麻酔薬(ますいやく、: anesthetic, anaesthetic)は、麻酔を誘発するために使用される薬物で、言い換えれば、感覚意識を一時的に失わせる物質である。それらは大別して、可逆的に意識を失わせる全身麻酔薬英語版と、必ずしも意識に影響を与えることなく身体の限られた部位の感覚を可逆的に失わせる局所麻酔薬の2つに分類できる[4]

天然に存在する局所麻酔薬であるコカインの原料となるコカ植物 (Erythroxylum novogranatense var. Novogranatense) の葉[1][2][3]

現代の麻酔診療では、多岐にわたる薬物が使用されている。その多くは麻酔科学以外ではほとんど使われていないが、医療のさまざまな分野で一般的に使用されているものもある。相乗的かつ相加的な治療効果のために、複数の麻酔薬を組み合わせて使用することもある。しかし、有害作用も増加する可能性がある[5]。麻酔薬は、痛みを伴う刺激の感覚のみを遮断する鎮痛薬とは異なる。

局所麻酔薬編集

局所麻酔薬は、意識を失わせることなく神経インパルスの伝達を妨げる。局所麻酔薬は、神経線維内の高速ナトリウムチャネルに可逆的に結合することにより、神経線維内へのナトリウムの侵入を防ぎ、細胞膜を安定させ、活動電位の伝播を抑止する。それぞれの局所麻酔薬の名称には「-caine」(-カイン)という接尾語が付く。

局所麻酔薬には、エステル系とアミド系がある。エステル系局所麻酔薬(プロカインテトラカイン(アメトカイン)、コカインベンゾカインなど)は、一般に溶液中では不安定で即効性があり、血漿や肝臓のコリンエステラーゼによって急速に代謝され、一般的にはアレルギー反応を誘発することが多い。アミド系局所麻酔薬(リドカインプリロカインブピバカインレボブピバカインロピバカインメピバカインジブカインエチドカインなど)は、一般的に熱安定性があり、長い有効期間(約2年)がある。アミド系麻酔薬は、エステル系麻酔薬よりも作用発現が遅く、半減期が長く、レボブピバカイン(S(-)-ブピバカイン)とロピバカイン(S(-)-ロピバカイン)を除いて、通常はラセミ混合物である。アミド系麻酔薬は、作用時間の長さから、一般に局所麻酔や硬膜外麻酔、脊髄麻酔で使用され、手術や陣痛、症状緩和に十分な鎮痛効果を発揮する[要出典]

防腐剤を含まない局所麻酔薬のみ、髄腔内英語版に注入できる。

ペチジンは、オピオイド作用に加えて、局所麻酔作用も持っている[6]

全身麻酔薬編集

 
吸入麻酔に広く使われているイソフルランの化学構造。

全身麻酔薬英語版は、多くの場合、ヒトの意識消失や動物の正向反射の消失を引き起こす化合物として定義される。全身麻酔を誘導するために投与される薬物には、ガスや蒸気として投与されるもの(吸入麻酔薬)と、注射として投与されるもの(静脈麻酔薬または筋肉内麻酔薬)がある。

吸入麻酔薬編集

揮発性薬物は、通常、容易に蒸発する有機液体である。それらは、全身麻酔の導入や維持のために吸入によって投与する。亜酸化窒素とキセノンは気体なので揮発性薬物とは見なされない。理想的な揮発性麻酔薬は、不燃性、非爆発性、脂溶性でなければならない。それらは、血液ガスへの溶解性が低く、末梢器官(心臓、肝臓、腎臓)への毒性や副作用がなく、代謝されず、呼吸経路を刺激してはならない。

現在使用されている麻酔薬には、これらの条件をすべて満たしているものはなく、そして完全に安全な麻酔薬もないと考えられる。いずれの患者もみな固有のリスクや薬物相互作用がある[7]。現在広く使用されている薬物は、イソフルランデスフルランセボフルラン、亜酸化窒素である。亜酸化窒素は一般的なアジュバントガスで、現在も使用されている最も長寿命の薬物の一つである。その効力は低いため、単独では麻酔をかけることができず、他の薬剤と併用することが多い。1950年代に導入された薬物であるハロタンは、その欠点のため、現代の麻酔診療ではほぼ完全に新しい薬物に置き換えられた[8]。エンフルランは、その副作用もあって、広くは普及しなかった[8]

理論的には、どの吸入麻酔薬も全身麻酔の導入に使用できる。しかし、ほとんどのハロゲン化麻酔薬は気道を刺激し、おそらく咳や喉頭痙攣を引き起こし、全体的にみて導入が困難になる。すべての揮発性薬物は、麻酔を維持するために、単独または他の薬物と組み合わせて使用することができる(亜酸化窒素は、単剤として使用できるほど十分に強力ではない)。

