藤原経輔

平安時代中期から後期の公卿・歌人。藤原隆家の次男。正二位・権大納言

藤原 経輔(ふじわら の つねすけ)は、平安時代中期から後期にかけての公卿歌人藤原北家中関白家中納言藤原隆家の次男。官位正二位権大納言

 
藤原 経輔
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 寛弘3年(1006年
死没 永保元年8月7日1081年9月12日[1]
別名 水無瀬大納言
官位 正二位権大納言
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇
氏族 藤原北家中関白家
父母 父:藤原隆家、母:源兼資の娘
兄弟 良頼経輔、行昭、隆明、敦儀親王妃、藤原兼経室、季定、家房、良員、政則?
藤原資業の娘、右中将頼雅の娘、家女房
師家長房師基増誉師信家平、仁恵、珎覚、隆観、文時藤原忠家室、信子
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経歴

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後一条朝初頭の寛仁2年(1018年)4月に従五位下叙爵し、同年12月に藤原道長邸において大納言藤原道綱の加冠によって元服[2]讃岐権守に任ぜられる。翌寛仁3年(1019年従五位上左兵衛佐、寛仁4年(1020年正五位下右近衛少将と後一条朝の前期は武官を歴任し、治安2年(1022年)異母兄の良頼に先んじて従四位下に叙せられる。

治安3年12月(1024年1月)父・隆家の辞任を受けて権右中弁に任ぜられた後は、万寿2年(1025年)右中弁、長元元年(1028年従四位上、長元2年(1029年正四位下左中弁と、一転して後一条朝中期は弁官を務めながら昇進する。この間、万寿元年(1024年)に後一条天皇以下が一条院内裏紫宸殿相撲を観戦していた際、蔵人式部丞・源成任とを掴み合うほどの激しい喧嘩に及ぶ[3]。さらに数日後、経輔は成任に一方的に暴行を加えた上に、宿所に逃げ込んだ成任を従者に追わせ宿所を破壊させるという事件を起こしている[4]

長元7年(1034年)兄の良頼に先んじて蔵人頭頭弁)に任ぜられる。蔵人頭在任中の長元9年(1036年)正月に従姉の子でもう一人の蔵人頭(頭中将)である藤原俊家の従者に殴打され、俊家は除籍されるが、経輔も約半月の間朝参を停止された。同年4月の後一条天皇の崩御により蔵人頭を止められ、新帝・後朱雀天皇春宮権亮を務めていた良頼が蔵人頭となる。同年12月に良頼が蔵人頭在任8ヶ月足らずで参議に任ぜられると、経輔は後任として蔵人頭に再任されている。

長暦2年(1038年)右大弁を兼ね、翌長暦3年12月(1040年1月)参議兼左大弁に任ぜられ、先任の兄・良頼と議政官に並んだ。長久元年(1040年従三位に叙せられる。

後冷泉朝初頭の寛徳2年(1045年)良頼と共に権中納言に昇任。永承元年(1046年中宮章子内親王権大夫を兼帯し、その後内親王皇太后太皇太后に転上するに伴って、経輔は宮大夫として仕えた。この間の永承3年(1048年)には昇進を競った兄・良頼が没している。永承6年(1051年正二位康平元年(1058年大宰帥に叙任され、治暦元年12月(1066年1月)権大納言に至る。

後三条朝に入ると、治暦4年(1068年)以来病気と称して出仕せず、再三辞表を奉ったため、延久元年(1069年)7月7日に権大納言の辞任を許された。翌延久2年(1070年)正月10日に出家。最終官位は前権大納言正二位。白河朝の永保元年(1081年)8月7日薨去享年76。

後拾遺和歌集』(1首)と『千載和歌集』(1首)に和歌作品が入集する勅撰歌人である[5]

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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その子孫は道隆流の主流を形成し、院近臣として代々治天の君に近侍した。 師家の子孫は忠隆鳥羽院近臣)・信頼後白河院近臣)父子を出し、師信の子孫は坊門家の祖信隆後鳥羽天皇外祖父)と水無瀬家の祖親信を出した。

武家では肥前高木氏を輩出し、庶子である文時の子文定(文貞)を祖とした。庶家に於保氏龍造寺氏上妻氏赤司氏肥前井上氏草野氏嵯峨源氏出自説もあり)らの諸氏が分流したと伝わる。経輔の子、もしくは父隆家の子とも文定の子ともいわれる藤原政則(基定)から菊池氏が出自している[注釈 5]

関連作品

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テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ ユリウス暦では1024年1月28日
  2. ^ ユリウス暦では1030年1月27日
  3. ^ ユリウス暦では1040年1月2日
  4. ^ ユリウス暦では1066年1月6日
  5. ^ 菊池氏#起源参照。

出典

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  1. ^ 水左記』『為房卿記』『一代要記
  2. ^ 御堂関白記』『小右記
  3. ^ 『小右記』万寿元年7月17日条
  4. ^ 『小右記』万寿元年7月21日条
  5. ^ 勅撰作者部類
  6. ^ a b 『近衛府補任』
  7. ^ 『菊池系図』(『続群書類従』巻第151所収)

出典

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