第二次中東戦争

1956年から1957年の戦争
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第二次中東戦争(だいにじちゅうとうせんそう、ヘブライ語: מלחמת סיני‎、アラビア語: العدوان الثلاثي‎)は、1956年7月から1957年3月にかけてエジプトイスラエルイギリスフランススエズ運河を巡って起こした戦争のこと。スエズ動乱スエズ危機シナイ作戦スエズ戦争などとも呼ばれている。

第二次中東戦争(スエズ戦争)
第二次中東戦争 青い矢印はイスラエル軍の進路(1956年11月1日~5日)
戦争第二次中東戦争
年月日1956年7月26日1957年3月
場所:主にシナイ半島
結果:軍事的にはイスラエル側、政治的にはエジプト側の勝利。
スエズ運河はエジプトの国有化へ。
交戦勢力
イスラエルの旗 イスラエル
イギリスの旗 イギリス
フランスの旗 フランス
エジプト共和国の旗 エジプト
援助国:
Flag of the Czech Republic.svgチェコスロバキア
指導者・指揮官
ダヴィド・ベン=グリオン国防大臣
モーシェ・ダヤン国防軍参謀総長
チャールズ・ケートレイ英仏連合軍司令官
ピエール・バルジョー英仏連合軍副司令官
アブドルハキーム・アーメルエジプト国防大臣兼最高司令官
アリー・アーメル東部軍司令官
戦力
イスラエル軍 175,000
イギリス軍 45,000
フランス軍 34,000
エジプト軍 70,000
損害
イスラエル軍
死者 197
イギリス軍
死者 56
負傷者 91
フランス軍
死者 10
負傷者 43
エジプト軍
死者 1,650
負傷者 4,900
捕虜 6,185
第二次中東戦争
イスラエル・アラブの戦い
ガザ - ミトラ峠 - アブ・アゲイラ - シャルム・エル・シェイク - 追撃戦
英仏連合軍の作戦
マスケッター作戦 - ポートサイド

背景編集

スエズ運河編集

スエズ運河はフランスおよびエジプト政府による資金援助で1869年に開通した。しかしこの建設費負担の為にエジプトは財政破綻し、エジプト政府保有株はイギリスに譲渡された。エジプトはイギリスの財政管理下におかれ、後に保護国となった。運河はイギリスにとってインド北アフリカおよび中東全体への戦略上重要な地点であり、その重要性は2つの世界大戦によって証明された。第一次世界大戦時、運河は英仏によって同盟国側の船舶通航が禁止された。第二次世界大戦時は北アフリカ戦役において粘り強く防衛された。

エジプト革命編集

1952年軍事クーデターで政権を掌握した自由将校団は、ナギーブ将軍大統領に擁立すると、翌年に国王フアード2世を退位させ共和制へと移行させた。また、スエズ運河地帯に駐留していたイギリス軍を撤退させる協定を結ばせる一方で、冷戦構造において二大国のどちらにも関わらない非同盟主義にたつなどアラブ世界の糾合に努めた。しかし、アメリカがイスラエルへの配慮からエジプトへの武器供与に消極的だったこともあり、1955年9月27日東側諸国チェコスロヴァキアと兵器協定を締結して新式の兵器を購入すると(エジプト=チェコスロバキア武器取引英語版)、中東における軍備供給の独占を崩された西側諸国との代理戦争の様相を呈し、フランスは対抗措置として最新の戦闘機をイスラエルに売却し、アメリカやイギリスなどからアスワン・ハイ・ダム建設資金の世界銀行の融資を撤回されるという報復を受けた[1]。こうした中、1956年に大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナセルは、7月26日にスエズ運河の国有化を行なった[2]

戦争計画編集

このナセルのやり方に憤慨したイギリスのアンソニー・イーデン首相は運河の国際管理を回復するために数ヶ月間に渡りエジプトとの交渉を続けたが、結実は成せず、フランスと協力してエジプトへの軍事行動を構想し始めた[3]

また、フランスは当時アルジェリア戦争においてエジプトがアルジェリア民族解放戦線に対する各種援助を提供する実質上の庇護者であると誤解し、ナセル政権を打倒することこそがアルジェリアにおける紛争終結に結びつくと考えた。

7月から8月にかけてパリロンドンを訪問したイスラエルの国防長官シモン・ペレスはイギリスとフランスがエジプトへの軍事行動を本格的に考えていることを知り、9月半ばに再びパリへ戻り、戦争に備えるための武器の調達に奔走した。フランスはイスラエルへの武器提供を積極的に支援し、ペレスはフランスのイスラエル支持の姿勢を確かめることになった[4]

