金大中事件(きんだいちゅうじけん、キム・デジュンじけん [注釈 1])は、1973年8月8日大韓民国の民主活動家および政治家で、のちに大統領となる金大中が、韓国中央情報部 (KCIA) により日本東京都千代田区ホテルグランドパレス2212号室から拉致されて、船で連れ去られ、ソウルで軟禁状態に置かれた5日後にソウル市内の自宅前で発見された事件である[1]

金大中事件
各種表記
ハングル 김대중 납치사건
漢字 金大中拉致事件
発音 キム・デジュン ナプチサコン
日本語読み: きんだいちゅうらちじけん
英語 Kidnapping of Kim Dae-jung
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金大中拉致事件(きんだいちゅう/キム・デジュンらちじけん)ともいう。

事件の背景

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金大中

1971年4月27日に行なわれた大統領選挙金大中新民党(当時)の正式候補として立候補したが、民主共和党(当時)の候補・朴正煕(パク・チョンヒ)現役大統領(当時)にわずか97万票差で敗れた。朴は辛くも勝利したが、民主主義回復を求める金に危機感を覚えた。

同年5月24日、金は、翌日投票の国会議員総選挙の応援演説をするため、木浦市からソウルへ飛行機で飛ぶ予定であった。木浦は雨のため飛行機の離発着ができないという連絡が金に入った。光州市の飛行場なら飛行機が飛ぶと言われ、急いで光州へ車で向かった。前方から来た大型トラックが金の乗る車に突っ込んだ。金の車のうしろのタクシーに乗っていた3人が即死し、3人が重傷を負った[2]。金はと股関節に障害を負った。後に韓国政府はKCIAが行った交通事故を装った暗殺工作であったことを認めている。その際、日本の暴力団への依頼も検討していたことが国家情報院の過去事件の真相究明委員会で明らかになっているが、最終的にはKCIAによる外国での殺害を断念した[3]

1972年5月2日、朴の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部長が平壌を訪問。5月4日、平壌の金英柱組織指導部長と会談した[4]。同年5月29日から6月1日の間、北朝鮮の朴成哲第二副首相がソウルを訪問して李と会談し、7月4日には南北共同声明を発し、祖国統一促進のための原則で合意した。この歴史的会談によって李の韓国国内の評価は一気に高まり、「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになった。

同年10月17日、朴は非常事態宣言を発布し、憲法を無視して国家を戒厳令下においた(十月維新)。そのとき海外にいた金は韓国に帰れば殺されると判断し帰国を断念。日本やアメリカの実力者と会見をしたり、海外在住の同胞達に講演したりして、韓国の民主主義自由選挙を求める運動を行った。

1973年、首都警備司令官尹必鏞(いん・ひつよう/ユン・ピリョン)将軍が李との談話で漏らした失言(「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」)に激怒した朴正煕は、両人ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように命じた。しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。なお、尹必鏞はこの失言を口実としてクーデターを計画しているという陰謀論が広まった末、最終的に汚職容疑で自らに近しい軍人と共に拘束・処罰された。これがいわゆる尹必鏞事件である[注釈 2]

こうして朴の機嫌を損ねた李は、何とか名誉挽回に朴の政敵である金を拉致する計画を立てるに至ったとされる。

事件の経緯

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1973年(昭和48年)7月10日、金大中は日本に入国した。通常の旅券とビザによるものではなく、赤十字国際委員会発給の身分証明書によって特別に入国許可が下りた[5][6]。その際の身元引受人は前駐韓大使の金山政英であった[6]。米国に続いて日本でも「韓国民主回復統一促進会議」の支部を結成することが訪日の目的であった[6]

当時のことを金は「私が東京に着いたとき、友人達が在日韓国朝鮮人ヤクザたちが私を狙っていると忠告してくれました。在日韓国朝鮮人のヤクザたちは大韓民国居留民団(民団)やKCIAと強い結びつきがあるのです」と後のインタビューで語っている。すぐに亡命者生活に入り、2・3日ごとにホテルを変え、日本人の偽名を使った。