揮発性薬物は、最小肺胞内濃度に反比例する効力の観点からよく比較される。効力は脂溶性に直接関係する。これはマイヤー・オバートン則英語版(Meyer-Overton rule)として知られている。ただし、揮発性薬物のある種の薬物動態特性は、別の比較対象となっている。これらの中でも最も重要なのが、血液/ガス分配係数英語版と呼ばれる特性である。この概念は、ある物質の血液への相対的な溶解度を指す。血中溶解度が低い薬物(すなわち血液/ガス分配係数が低い。たとえばデスフルラン)は、麻酔科医が迅速に麻酔深度を調節することができ、投与を中止すると麻酔状態から速やかに覚醒することができる。実際、新しい揮発性薬物(セボフルラン、デスフルランなど)は、その効力(最小肺胞内濃度)のためではなく、血液/ガス分配係数が低いため、より早く麻酔から覚醒できる万能性のために普及している。

静脈内投与薬 (非オピオイド系)編集

麻酔あるいは鎮静を得るために静脈内で使用できる多くの薬物がある。代表的なものは次のとおりである。


上記の2種類のバルビツール酸塩、チオペンタールとメトヘキシタールは、超短時間作用型であり、麻酔の導入および維持に用いられる[9]。しかし、それらは意識を失うものの鎮痛作用(痛みの軽減)はないため、他の薬物と併用する必要がある[9]。ベンゾジアゼピン系薬は、手術前または手術後の鎮静英語版に用いられるほか、全身麻酔の導入および維持にも使用される[9]。全身麻酔の導入にベンゾジアゼピン系薬剤を使用する場合、ミダゾラムが望ましい[9]。ベンゾジアゼピン系薬は、全身麻酔を必要としない手術中の鎮静にも用いられる[9]。バルビツール酸系と同様に、ベンゾジアゼピン系には鎮痛作用はない[9]。プロポフォールは、全身麻酔の導入および維持に使用される最も一般的な静脈内投与薬の1つである[9]。これは、また、処置中やICUでの鎮静にも用いることができる[9]。上記の他の薬物と同様に、これは鎮痛作用はなく、患者の意識を失わせる[9]。エトミデートは、その良好な生理学的効果のために、主に病気の患者に使用されてきた[9]。ケタミンは、麻酔からの覚醒時に「鮮明な、体外離脱、錯覚」などの不快な経験を起こすことがあり、麻酔で使用されることはめったにない[10]。しかし、エトミデートと同様に、生理学的な悪影響が少ないため、緊急時や病気の患者に頻繁に使用されている[9]。ケタミンは、前述の静脈内麻酔薬とは異なり、全身麻酔を導入する用量よりも低い用量でも、深い鎮痛作用が得られる[9]。また、このセクションの他の麻酔薬とは異なり、ケタミンのみを投与された患者は、通常の睡眠に似た他の麻酔状態とは異なり、カタレプシー状態になっているように見える。ケタミンで麻酔をかけられた患者は、深い痛覚消失があるが、目は開いたままにとなり、多くの反射が維持される[9]

オピオイド系鎮痛薬の静脈内投与編集

オピオイドは、意識を失わせることができるが、これは信頼性が低く、重大な副作用を伴う[11][12]。そのため、麻酔を導入するために使用されることはほとんどないが、静脈内非オピオイド系麻酔薬や吸入麻酔薬などの他の薬物と併用されることが多い[9]。さらにそれらは、手術前、手術中、手術後の患者の痛みを和らげるためにも使用される。次のオピオイドは、作用発現と持続時間が短く、全身麻酔中に頻繁に使用される。


次の薬物は、作用発現と持続時間がより長く、術後の疼痛緩和に頻繁に使用される。

筋弛緩薬編集

筋弛緩薬(きんしかんやく)は、患者の意識を失わせたり、痛みを和らげたりするものではない。代わりに、患者の意識を失わせた後(麻酔導入)、骨格筋を麻痺(まひ)させることで挿管や手術を容易にするために使用されることがある。

有害作用編集

  • 脱分極性筋弛緩薬(例:スキサメトニウム)
    • 高カリウム血症 - 通常、0.5 mmol/lのわずかな上昇が見られるが、腎不全などですでにカリウムが上昇している場合を除き、ほとんど重要ではない。
    • 高カリウム血症 - 熱傷患者(負傷後24時間から発生し、最長2年間持続)、神経筋疾患、麻痺患者(四肢麻痺、対麻痺)における過剰なカリウム放出。このメカニズムは、これらの患者集団におけるアセチルコリン受容体アップレギュレーションと、筋細胞内からのカリウムの流出の増加によるものと報告されている。生命を脅かすような不整脈を引き起こす可能性がある。
    • 筋肉痛 - 術後すぐに動き回る若い筋肉質の患者によく見られる。
    • 徐脈 - 特に反復投与された場合。
    • 悪性高熱症 - かかりやすい患者では生命を脅かす可能性がある。
    • スキサメトニウム無呼吸症は、神経筋遮断の持続時間が長くなるまれな遺伝的疾患で、20分から数時間におよぶ可能性がある。それが認められ患者が挿管され鎮静を維持している限り危険ではないが、これを行わない場合には意識を失う可能性がある。
    • アナフィラキシー
  • 非脱分極性筋弛緩薬
    • ヒスタミン放出(例:アトラクリウムとミバクリウム)
    • アナフィラキシー