英仏両国政府はエジプトに侵攻してスエズ運河地帯の確保を画策したが、第二次世界大戦以後、かつてのような侵略目的の戦争は非難を浴びる社会となっていたことから、英仏が目をつけたのが第一次中東戦争でエジプトと敵対していたイスラエルであった(エジプト革命の際にイスラエルはエジプトを攻撃しており、これに激怒したナセルは、イスラエルのインド洋への出口であるアカバ湾紅海をつなぐチラン海峡を軍艦をもって封鎖していた。これによってイスラエルは経済に打撃を受けていた)。

スエズ運河の利権を手放したくない英仏と、チラン海峡における自国船舶の自由航行権を確実なものとするためにエジプト軍シナイ半島から追い払いたいイスラエルは利害が一致したため、三国は事前に調整を重ね、10月末の実行が決定した。英仏の海軍艦隊が地中海のエジプト沿岸に派遣され、侵攻を待った。

だが、イスラエルがシナイ半島へ侵攻したところで英仏政府が兵力引き離しのためにイスラエル・エジプト両国に軍をシナイ半島から撤退するように通告した。当然どんな国も自国領土から撤収するはずがないので、エジプトへの制裁を大義名分として英仏軍が介入し、エジプト軍をスエズ運河以西へ追い払った上でスエズ運河地帯を兵力引き離しのための緩衝地帯に設定して平和維持を名目に英仏軍が運河地帯に駐留し、イスラエルはシナイ半島を占領する、というのが三か国が描いた筋書きであった。

イスラエルはこのため、フランスより多くの軍事援助を受け取っている。AMX-13戦車250両を獲得したほか、援助の75mm対戦車砲を搭載したM50スーパーシャーマン50両も整備された[5]

戦争の推移編集

イスラエルの侵攻編集

1956年10月29日午後5時、イスラエル国防軍ラファエル・エイタン中佐指揮の落下傘部隊395人が国境を越えて、シナイ半島のスエズ運河から72kmの地点のミトラ峠に降下し、侵攻を開始した(シナイ作戦)[6]

イスラエル陸軍は、10個旅団の兵力で3箇所からシナイ半島に侵攻し[7]アリエル・シャロン大佐の落下傘部隊・第202空挺旅団もイスラエル国境から砂漠を横断する補給路の確保のため陸路シナイに入っている。エジプト軍は、シナイ半島東部やガザ地区に、歩兵2個師団・機甲1個旅団などを配置していた[7]が、各所で撃破されている。

第一次中東戦争のときとは違い、英仏の兵器で重武装したイスラエル軍に対してエジプト軍は防戦一方となり、撤退を繰り返した。

10月30日午後、ロンドンでイギリス政府により、スエズ運河から少なくとも16km内陸に入った地点まで兵力を撤収するという最終通告がイスラエル、エジプト両国代表に手渡された。この時点でエジプトは運河を完全に占拠しており、イスラエル軍はそこから約50kmの地点にいたため、この通告は事実上エジプトに対する運河からの撤去命令であり、英仏の目論見によるものであった[6]

ナセルは苦しい立場におかれたが、結局通告を拒否して徹底抗戦の意思を表し、エジプト軍は、スエズ運河を物理的に通航不能にさせる実力行使に出た。すなわち、艦船を運河に沈めてバリケードを築いたのである。

10月31日の早朝、エジプト海軍のフリゲート艦イブラヒム・アル・アウワル(旧英海軍ハント級駆逐艦)からの砲撃がハイファに向けて行われたが、フランス海軍駆逐艦クレセントの迎撃や、イスラエルのウーラガン戦闘機2機、駆逐艦エイラートとヤッフォの攻撃により、イブラヒム・アル・アウワルは被弾、発電機等が破壊された。そのため、イブラヒム・アル・アウワルは降伏し、ハイファ港に曳航された[6]。同日には英仏軍によるエジプト領内への爆撃も開始されている。

通告の回答を保留したイスラエル軍は単独でエジプト軍との地上戦を続けた。シャロンはエジプト側の防御の硬いミトラ峠を攻略しないよう参謀総長モーシェ・ダヤンに命じられていたが、「偵察隊」と称してモルデハイ・グル少佐の指揮する部隊(一個大隊相当、更に一個大隊を増援[7])を送り込み、この部隊はエジプトの待ち伏せに遭うことになった。38人の死者を出したものの峠は攻略され、エジプト側の死者は200人を超えた。この作戦に関してダヤンとシャロンは激しく批判され、2人の確執を生むこととなった[8]

11月2日までに、イスラエルは途中ソ連製戦車T-34など戦利品を獲得しながらスエズ運河の東15kmの地点までたどり着いた。同じく11月2日に10,000人以上のエジプト軍人が駐屯するガザ地区にも攻撃を加えた、同日中に国連の調停によりガザ地区のエジプト軍政官が降伏した[7]