8月8日午前10時45分、金大中は護衛の金康寿とともに宿泊していたパレスサイド・ホテルからタクシーでホテルグランドパレスに向った[7]。前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は、九段下交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連本部に至近の場所に位置している。

同日11時、金は1階ロビーに金康寿を残して一人で、2211号室に病気療養のため宿泊していた梁一東民主統一党(当時)党首を訪ねた。梁一東は金を隣の2212号室に案内して約1時間懇談した。12時すぎ、神田に本を買いに行っていた国会議員の金敬仁が帰って来て加わり、3人で食事をした[7]

同日13時19分ごろ、会談を終えた金は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識が朦朧となった後、4人により、エレベーターで地下に降ろされ自動車に乗せられた。パレスホテルから自動車で関西方面神戸市)のアジトに連れて行き、その後、工作船コードネームは龍金〈ヨングム〉号)で、神戸港から日本を出国したと見られる。朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。

拉致されたことはほどなく韓国にも伝わった。妻の李姫鎬は夫の身辺救護を依頼するため、当時鍾路区中学洞にあった日本大使館を訪れた。応対に出た一等書記官は後宮虎郎大使と打ち合わたのち、「大使は外出中である」として居留守を使って李姫鎬を帰した。翌9日、後宮は「日本に対して身辺の保護を依頼するなら、第一次的には韓国政府に依頼し、韓国政府から日本政府に言うのが筋だと思う」と述べた[8]

金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられた」、「海になげこまれそうになった」と後日語っている。しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる。またアメリカ合衆国連邦政府も、このことを察知していたとされる)海上保安庁ヘリコプターが拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、日本国政府に拉致の事実が発覚したことを悟った拉致実行犯は、金大中の殺害を断念し釜山まで連行し、ソウル特別市で解放したとされている。金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、追跡していた日本のヘリコプターが照明弾を投下したと証言している。

8月13日夜、金大中はソウル市麻浦区にある自宅から歩いて3分ほどの東橋教会の前あたりで車から下ろされ、「3分間目隠しのまま立っておれ」と命じられた。22時20分頃に金は自宅の門のベルを押した。その数分前の22時15分頃、東亜日報はじめ新聞、放送各社に「愛国青年救国隊」の隊員と名乗る男の声で一斉に電話がかかり、「金大中を釈放した。金のように外国に出て軽挙妄動する奴はそのまま放っておくことはできない」との通告があった[9]。22時32分頃、東亜日報は音楽番組を中断し、臨時ニュースで金がソウルの自宅で解放されたと報じた[10]

金は解放直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚 明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚 の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。

8月23日、読売新聞朝刊は1面の全面近くを使って、「金大中事件、情報部機関員が関係――韓国政府筋が認める」「李情報部長ら引責か」と見出しを立てたソウル支局発の記事を掲載した[11]。同日夕方、韓国の尹文化広報部長官は読売新聞社に対し、記事の全文取り消しを要求し、取り消さない場合には読売新聞ソウル支局を閉鎖すると脅した。読売新聞側は「この記事は信頼できる確実な筋から取材し、自信をもって掲載したものであるから、取り消し要求には応じられない」と回答した。そのため支局は閉鎖され、特派員は追放された[11]。その後、警視庁は事件にKCIAが関与していたと発表。

9月5日朝、日本政府は、李澔駐日韓国大使に、容疑者の一人である一等書記官の金東雲(変名で本名は金炳賛〈キム・ピョンチャン〉)を出頭させてほしいと要請した。現場に金東雲の指紋が検出されていたためであった。金東雲はすでに日本を離れていたが、李大使はそれを伏せ、外交官特権をあげて要請を拒否した[12][13]。東雲はKCIAの東京での指揮官と見られていた人物で、逃走に使われた自動車は在横浜副領事のものであった。

