
テレビドラマ編集
著書編集
- 澤井信一郎、鈴木一誌『映画の呼吸: 澤井信一郎の監督作法』ワイズ出版、2006年10月。ISBN 978-4-89830-202-6。
受賞歴編集
- 第39回毎日映画コンクール 脚本賞(『Wの悲劇』)[5]
- 第26回日本映画監督協会新人賞(『早春物語』)[4]
- 第9回日本アカデミー賞 最優秀監督賞(『Wの悲劇』、『早春物語』)[6]
- 第9回日本アカデミー賞 優秀脚本賞(『Wの悲劇』)[6]
- 第17回日本アカデミー賞 優秀監督賞(『わが愛の譜 滝廉太郎物語』)[7]
- 第17回日本アカデミー賞 優秀脚本賞(『わが愛の譜 滝廉太郎物語』)[7]
- 1993年、山路ふみ子文化財団特別賞を受賞。
脚注編集
- ^ “鶴田浩二に木下恵介、長澤まさみ… - 気候の良い静岡県が輩出する 明るさと渋さ持つ映画人”. WEDGE Infinitiy (2010年1月2日). 2016年9月1日閲覧。
- ^ a b c “アイドル映画の撮り方 - 澤井信一郎VS金子修介 - アイドル映画って何だろう?”. 日本映画監督協会 (2003年12月25日). 2016年9月1日閲覧。
- ^ “日本映画が好き2015”. 水戸芸術館 (2015年). 2016年9月1日閲覧。
- ^ a b “日本映画監督協会新人賞”. 日本映画監督協会. 2016年9月1日閲覧。
- ^ “毎日映画コンクール - 39th(1984年)”. 毎日新聞. 2016年9月1日閲覧。
- ^ a b “第9回日本アカデミー賞優秀作品”. 日本アカデミー賞. 2016年9月1日閲覧。
- ^ a b “第17回日本アカデミー賞優秀作品”. 日本アカデミー賞. 2016年9月1日閲覧。