ジョゼフ=デジレ・ジョブ

カメルーンのサッカー選手

ジョゼフ=デジレ・ジョブJoseph-Désiré Job, 1977年12月1日 - )は、フランスメトロポール・ド・リヨンヴェニシュー出身のカメルーン代表の元サッカー選手。ポジションは、MFFW

ジョゼフ=デジレ・ジョブ
名前
愛称 ジョブ
ラテン文字 Joseph-Désiré Job
基本情報
国籍 カメルーンの旗 カメルーン
フランスの旗 フランス
生年月日 (1977-12-01) 1977年12月1日(46歳)
出身地 ヴェニシュー
身長 178cm
体重 77kg
選手情報
在籍チーム 引退
ポジション MF / FW (OH / 左WG)
利き足 右足
ユース
1992-1993 フランスの旗 ヴェニシュー
1993-1996 フランスの旗 リヨン
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-1999 フランスの旗 リヨン 41 (11)
1999-2000 フランスの旗 ランス 24 (4)
2000-2006 イングランドの旗 ミドルズブラ 94 (19)
2002 フランスの旗 メス (loan) 13 (2)
2005-2006 サウジアラビアの旗 アル・イテハド (loan) 28 (9)
2006-2007 フランスの旗 スダン 28 (10)
2007-2008 フランスの旗 ニース 12 (3)
2008-2009 カタールの旗 アル・ハリティヤス 23 (10)
2009 トルコの旗 ディヤルバクルスポル 8 (0)
2010-2011 ベルギーの旗 リールセ 10 (3)
通算 281 (71)
代表歴
1998-2011 カメルーンの旗 カメルーン 52 (8)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

同じくサッカー選手のジョエル・マティプとその兄マーヴィン・マティプを従兄弟に持つ[1]

経歴 編集

クラブ 編集

初期 編集

リヨンの郊外で生まれたジョブは、10歳の時に地元オリンピック・リヨンの下部組織に入団し、フレデリック・カヌーテらと共にトレーニングを受けた[2]。19歳の時にUEFAインタートトカップ 1997ポーランドオドラ・ヴォジスワフ英語版戦 (5-2) でデビューすると、いきなりハットトリックを達成する活躍を見せた。

1999年8月1日にRCランスへ移籍し、UEFAカップ1999-2000で2得点を挙げるなどベスト4進出に貢献した。

ミドルズブラ 編集

ジョブは、2000年にブライアン・ロブソン監督率いるミドルズブラFCへ移籍金300万ポンドで加入する[3]も、ハミルトン・リカルドアレン・ボクシッチ等からポジションを奪えず、2001年12月にシーズン終了までリーグ・アンFCメスに貸し出された。

メスでは、チームが降格したもののフォームを取り戻し[4]、ミドルズブラ復帰後はレギュラーとしてプレーしていたが、2002年11月30日のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦で相手のダレン・ムーア英語版と衝突した際に頭蓋骨が割れピッチ上で意識を失い、離脱を余儀なくされた[5]。また、2003年9月29日の練習中に膝を捻ったことで4ヶ月離脱することが決定し、スティーブ・マクラーレン監督は「エヴァートンFC戦で決勝点を決めるなど、最近好調だっただけに彼が抜けるのは残念で大きな痛手だ」と語った[6]。しかし、キャリアのハイライトはこの怪我明けから程なくしておとずれた。2004年2月29日にカーディフミレニアム・スタジアムで行われたフットボールリーグカップ決勝・ボルトン・ワンダラーズFC戦で開始2分に先制点を挙げるなど2-1の勝利に貢献し、自身そしてチーム初となるタイトルを獲得[7]。また、UEFAカップ2004-05出場権も得た。

そのUEFAカップでは、2004年11月15日にリヴァーサイド・スタジアムでのセルビア・モンテネグロパルチザン・ベオグラード戦 (3-0) で得点を決め、ベスト16・ポルトガルスポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル戦でも得点したが敗退した。

一方、リーグ戦では2004-05シーズンに加入したマーク・ヴィドゥカジミー・フロイド・ハッセルバインクの後塵を拝し、さらに翌シーズンになるとヤクブ・アイェグベニが加入し、さらに層が厚くなったことで居場所を失い、2005年8月31日にシーズン終了までサウジアラビアアル・イテハドへ貸し出された[8]。アル・イテハドでは、2005年11月5日にジッダで行われたAFCチャンピオンズリーグ2005決勝第2戦・UAEアル・アインFC戦で得点を決めるなど優勝に貢献した。

ローン終了に伴いミドルズブラとの契約が切れたジョブは、2006-07シーズンのプレーシーズンにワトフォードFCのトレーニングに参加する[9]も契約を勝ち取ることは出来なかった。

その後 編集

2006年9月16日にリーグ・アンのCSスダン・アルデンヌと1年契約を結び、28試合10得点を記録した。

2007年夏にOGCニースに2年契約で加入。2008年6月22日にサンデー・ミラー紙は、自由移籍でイングランド2部ブラックプールFCと契約すると報じた[10]が、実現せずにアル・ハリティヤスSC英語版に移籍した。

アル・ハリティヤスでは、加入した2008-09シーズンにチームは最下位に終わるも、翌シーズンからチーム数が増加するため降格を逃れた。2009年7月にレフスキ・ソフィアと接触するも移籍することは叶わず[11]トルコディヤルバクルスポルトルコ語版と契約した。

2010年3月15日に自由移籍でリールセSKに加入[12]。ホームで行われたKVトゥルンハウトオランダ語版戦で1点のビハインドを追いかける中、途中出場の形でデビューすると2得点1アシストと全ての得点に絡む活躍を見せ、3-1の逆転勝利に大きく貢献した。また、ワースラント=ベフェレン戦 (2-0) でも得点を挙げ、最終的にチームはベルギー2部優勝を果たした。2010年6月21日に契約を2年延長した[13]が、2011年8月31日に同胞のルドルフ・ドゥアラと共に退団した[14]

代表 編集

フランスで生まれたジョブは、フランス代表としてプレーすることを望んでいたものの、父の助言もありカメルーン代表からの招集を受け入れ、1997年のウェンブリー・スタジアムでのイングランド戦 (0-2) でデビューを果たした。FIFAコンフェデレーションズカップ2003を最後に暫く代表から遠ざかっていたが、2007年3月24日のアフリカネイションズカップ2008予選・リベリア戦で久しぶりに招集された[15]。2008年1月のスーダンとの親善試合で得点を決めると、アフリカネイションズカップ2008予選のザンビア戦 (5-1) で2得点を挙げて2試合3得点と好調さを見せたことから、本大会のメンバー入りを果たした。

獲得タイトル 編集

クラブ 編集

ミドルズブラFC
アル・イテハド

脚注 編集

外部リンク 編集