KCIAと韓国系ヤクザ

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警視庁によると「少なくとも4つのグループ、総勢20人から26人が事件に関与した」と公表している。アメリカ合衆国の『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』の記事によると「朴正煕と関係の深かった、韓国人ヤクザの町井久之(鄭建永〈チョン・ゴンヨン〉東声会会長)が、ホテルのフロアをほとんどすべて借り切り、KCIAに協力した」と掲載した。「ニューズウィーク」東京支局長バーナード・クライシャーは、アメリカ合衆国の本社に「町井久之はKCIAと緊密に行動を共にし事件の背後にいた。しかし日本のどの新聞もこのことを取り上げない。それは町井の組が自分達を誹謗する者を、(日本人でさえ)拷問し殺すことさえ厭わないからだ」との記事を送っている。

韓国政府が、金大中を中傷する情報を日本の新聞社に流す役割をしていた柳川次郎(梁元錫〈ヤン・ウォンソク〉山口組系柳川組組長)も関与。日韓関連の著書が多いジャーナリスト五島隆夫によると「柳川は日本の暗黒街の他の人物と同様に、児玉誉士夫(自民党の後援者・右翼黒幕)を通じて韓国政府と接触をとった」という。

また、元陸上自衛隊3佐で、陸上幕僚監部第二部別班などを経て退官後に興信所を営んでいた坪山晃三にも、拉致設定の依頼が金東雲からあったが、愛国心から坪山は拒否し、当時の内閣官房副長官後藤田正晴から、しばらく身を隠していろと忠告され、伊豆半島に潜伏していた。

事件のその後

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文世光事件と朴正煕暗殺事件

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この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内では反韓感情が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セカン)が朴正煕殺害を試み、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・チョンキュ)が解任された。

その後、中央情報部長に就任した金載圭(キム・ジェギュ)が、警護室長に就任して権勢を振るうようになった車智澈(チャ・ジチョル)に対する反感から、1979年10月に朴と車を酒席で射殺する朴正煕暗殺事件を引き起こして朴政権の崩壊の引き金を引くとともに、その事件を率先して調査した国軍保安司令官の全斗煥(チョン・ドゥファン)の台頭を生むきっかけとなった。

日本に対する主権侵害

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同事件について、日本政府は主権侵害に対する韓国政府の謝罪と、日本捜査当局による調査を要求していたが、同年11月の金鍾泌(キム・ジョンピル)首相(当時)の訪日と1975年7月の宮澤喜一外相(同)の訪韓で政治決着を図り、韓国側の捜査打ち切りを確認したが、韓国政府はKCIA職員かどうかも認めず不起訴処分とし、国家機関の関与を全面否定していた。

後年、大統領になった金大中はこの事件を一切不問にするとの立場を明らかにし、韓国政府に対する賠償請求などに発展するおそれのある真相究明を露骨に牽制した。また、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が盧武鉉政権により公開(2006年2月5日)され、日韓両政府が両国関係に配慮した政治決着で穏便に事を済ませようとしていたことが明らかになった。『文藝春秋』2001年2月号の記事[要文献特定詳細情報]によると「田中角栄首相が、政治決着で解決を探る朴大統領側から少なくとも現金4億円を受け取っていた」と現金授受の場に同席した木村博保元新潟県議が証言している。

また娘の田中眞紀子元外務大臣によると、事前に田中角栄は「殺人をしないこと」を条件に、拉致することを了承済であったという。但し角栄の当時の対応については「金大中を殺害するつもりなら爆破するぞ」と強く殺害の中止を求めたという説と、事なかれ主義的に拉致を認めたという説がある[要出典]

2007年10月14日付の北海道新聞によると、「当初金氏を日本の韓国系暴力団に依頼して暗殺することがKCIA内で検討されたが、成功が困難と判断して断念したことを元KCIA職員が証言した」との記事を掲載した。なお、元朴大統領の側近はこの証言を否定している。拉致の目的は金の海外での反政府活動を抑制するためだったと別の元KCIA職員が証言し、殺害計画の事実を否定した。