11月1日からは空母イーグルアルビオンブルワークアローマンシュラファイエット(旧米海軍インディペンデンス級)と戦艦ジャン・バールからなる英仏機動部隊がエジプト領内への空襲を開始し制空権を確保した[9]

英仏軍は11月5日、シナイ半島への侵攻を命じた。さらにイギリス軍は落下傘部隊を以て、スエズ運河西岸ポートサイドのエジプト軍を急襲した。6日からは戦艦や巡洋艦艦砲射撃の援護のもと上陸作戦を開始した。

停戦と撤退編集

エジプトの降伏は目前かと考えられたが、ここでアメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領が、冷戦で対立していたソ連のニコライ・ブルガーニン首相(英仏イスラエルへのミサイル攻撃を主張する強硬派であった)とも手を組み、停戦と英仏イスラエル軍の即時全面撤退を通告した。連合国として賛成すると考えていたアメリカが事実上エジプト側に回ったことは、侵攻3カ国にとって大きな誤算であった。

国連では、英仏の拒否権行使を押し退けて米ソが採択[10]させた国際連合安全保障理事会決議第119号英語版によって平和のための結集決議での国連緊急総会が招集された。英・仏・イスラエルに対し即時停戦を求める決議を求める総会決議997が11月2日に採択された。アメリカ合衆国・国連・ソ連により圧力を受け、11月6日に英仏が停戦受諾、11月8日にはイスラエルも受諾し、全軍の停戦に至った。イスラエル軍の撤退後、休戦ラインのエジプト側にはPKOとして第一次国際連合緊急軍(UNEF)が展開された[11]。これは当時のカナダのレスター・B・ピアソン外相の提案であり、ピアソンは翌年にノーベル平和賞を受賞した。

戦後編集

結局英仏はスエズ運河を失い、イギリスのイーデン首相は敗戦の責任をとらされる形で辞職した。アメリカはナセルをこれ以上追い詰めて、ソ連が介入してくることを恐れたが、しかし英仏軍撤退の瞬間にアメリカが欧州に対して圧倒的優位であることを世界に誇示することができた。

イスラエルは率先して戦いを仕掛けたとして国際社会、主にアメリカから非難された。ジョン・フォスター・ダレス国務長官経済制裁を示唆し、イスラエルは上級特使としてハイム・ヘルツォーグゴルダ・メイアをアメリカに派遣した。1956年11月14日にイスラエルのクネセト議会で、制圧した全地域からの軍撤退を決める合意が成された。首相兼国防相のベン=グリオン右派政党の批判を抑えながら、1957年3月16日に撤退を開始させた[12]

対してエジプトは国有化宣言を実行できた上に、イスラエルと英仏に対して正面から戦ったことでアラブから喝采を浴び、中東での発言力を確固たるものとした。ナセルは翌1957年1月に国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃し4月にはスエズ運河の通航を再開した。

他方で、英仏は惨憺たる結果で、イギリスは戦費として5億ポンド近く出費したが戦果は得られず、それどころかポンドが大幅に値下がりし、一時スターリング圏が崩壊寸前まで至った。それが原因となりアメリカに対して経済的立場が弱くなり、以降は追従せざるを得なくなった。フランスもこの戦争で得たものはなかったが、米ソ以外の新しい勢力として、ド・ゴール主義を根幹とする新しい外交政策を創り出した。

輸送力の不足編集

スエズ運河が封鎖を受けたことで西側諸国の船舶には不足が生じた。これを補うためアメリカの国防予備船隊から、223隻の貨物船と29隻のタンカーが現役復帰し民需輸送に従事した[13]

出典編集

  1. ^ 池田亮『スエズ危機と1950年代中葉のイギリス対中東政策』(一橋大学、2008年)p494-498
  2. ^ 「ナーセル」世界大百科事典第二版
  3. ^ ギルバート、千本(p.17)
  4. ^ ギルバート、千本(p.18 - 25)
  5. ^ 山崎雅弘『中東戦争全史』学習研究社 2001年 ISBN 978-4059010746
  6. ^ a b c ギルバート、千本(p.29 - 41)
  7. ^ a b c d 図説 中東戦争全史 学習研究社 2002年 ISBN 4056029113
  8. ^ ギルバート、千本(p.31、ハイム・ヘルツォーグ著『図解中東戦争』滝川義人訳、原書房、1985年)
  9. ^ 鳥井順『中東軍事紛争史』(第三書館、1995年)p335-410
  10. ^ [1]
  11. ^ 鏡(p.74)
  12. ^ ギルバート、千本(p.41)
  13. ^ 「2-2 NDRF/RRFの歴史」『米国海軍予備船隊制度に関する調査』シップ・アンド・オーシャン財団 1998年5月

参考文献編集

関連項目編集