罪己詔(ざいきのしょう、己を罪する詔)とは、古代中国の君主が自らの過ちを反省し、政策を変更するために出した自己批判的な詔書の一種である。

春秋左氏伝』には「王と湯王は、己を罪する」との記述がある[1]

中国の古典籍に記録されている初期の罪己詔は、『書経』の「湯誥」、『詩経』にある成王の罪己の詩「周頌・小毖」、『書経』にある穆公へ攻め入ったことでとの殽の戦いに繋がり惨敗した時に自己反省したという文章「秦誓」がある。「秦誓」にはこう記述される。「子孫臣民を守れなければ、また危険な目にあう。国が安定しないのは一人の不徳による。国が繁栄するのもまた一人の慶による。」

正式に罪己詔を出した最初の皇帝文帝であり、最後は辛亥革命後に出した朝の宣統帝(愛新覚羅溥儀)である(袁世凱も「罪己詔」に類似した文書を帝制廃止後に出している)。

中国の学者の蕭瀚が『二十五史』をもとに調査した結果、総勢79人の皇帝が罪己詔を出していた。各王朝の内訳は、漢代15人、三国時代3人(曹魏1人、孫呉2人)、代7人、南朝14人、北朝1人、代1人、代8人、五代6人、代7人、代1人、代1人、代4人、代3人、清代8人となる。

歴代の主な罪己詔編集

漢代編集

  • 漢の文帝の後元元年(紀元前163年)の詔書、「近年の不作洪水旱魃疫病が非常に心配される。私は愚かで原因が分からない。なのに非難もされていない。自分の政に落ち度があるのだろうか?……役人の給料が高すぎて無駄がありすぎたのだろうか?なぜ民の食料が不足しているのか!」[2]
  • 漢の武帝征和4年(紀元前89年)、輪台罪己詔中国語: 轮台诏を出した[3]。これは中国歴史上で最も内容が豊富で保存状態が良い罪己詔である。
  • 漢の明帝永平8年(65年)10月壬寅に日食が起こり、詔書が出された。「……長く責任の所在を考えたが、君主である私一人に責任がある。職事を学び修めた郡司が率直に物を言うことを止めることはしない。」[4]

唐代編集

  • 唐の憲宗は、元和3年(808年)冬、大旱魃が起きたため、「罪己」しを求めた。

宋代編集

  • 宋の太宗は、淳化5年(994年)9月丁丑、蜀の反乱をほぼ平定すると、「罪己詔」を下した[5]
  • 宋の徽宗は、宣和7年(1125年)12月己未、「罪己詔」を下した[6]
  • 宋の高宗は、建炎3年(1129年)2月壬戌に晋寧軍をに攻め落とされたことから、この月の癸亥に「罪己詔」を下し、直言を求めた[7]
  • 宋の寧宗は、嘉定6年(1213年)閏9月乙未に大きながあったため、この月の丙申に雷を発したのは非であるとして「罪己詔」を下した[8]
  • 宋の理宗は、嘉熙4年(1240年)1月辛未に彗星が営室に出現したことから、この月の庚辰に星変(天文の異変)を理由として「罪己詔」を下した[9]

明代編集

  • 建文帝は、燕王(後の成祖)の軍が城下に迫った時に罪己詔を出した。その文書は現存していない。
  • 明の成祖は新設した北京紫禁城が雷に打たれて大火事になった時、宗廟に入り自身を省みて罪己詔を出した。
  • 正統8年(1443年)、奉天殿鴟吻が雷に打たれ、英宗はまた罪己詔を出した。「まさに祁鎮(英宗)自らの不徳の致すところで、祁鎮は心底に怯え恐れて、自らの行いを戒め謹んで自身を省みて荒怠しないと誓った。」
  • 景泰2年(1451年)10月、代宗は罪己詔を出した。「君主は徳を失い、臣下は職を失った。」
  • 正徳9年(1514年)正月16日、乾清宮の大火で、武宗が罪己詔を出し、あわせて群臣にも同じく自ら反省することを命じた[10]
  • 嘉靖36年(1557年)4月、三大殿の大火で、世宗が罪己詔を出した。「ただ仁愛をもってしても全て自らの咎は重い。私は罪己の文を下し、臣民全てにこれを示す。」
  • 万暦24年(1596年)、乾清宮と坤寧宮の両宮の大火で、神宗は罪己詔を出した。「長く非難を受ける理由は徳の致すところだ。自責の念で体を打たれ、震え乱れ安らかではない。痛みを伴って悔い改め、郊外の廟で祈りを捧げ、国内外に喜びを与え、改革に努めることとする。私は罪己の言を下し、共に正しく戒めを受けるつもりである。あらゆる場所に苦しみがあり、朕自らにもあり、咎やあやまちは君主一人の責任であり、民は謹んで諭すのが適切であり、天の戒めを承り、禊を成して嘆きを分かち、大法小廉で全ての臣下が忠義を持ち善良であり、公務の精神を持つことが大切である。国内は安らかに国外は静謐にすることが国の統治に期す。」[11]
  • 王恭廠大爆発災害の時(1626年)に、明朝はちょうど内外の政情が混迷し、不安定になっており、国家政治は腐敗し、宦官が専権をふるい、善悪不分だった。災害の一報は迅速に全国に伝わり、朝廷内外を動揺させ、国内外も震撼させ、人心に不安を与えた。多くの大臣が、この大爆発は天から皇帝への警告であると考え、次々と上書し、天啓帝に時弊を匡正し国の規律を正せと要求した。皇帝は罪己詔を出さざるを得なくなり、厳しく反省することを表明し、大小の臣下らに対しても「洗心し仕事に尽くすことに務め、厳しく反省すること」と戒め、大明国家国土の長治久安を願い、万事災害がなくなるよう務め、且つ国庫のすべての黄金を災害救援に使うよう詔を発付した。
  • 明の思宗は6回罪己詔を出し、最後は自ら首を括る前に「罪己」の詔を下した。「朕が皇帝となって17年、逆賊が都の目の前に差し迫っている。朕は徳もなく体も弱かったがために天が罰したのだ。しかるに全部臣下が朕を誤らせたのだ。朕は死んで地下で先祖と顔を合わせることはない。朕は冕冠を脱いで髪で顔を隠す。朕は逆賊に体を引き裂かれてもいいから、民はただの一人も殺傷するな。」

明代の皇帝は多くの自省の活動を行っていた。正殿を避ける、日々の食事の内容を減らす、天地や宗廟、社稷で祈る、などをして自ら痛みを与え反省をした。罪己詔は、成化年間以降に、比較的頻繁に出された[12]

清代編集

注釈編集

  1. ^ 『春秋左氏伝』荘公十一年
  2. ^ 『漢書』文帝紀
  3. ^ 『漢書』西域伝下
  4. ^ 『後漢書』顕宗紀
  5. ^ 『宋史』太宗紀二
  6. ^ 『宋史』徽宗紀四
  7. ^ 『宋史』高宗紀二
  8. ^ 『宋史』寧宗紀三
  9. ^ 『宋史』理宗紀二
  10. ^ 《明書・巻五十四》傅維麟纂,華正書局,民63,頁 1044 
  11. ^ 《明書・巻五十五》傅維麟纂,華正書局,民63,頁 1070 
  12. ^ 《明史・本紀巻二十四 荘烈帝一》許嘉璐編,漢語大辭典出版社,民93,頁 251 
  13. ^ 順治十年閏六月、順治十一年六月、順治十三年三月、順治十四年九月、順治十七年正月、順治十八年正月 

外部リンク編集