韓国国家情報院の報告書

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2007年10月24日、韓国国家情報院の真相調査委員会は、当時のKCIAによる組織的な犯行だったとする報告書を発表し、韓国政府として事件への関与を初めて公式に認めた[1]盧武鉉大統領が指示した韓国現代史の見直し、独裁政権による権力犯罪の真相究明の一環として、調査は行われた。報告書は李厚洛KCIA部長が拉致を指示し、関わったKCIA要員は24人にのぼるとした。朴正熙大統領の指示の有無については、指示を裏付ける直接の証拠は見つからなかったとしつつ、「直接指示した可能性は排除できず、少なくとも暗黙の承認があった」との判断を示した[14]

同日、柳明垣駐日大使は日本国に陳謝をした[15]。なお、これに対し日本国政府は、日本の主権侵害に対する公式謝罪と日本の捜査当局による関係者の聴取を求めたが、2021年現在まで正式な韓国政府による謝罪はない。

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の日本では韓国・朝鮮人の氏名は韓国・朝鮮語読みにするのが慣例になっているが、当時は日本語音読みにする慣例があった。李承晩ラインなども同じである。
  2. ^ なお、当時韓国軍内には朴政権の軍内支持派として構成されていた秘密結社「ハナフェ(ハナ会・一心会)」が存在しており、尹が事実上の後見人となっていた。この事件でハナフェの存在が発覚したが、朴正煕は軍内部の動向を把握するためハナフェを解体せず事実上黙認し、尹に近いメンバーが退役処分となるだけだった。この結果、ハナフェの創立メンバーで、実質的なリーダーであった全斗煥(後の第11・12代韓国大統領)の地位が高まることとなる。

出典

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  1. ^ a b 堀山明子「金大中事件:KCIAの組織的な犯行 韓国政府の関与認める 調査委報告書」 『毎日新聞』2007年10月24日付夕刊、1頁。
  2. ^ 『全報告 金大中事件』 1987, pp. 143–145.
  3. ^ “暴力団への殺害依頼検討 金大中事件前にKCIA”. 47news. (2007年10月13日). https://web.archive.org/web/20071015025049/http://www.47news.jp/CN/200710/CN2007101301000306.html 2014年4月12日閲覧。 
  4. ^ 김충식 <남산의 부장들 1> 동아일보사 1992.12.19, p350.
  5. ^ 第71回国会 衆議院 外務委員会 第33号 昭和48年8月29日”. 国会会議録検索システム. 2025年2月15日閲覧。
  6. ^ a b c 『全報告 金大中事件』 1987, pp. 187–189.
  7. ^ a b 『全報告 金大中事件』 1987, pp. 209–211.
  8. ^ 古野 1981, pp. 41–42.
  9. ^ 古野 1981, pp. 48–49.
  10. ^ 古野 1981, pp. 46–47.
  11. ^ a b 『全報告 金大中事件』 1987, pp. 245–246.
  12. ^ 古野 1981, p. 61.
  13. ^ 第71回国会 参議院 外務委員会 第23号 昭和48年9月6日”. 国会会議録検索システム. 2025年3月18日閲覧。
  14. ^ 小菅幸一「金大中氏拉致事件の調査報告書公表」『知恵蔵』朝日新聞出版https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E6%B0%8F%E6%8B%89%E8%87%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E5%85%AC%E8%A1%A8コトバンクより2025年1月25日閲覧 
  15. ^ “金大中事件、韓国が日本に24日陳謝”. 日本経済新聞. (2007年10月24日). オリジナルの2007年10月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071024152639/http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20071024AT2M2302O23102007.html 2015年6月23日閲覧。 

参考文献

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  • 古野喜政『韓国現代史メモ 1973-76 わたしの内なる金大中事件』幻想社、1981年2月20日。 
  • 金大中氏拉致事件真相調査委員会 編『全報告 金大中事件』ほるぷ出版、1987年3月25日。 
  • 金大中先生拉致事件の真相糾明を求める市民の会(韓国)『金大中拉致事件の真相』三一書房、1999年。ISBN 978-4380992131 
  • “(昭和史再訪)金大中事件”. 朝日新聞DIGITAL. (2013年7月1日). http://www.asahi.com/culture/articles/TKY201306290249.html 2014年4月12日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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