神経筋遮断を行った場合に起こりうる別の合併症として麻酔覚醒英語版(術中覚醒)がある。この状況では、鎮静作用や鎮痛作用のレベルが不適切に低下することによって、麻痺した患者が麻酔中に目を覚ますことがある。これを麻酔科医が見逃した場合、患者は周囲の状況を認識していても、体を動かしたり、その事実を伝えることができなくなる。覚醒の発生を抑えるのに役立つ、神経学的モニターが利用できるようになってきてる。これらのモニターのほとんどは、独自のアルゴリズムを用いて誘発電位による脳活動を監視する。これらの機器が広く販売され、神経学的モニターの測定では十分な麻酔であったにもかかわらず、麻酔下での覚醒が起こったという症例報告が多く存在する[要出典]

拮抗薬の静脈内投与編集

脚注編集

  1. ^ Biscoping, J.; Bachmann-Mennenga, M. B. (May 2000). “Lokalanästhetika: Vom Ester zum Isomer*”. ains · Anästhesiologie · Intensivmedizin · Notfallmedizin · Schmerztherapie 35 (5): 285–292. doi:10.1055/s-2000-324. http://www.thieme-connect.de/DOI/DOI?10.1055/s-2000-324. 
  2. ^ Goldberg, MF (1984). “Cocaine: The First Local Anesthetic and the'Third Scourge of Humanity': A Centennial Melodrama”. Archives of Ophthalmology. https://scholar.google.com/scholar_lookup?journal=Arch+Ophthalmol.&title=Cocaine:+the+first+local+anesthetic+and+the+%27third+scourge+of+humanity%27.+A+centennial+melodrama.&author=MF+Goldberg&volume=102&issue=10&publication_year=1984&pages=1443-7&pmid=6385930&. 
  3. ^ Karch, SB (1998). A brief history of cocaine.. https://scholar.google.com/scholar_lookup?title=A+brief+history+of+cocaine.&author=SB.+Karch&publication_year=1998&: CRC press 
  4. ^ Wollweber, Hartmund (2005), "Anesthetics, General", Ullmann's Encyclopedia of Industrial Chemistry, Weinheim: Wiley-VCH, doi:10.1002/14356007.a02_289
  5. ^ Hendrickx, JF.; Eger, EI.; Sonner, JM.; Shafer, SL. (August 2008). “Is synergy the rule? A review of anesthetic interactions producing hypnosis and immobility.”. Anesth Analg 107 (2): 494–506. doi:10.1213/ane.0b013e31817b859e. PMID 18633028. http://www.anesthesia-analgesia.org/content/107/2/494.long. 
  6. ^ Latta, KS; Ginsberg, B; Barkin, RL (2001). “Meperidine: a critical review.”. American Journal of Therapeutics 9 (1): 53–68. doi:10.1097/00045391-200201000-00010. PMID 11782820. 
  7. ^ Krøigaard, M.; Garvey, LH.; Menné, T.; Husum, B. (October 2005). “Allergic reactions in anaesthesia: are suspected causes confirmed on subsequent testing?”. Br J Anaesth 95 (4): 468–71. doi:10.1093/bja/aei198. PMID 16100238. 
  8. ^ a b Townsend, Courtney (2004). Sabiston Textbook of Surgery. Philadelphia: Saunders. pp. Chapter 17 – Anesthesiology Principles, Pain Management, and Conscious Sedation. ISBN 0-7216-5368-5 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n Miller, Ronald (2005). Miller's Anesthesia. New York: Elsevier/Churchill Livingstone. ISBN 0-443-06656-6. https://archive.org/details/millersanesthesi0006unse 
  10. ^ Garfield, JM; Garfield, FB; Stone, JG; Hopkins, D; Johns, LA (1972). “A comparison of psychologic responses to ketamine and thiopental-nitrous oxide-halothane anesthesia”. Anesthesiology 36 (4): 329–338. doi:10.1097/00000542-197204000-00006. PMID 5020642. 
  11. ^ Philbin, DM; Rosow, CE; Schneider, RC; Koski, G; D'ambra, MN (1990). “Fentanyl and sufentanil anesthesia revisited: how much is enough?”. Anesthesiology 73 (1): 5–11. doi:10.1097/00000542-199007000-00002. PMID 2141773. 
  12. ^ “Fentanyl-induced rigidity and unconsciousness in human volunteers. Incidence, duration, and plasma concentrations”. Anesthesiology 78 (4): 629–34. (April 1993). doi:10.1097/00000542-199304000-00003. PMID 8466061. 

外部リンク編集